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人魚は歩けない/Novel by 無味透明

人魚は歩けない

13,401 character(s)26 mins

人の憎悪が、人魚を焼く。
両族の和平を望む人魚赤弓と、己の生命に無頓着な赤弓を救わんと奔走するランサーのお話。
「斃れた数百の生命をみな救うつもりか」
「あぁ、それが叶ったなら」

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 同胞の喉元に矢が生えていた。
 かひゅ、と殻の割れるのに似た音を立てて血混じりの泡を噴く。
 やがて仰向けに倒れた。
 虚ろに開いた瞳孔が、飛来する矢を映す。柔らかな眼球に、鏃は吸い込まれるように沈んだ。もはや肉体は、なんの応答も返さない。
 一つの命の終わりを一瞥し、ランサーは甲板を駆けた。
 良い戦士だった。終わりまでも。
 構えた右手に武器を掴む。
 魔力で編んだ朱槍。
 腰を捻り、引き絞る。己の肉体を投擲機とする。
 矢の方角から推測した場所目掛けて放った。
 槍は飛沫の一粒もなく海面を貫く。
 水面に暗い赤が滲んだ。
 見る間に面積を増す。
 やがて、中心に屍体が浮き上がった。
 人の上肢に魚の尾を継いだ異形。
 きんっ、と空気が鳴った。
 反射的に身を捩る。
 左腕を矢が掠めた。
 水面で紅い鱗が煌めく。
 あいつだ……!
 ランサーの瞳が獰猛にぎらついた。
 矢を避けた勢いのまま回転しつつ、二の槍を編んだ。
 投擲する。
 先より速度を増した槍は、手応えなく海底に消えた。
 視線が素早く水面を走り、敵影を探す。
 わずかな揺らぎ。
 即座に槍を掴んだ。
 第三投を放つ寸前、号砲が鳴った。
 船が海域を抜けた合図だ。
 人魚の群れが退く気配がする。
 興を削がれたランサーは手中の槍を宙に溶かした。
 部下が駆け寄ってくる。
「被害は」
「全容不明ですが、死者、戦闘不能者が多数出ています」
「戦闘不能ってのは、例のアレか」
 右腕の腱のみを断つ矢。
 瑣末な傷を理由に戦線を離脱した戦士の数は両手の指を二度折り返しても足りなかった。
 おそらくはあの紅い尾の人魚だろう。
 腕を掠めた一矢が脳裏に蘇る。あの軌道はランサーの心臓を狙ってのものだった。
 興奮に唇を舐めた。
「次ぁ仕留めてぇな」
 同時に斃れてくれるなとも思う。
 無限に剣戟を重ねたい。滅多にない好敵手との戦いだ。戦士なら誰しも願うだろう。
 斃したい。斃したくない。
 どちらも本心で構わない。終わりは刃が決める。
 船を通すたびに起きる衝突はランサーの生まれる何代も前から連綿と続いている。
 湾の出入り口だ。あちらが縄張りを主張したとて、こちらも通らなければならない。
 人と魔との諍いは海に限ったことではない。
 陸も海も危険なら、目的に近いだけ海がいい。
 それに。
 海流に血は掻き消えても、同胞を殺された憎しみが消えることはない。
 流血が流血を欲する。炎が風を呼び、火勢を増すのと同じことだ。
 火は人魚の裡でも燃えていることだろう。
 水面に浮かぶ屍体を一瞥する。
 ここらの鮫は餓死と無縁だ。

