ニコニコ広場依存症
昨日、ニコニコ動画を辞めた
これで3度目である。
3度目。
この数字が何を意味するのか、もうお分かりだろう。
私は、過去に2回ニコニコを拒絶して、2回戻ってきているのだ。
そして今回が3回目の「拒絶」。
まるで別れたり復縁したりを繰り返す小学生カップルみたいだ。
いやそんな高尚なものではない。感情任せに相手を振り回すメンヘラ。
ニコニコ広場という場所
正確に言うと、私はニコニコ動画そのものに依存していたわけではない。
依存していたのは、ニコニコ広場だ。
広場とは何か
ニコニコ広場は『ニコニコ動画』と同じくDwangoが運営している匿名掲示板だ。
話題ごとに複数の「広場」が用意されているのだが、実際に人が集まっているのは「例のアレ広場」だけで、そこが事実上すべてのテーマを包容する場所になっている。
この広場では「スレ」機能があまり使われないので、全員が同じ空間に居るのが普通だ。その点で考えてみると、2ちゃんねるよりもLINEのグループチャットに近い。話題ごとに部屋が分かれていないため、誰でも入れる。何でも発言できる。話を変えてもいい。
「何と会えるか」よりも「何ができるか」が重視される空間で、インターネットにおける公衆トイレのような場所だと思ってくれればいい。
一番勢いがあるときは80人くらい。少ないと思うかもしれない。
でも、大型バスに収まりきらないくらいの人数が、同じ部屋にずっといると考えてみてほしい。
なおかつ全員わざわざ「ニコニコ広場」を見に来る人間性を持っている。
だから、たいてい自分と似た人間がいる。たいてい自分の好きな話題が飛び交っている。
広場の話題と空気感
広場の話題は常に変動するものの、傾向は存在している。
下品な雑談、無難な質問、特定コミュニティーの内輪ノリ、主観的な体験談。それらが周期的に流れている。
話題を変えたければ適当に下ネタでも言えばいい。ブラックジョークの一歩奥にある過激さは「ユーモア」として評価される。
そこにいた人たち
そこには、無数の「自分よりも魅力がある人間」がいる。
面白いことを言う人。共感できることを言う人。絵が上手い人。存在感がある人。
別のプラットフォームで才能ある人を見つけても、ただその人のアカウントをフォローするだけで、飽きたらすぐ別のお気に入りを見るためにページを閉じるだろう。
でも、広場では「同じ部屋にいる人」から直接才能を見せてもらうわけだから、当然心に残る。距離が近づいたような感覚になる。
最初の決別
去年の11月から、私は禁欲を続けている。別に大した理由じゃない。
ただ、自分の生活をもう少しマシにしたかっただけだ。
自分の欲求を見つめなおして、自制できる能力を育てて、もう少し「マトモ」な人間になろうとしていた。
その過程で、ニコニコ動画に冷めた。
「例のアレ」で笑って、動画と広場に書き込んで、誰かの反応を待ち続けて。
そうやって承認欲求を満たしている自分を嫌っていながら、それまで自分自身を止められずにいた。けれども、自分への嫌悪が極限まで到達した瞬間、全ての欲望がどこかに飛んで行った。
賢者タイムである。
それから、私はニコニコ動画を辞めていた。一切のアクセスを拒絶していた。
でも、人間ってそう簡単じゃない。
2月上旬、決壊
今年の2月だった。不意に、欲求が生まれた。
久しぶりに広場を開いた。
流れるコメント。知らない誰かの会話。飛び交うスタンプ。
ああ、これだ。
脳が反応した。ドーパミンが、それはそれは出たのだろう。
脳内物質の動きなんて見えないけど、きっとそうだった。
そこから先は、もう後戻りできなかった。
生物的欲求の食欲さえも手を付けられなくなった。
広場と睡眠だけで時間を潰すようになった。
起きたら広場を開く。トイレに行く間も広場のことを考える。寝る前まで広場を見ている。
「楽しい」という感覚は無かった。「脳が欲しがっている」という感じだった。
依存。そう、依存していた。
アカウントを消してみる
ある日、決心した。
アカウントを削除することにした。
でも、ただ消すんじゃなくて、わざわざ広場で宣言してから退会した。
「ニコニコ辞めます」
なんでわざわざ宣言したのか?
