善意100%だったんだから1発までにしろ
目が覚めたら見知らぬ部屋にいた。
部屋自体にも見覚えは無いのだが、もっと危惧するべきは眠る直前の自分の記憶すら無い事だろう。
更に言えば、ひりつく喉から声は出るのかと自分の名前を口にしようとしてみて、全く思い出せないことに気がついた。ついでに声も出ない。
この時点で終わった、人生・ジ・エンドだ。何も希望が見いだせなさすぎて声出して笑える。声は出ない。
何度か瞬きして、ぼやける視界を鮮明にしながら考える。
有り体に言えば私は、記憶喪失ということなのだろうな。……こと、なのだろうか。
目の前に横たわる両の手首を縛った麻縄を眺めつつ、まるで他人事のように思った。こんなものが視界に現れるくらいなら、一生ぼやけてくれていてよかったかもしれない。
もっと、なんだろう。慌てふためいた方がいいんだろうな、その方が真っ当な、まともな、人間らしい振る舞いと言える。咄嗟にそんな考えが浮かんで、そんなことをいちいち考える方が人外のようだなとも思った。
私は記憶を失う前からこんな性格だったのだろうか。人格を形成するのはこれまでの経験が多くを占めるから、その全てを失った私は全く違う生きものに成り代わってしまったのかもしれない。
だとしたら、申し訳ない。この部屋の持ち主に、私を拉致してまで手に入れたいと願った人間に。そんな人間がいること自体、驚きだが。なぜあえてこんな陰気な者を、犯罪に手を染めてまで。
しかも縛られている手元を見る限り校章付きの制服っぽい感じなので、私は明らかに学生だった。業が深すぎるだろ。
手は縛られているし、首も足も動かせる気配は無いし、寝起きだからかと思っていたが中々長いので、これは恐らく術が解除されなければ永遠に動かせない類のものだろう。
術ってなんだか知らないが。どこからともなく現れたのだ、思考に。私は厨二病なのかな。昔の私がそうだったのか、身体に染み付いているのか。嫌だな。
眼球を動かせる範囲だけでも見渡すが、なんともはや、壁と床以外の情報は全く得られなかった。打ちっぱなしコンクリートのような壁には傷一つなく、ついでに窓一つない。ないのかよ。窓はあれよ。いいのかこれ。
詳しくはないが、多分建築基準法とかに触れてるんだろうな。もしくはドアも無いので私の倒れ伏す真後ろにあると考えて、そこに窓も隣接してるのかもしれない。
馬鹿が建設した家って感じだな。法律に触れているか馬鹿の建築かでいえば後者の方が圧倒的にマシなので、こちらとしては祈るばかりだが。
床はなんか、なんだろう、フローリングではない。ふかふかした毛足の短いマットが敷いてある。というか暖かい。もしかしてホットカーペットかこれ、低温火傷するから嫌なんだが……。
微妙な優しさで怪我をしそうになっている私にはもうこれ以上成すべきことはなく、ただただ暇であり、時計も窓も何も無い一面の壁を見続けるだけの土偶と化した。
つらいな。最近の学生はスマホがあるから暇に耐性がなくなってるんだ、というネットニュースを見た、誘拐犯は見たことがないのかな。指すら動かせないので意味は無いが、手元に暇つぶし用の端末を用意しておいてほしいものである。あとネット回線も繋いでほしい。
そもそも私が起きた瞬間1人であること自体解せない、この状況で警察とかに駆け込まれても私には一切の記憶が無いし、だから家の場所とかわからないし、むしろ誘拐犯に会いたい。私に関する情報を教えてほしい。
きっと私より詳しいんだろう、例えばそうだな、犬を飼っててほしいな。ゴールデンレトリバーがいい。チワワとかブルドッグではない。シベリアンハスキーでも可だ。
それで、毎朝その犬を引き連れて散歩がてらランニングをする。おばあちゃんに明瞭快活な挨拶をし、おじいちゃんに精が出るなと褒められ、ゴールデンレトリバーにエサをやったら手早く朝食を作って、和食だな、米がいい、それで少し早めに学校に行くんだ。
学力はそんなに高くなくていい、赤点じゃないが、特別優秀でもない、そういうパッとしない成績で、周囲からの評価は「そこそこ真面目」なんだ。
学園のマドンナは存在しないし、ちょっといいなと思っていた女子はサッカー部に彼氏がいる。それも別にショックというほどではなくて、後に2人が別れたと知ってもこれといって何の感情も浮かばない。
平凡な暮らしを、その有難みも理解しきれないまま甘受して、それで、そのまま、何者にもなれないまま、死んでしまいたい。
背後で微かな音がした。どうやら私は耳がいいらしい。めくるめく青春ストーリーを頭の中で繰り広げていたため気が付かなかったが、誰かの足音のような気がする。
誘拐犯か。丁度いい、私の理想の人生論が固まったことだし、どれだけ達成出来ているか答え合わせでもするか。
けれどもし所属しているのがサッカー部だったらどうしよう、退部したい。私は帰宅部って心に決めてるんだが。
頭がいらんことばっかり考えているのに反して、心臓は自然と早鐘を打った。これも何らかの術だろうか。そんな便利な術があるのかな。
1歩、2歩、足音が近付くにつれて、見つかりたくないし、今すぐにでも見つかってしまいたくなる。じわじわと攻められているような感覚が嫌いだ、それならいっそ何もかもひと思いに暴かれたい。