 舳先が波を裂いて進む。
 静かなばかりの海にランサーは眉を寄せた。
「妙だな」
 哨戒に立つ兵にも困惑の色が見えた。
 商船はすでに海域を抜け、護衛船は帰途にある。
 いないわけではない。気配は数多とする。だが姿は現れず、矢も飛んでこない。
「なにを考えているのでしょう」
「罠かもしれん。警戒強めろ」
「不要だ」
 水面が揺らめいた。
 男性体の人魚が姿を現す。尾の色は紅。
 同時に、海中で複数の気配が蠢いた。
 船はにわかに殺気立った。
 一斉に槍を構えた部下を、手振りで制す。
「なに用だ」
「アーチャー・エミヤ。停戦の申し出にきた。きみたちの首長に取り継ぎ願いたい」
 へぇ、道理で。内心で口笛を吹いた。
 アーチャーといえばあちらの戦士長が冠する名だ。
 強いわけだ。
 ランサーは高揚を抑えねばならなかった。
 そうせねば血の騒ぐままに刃を構えてしまう。
 兵を預かる者として努めて冷静に言った。
「急な申し出だな」
「以前より考えていたことだ。この戦いは犠牲が大きすぎる」
「……さて、思うところがないわけじゃあねぇが。協定を結ぶにはオレらの関係は血に濡れすぎた。そうじゃねぇか」
「すぐに信頼を得られるとは思っていない。だが、交渉のテーブルぐらいは設けてくれてもいいだろう」
「そう言って我々をおびき出し、海に引きずり込む気だろう!」
 部下の一人が叫んだ。
 不信と憎悪が表情を濃く彩っていた。握る槍が軋んだ音を立てる。
「疑心を抱くのも当然だ。私がそちらに出向こう」
 アーチャーは気分を害した様子もなく言った。 
 どうかね、とランサーを見上げて問う。
 依然として場の空気は張り詰めている。海も、船も、相互に監視しあっている。
 たとえば一匹の魚が跳ねたとして、それが開戦の火蓋を切り落とさぬとも限らなかった。
 水音を、槍が海面を穿つ音、矢が風を裂く音に誤認する。そういう危うい緊張だった。
 そのなかにあって、アーチャーとランサーは泰然としている。
 鋼色の視線を真っ直ぐに受け止めたランサーは、やがて口の端を吊り上げた。
「いいだろう。取り継ぎ承った」
 どよめきが起きる。
「帰還する!急げよ!」
 浮き足立つ兵たちは、ランサーの檄に慌てて持ち場へと走った。

