こころの道しるべ(311)ただそこにいる

ただそこにいる

「自分には何もできない」と、
責める必要はありません。
あなたが、ただそこにいる
というだけでうれしい人が、
必ずいるからです。
あなたがただ生きていて、
いつも通りにっこりほほ笑んでいる。
ただ、それだけでよいのです。

『悲しみの向こう~希望の扉を開く言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1247)渇かない水、裏切らない希望

渇かない水、裏切らない希望

 そのとき、イエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」さて、その町の多くのサマリア人は、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」(ヨハネ4:5-15、19b-26、39a、40-42)

 イエスがサマリアの女に、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と語りかける場面が読まれました。井戸の水を飲む者は「誰でもまた渇く」けれど、イエスが与える水を飲む者は決して渇かないというのです。イエスが与える水とは、いったいどのようなものなのでしょう。
 第二朗読で読まれた「希望はわたしたちを欺くことがありません」(ロマ5:5)という言葉が、この水について考える手掛かりになると思います。水と希望を、重ねて考えることができるからです。まず、井戸の水とは、飲んでもすぐにまた渇いてしまう水、わたしたちを裏切る希望のことだと考えたらよいでしょう。人間の力によって生み出される地上の希望は、長続きせず、やがてわたしたちを裏切るのです。しかし、イエスが与える水は、わたしたちを決して裏切ることがありません。なぜなら、イエスが与える希望は、永遠に変わることなく注がれる神さまの愛だからです。神さまの愛に希望を置く人は、永遠に渇くことがありません。人生の最後の瞬間まで希望に満たされ、希望のうちに永遠の命に入ることができるのです。
 もう少し具体的に考えてみましょう。たとえば、病気や老いのために死に直面した人にとって、「井戸の水」すなわち人間の力で生み出される希望とは、病院で受けられる治療だと言ってよいでしょう。この希望はとても力強いものですが、残念ながら限界があります。どんなに優れた治療を受けたとしても、人間には必ず、死を迎えるときがやって来るからです。一つの病気が治っても、次の病気、また次の病気と続くうちに、やがて治療の力が及ばなくなるときが来ます。治療は、人間の命を長らえさせることができますが、永遠に生きさせることはできないのです。
 それに対して、イエスが与える水である神さまの愛は、わたしたちを裏切ることがありません。もう手の施しようがないというところまで追い詰められたとしても、決して消えない最後の希望として輝き続け、わたしたちに生きる力を与えてくれるのです。「神さまはわたしを愛してくださっている。神さまはわたしを決して見捨てない」と信じている人にとっては、生きることも死ぬことも、あまり違いがありません。なぜなら、生きたとしても死んだとしても、わたしたちにあるのは、永遠に変わらない神さまの愛だけだからです。神さまの愛を信じて疑わない人は、たとえ死が目前に迫ったとしても、まるで母親の腕に抱かれた赤ん坊のように安らかな心でいられるでしょう。なぜなら、すべてのことは神さまの手にあり、何があっても、神さまが必ず自分を守ってくれると信じているからです。
 イエスが与える水、神さまの愛の水を飲む人は、決して渇くことがありません。神さまの愛に希望を置く人は、決して裏切られることがないからです。イエスの言葉を信じるなら、神さまの愛はわたしたちの心の中で「泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」のです。神さまの愛を固く信じ、永遠に消えない希望、渇くことのない水をいただくことができるように、心を合わせて祈りましょう。

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こころの道しるべ(310)注意深く見る

注意深く見る

遠くまで行けなくなったときは、
身近なものを
注意深く見るようにしましょう。
一輪の花の中にある、
無限の美しさに気づけば、
それだけで世界はぐっと広くなります。
大切なのは、
たくさんのものを見ることより、
むしろ注意深く見ることなのです。

『悲しみの向こう~希望の扉を開く言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1245)喜びに輝く顔

喜びに輝く顔

 イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。(マタイ17:1-9)

「イエスの顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と福音書は記しています。「太陽のように輝く顔」と聞いて、皆さんはどんな顔を想像するでしょう。わたしが想像するのは、喜びにあふれた笑顔です。山の上で弟子たちと共に祈る中で、イエスは、自分のすべてを神の手に委ねました。そのとき、イエスの心を聖霊が隅々まで満たし、全身から喜びがあふれ出したのです。その喜びこそ、イエスの「太陽のように輝く顔」、「光のようにまっ白な服」という言葉が表しているものなのだとわたしは思っています。
 教皇フランシスコによって示された「共に歩む教会」、「シノドスの教会」を目指す歩みの中で、「霊による会話」がよく行われます。決められた時間の中で共に祈り、祈りの中で与えられた聖霊の恵みを分ち合う。分かち合いを通して、神さまがいま、わたしたちに何を望んでおられるのかを識別する。それが「霊による会話」です。先日、行われた広島教区のシノドス、「宣教ひろば」の中でも「霊による会話」が行われました。
 7-8人のグループをいくつか作り、それぞれ「霊による会話」を行うのですが、わたしもその中の一つに参加させてもらいました。そのとき気づいたのは、祈りの時間を終えて話し始めるとき、皆さんの顔がとてもうれしそうだったことです。聖霊の喜びに満たされた顔だったと言ってもよいでしょう。そのような顔から話される言葉は、どれも力強く、心に深くしみ込むものばかりでした。「今まさに聖霊がここで働き、わたしたちを力強く導いている」、「霊による会話」に参加しながら、わたしはそう思わずにいられませんでした。
 祈りの中ですべてを神の手に委ね、ひたすら聖書の言葉、神の言葉に耳を傾けるとき、わたしたちの心は喜びで満たされます。すべてを委ねて空っぽになった心を、聖霊が隅々まで満たすからです。一人でもそれは起こりますが、「二人または三人が集まって祈るとき、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)とイエスも言っている通り、集まって祈ることでより祈りが深まり、より豊かな恵みが与えられることが多いのもの事実です。集まって心を一つにし、神の手にすべてを委ねて祈るとき、他のすべてを脇に置いて、ただ聖書の言葉に耳を傾けるとき、わたしたちの心は聖霊の喜びに満たされ、わたしたちの顔は「太陽のように輝く」のです。
 集まって共に捧げる祈りの頂点にあるのが、ミサだと言ってよいでしょう。ミサで共に祈るとき、わたしたちの心は喜びで満たされ、顔は「太陽のように輝き」始めます。その顔こそ、いまここに聖霊が働いていること、わたしたちがキリストと出会い、救われたことの何よりの証拠です。教会から出てきた人たちの顔がどれも輝いているのを見るとき、街の人たちはきっと、「あの場所で、何が起こっているのだろう」と思い始めるに違いありません。中には、教会に来てみたいと思う人もいるでしょう。それこそ、何よりの宣教なのです。共に祈り、聖霊に満たされること。あふれだす聖霊の喜びを、出会うすべての人々と分かち合うこと、それこそが何よりの宣教なのです。イエスの御変容の恵みによって、わたしたちが喜びにあふれた宣教者の姿に変えられていくよう、共に祈りましょう。

