一風変わった青春時代_きょうも一緒に、まあいっか 児童精神科医 山口有紗のゆらゆら育児(2)
児童精神科医とはいえども、娘(5)との暮らしの中で、日々悩みながら子育て(親育ち?)しているという山口有紗さん(40)。
自分自身、引きこもりや不登校を経験し、中学卒業後は単身ロンドンへ。帰国してからは夜の街で働くなど、一風変わった青春時代を過ごしてきました。今回は、山口先生のそんな過去を振り返ります。
心の不調で入院も
——幼い頃はどんなお子さんだったのでしょう?
わたしはもともと宇宙のことを考えたり、自分が人間として生きていることに罪悪感を持ったりしている子どもでした。
罪悪感をはっきり意識したのは、9歳か10歳の頃に、幽体離脱のような、宇宙の果てから地球を眺めるような経験をしたときです。その頃はソマリアやルワンダの内戦が起きていて、地球温暖化が話題になり始めた頃でした。
こんな美しい宇宙の中でどうして人間は戦ったり、何かを壊したりしなければならないのだろう。しんどいなと思っていました。そういう気質の子だったのでしょう。
家庭内でもいろいろなことがあって、家庭外では心に傷を負う経験もあり、14歳頃には心の不調が明らかになっていました。うつと摂食障害で、体重が30キロを切るぐらい痩せ、食べられなくなって入院したんです。勉強は好きだったけど入院中は鼻から管を入れられ個室に鍵をかけられ、勉強もさせてもらえなくてしんどかった。結局、入院先の病院から外泊して受験し、地元の進学校に入学するまで入院していました。
——高校に入ってからは、どうでしたか?
精神科の病院はある意味繭のように守られている感覚があったので、早く退院したいと思っても、外に出るとそれはそれで大変なんですね。高校に通うのもすごくしんどくなって、高校1年の後半には行かなくなりました。
家にいるのもつらくなっていたので、精神科の主治医の先生と相談して、高1の終わりから一人暮らしをしたんです。人が怖くて、外から光が差し込むのが嫌で、全ての窓に目貼りをして引きこもっていました。結局、高校は2年の頃に中退しました。
同時多発テロをきっかけにロンドンに移住
——その後、単身、イギリスに行かれたのですよね。何がきっかけだったのでしょう?
2001年の9月11日にアメリカの同時多発テロがあったんです。ビルに飛行機が突っ込み、二機目も突っ込んでくる。そんな映像を見て、すごくショックでした。
なぜかわからないのですが、そのとき、わたしが一番強く思ったのは、「ビルに突っ込んだテロリストはどれだけ怖かっただろうか」ということです。人がそういうことを選ぶに至った理由はなんだろう。何かを背負って人を殺さなければならなくて、それを実行する感覚はどうなんだろうと。
わたしはこのとき、世界はこれで大騒ぎになったのだから、何かを学び、変わる機会になるのではないかと思いました。でも、テロとの戦いだとか、どこに軍を派遣するかという話がしばらくニュースにはなりましたが、日本では日が経つにつれて世間の関心もどんどん褪せていきました。
わたしは、「これはすごく大事な話なのだから、もっとリアルにことが起きている場所に行きたい」と思いました。本当はアメリカに行きたかったのですが、両親は大反対。たまたまイギリスでホームステイをした経験があったこともあり、当時イギリス国内でデモが起きたりしているというのを知り、ロンドンだったらまだ許容範囲となったんです。
日本でどん詰まり生活を続けていたので、逃亡ですよね。17歳の冬でした。
自身のリハビリのようだった病院での活動
——ロンドンでは何をして過ごしていたのですか?
相変わらず外にも出られなかったので、学校には通えません。家をまた借りて、そこでも引きこもりが始まりました。
でも、世の中に役に立ちたい、何かできることはないかという気持ちは強かった。工作が好きだったので、折り紙をロンドンに持ってきていたんです。電話帳を見て、片っ端から病院に電話して「リハビリに折り紙が使えると思うのですが」と持ちかけました。
怪しいから、当然、どこも断りますよね。でも最後に「OK」と言ってくれた病院があった。そのロンドン郊外の病院に行ってみたら、スタッフも患者さんもインド人が多い病院の中のリハビリ施設でした。わたしは時々そこに行って、一緒に折り紙を折ったり、カレーを食べたり、ヨガをしたりするようになりました。
——仕事というより、ご自分が癒やされにいくような感じですね。
そうです、そうです。わたしのリハビリのようなものでした。
このときに出会ったヨガの先生に、最近もまた救われることになるのですが、当時、17歳だったわたしはこの先生に地球に生きていることのしんどさを打ち明けたことがありました。
そのとき、先生は「もっと大きな視点で考えれば、宇宙の中の大きなサイクルの中で起きていることだから、あなたが引き受けなくても大丈夫。悪いことが起きても、必ず社会はそこから学んでいい方向に変わっていく流れの中にある。それを信じて、あなたはそのままで大丈夫」と言ってくれたんです。
わたしはその言葉を、心の中の柱として持ち続けました。小さなお守りの灯火のように。
障害がある人の生きる姿勢に感銘を受け、帰国
——そこから少しずつ外へ向かうようになったのですか?
そこからロンドンでいろいろな人に会ったり、恋人ができたりもして過ごしていました。でもあることがきっかけで、日本に帰ることになりました。
先ほど触れた病院で出会った方のなかに、24歳のヒナさんという女性がいたんです。その人が切手を集めていて、「有紗さん切手を持ってる?」と尋ねられたことがありました。「あるよ。でもなんで集めているの?」と尋ねて、返ってきた言葉に驚きました。
「自分は車いすに乗っていて、すごく恵まれている。インドでは身体が不自由でも車いすがない人がいるから、その人たちのために寄付したいんだ」って。
わたしは歩くこともできるし、車いすも必要ないけれど、目の前の24歳の彼女は車いす生活を送りながら、与えられた使命のようなものをいかに全うするか、真摯に向き合っている。そんな姿を見て、衝撃を受けたんです。
その言葉を聞いて、わたしは日本に帰ろうと思いました。両親が大学に行くために貯めておいてくれたお金を持っていっていたのですが、ロンドンには7か月いて帰ってきました。
京都に住み、夜の世界へ
——でもそこで実家には戻らなかったのですね。
実家には帰れなかったですね。野生の勘で、西の方がいいような気がして。17歳のわたしは短絡的に「そうだ、京都行こう」と思ったんです。中卒だと雇ってくれるところがなかなかなくて、履歴書の書き方も誰も教えてくれない。バイトには落ちまくり、しばらく働けずにいました。
京都には、いわゆるキャバクラや高級クラブなどがある祇園町というエリアがあります。すごく綺麗だったので、たまに散歩に行っていました。
あるときそんな店を見ていて、「ああこういうところで働くのもありかもしれない。でも働くなら、一番いいところで働きたい」と思ったんです。
通りを歩く人を見ていたら、「この人は有名人だ」「この人は政治家だ」とわかりますよね。その人たちが入るのを見て「きっとここはいい店だ」と佇んでいたら、その店の黒服さんが出てきて、「ママが呼んでいるから入りなさい」と言われました。祇園で一番の高級クラブでした。ママに面接され、働くことが決まりました。18歳か19歳のときです。
お化粧の仕方もわからないし、ドレスも持っていないし、美容院に化粧の仕方を教えてもらうところから始まりました。こういう世界ではお客さんと電話番号を交換するのも当たり前だと思うのですが、「お客さんには電話番号を教えません!」と頑なに断って、めちゃくちゃ怒られたりもしました。
でもここでの経験は、とても貴重だった。わたしの人生に大きな影響を与えることになりました。
(次回へ続きます)
プロフィール
山口有紗(やまぐち・ありさ)
小児科専門医、子どものこころ専門医。公衆衛生学修士。高校中退後、イギリスでの単身生活や国際関係学部での学びを経て医師となる。現在は子どもの虐待防止センターに所属し、地域の児童相談所などで相談業務に従事。国立成育医療研究センター臨床研究員、こども家庭庁アドバイザー。著書に『子どものウェルビーイングとひびきあう――権利、声、《象徴》としての子ども』(明石書店)『きょうの診察室 子どもたちが教えてくれたこと』(南山堂)がある。
岩永直子(いわなが・なおこ)
読売新聞、BuzzFeed Japanを経て、現在はフリーランスとして医療情報を発信し続けている。依存症専門オンラインメディア「Addiction Report」編集長。著書に『言葉はいのちを救えるか? 生と死、ケアの現場から』(晶文社)、『きょうもレストランの灯りに』(イースト・プレス)がある。
医療記者、岩永直子のニュースレター
タイトルデザイン:中道智子






コメント
1拡散希望です。
北九州市の児童養護施設で重大犯罪がおこなわれたという告発がありました。
https://note.com/t_oshikawa/n/n34d79ff9c0ee(980円)
9500文字と画像23枚で980円と高いのは、それだけ取材の労力がかかったとお考え下さい。
よろしくねおがいします。