 速度を上げた船に、人魚は易々と並走した。
 凍えて澄んだ海に紅い尾がうねる。
 真っ直ぐな軌道はランサーの得物を思わせた。肉を屠る魔槍。
 敵の姿に重ねるもんじゃねぇなと薄く笑った。だが、好い色だ。
 やがて港が見えてくる。
 伝令の鷹を飛ばしていたからだろう。人垣ができていた。
 接岸するやいなや、碇を打つのも待たず飛び降りる。
 さて人魚は、と見渡せば、桟橋に上がるところだった。
 縁を握り、両腕の力で身体を持ち上げる。
 木張りの床を塩水が濃く染めた。水溜りを尾が弾く。
 打ち上げられたかと見紛う姿に瞠目する。てっきり港で話すものと思っていた。
 ランサーの動揺を他所にアーチャーは瞳を伏せ、ゆるりと首を振った。魔力が増大する。
 すくりと立ち上がった。
 尾は二本の足となり、剥き出しだった膚は黒い服を纏っている。腰布の赤さが鱗の名残と思われた。
 人魚は得意げに片目を瞑って見せた。
「いかがかな」
「上手いもんだな。いっそ陸に住んだらどうだ」
「きみが海で暮らすというなら考えよう」
 二人を囲む群衆が後ろから前へと騒めく。
「どういうつもりだ!」
 人垣を割って男がまろび出た。丸々とした身体に金の髭。副市長だった。
 膝に手をつき、汗を拭っている。
「停戦の申し入れだ。話も聞かず突き返すってなぁ礼儀に反する」
「だが……」
 男はわずかばかり小さくした声で言った。
「街に魔を入れるなど……暴れでもしたら……」
 いくら声を潜めたとて聞こえているだろうに、人魚は素知らぬふりをしている。
 涼しい顔しやがって。
 口元を好戦的に歪めた。
 魔力を編む。風が巻き、朱槍が顕現する。
 手の中で回転させ、ひたりと獲物に定めた。
 殺気とともに低く告げる。
「そのときは、オレが殺す」
 穂先は獲物──アーチャーの心臓に触れる寸前で牙を光らせている。
 一瞬で穿てる距離だ。避ける暇も、防ぐ暇も与えない。 
 そうと知りながら人魚は薄らと笑みを浮かべた。
 喰えねぇ野郎だ。
 槍はそのままに、視線を副市長に向ける。その鋭さに、男は息を飲んだ。
「戦士の長。ランサー、クー・フーリンが請けたことだ。違えるとは、オレと事を構えることと知れ」
 歴代随一と謳われる槍手の覇気だ。文官に受けきれるものではない。
 思わず後退った男の靴底が、ざりりと鳴る。
 ランサーは、ふっと槍を解いた。同時に空気が緩む。
「締結しろと迫る気はねぇよ。必要なら戦う。だが部下を犬死させるのはごめんだ」
 逃げるように去った副市長の、その足取りを辿るように歩く。なにしろ行き先が同じだ。
 アーチャーは溜め息混じりに言った。
「ご大層なパフォーマンスだったな」
「誰かさんが非協力的なせいでな」
「戦士長殿が請けた仕事、だろう?」
 言い合っているうちに議院の一室に着いた。
 市長、副市長をはじめ、要職の顔がずらりと並んでいる。
 長方形に設えられた会議室。入口に近い、市長と対角の席が人魚のために用意された席だった。
 一つきりの空席。ほかはみな人間が埋めている。
 ほんとうに、単身敵地に乗り込んできたのだ。
 その覚悟に同じ戦士として敬意を強める。
 自席に向かったアーチャーは、立ったまま議場を見渡した。
「アーチャー・エミヤだ。此度は我らの要望に応じ交渉の場を設けてくれたこと、御礼申し上げる。連綿と続いてきた流血を終わらせることが今代が平穏を享受する道であり、次代に贈る最大の幸福だと信じるところだ。建設的な議論を期待している」
 朗々と説いて席につく。
 凛と張る背をランサーは真後ろの壁に凭れて見た。
 アーチャーは堂々としたものだった。順立てて弁論を展開する。
 これは成るかもしれんな。
 人魚の示した条件は厳しいが、往来のたびに出る被害を思えば一考の価値のあるものだった。
 互いの譲歩次第。成立か決裂か五分五分というところだろう。
 次の日取りを決めて会談はお開きとなった。
 早々に席を辞したアーチャーを追ってランサーも部屋を出る。
 続く者はいなかった。こちら側の条件を協議するのだろう。
 帰路をゆく人魚にランサーは声を欠けた。
「そう急ぐこたぁないだろ」
 軽く肩に触れる。
 アーチャーはびくりと身体を震わせ、嫌悪の瞳で触れる手を見た。
「離してくれ」
「んだよ、つれねぇな。せっかく来たんだ、ゆっくりしていけよ」
「こちらにも事情があってな」
「だったら歩きながら話そうぜ。交渉ごとは信用が第一。お互い知り合うべきだと思わねぇか」
 くっ、とアーチャーの喉が鳴った。
「死合っておいて知らぬ仲とは。つれないのはどちらだ」
「可愛いことを言ってくれる」
 実際、刃は言葉より雄弁に語る。
 なにを第一義とし、いかにして磨いたか。死線で鮮明に浮き上がる、魂の形とでも呼ぶべきもの。
 二人のあいだには長年寝食を共にしたかのような気安さがあった。
「認めた相手だ。刃の次は言葉を交わしたいと思うのは自然だろう」
「戦士長殿は魔物の言葉をお望みか」
「あぁ、欲しいね。一流の戦士との語らいは誉だ」
「随分と買い被られたものだ」
「謙遜は嫌味だぞ。うちの連中を何人も戦線離脱させた野郎が」
「恨みごとかね」
「褒めてんだよ。器用に腕ばかり狙いやがって」
 ランサーの顔が真剣味を帯びた。
「誰一人殺さなかっただろう。そのお前だから請けた」
 言葉でなく刃で、戦果で示して見せたから。
 言いつつ思う。オレは思っていた以上にアーチャーを気に入ってるらしい。
 ランサーにとって戦とは生まれたときから存在し、次代へと引き継いでいくものだった。
 いかに戦い、有利に終えるか。それが関心事だった。
 敵の損耗をも防ごうなど、ましてや戦いを終わらせようなど考えたこともなかった。
 こいつの望む未来を見てみたい。
 鋼色の瞳が揺れ、伏せられた。無為なばかりの日々ではなかったのか。
 戦士長という冠を得るためだけに放った矢ではなかった。
「馬鹿だな。きみだけは、本気で殺しにかかったというのに」
「おう。良い矢だった。すっげぇ興奮したわ」
 あっけらかんとした声に白銀の眉が緩んだ。
「戦闘狂め」
 溢れた苦笑は、微笑みに似ていた。
 
