【プロ1年目物語/井端弘和編】星野仙一監督は「野球を知っとる」終盤恩師・野村克也監督に強烈な恩返し
身体の芯から鍛え直す覚悟
1998年春、ルーキーの井端弘和は初めてのキャンプを迎えて「野球ができて、お金までもらえる。こんな幸せなことないです」と初々しいコメントを残すも、キャンプインしてすぐ大学時代に半月板を手術した膝を再び痛めてしまう。当時の中日一軍のショートは久慈照嘉やリー・ジョンボムが争い、二軍のレギュラー遊撃手には実績充分の鳥越裕介がいた。だが、井端は置かれた状況に心折れるのではなく、ドラフト5位入団の自分を客観的に見ていた。与えられた背番号は48で、二軍でも出番は限られる。現状の自分は首脳陣から戦力の数に入れてもらえていない。「これはもう一度、身体の芯から鍛え直さないと通用しないな」と覚悟を決める。 「僕の上に内野手のライバルが、6、7人いた。レギュラーを奪うためには、一人ずつ、けちらしていかねばならない。『これは、1年や2年、いや3年でも無理かな』と思った。一軍のレギュラーという遠くの夢を描く前に、目の前の現実をひとつずつクリアしていかねばならなかった。まずは二軍で試合に出ること。そして、二軍でレギュラーポジションを奪うこと。まずその座を奪わない限り一軍には行けない」(「勝負強さ」/井端弘和/角川oneテーマ21)
シーズン終盤に11試合連続スタメン
井端は自分の武器は、「守備」だと自覚していた。ならば二軍でさらに鍛えて、守備のスペシャリストとしてプロの世界で生きようと決意するのだ。ウエスタン・リーグでは高校以来のショートのポジションで起用され、一軍には中日が首位・横浜と優勝争いを繰り広げるシーズン終盤、1998年9月7日に初めて呼ばれた。翌8日の阪神戦で、井端は福田功コーチから「アタマからいくから」と先発出場を告げられる。「七番・遊撃」で初めてのスタメン出場も、第1打席は極度の緊張でバッターボックスに立つ足が震えた。
それでも3回裏、二死満塁の大チャンスで回ってきたプロ2打席目で、センター前へ2点タイムリーを放つ。プロ初安打、初打点の大仕事に、星野監督も「若いの(井端)が打たなかったら、負けていた。大したヤツや。いい仕事をした」とベタ褒め。試合後、ナゴヤドームのお立ち台に呼ばれた井端は「必ず横浜をつかまえます」と堂々と口にする。16日のヤクルト戦にも、「二番・遊撃」で先発出場すると、1打席目の四球から始まり、安打、四球、四球、安打と2安打3四球で全打席出塁。星野監督はドラフト5位ルーキーの働きを絶賛した。 「今日は井端や。よう野球を知っとる。1球目から2ストライク取られたようなバッティングをしとるから、本当に2ストライクなっても慌てん。大したもんだよ」(週刊ベースボール1998年10月12日号) 前年のナゴヤドーム開業元年は最下位に沈み、「ドーム野球にはホームランはいらない。つなぎや。つないでつないで点を取るんだ」と口にしていた星野監督は、勝負所の9月に実戦派ルーキーを11試合連続スタメンで起用する。井端のプロ1年目の成績は、18試合で打率.245、2打点、4盗塁。守備位置は遊撃で12試合、二塁で6試合というものだった。 ヤクルト戦の5打席連続出塁で勝利の立役者となった夜、敵将の野村克也監督は、相手の背番号48の働きに、「何を怖がっとんじゃ。昨日、今日出てきた新人なんか、見下ろしゃいいのにフォアボールなんて」とボヤいてみせた。それはシニアリーグ時代、井端に内野手転向のきっかけを与えてくれた名将への強烈な恩返しでもあった。 (参考資料) 『アライバの鉄則 史上最高コンビの守備・攻撃論&プレー実践法・野球道・珠玉の対談』(井端弘和・荒木雅博/廣済堂) 『守備の力』(井端弘和/光文社新書) 文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール