開花舞殿の舞台袖は喧騒と静寂が奇妙に交錯していた。朝の陽光が障子を透かし、淡い金色を畳に落としている。空気は張りつめ、線香の煙と汗の匂い、遠くから響く他の舞奏衆の息遣いが混じり合う。
大祝宴の本舞台——開化舞殿の幕が開くまで、あとわずか。
櫛魂衆と闇夜衆の面々が、それぞれの準備に追われ、控え室の扉が開いたり閉まったりする音が絶えない。比鷺は、舞台袖の薄暗い通路に一人立っていた。
着物の裾を軽く握り、化身の痣が手の甲で熱く脈打つ。昨夜の記憶が、肌に残る熱として蘇る。
月光の下で交わした吐息、額に触れた唇、痣の光が同期した瞬間——すべてが、今ここで試される。
足音が近づく。
比鷺は振り返らなくても分かった。萬燈夜帳だ。萬燈は比鷺の前に立ち止まる。黒い着物の袖がわずかに揺れ、二の腕の痣が布地の下で微かに光を反射している。
他のメンバーはまだ控え室の中にいる。遠流の笑い声、三言の落ち着いた指示が、遠く聞こえる。
今、この通路は——二人きり。萬燈の瞳が、比鷺を捉える。深い闇色の瞳。月光の下で見た熱とは違うが、同じ深さのものが、そこにある。
比鷺の息が、わずかに乱れる。長い睫毛が震え、視線を逸らそうとしても、逸らせない。
「……先生」
比鷺の声は、ほとんど息のように小さい。萬燈は一歩近づく。距離は、触れようと思えば届くほど。しかし、手は伸ばさない。ただ、視線だけで比鷺を包む。
「緊張しているのか」
穏やかで、底に熱を秘めた声。
比鷺の耳朶が赤く染まる。昨夜の耳元で響いた「それでいい」の余韻が、胸を締めつける。
「……はい。でも、それ以上に——」
比鷺の瞳が、ようやく萬燈をまっすぐ見上げる。化身の痣が、手の甲で淡く光り始めた。青白い粒子が、ゆっくりと舞う。
「先生の視線が、怖いです。昨夜から、ずっと」
萬燈の唇が、わずかに弧を描く。微笑みではない。比鷺の奥底にある、何かを確かめるような表情。
「怖がる必要はない」
二人の視線が、絡み合う。
萬燈の瞳に、比鷺の姿が映る——緊張で赤くなった頰、震える睫毛、痣の光に照らされた白い肌。
比鷺の瞳に、萬燈の姿が映る——静かな自信、底知れぬ闇、しかし今だけは、比鷺だけに向けられた柔らかさ。痣の光が、同期するように強くなる。
二つの光が、通路の空気を淡く照らし、粒子がゆっくりと舞う。
まるで、昨夜の闇を再現するように。
「俺……先生がいれば、舞えます」
萬燈の瞳が、わずかに細まる。視線が、離れない。
比鷺は小さく息を吐き、指先で着物の袖を握りしめた。
そのとき、遠くから、呼び声が聞こえた。
「比鷺! 萬燈先生! そろそろだぞー!」
遠流の声。三言の足音が近づく。萬燈の視線が、一瞬だけ緩む。
「よし、行くか」
いつもの天才らしい軽やかさのある声。
だが、比鷺だけが知っている。さっきの視線に、約束があったことを。
比鷺は、萬燈の背中を見送る。
痣の光が、ゆっくりと収まる。
しかし、胸の奥で疼きは残っている。舞台の幕が、上がる。
二人は、それぞれのチームと共に、開化舞殿へ踏み出す。想いは、交わったまま——
カミの前でさえ、離れることはない。――大祝宴は、今、始まる。
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