零落の王墓、最深部手前の広間。
扉の向こうにいるのは、フリーレンの複製体。
ここまで見てきた複製体とは、明らかに格が違った。
魔力も、技術も、間合いも、嫌になるほど本物だった。
重い沈黙の中で、フリーレンだけがいつも通りだった。
フリーレン「ふーん、面白くなってきたね」
フェルン「相変わらず楽しそうですね」
デンケンが杖の石突きを床に軽く当てる。
デンケン「さて。どう崩すかだが」
リヒターは壁に背を預け、眉をひそめた。
リヒター「あれも対処できるのか?」
ラヴィーネはじっと扉を睨んでいる。
ラヴィーネ「アイツとは戦いたくねぇ」
ラオフェンがデンケンを見上げる。
ラオフェン「爺さん、何かあるの?」
デンケン「それを今から考えるんだ」
フェルンは扉の向こうへ意識を向けたまま、静かに口を開いた。
フェルン「……あの。なんとかなるかもしれません」
デンケン「ふむ」
フェルン「フリーレン様の複製体が、今ここにいるフリーレン様の身体も含めた完璧な複製体なら、フリーレン様に大きな隙を作る方法、あるかもしれません」
デンケン「言ってみろ」
フェルンは真顔のまま言った。
フェルン「今ここにいるフリーレン様を民間魔法で『重い日』にしてしまえば、フリーレン様の複製体にも大きな隙ができて、私はフリーレン様を殺せるかもしれません」
広間がしんと静まった。
リヒター「冗談を言うような顔には見えないが」
ラヴィーネ「マジかよ……最低な魔法だな」
その「最低な魔法」を旅の途中で見つけてきた当の本人は、周囲の呆れをまるで気にしていなかった。
フリーレン「そう。そんな魔法もあったっけね。私を『重い日』にしてしまえば、フェルンは私を殺せるんだね」
フェルン「はい」
デンケン「確かに、理屈としては通る。複製体が器の状態まで写しているなら、だが」
フリーレン「あれ、嫌なところまでよくできてたしね。たぶん写すよ」
メトーデが、やわらかく微笑んだまま一歩前へ出た。
メトーデ「そのような民間魔法、聞いたことがあります。まさか、フリーレンさんが知っていたとは。よろしければ、その民間魔法、私に教えてくれませんか?」
メトーデは聖典に指を添え、静かに続ける。
メトーデ「私は小さくて可愛い子が好きなのですが」
その一言で、広間の空気がわずかに引いた。
フリーレンの肩が、ぴくっと揺れる。
メトーデ「弱ってる小さくて可愛い子を想像したら……いえ。多少なり女神様の魔法も使えますので、私が『小さくて可愛い』フリーレンさんを弱らせる魔法をかけたいなって。ついでといっては何ですが……弱ったフリーレンさんを、なでなでしてもいいですか?」
フリーレンの背筋に、ぞわりと寒気が走った。
フェルン「真顔で何を言ってるんですか、この人」
ゼンゼは薄く目を細めただけだった。
ゼンゼ「うーむ、こいつらはいかれている……」
その言葉にも、協力の気配はひとつもない。
ただ感想を落としただけだ。
フリーレンは嫌そうな顔のまま、小さく術式を描いてみせる。
フリーレン「こうだよ。簡単でしょ」
メトーデ「なるほど……」
メトーデがフリーレンの前に立つ。
メトーデ「少しだけですよ、フリーレンさん」
フリーレン「なんか怖い」
魔法が触れた瞬間、フリーレンの肩がぴくりと揺れた。
膝にわずかな鈍さが出る。
立っているだけで少しだけ鬱陶しい、そういう顔になる。
フェルン「効きましたか」
フリーレン「うん。最悪……」
その直後だった。
メトーデが、ごく自然な動きでフリーレンをぎゅっと抱きしめた。
フリーレン「いい匂い……」
不機嫌な顔をしたフェルンが無言でフリーレンの身体を掴み、本気で引っ張る。
フリーレン「やめてよぉ……」
メトーデは本気で不思議そうだった。
メトーデ「あらあら」
しばらくの間、誰も次の話に入れなかった。
やがて、メトーデがようやくフリーレンから引き剥がされると、広間に少しだけ気まずい沈黙が落ちた。
デンケンが小さく咳払いをする。
デンケン「……気は済んだか」
メトーデ「私はわりと真剣でしたよ」