 両種族の確執は根深い。
 流れた時と血とが深い川となって横たわっている。
 軽々と飛び越えるランサー、両岸を行き来するアーチャーが稀有なのだと、改めて知らしめる事件が起きたのは三度目の会談を終えた帰り道だった。
 不意の殺気。
 反応したのは二人同時だった。
 戦士の習い性で考えるより速く身体が動く。それはアーチャーも同じだ。
 相手は調練を受けたこともないであろう男。武装は包丁一本。容易に避けられる。 
 そのはずだった。
「息子の仇!」
 叫ぶ声にアーチャーの動きが軋んだ。
 防御と反撃のための腕は緩み、力なく垂れる。
 馬鹿が……!
 ランサーは男とアーチャーとのあいだに割り入った。
 ナイフを持つ手を掴み、捻り上げる。
「なぜ邪魔をする!こいつらのせいで何人死んだと思っている!」
「その戦いを終わらせるための協定だろうが!悼むお前が犠牲を増やすんじゃねぇ!」
 男の表情が歪む。
 言われるまでもなく理解しているのだろう。わかっていて、割り切れない。
 それはこっちの馬鹿も同じか。
 ちらりと視線を背後にやる。
 鋼色の瞳が苦痛に歪んでいた。まるでほんとうに刺されたかのようだ。
「ご無事ですか!?」
 騒ぎを聞きつけて憲兵が駆け寄ってくる。
「大事ねぇよ」
 すぐさま男に縄がかけられた。男の喉から呻き声が上がる。
 アーチャーの苦痛の色が濃くなる。
「待ってくれ」
 懊悩の滲んだ声で言う。
「彼の罪を問わないでほしい。きみたちの感情は承知しているつもりだ。積年の恨み、今日明日で消えるものではあるまい」
 恨み、という言葉に憲兵の瞳が暗く光った。彼もまた例に漏れず人魚に負の感情を抱いている。
 さりとてそれを職務に優先するほど愚かではなかった。
「使者殿のお言葉、勘案するよう伝えます」
 そう答えたのみで縄を解きはしない。
 警護をつけるという申し出にランサーは手を振った。
「オレが請けた仕事だ」
「しかし」
「こと戦闘でオレより適任がいるか?」
 問えばそれ以上食いさがることはなかった。
 憲兵が去るのを眺めつつアーチャーは肩を竦めた。
「大層な自信だな」
「おかげさまで。対象が自衛してくれりゃ楽できるんだがな」
 言いざま、アーチャーに向き直る。
「わざと避けなかったな」
「思い違いだろう」
「下手な言い訳に耳を貸す気はねぇよ。お前の目的は一人の復讐心を満たすために死んでやることか?」
 アーチャーは困ったように首を振った。
「そう深く考えてのことじゃないんだ。ただ、力が抜けてしまって。私の咎が、向かってきたから」
「咎?」
「私が早くアーチャー・・・・・になっていれば出なかった犠牲だ」
 ハッ、とランサーは吐き捨てた。
「思い上がったものだな。戦端が開いてよりこちら、斃れた数百の生命をみな救うつもりか」
「あぁ……」
 鋼色の瞳がゆるりと溶けた。憧憬と悔恨とが混じり合った笑みが浮かぶ。
「それが叶ったなら」
 うっとりとした声。
 ランサーの背が粟立った。
 こいつは、危うい。
 敵味方の区別なくすべてに手を伸ばし、取り溢したものを嘆く。
 それは神の領分だ。一介の生命に背負える業ではない。
 海にこいつの味方はいるのだろうか。
 人が人魚に抱く憎しみは根深いものがある。それは人魚の側でも変わるまい。
 平和を望み、停戦に同意する者はいるだろう。
 だがもし成ったのち、再び戦火が上がるようなことになったなら。責任の矛先はアーチャーを貫く。
 裏切られた者の怒りを引き受け、甘んじて死を選ぶさまが容易に浮かんだ。
 それをランサーは止めることができない。
 敵軍のなか、欠けた姿に死を察することしか。
 海で生きられぬ身がもどかしかった。

 幸いにして以後、凶刃がアーチャーを襲うことはなかった。
 それは憲兵が巡回を増やしたからであり、ランサーが目を光らせているからでもあった。協定の最中だからと人魚の襲撃が止まっているのも一因だろう。
 陸からの出兵も停止しているので直接見てはいないが、旅路は穏やかなものだという。
 商人からは協定締結の嘆願書が上がっていると聞いた。
 二人の戦士長の道行もまた、穏やかだ。
 海での暮らしを聞き、代わりに陸の話をする。
 皮肉屋のきらいはあったが、アーチャーは話上手でランサーを大いに楽しませた。
 停戦の条件が詰められるにつれ、二人の仲も親密さ増していく。
 会話の終わりはいつも水飛沫だった。
 水に触れた外套は消え、引き締まった上肢を無防備に晒す。腰布は艶やかな尾に変わり、水のなかでひらめく。
 その艶やかさにランサーは目を細めた。
「いつかお前さんと泳ぎてぇな。綺麗な尾だ。そいつが煌めくさまを水中で眺めるのはさぞ心地よかろう」
「……どうかな」
 アーチャーは苦しげに胸を押さえた。
「見たものが真実とは限らない。美酒と呑まされたのは水かもしれんぞ」
「美酒と紛う水なら、美酒より高値で取引されるだろうよ」
「それはいい。酔って海に吐く不埒者がいなくなる」
 胸を押さえたままくすくす笑う。やけに寂しげな笑みだった。
「そんなのいるのかよ」
「結構いるぞ。善処してくれ」