それは、距離を取ろうと思っていながら、反応される期待を捨てられなかったからだ。
「ニコニコやめるな」「いきて」「お前に反応すれば辞められなくなるな」
周りからの冗談を、私は本気で期待していた。
承認欲求のゴールデンドロップ。最後の一滴は一番濃い。
そんなことを思っていたにもかかわらず、削除した当時は陶酔に浸っていた。
さっきまであった承認欲求を覆い隠すように、眠りにつくまで
「自分は他の人とは違う、だから広場と根本的なタイプが噛み合わない」
「目立っている人を監視するのはストーカーみたいだから、冷めるべき」
とか適当な理由を考えて、自分の行動を正当化した。
あまりにも突飛な手のひら返しだが、「これでよし」とそのときは本当に思っていた。
ある日、新しいアカウントを作って、また広場に参加した。
2日で戻った。
2日。
タバコ依存症の人間でも、もう少しは我慢できただろう。
「どうせすぐ消す」と思いながらニコニコを開いた。
荒らしが美少女になった日
ちょうどその頃、広場では「祭り」が起きていた。
とある荒らしを火元に、広場全体が盛り上がっていた。
荒らしは未成年だった。本人が自分で公開していた情報だ。
彼は半年以上、不特定多数のユーザーにしつこくつきまとっていたそうだ。
いつものように荒らしが小馬鹿にされる中、誰かが彼の発言を「卑猥に聴こえる」といじって、広場全体はそれに反応して騒ぎ始めた。
遂には、あるユーザーが彼を美少女化したR-18イラストを投稿した。
ここを回帰不能点に、あの空間は沸騰した。
6時間ほど、広場は美少女へのセクハラで持ち切りだった。
荒らしと同世代であろう他の未成年たちも含めて全員が盛り上がった。
私も、その中にいた。
あの日、徹夜した。24時間近く、ずっと広場を見ていた。
トイレに行く時以外、画面から目を離さなかった。
眠気で目の焦点も合わなかった。ベッドでスマホを見続けた。
異常だった。
自分でも分かっていた。これは異常だ。でも止められなかった。
そして現在
その日のうちに、再び退会した。またしても広場で宣言したうえで。
自分は「眠気に逆らってまで居座る狂人」だったはずなのに、パソコンを閉じた瞬間、睡魔が消えて元気になった。シャワーも歯磨きもゲームもできた。
不思議だった。依存が解けたのと同時に、体が軽くなったような感覚。
でも同時に、虚無感もあった。広場に行った原因である欲求をどう発散すればいいのか、分からなくなっていた。
「だからnoteで欲求発散してんのか」と言われると、そうなのかもしれない。
でも、こうして言葉を繋ぎながら自分の経験を振り返っているうちに、いろいろ気付いたことがある。
私は「荒らし」だった
荒らしと私は、本質的には同じだった。
荒らしは「誰かにしつこく付きまとう」ことで反応を得ようとし、
私は「広場という空間そのものに張り付く」ことで反応を得ていた。
どちらも「自分を見てほしい」という欲求を動機にしている。
違いがあるとすれば、私は「空間全体の空気に乗って反応を得る方が効率的だ」ということを知っていた。
荒らしは半年居座っても満たされなかったが、私は数日で満たされ、飽き、また戻り、そしてまた飽きた。
どちらも空間そのものに操作されていたわけだが、私は「村社会」に適応したふりをして、その事実から目を背けていた。
またしても、あることに気付いた。
広場にいた「マトモな連中」も、実は自分と同じだったのではないか?