デンケンは杖を持ち直し、広間の先へ意識を向ける。
デンケン「では決まりだ、と言いたいところだが……その前に、他の複製体の動きも見ておかねばならん」
メトーデが、ふと表情を引き締めた。
メトーデ「検知できない複製体が何体か」
その一言で、場の空気が少し変わる。
メトーデは目を閉じたまま答えた。
メトーデ「フェルンさんとデンケンさん、あとゼンゼさんの複製体でしょうか」
リヒターが露骨に顔をしかめる。
リヒター「面倒なところばかり残ったな」
フリーレンは扉の向こうを見たまま、静かに言った。
フリーレン「ゼンゼの複製体は流石に看過できない。挟撃の形になったら、フェルンを守りきれない」
少し間が空く。
フリーレン「最悪、二人共死ぬかも」
ラヴィーネ「笑えねえな」
フェルンは短くうなずいた。
デンケン「そうか。それでは二人がフリーレンの複製体と戦っている間、儂らは分散して残りの複製体を足止めするとしよう」
リヒターが、壁際に立ったままのゼンゼを見た。
リヒター「お前がこの場にいなければ、こんな懸念もいらなかったんだがな」
ゼンゼの眉が、ほんの少しだけ動く。
ゼンゼ「一級魔法使いは理不尽なほどの逆境でも覆せるような存在でなければならない。その程度は逆境ですら……ん?」
そこで、全員の視線がゼンゼに向いた。
広間が静まる。
誰も口には出さなかった。
だが、この場で考えていることはたぶん同じだった。
ゼンゼも「重い日」にしてしまえば良いのでは。
ゼンゼは数拍遅れて、その空気を察したらしい。
ゼンゼ「……なんだ」
誰も答えない。
ゼンゼ「私は手助けしないよ」
どこからともなく小さく舌打ちが聞こえてくる。
メトーデはやわらかく微笑んだまま、少しだけ残念そうだった。
ゼンゼはそんな一同を見回し、露骨に呆れた顔になる。
ゼンゼ「なんなんだ、こいつら……」
デンケンが杖で床をこつんと鳴らした。
デンケン「では、今度こそ決まりだな。フリーレンとフェルンの二人が扉の向こうへ向かい、残りは別で動いて他の複製体を止める」
最深部へ続く扉が開く。
フリーレンとフェルンだけが中へ入った。
背後で扉が閉まり、広間には二人と、フリーレンの複製体だけが残される。
複製体は、本物と同じ顔で立っていた。
だが今は、本物が「重い日」である以上、あちらも同じだ。
フリーレン「自分のこういう時の顔、見たくないね」
フェルン「勝つためです」
フリーレン「目が怖いって」
複製体が先に動く。
狙いは本体。
最も危険なのは、自分と同じ自分だ。
魔法がぶつかり、広間が震える。
本物のフリーレンも本調子ではない。
複製体もまた本調子ではない。
それでも、十分すぎるほど強い。
フェルンは気配を沈め、魔力を隠し、視界の外へ滑るように回る。
複製体はフェルンを気にする。
だが、「重い日」である複製体には、フェルンを探す余裕がない。
目の前のフリーレンを捌くだけで、わずかに手が足りていなかった。
広間に轟く魔力の衝突の合間に、別の通路から伝わる戦闘の気配がかすかに混じる。
王墓のどこかで、他の複製体とぶつかっている音だ。
フリーレンの複製体は、なおも本体だけを潰しにきている。
フェルンの気配は拾えていない。
いや、拾う余裕がない。
「重い日」の鈍さは、魔力の量を削るわけではない。
だが、意識の配分を狂わせる。
本来なら十まで見ていたものが、八までしか見えない。
その二つぶんの欠落が、今の複製体には確かにあった。
フリーレンもまた重い。
動きに、わずかな遅れがある。
普段ならもっと雑に避けられた攻撃を、今日は丁寧にいなしている。
その丁寧さが、かえってこちらの好機だった。
複製体がもう一度、フェルンを探ろうとする。
だが、探りきる前に、本体の魔法への対処を強いられる。
その綻びが、顔に出た。
ほんの一瞬だけ。
嫌そうに。
鈍く。
腹の底から鬱陶しいとでも言いたげに。
フェルンは、その瞬間を切り取った。
次の瞬間、絶え間なく撃ち込まれるゾルトラーク。