 やがて迎えた十数回目の会談。
 ついに条件が折り合い、調印式を経て正式に停戦協定が結ばれる運びとなった。
 最大の功労者は、陸の権力者たちが退室してなお椅子に腰掛けたままだった。四肢が重く垂れている。
「大丈夫か」とランサーは声をかけた。
「気分が悪いなら……」
 みなまで言う前に人魚は首を振った。
「すこし疲れただけだ」
 実際、緊張の連続だったろう。糸が緩んだとて無理はない。
 傍観していたランサーでさえ、締結に漕ぎついたことに感慨を覚えているのだ。
「今日のうちに使う予定のない部屋だ。休んでいくといい」
 それに、とランサーは窓に視線をやった。
 夕刻というのに陽はなお高くに在る。
 交渉にとアーチャーが訪れたのは冬の初めだった。それがいまや真夏。
「今夜は祭りだ。見て回るのはどうだ」
「祭り?」
「夏の祭りだ。火を囲んで子供が踊るんだ。露店も並ぶ」
「それは華やかだな」
 アーチャーは微笑した。
 硝子越しに声変わり前の朗らかな声が漏れ聞こえている。
 しばしの逡巡ののち、アーチャーは言った。
「夜なら、そうだな。すこしだけ」
「そうこなきゃな!気に入りの店案内してやるよ」
 露店と言っても街の商店が出した簡素なものだ。みな顔見知りなのだった。
 日暮れを待って二人は街に繰り出した。
 姿を見て騒ぎがあっては嫌だというアーチャーには、用意したフード付きのマントを被せている。
 広場へと続く大通りには、色とりどりの布で飾りつけた店が連なっていた。
 それらを一通り案内しつつ、広場へと向かった。
 中央で、煌々と燃える炎。
 踊る子供達の影が長く伸び、周囲の建物の壁を飾っている。
 アーチャーは火に近づこうとはしなかった。
 路地に隠れるように立ち、子供たちを愛おしそうに眺めている。
「彼らに流血を見せずに済みそうだ」
「そうだな」
 いつか、兵が不要になる日が来るのだろうか。
 ランサーは、冠するもののないクー・フーリンに戻る。
 戦士として在るよう育てられたランサーにとって、戦場から離れた自身は奇妙に思われた。
 まぁ、なるようになるさね。
 店で働くでも、魚を獲るでも、仕事はいくらだってある。
 案外花屋も楽しいかもしれねぇなと、与太の域を出ない未来に思いを馳せていたランサーは、ふとアーチャーの額に玉の汗が浮いていることに気づいた。
「やっぱ体調悪いんじゃねぇか?」
 無理に誘うべきじゃなかったな。
 悔いるより早く、人魚の身体が傾いだ。地に強かに打ちつけられる。
 這いつくばる肢体。被っていたマントを残して衣服は消えている。
 裾から生えているのは二本の足ではなく魚に似た尾だった。
 水中と変わらぬ姿にランサーは目を剥いた。
「アーチャー!?」
 慌てて抱き起こす。
 力の抜けた身体。纏うもののなくなった腕がしどけなく投げ出されている。
「しずかに……さわぎに、したくない」
 口を動かすのもつらそうだった。
「みずば、に……」
「わかった」
 とはいえ、海までは距離がある。人目に触れずに連れていくのは困難だった。
 やむなく近場の宿へ運んだ。
 風呂に入れ、水をかける。
 海水でなくていいものか心配だったが、水が溜まるに従いアーチャーの表情が緩んだ。
 対照的にランサーの表情は険しくなる。
「どういうことだ」
 低い声で問う。
「その尾はなんだ」
 真紅の尾は斑らに鱗が剥げ、痛々しく肉を覗かせていた。根本から先端に向けて赤から白へと鮮やかなグラデーションを描いていた尾ひれは、無残に千切れている。
 ばつが悪そうに視線を逸らしたアーチャーは、すぐに気を取り直し、挑発的に鼻を鳴らした。
「人魚が歩けるはずなかろう」
「はぁ!?だっていままで」
「尾ひれで真似ごとをしていただけだ。幻術……というほどではないが、現実を偽るのは得意でね」
 鋼の瞳が一瞬陰った。
「きみの愛でた尾も実際にはこの有様だ。水の味はどうだ。高値で買うかね?」
 ランサーの歯がぎちりと鳴る。
「なぜ黙っていた」
「交渉相手に弱みを晒す馬鹿はいない」
「オレも信用ならなかったのか」
「きみは……私の尾を気に入っていたようだから……だが、そんな顔をさせるくらいなら告げておくべきだったな。思い入れは時とともに増すものだ」
「オレはそんなに酷い顔をしてるか」
「あぁ、ひどく痛そうだ」
 ランサーの顔がいよいよ歪む。
「痛いのは、傷ついてるのは……っ!てめぇだろう……!」
 アーチャーはきょとりと瞬いた。ほんとうに、不思議そうに。
 やがて緩やかに笑んだ。
「優しいな、きみは。なに、身体の傷など心ほどには痛まぬものだ」
 そう言って手を伸ばし、ランサーの左胸をそっと撫でた。
 労わる手つきにランサーは深く息を吐いた。
 さもなくば怒鳴りつけてしまいそうだった。……あるいは、縋りついてしまう。
「体調が優れなかったのもそれか」
「まぁ、そうだ。こう立て続けでは傷の治りが悪くてね。それに、いまの季節は道が焼ける。実のところ人の体温でもいささか熱く感じるくらいなんだ。それで冬を選んだのだが、存外に長引いてしまった」
 ランサーを納得させるためか、アーチャーはやけに饒舌だった。
「知らなかったとはいえ、誘って悪かったな。夜でも熱が残っていただろう」
 いや、と人魚は瞳を伏せた。夢見るように唇が弧を描く。
「私が無理を押したんだ。きみたちの世界を知りたくて。とても、美しかった」
 美醜を指してのことでないのは明らかだった。
 人の営み。生命の輝き。目に見えながら、見えないもの。
 だが、とランサーは言った。
「傷に障っただろう」
「なに、あと一度のことだ」
「その傷で調印式に出る気か!?」
 瞠目したランサーを、アーチャーは訝しげに見上げた。
「当然だろう。なんのためにここまで交渉を重ねてきたと思っている」
「止めるべきだ」
 強く言った。
「せめて時期か場所を変えろ」
 調印式は一週間後の正午、広場で行われる予定だ。夏の日射しは人魚を苦しめるだろう。
 けれどアーチャーは取り合わなかった。
「渇望した平和がそこに見えているんだ。邪魔をしてくれるな」
「お前の身体がもたんだろう」
「それがなんだというんだ!無益な争いでどれだけの犠牲が出ていることか……!」
 たまらずランサーは叫んだ。
「その犠牲の一人になるつもりか!」
「あぁ、そうだ」
 義憤に燃える瞳を、凪いだ瞳が真っ直ぐに見据えた。
「私は、最後の一人になりたい」
 気迫にランサーは口を噤んだ。
 これ以上言葉を重ねることは侮蔑だ。
 尊く、気高いものがむざむざ失われるのを看過せねばならないのか。
 物言いたげな視線から傷を隠そうとアーチャーは尾を捻った。
 もっとも、彼の尾は傷だらけで、努力は新たな傷口を晒すだけだった。

