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ひな祭りのあとに(horror)



🫐微ホラー短編小説




深夜二時、家じゅうの音が沈んだあと、雛壇だけがまだ起きている。
ぼんぼりの灯りは消えているのに、なぜか輪郭だけが淡く光っていて、空気が薄い水みたいに揺れている。

最初に動いたのは三人官女のうちの一人。
扇が、ほんの数ミリ、呼吸するみたいに開いて閉じる。
それから、内裏雛の袖がさらりと音もなく床を撫でた。

君が瞬きをしたその一拍の隙に、もう全員がこちらを見ている。

声はないのに、「遅かったですね」と確かに言われた気がする。

雛人形は、飾られているあいだずっと、家の記憶を集めている。
笑った日、泣いた日、言えなかった言葉、春を待ちきれなかった夜――それらを小さな器に満たして、三月三日の夜にだけ、持ち主へ返しに来る。

だから今、彼らは君を迎えに降りてくる。段を一つ、また一つ、音のない足取りで。

僕はその少し後ろに立って、君の肩越しにその光景を見ている。怖さはない。ただ、時間がやわらかくほどけて、過去と今が同じ温度で触れ合っている感じ。

やがて内裏雛が君の前に立つ。
顔は能面みたいに静かなのに、目だけが春の水面みたいに揺れている。
そして小さく頷く――「今年も、あなたを守れました」と。

触れた瞬間、すべての人形はただの静かな形に戻り、朝の光がカーテンの隙間から流れ込む。
何も起きなかったみたいに。
でも君の掌には、確かにひとつ分の温度が残っている。




カーテンの隙間からこぼれた光が、雛壇をまっすぐ照らしている。
昨日まで完璧だった並びが、どこか呼吸を乱したみたいに静まり返っている。

最初に気づくのは違和感じゃない。「静かすぎる」という感覚。
音が吸い取られたみたいな、春の朝には似つかわしくない密度。

一体、足りない。

どの段かはすぐに分かる。
五人囃子の中央、本来なら小さな太鼓を抱えているはずの位置が、ぽっかり空白になっている。
座布団だけがきちんと置かれ、そこだけ日焼けの跡がない。
まるで最初から“そこに誰かが座る予定だった”みたいに、新しい赤が露出している。

君が近づいたとき、微かな音がする。
遠くで指先で弾いたガラスみたいな、かすかな震え。昨夜、段を降りてきた足音に似ている。

残された四人の表情は変わらないのに、視線の向きだけがわずかに中央へ寄っていて、帰りを待っている隊形のまま止まっている。

僕は君のすぐ後ろで、その空白を一緒に見つめている。胸の奥が、理由もなく締めつけられる。
あの一体だけが、戻っていない。あるいは――戻れなかった。

そのとき、君の足元に小さな何かが触れる。視線を落とすと、金色の糸で結ばれた飾り紐が落ちている。
太鼓の房に使われるはずの、細くて、春の光を吸う糸。
拾い上げた瞬間、遠くから確かに一打だけ、乾いた音が響く。
家の中じゃない。もっと遠い、水の向こう側みたいな場所から。

雛人形は、持ち主の災いを引き受けて、代わりにどこかへ行くことがある。
戻らない一体は、つまり――君の代わりに、まだどこかで戦っている。

朝の光はやさしいのに、その事実だけが透明な刃みたいに胸をかすめる。
でも同時に、守られているという確かな温度も、ちゃんと残る。



数日後の午後、雛壇は片付けられないままそこにある。片付ける機会を、誰かが意図的に先延ばしにしているみたいに。
春の光はもう柔らかくて、桃の花は少しだけ色を失いはじめている。

そのとき、君は気づく。
五人囃子の中央――空白だった場所に、確かに“何か”が座っている。

それは、見覚えのない人形。

大きさも装束も他と同じなのに、どこかだけが微妙に合っていない。
古いはずの布が新しすぎて、金糸の光り方がこの部屋の時間と馴染んでいない。

顔は穏やかなのに、目だけがまだ「ここ」に焦点を合わせきれていない。まるで遠い場所から、急いで連れてこられたみたいに。

君が近づいた瞬間、空気がひとつ息を止める。

新しい人形の袖が、ほんのわずかに震える。
音はしない。でも、確かにそこに“遅れてきた鼓動”がある。

残りの四人が、今度は中央ではなく君のほうを向いている。紹介するみたいに。あるいは、託すみたいに。

その顔を、君は知っている。

思い出せないだけで、確実に知っている。
幼いころに見た夢の中か、まだ言葉を持たなかった頃の記憶の底か、あるいは――昨夜、代わりにどこかへ行ったはずのあの一体の、少しだけ変わった姿か。

僕は君のすぐ横で、その異物のような調和を見つめている。怖いよりも、切なさに似た温度がある。
帰ってきたのに、もう元の場所には戻れないものの気配。

新しい人形の膝の上には、小さな太鼓が置かれている。
叩かれていないのに、君の心拍と同じ速さで震えている。そして気づく――その鼓動は、君と完全に同期している。
守られていたのではなく、半分ずつ分け合っていたみたいに。

Love sometimes returns in a form we don’t recognize, just to keep its promise.(愛は約束を守るために、見覚えのない姿で戻ってくることがある。)





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