侍ジャパンのWBC準々決勝の相手がベネズエラに決まった。
野球において、日本とベネズエラには、とある縁がある。
1969年(昭44)の1年だけ、ベネズエラで国際野球リーグが開催された。その名も「グローバル・リーグ」。日本、米国、ドミニカ共和国、ベネズエラ、プエルトリコからチームが集まり、メジャーのア・リーグ、ナ・リーグに続く第3のリーグを目指した。
日本からは元中日のホームラン王&打点王の森徹が監督兼選手として率いる「東京ドラゴンズ」が参戦。元プロ野球選手だけでなく、アマチュア選手もいた。
開幕戦は4月24日、ベネズエラの首都カラカスで「ベネズエラ・オイラーズ」と対戦。ドラゴンズは0-6で敗れた。元大洋(現DeNA)の右腕、室井勝が先発するも6回6失点。チームは計13安打を打たれた。打線も3Aからきた投手に手を焼き、4安打完封負けを喫した。
2戦目も敗れ、迎えた同26日の3戦目。古賀英彦がベネズエラ打線を抑え、1-0で勝利した。後にダイエー(現ソフトバンク)、ロッテで2軍監督などを歴任した、あの「ハイディ」だ。
その後は1分けを挟み5連勝するなど勢いに乗り、5月16日までに7勝3敗1分けの首位に立つ。好調に滑り出したドラゴンズだったが、リーグ運営に問題があった。早くも資金難に陥り、選手たちに支払われるべきお金が届かない。リーグ戦は休止、わずか1年(正確には1カ月ほど)で解散状態となった。
話はこれで終わらない。
宿泊費の支払いが滞ったドラゴンズの面々は、ホテルに訴えられ、7月3日に地元の裁判所から出国禁止の処分を受ける。同4日、選手たちは早朝にホテルを飛び出し、米国行きの飛行機に飛び乗り脱出を図るも、離陸直前に当局が機内に乗り込み、機関銃を突きつけられ降ろされた。
やむなく公園で野宿。最後はカラカスの日本大使館に救われ、大使公邸で居候生活。9月12日、ようやく日本へ戻ることができた。
そんなむちゃくちゃな冒険を、1ドル360円の時代に20代、30代の若者たちがやってのけた。14年に亡くなった森徹さんは、生前こんなことを言っていたという。
「(グローバル・リーグは)今のWBCの発祥だと思っている。僕たちが足跡をつけたんだ。誇りに思っている」
57年前にあった日本とベネズエラの野球の縁。くしくも、カラカスから脱出を図った選手たちが乗った飛行機はマイアミ行きだった。そのマイアミを舞台に相まみえる両国の戦いを、天国の森徹さんも楽しみにしているだろう。【古川真弥】
◆森徹(もり・とおる)1935年(昭10)11月3日、旧満州(現中国東北部)生まれ。終戦後は北海道・函館で暮らし、早大学院から早大に進む。東京6大学リーグでは立大・長嶋と同期で、強肩強打の外野手として活躍。2年時の55年春から3季連続を含む4度のベストナイン。58年に中日入りし、1年目の23本塁打、73打点は巨人長嶋(29本塁打、92打点)に次ぐリーグ2位。2年目で4番を打ち、31本塁打、87打点の2冠。1年目の58年から3年連続で外野手のベストナインに選ばれた。62年から大洋(現DeNA)、66年から東京(現ロッテ)。68年限りで引退。通算1177試合、971安打、189本塁打、585打点、打率2割5分1厘。オールスター5度出場。69年、グローバル・リーグの東京ドラゴンズで監督を務める。引退後は旅行代理店の経営など実業界で活躍。野球評論家も務め、マスターズリーグでもプレーした。武道の達人でもあり、柔道、合気道、空手で6段。11年から、全国野球振興会(通称プロ野球OBクラブ)の理事長。14年2月6日、肝細胞がんのため死去。78歳。現役時は173センチ、95キロ。右投げ右打ち。