 迎えた調印式の日は、例日になく暑い日だった。
 試しに触れた石畳は人の膚さえ焼きそうに熱い。
 ランサーは気遣わしげに広場の中央に視線をやった。
 朝から日陰の一片にも遮られなかった舞台。きっと石畳に劣らず熱い。
 真上に昇った陽が広場に詰めかけた観客の脳天をじりじりと焼いていた。
 一人二人倒れそうなころ、左手の建物から市長が現れた。反対側からアーチャーが姿を現わす。
 粛々と舞台へと歩を進める。
 人に置き換えれば、灼熱の鉄板を歩いているようなものだ。
 どれほどの苦痛だろう。生きながらに肉を焼かれるのは。
 人魚の表情はすこしも歪まなかった。
 凛とした背。正面を見据え、厳かに歩む。
 痛みなど微塵も感じさせない。
 聖堂を進む司教のように荘厳だった。
 壇上に上がった市長は、聴衆に対し演説を始めた。
 街の成り立ち、戦いの歴史、未来のあるべきかたち。今日という日のもたらすもの。
 冗長な話にランサーは気を揉んだ。
 はやく切り上げてくれ! あいつを火から下ろしてやってくれ!
 祈りは虚しく時は経ち、日光は残酷に照りつける。
 ついに、人魚の額に汗が浮かんだ。
 足元がわずかに傾ぐ。
 ランサーは息を呑んだ。
 耐えきれず、駆け寄ろうとする。
 けれど踏み出すより早く、アーチャーは体勢を立て直した。
 なにごともなかったかのように真直ぐに前を見つめている。
 ランサーは唇を噛み締めた。
 すぐにも止めに入りたい。
 だが、最たる苦痛を耐えている者の成果を己のエゴのために壊すことはできなかった。
 長い、長い演説の末、停戦条約を記した文書がうやうやしく壇上に届けられた。
 まず市長が、次いでアーチャーが署名する。
 二人ペンを置き、握手を交わした。
 その瞬間、観衆から歓声が上がった。
 ようやくの平和!
 いったいどれだけの血が流れたことか。誰も傷つかない世がいま、訪れたのだ。
 歓喜に沸く民衆をランサーは苦々しい思いで見た。
 恒久の平和のために、いま、ここで、傷ついている者がいるとわからないのか……! あの尾は血を流せぬほど肉を焼かれ、骨を覗かせているのに!
 渦中のアーチャーはゆっくりと広場に視線を巡らせていた。
 喝采を上げる人々。喜びに輝く顔の一つ一つを眩しく見る。口元に緩やかな笑みが浮かんだ。
 あぁ。
 紅い瞳が眇められる。
 散々に殺しあった種族の生命が救われることに、心よりの幸福を覚えるのだ。あれの血族とて戦場に斃れたろうに。
 歓声に包まれて式典は終わった。
 次いで開かれた祝賀会。
 祝いの言葉にそつなく礼を返していた人魚の姿が、気づけば消えていた。
「あいつ……どこ行って……!」
 慌てて館内を探し回る。
 裏口で剥がれた鱗を見つけ、ランサーは背筋を寒くした。
 乾き、ひしゃげた、アーチャーの一部だったもの。
 光を透かして煌めいていたころの面影もない無残な見目は、人魚の姿の暗示に思えた。
「クソッ!」
 鱗を投げ捨てて駆け出す。
 ようやくのこと波止場でアーチャーを発見したランサーは、彼が一人でないと見てとると物陰に身を潜ませた。
 弾む息を抑え、様子を伺う。
 アーチャーは、水面から顔を出した同族となにごとか話していた。
 やがて、筒を差し出す。
 おそらくは耐水の容器。密閉された中身は停戦の約定書だろう。
 二、三言重ねて同胞は海に消えた。
 揺れる水面をしばらく眺めていたアーチャーは、未練を吹っ切るように息を吐き、歩き出した。
 迷いのない足取りで港を出る。
 住宅地を抜け、街の外れに達しても人魚の歩みは止まらなかった。
「どこへ行く気だ」
 闇に溶かしていた姿を解き、ランサーは問うた。
 アーチャーは驚愕のうちに振り返った。
「なぜ、ここに」
「それはこっちのセリフだ。その先は森だ。お前さんの住処とは真逆だろう」
「陸も最後かと思うと名残惜しくてね。観光だよ」
 肩を竦めて言う。
 ランサーは視線を人魚の下半身にやった。いまは人の足となり、服を纏っている場所を。
「その尾で?」
「こんなもの、海に戻ればすぐに治る」
「へぇ。それにしちゃあ今生の別れのようだったじゃねぇか」
 アーチャーは不快そうに眉を寄せた。
「見ていたのか。悪趣味なことだ」
「野に死骸を晒すのは悪趣味じゃねぇのか」
 追求には無言が返る。
 ランサーは嘆息した。
 てめぇの考えてることなんざお見通しだ。
「食べつけん獲物なんざ獣は食わんぞ」
「そう、なのか」
 アーチャーはきょとりと瞬いた。
「困ったなぁ」
 眉を下げて笑う。
 初めて見る、子供っぽい表情だった。
「海に帰ればいいだろう」
「きみは陸には聡いが、海には無知だな。いまの私ではすぐに捕食される。血を嗅いだとあっては同胞も目覚めが悪かろう。しかし、そうか。陸にも私の居場所はないか」
 それは居場所ではなく、死に場所というんだ。
 やりきれぬ想いを捩じ伏せてランサーは言った。
「うちに来いよ。ちっせぇ風呂しかねぇけどな」
「止せ。無計画な善意は身を滅ぼすぞ」
「まさにいま、身を滅ぼしてるやつに言われたくねぇわ」
 ふ、と人魚は自嘲した。
「これが善意なものか。妄執だよ」
 対価にしては安いものだろう、と平然と述べる人魚にランサーは嘆息した。
 こいつが自身に無頓着なことなど、とうにわかってたことじゃねぇか。
 それならと問う。
「平和を見たくはないか。ガキどもが誰一人無益に欠けず、戦火を知らず、日々の糧を分かち合い、些細な幸福に笑う姿を見たくはないのか」
 鋼色の瞳が揺らいだ。
 はくり、はくりと無意味に口元が動く。
 大望を果たして空虚になった器に、執着が芽吹いた証とランサーは見た。
 決して己自身を土壌とすることのできない男に、根を張り、育っていく。
「ここでお前が死んだとて、誰が生きるわけでもない。終わりを急ぐことはないだろう」
 アーチャーは喘ぐように言った。
「きみに、めいわくが……」
「そう思うなら熱心に口説きやしねぇよ」
 葛藤の表れとして震える睫毛。
 やがて観念したように伏せられた。
 それを肯定ととって抱きしめると、くったりと力が抜けた。
 あまりに無防備で心配になる。
 同時に安堵もした。
 人より低い体温は、確かに腕のなかにある。失われていない。
 無意識に腕に力が篭る。離すまいとする心の反映のように。
 間に合った。
 息を吐く。思っていたよりずっと、深い溜息だった。

