書斎のランプの炎が揺れ、比鷺の輪郭を柔らかく縁取っている。俺は、もう比鷺のことしか見えていなかった。
「先生」
その一言が、静かな湖畔に落ちた水滴のように響く。比鷺の声はいつもこうだ。淡々と、しかし底に熱を溜め込んでいる。二十歳を過ぎた今も、かつての少年らしい無垢な響きが残っているのが、たまらなく悪い。
首筋に残る赤い痕は、俺が昨夜つけたものだ。まだ薄く疼いているはずなのに、比鷺はそれを隠そうともしない。むしろ、黒い着物の襟を少しずらして見せつけるように立っている。挑発なのか、無自覚なのか。どちらでも構わない。ただ、その赤が俺の唇の記憶を呼び起こす。
比鷺が近づいてくる。足音はほとんどしない。まるで影が移動するようだ。
紐を解く指先が、わずかに震えているのが見えた。布が肩から滑り落ち、鎖骨から胸にかけての白い肌が露わになる。俺は息を詰めて、それを見つめる。比鷺の体は細いのに、どこか力強く張り詰めている。神神の残滓が宿るせいか、触れる前から熱が伝わってくる気がする。
俺は立ち上がり、比鷺の肩に指を置いた。そこからゆっくり背中を撫で下ろすと、比鷺の体が微かに波打つ。まるで俺の指に反応する水面のようだ。
「誘ってるのか」
俺がそう囁くと、比鷺は目を伏せて小さく頷いた。その仕草が、胸の奥を抉る。
比鷺の腰を抱き寄せ、顔を上げさせる。その瞳に映るのは、俺だけだ。
俺は堪らず、唇と舌先で痕をなぞった。昨夜自分が痕を残した場所を、もう一度自分のものに取り戻すように。
比鷺の体温が、俺の体温が、混じり合い、夜の闇を縫い合わせていく。朝が来ても、この熱は消えないだろう。――消えるはずがない。
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