心なしか手汗が滲む、ドアノブが軋む音がする。私にも、緊張や恐怖という感覚が備わっ、
「よォ、お目覚めか? ねぼすけお坊ちゃまクン」
「ハ? ふざけるな、貴様の頭の方が万年ねぼすけだボケ、華厳の滝にでも行って目を覚ますことだ、二度と私に顔を見せるな」
声が出た。
自分の口から流暢に溢れ出た罵倒に、私自身は「そこまで言わなくても……」とドン引きしてしまったが、わざわざ回り込んで顔を見せてきた誘拐犯、もといロン毛はケロッとした顔をしていた。
咄嗟にすみませんと謝ったのに、「やっぱパンチ足りねぇな、体調悪い?」と逆に心配された。あれで力不足なのかよ。なんなんだ、なんだったんだ私たちの関係、SMクラブとかで知り合ったりしたのか。
というか誘拐しといて体調悪いかを聞くな。すこぶる好調なわけがないだろ。縄を解いてほしい。
ヤンキー座りで私の頬をぺちぺちとやるロン毛に「何をしているんですか?」という旨を尋ねようとして、口から出たのは「やめろカス」だった。口がバグっている。
「すみません」
「いや全然。かわいーなお前、そんなんで謝っちゃうの、はは、可愛い。でもあんま抗うと人格グチャグチャにされてうまく分離出来なくなるから気を付けてな」
……なんか意味のわからない、わからないなりにめちゃくちゃ怖い内容の発言を、かる〜い雰囲気で言われたような気がする。
「人格グチャグチャってなんですか。分離ってなんなんだ」
「んー、それを疑問に思えてるうちは無事だから気にしなくていいぜ」
気を付けろって言ったのはコイツなんだが。疑問に思えなくなってからじゃ遅いから先に聞いてるんだが。馬鹿なのか? この男。
あと頬のぺちぺちも普通にうざくなってきた、やめろカスという気持ちになってきた、やばいんじゃないのかこれ早くも結合してないか、内なる自分に侵食されちゃっているのではないか。
「あと多分そろそろ動けるから、縄解いていいぜ」
「解けないんだが」
「え、動けねえ?」
「いや、こんなギチギチに結ばれてたら身体動いても無理だろ」
「……」
きょとんとした顔のロン毛が、たっぷり20秒ほどの間を置いて気の抜けた声を出した。
「やべえ、オレのほうが忘れてた。やっぱお前早いとこ自力で戻ってこいよ、うっかりいつものノリで殺しそう」
「なんで殺すんだよ、君私の事好きだから誘拐したんじゃないのか?」
「いやその辺は諸事情がさァ……お前このままだったらマジで一生帰ってこなそうだったからさァ……」
「いつものノリってなんなんだ」
「今死んだら戻ってこれんのか微妙だし……あ、もしかしてそれ狙ってたりすんの? オレから逃げようとしてる? 絶対許さねえから」
「なんで記憶もないのに会話の通じない男にメンヘラムーブされなきゃいけないんだ。可哀想だ。自分が」
踏んだり蹴ったりである。しかもあーだこーだと口ばかり喧しいくせに、縄を解いてくれない。『絶対許さない』からだろうか。何故私はいきなり無実の罪を突きつけられているのだろうか。許せ。何もしてないだろうが。
無性に頭の奥がガンガンするし、死ぬほどイラつくし、なんか手汗止まらないし、多分さっき怖がってたの、違うな。あれは今思えば恐怖ではなく苛立ちだったな。この男への拒否反応が出ていたのだ。過去の私に何をしてくれたんだよ。
この分だと私が自力でこの男を殺すなり記憶を取り戻すなりしないと一生部屋から出ることも出来ないんじゃないのか。もしかして、記憶があった頃の自分の理想の人生論などを語っている場合ではなかったのだろうか。
せめてもの抵抗に、ロン毛の視線から逃れようと寝返りを打った。ドアは開きっぱなしで、いや不用心だな、まだ試していないが私はもう動けるのだから本気で走れば逃げられるかもしれないのに。例えば私が陸上部であったなら。この際サッカー部でもいい。帰宅部よりは。サッカー部であってくれ、過去の私。
肘を立てて身体を起こしかけて、うわ、ああ、あー、そうなのか。驚いた、ものすごく、なのに納得した。最初から知ってたみたいに、この風景が頭に馴染んで溶けた。
半開きの扉の向こうにあるのは部屋ではなくて、アパートの廊下なんかでもなくて、何でもなくて、なんにも無かった。強いていえば闇だ。何も無いがある。そんな哲学的な話をしたいのではない、こいつの家から出たかっただけだ。
やっぱこいつまともではなかった、逃げるならもっと早くやっておくべきだった、例えばその、こいつに目をつけられる前に、ここに詰め込まれる前に。
目を覚まして記憶がなくて、その時点でもうダメだったのだ。詰んでた。クソゲーである。こんなものRPGだったらとっくに投げてる。
背後でロン毛が「頑張れアーチャー、あんよが上手だぞ」と言っていた。煽られていることしか分からない。
誰だアーチャー。もう取り繕うことをやめたのか。というかお前は誰なんだ。
肩に男の手が触れる。
「まあ、気長にいこうぜ。お前が戻ってこなくても一から仕込む準備は出来てるからよ」
「偉そうにふんぞり返った君にあることないこと吹き込まれるくらいなら自害した方がマシだクソが」
勝手に言葉を垂れ流す口にももう慣れた。慣れたくない。
「まずは自分の名前から思い出していこうな」
非常にいい笑顔だし、別に思い出したくもない。