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こころの道しるべ(309)祈りの力

祈りの力

祈るとは、何があっても
最後まで希望を捨てず、
何かを願い続けるということ。
願いが叶うとは、
最後まで希望を捨てなければ、
道は必ず開けるということ。
一見無力な祈りこそ、
じつは、不可能を可能にする力、
道を切り開く力なのです。

『悲しみの向こう~希望の扉を開く言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1244)疑いと信頼

疑いと信頼

 イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイ4:1-11)

 イエスが悪魔の誘惑に打ち克ち、悪魔を去らせる場面が読まれました。40日に及ぶ断食で肉体は弱っていたはずなのに、イエスは悪魔の誘惑に屈服しなかったのです。楽園にいたアダムとエヴァが、悪魔の誘惑に簡単に屈服し、楽園から追放されたのとは大きな違いです。なぜ、「人祖」であるアダムと、「最後のアダム」と呼ばれるイエスの間に、このような違いが生まれたのでしょう。その違いは、アダムとエヴァが神の愛を疑ったのに対して、イエスは神の愛をまったく疑わなかったことから生まれたとわたしは思います。
 創世記の中で、蛇はエヴァを誘惑するとき、「木の実を食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と言いました。つまり、神は、おいしい木の実、善悪を知る知恵の木の実をひとり占めにしようとしているだけだから、食べてしまっても構わないということです。もし神の愛を信じ、神が命じたことはすべて人間への愛によるものだと信じていれば、エヴァも、神の愛を裏切ってまで木の実を食べようとは思わなかったでしょう。しかし、エヴァは悪魔にだまされ、神の愛を疑ってしまいました。神の愛を疑ったことから、人間の心に罪が入り込んだ。そう言っていいでしょう。
 その疑いはアダムとエヴァから、その息子たちにも引き継がれていきます。長男のカインは、神が弟のアベルをひいきしている。兄である自分を愛さず、弟ばかり愛していると思い込んだことから「激しく腹を立て」、アベルを殺害したのです。実際には、神はカインもアベルも同じように愛していたに違いありません。しかし、カインは神の愛を疑いました。そして、その疑いは、殺人という人間が犯すもっとも大きな罪を生んだのです。神の愛を疑うとき、人間はあらゆる罪を犯すようになる。創世記は、わたしたちにそのことを教えています。
 では、いったい何が、人間を罪から救い出すのでしょう。それは、疑いとはまったく反対のもの、神の愛への全面的な信頼だと思います。イエスが、十字架の死に至るまでの神の愛への完全な信頼を生きたのは、アダムとエヴァによって人間の心に入り込んだ疑いを打ち砕き、人間を罪から解放するためだったのです。荒れ野での悪魔の誘惑も、神の愛へのイエスの揺るがぬ信頼を証しするものだと言ってよいでしょう。食べ物がなかったとしても、神は必ず、わたしたちが生きるために必要なものを与えてくださる。目覚ましい奇跡など行わなくても、神は必ず福音を人々の心に沁み渡らせてくださる。たとえ全世界を手に入れても、神の愛から離れてしまえばなんの意味もない。悪魔の誘惑を退けることによって、イエスはそのことを高らかに宣言したのです。
 神の愛を疑うことから、わたしたちの心に罪が入る。神の愛への全面的な信頼、神への揺るがぬ信仰こそが、わたしたちを罪から解放する。そのことを忘れないようにしたいと思います。信頼によって救われ、疑いによって滅びる。それが救いの大原則なのです。「お前が神から愛されているなんてありえない」、そのような悪魔の誘惑が心に入り込むごとに、「神はわたしを愛している。決してわたしを見捨てない」と言って誘惑を退けられるように、神の恵みを願って祈りましょう。

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こころの道しるべ(308)まったく新しいもの

まったく新しいもの

先が見えないことを、
心配する必要はありません。
まったく新しいものが生まれるとき、
先は誰にも見えないのです。
心配するより、むしろ
「これから何が起こるんだろう」
と楽しみにして待ちながら、
いま自分にできることをしましょう。

『悲しみの向こう~希望の扉を開く言葉366』(教文館刊)

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