 帰宅したランサーは、アーチャーを浴槽の縁に座らせた。
「人の薬が効くか知らんが、ないよりマシだろう。幻術だかなんだか、さっさと解けよ」
「……見て気持ちのいいものではないぞ」
「だろうな」
 退く気配のないランサーに諦念し、人魚は尾を現した。
 酷ぇな。
 思わず眉が寄った。
 尾ひれの大半が千切れて消えている。地を擦る下部は焼け爛れ、一部は炭化していた。
「これは、その……」
 後ろめたさに言い訳を述べようとするのを制する。
「叱りゃしねぇよ。お前が戦った証だろう」
 ランサーは薬瓶の蓋を開けた。
 跪き、真剣な顔つきで軟膏を塗り込む。
 その姿はアーチャーをいたたまれない気持ちにさせた。
 火照る頬は肌の色が隠してくれると信じて、ランサーに声をかける。
「自分で、やるから」
「届かないだろう」
「届く。人魚の尾は柔らかいんだ」
「ふうん。でも駄目だ。自分のことはおざなりにするだろう」
 それに、とランサーは手を止めぬまま言った。
「お前は英雄なんだ。これぐらいさせてくれ」
「えい、ゆう……?」
「長く続いた争いをたった一人で止めたんだ。英雄だろう」
 アーチャーは言葉を詰まらせた。
 なにごとか言いかけて、唇をきゅっと噛む。
 分不相応な言葉はなぜだか胸を温めた。
 握りしめた拳を心臓に押し当て、ことりと一つ頷いた。