「マトモな人間」の言葉
未成年の荒らしが美少女化としてR-18イラストになった事件のとき、絵師はこう主張した。
「あくまでここだから許している。他の場所での荒らし行為は迷惑だ」
「荒らしを絵にしたのは、キャラクターとしての個性が揃いすぎていたからだ。本人自体から魅力を感じたわけではない」
「可愛がっていいのはキャラクターだけで、荒らしは違う」
意外にも、理性的で分別があるように見える。冗談と現実の区別をつけ、マナーを理解している人間の言葉だ。
しかしこの主張には「本来の自分を殺す」3つの区別が含まれているのだ。
「広場にルールは無い」という空間の区別。
「実在の人間と素材は別」という要素の区別。
「面白いなら良い」という感情の区別。
順番に解釈してみよう。
空間の区別
「ここだから許している」「他の場所では迷惑だ」という言葉をそのまま受け取ると、「広場は荒らしが許される空間」ということになる。
しかし、そこらへんの歩行者を広場に連れていったところで、その人が荒らしに一切の不快感を持たなくなる、というわけではない。
つまり広場そのものには何も無い。脳が例外的な処理を通して、あたかも「ここは別の場所だ」と思わせているだけだ。
重要なのは、その処理の中で「区別しよう」という意思は生まれないということだ。
広場の外でどれだけマトモに振る舞える人間であっても、それはただ別の処理系の話であって、広場での自分とは関係がない。
認知は逸脱を冗談として処理する口実になる。「分かってやっている」という意識は、理性があるほど深く踏み込める。
要素の区別
「個性が揃っていただけ。本人に魅力を感じたわけではない」
この発言には、奇妙な矛盾がある。
絵師はすでに「広場だから荒らしを許す」と言っていた。荒らしの存在を、この空間においては受け入れているはずだ。
なのに、なぜわざわざ「本人は好きじゃない」という区別を立てる必要があったのか。許しているなら、切り離す必要はない。
それでも切り離したのは、「本人」を消すためだ。
個性というパーツだけを抜き取り、感情も、文脈も、実在する人間としての重さも、残りは全て捨てた。
素材化は、好意や悪意より先に起きている。
「面白いパーツがあった」という認識が生まれた瞬間、すでに相手は人間ではなくなっていた。
これはニコニコ動画の「例のアレ」と、構造がまったく同じだ。
感情の区別
「キャラは可愛がるが、荒らしには挑発する」という態度は、「面白いから良い」という感情に覆われている。一見、大胆ながら素直で否定できないような論理だと感じられる。
だが実際、絵師は面白いと思っていない。
荒らしへの挑発から返ってくる反応。
キャラをかわいがることで広場民から返ってくる反応。
どちらも同じ「反応」の上にある。
感情は後付けで、最初にあったのは「反応が欲しい」という駆動だけだ。
結局は自分も同じ
3つの区別は、絵師一人が考え出したものではない。
広場に居続けるうちに、気づかないまま身についていくものだ。誰かが明文化したわけでも、教えられたわけでもない。ただ、あの場所にいると自然にそうなっていく。
空気を読み、反応を返し、盛り上がりに乗る。それを繰り返すうちに、3つの区別は思想ではなく反射になる。
広場にいた全員、やっていることも考えていることも違った。
絵師は描き、私は見て、荒らしはつきまとい、それぞれ反応を回収しようとしていた。でも結局、同じ回路の上で動いていた。
「私は関係ない」とは言えない。
あの回路はどこから来たのか。広場という空間が特殊だったから、自分はああなったのか。それとも、条件さえ揃えばどこでも同じことになるのか。
承認欲求のファストフード
答えは、広場という場所ではなく、広場を広場たらしめていた条件にある。
即時的な反応。
現実との切断。
群れの感覚。
この3つが揃った場所は、いわば「承認欲求のファストフード」だ。
Discord、X、VRChat、LINE、動画サイトのコメント欄。
だいたいのSNSがこれに当てはまる。
すぐ手に入れられて、消費するのが簡単で、すぐに満腹になれる。
依存性が高く、摂取し続けると自分自身の感覚が壊れていく。
個人の根性が足りてないからじゃない。SNS自体が依存を誘発するように設計されている。それがなによりの問題だ。
一人で生きる練習
もしかしたら、このnoteはそれの解決策かもしれない。
広場のコメントは流れて消えるが、noteの文章は残る。
誰かからの反応があるとはいえ、即時的なものではない。
数時間使って書き終えるまで、反応は自分からしか出てこない。
あくまで「完全に一人」ではないが、広場と比較すればマシな環境だろう。
これは承認欲求の「減量」であると同時に、一人で生きる練習でもある。
最後に
私のこの試みが正しいかは分からない。
数日後には、またあの広場に身を投じているかもしれない。
でも、この文章を書いている間だけは、私は機械的に反応を求める操り人形ではなく、自分自身の言葉を噛みしめる一人の人間でいられた。
今日は、広場のURLをクリックする代わりに、この記事を公開することにする。



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