 ランサーは献身的に世話を焼いた。
 朝晩尾を拭き、薬を塗り直す。
 浴槽のほうにも観賞用の魚につかう薬を入れているようだった。
 日毎に癒えていく傷をアーチャーは不思議な心持ちで眺めた。
 絶えるものと定めた命が、生きたいと望んでいる。
 季節は流れて二度目の冬。
 波止場から海へと下りた人魚は、おそるおそる尾を動かした。
 湖で幾度か泳ぐ練習をしていたが、波のある海では勝手が違う。
 緩やかな動きは次第に速く、自由なものになっていった。
 細胞の隅々まで水が浸みわたるようだ。ここが在るべき場所だと悦んでいる。
 やがてアーチャーは水面に顔を出した。
「問題なさそうだ」
「おう。綺麗なもんだ」
 アーチャーは曖昧な笑みを浮かべた。
 尾びれは再生したが、鱗は斑らに変色したままだ。
 それでも本心からとわかる褒め言葉を否定したくはなかった。
「きみのおかげだよ」
「よせよ、辛気臭い」
 波止場に腰掛けたランサーは、天を仰いだ。
「なぁ、オレ、潜る練習してんだよ。兄貴の風呂場で。風呂が長いって怒られんだけど」
 思わぬ話題に瞬く人魚に、視線を落とす。にかりと笑って言った。
「だからよ、落ち着いたらお前の世界を案内してくれよ。次はオレが会いに行くからさ」

Series
#2 -----

Comments

  • わんわんお
    June 26, 2025
  • October 3, 2023
  • ゆんこ
    May 22, 2020
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