複製体の姿は、たちまち白い光の束の奥に沈む。
反撃の構えも、顔を上げる暇もない。
フェルンは隠していた気配ごと魔力を解き放ち、綻びを見せた一点へ、容赦なくゾルトラークを浴びせ続けた。
直撃。
複製体の身体が大きく揺らぐ。
魔力の層が、胸元から腹部にかけて明確に乱れた。
フェルン「……止めを」
致命傷。
そう思った、その直後だった。
複製体が顔を上げる。
そこにあったのは、いつものフリーレンにはない、どろりと濁った怒りだった。
だるさと痛みと苛立ちが、そのまま魔力になったような顔。
取り繕う気力ごと削れ落ちたみたいに、表情は荒く、視線は重い。
普段なら飲み込まれているはずの刺々しさが、そのまま剥き出しになっていた。
次の瞬間、複製体は緻密な術式を組まず、魔力そのものを叩きつけてきた。
フェルン「っ……!」
防御が軋む。
身体が吹き飛ばされる。
背が石壁に打ちつけられ、肺から空気が押し出された。
視界が揺れる。
それでも、フェルンは複製体から目を離さなかった。
フェルン「すごいです……フリーレン様……」
複製体の魔力は荒れていた。
普段のフリーレンなら絶対に見せない乱れ方。
強い。
だが、強いだけだ。
そこにあるはずの静けさが消えている。
フェルン「これが不機嫌の極みなんですね……」
複製体がもう一撃を放とうとする。
だが、その立ち上がりは乱暴で、雑で、隠しようもなく荒い。
フェルンは、そこではっきりと確信した。
フェルン「……でも、らしくないです……」
息を整える。
痛みを押し込みながら、視線だけは逸らさない。
フェルン「……隙だらけです」
その瞬間、横合いから本物のフリーレンのゾルトラークが走った。
複製体が振り向く。
遅い。
一撃が、その胸を貫いた。
複製体はゆっくりと崩れ、消える直前まで、なお険しい顔をしていた。
静けさが戻る。
フリーレンがフェルンのそばまで歩いてくる。
足取りは、やはり少しだけ重い。
フリーレン「よくやった、フェルン。あそこまで不機嫌な顔を見せるほど重いのは80年ぶりかな」
フェルン「80年も前に、何があったんですか」
フェルンの問いに、フリーレンは少しだけ目を伏せた。
けれど、結局何も答えなかった。
フリーレンの複製体が消えたあと、最深部に残っていた者たちも集まり、最後の部屋に残る水鏡の悪魔(シュピーゲル)へ向かった。
シュピーゲルは、静かにそこにあるだけだった。
最後はフリーレンの魔法が核を砕き、王墓を満たしていた異様な気配が静かにほどけた。
第二次試験は終わった。
王墓の外へ出ると、空気は少しだけ温かかった。
外ではリヒターやラヴィーネをはじめ、何人か脱落した者たちが待っていた。結局、リヒターとラヴィーネは、「重い日」にできなかったゼンゼの複製体に奇襲され、脱落していた。
そんなゼンゼの複製体を倒したのはユーベルだった。
平和主義者のゼンゼが意図した通り、結局はチームワークで合格した。
そのはずだった。
だが、ゼンゼの顔だけはどこか釈然としていない。
デンケン「どうした、不満そうだな」
ゼンゼ「不満ではない」
メトーデ「では、不安でしょうか」
ゼンゼは少し黙った。
それから、生き残った受験者たちを見る。
ゼンゼ「……協力して突破した点は、評価に値する。だが」
そのとき、ユーベルが面白そうにゼンゼを見た。
ついさっきまでゼンゼの複製体とやり合っていたとは思えない、いつも通りの軽い声だった。
ユーベル「ねー」
ゼンゼ「何だ」
ユーベル「さっき聞いたんだけどさー。『重い日』にされそうになったんだって?」
場の空気が一瞬だけ止まる。
ゼンゼ「何の話だ」
ユーベル「ふーん、否定しないんだ」
ユーベルは薄く笑った。
からかっているようで、半分は本気で興味を持っている顔だった。
ユーベル「でも、ちょっと気になるよねー。その髪、鈍るのかなって」
ゼンゼ「……」
ユーベル「それとも、逆にもっと怖くなったりして」
ゼンゼの眉が、ぴくりと動いた。
ユーベルはさらに覗き込むように続ける。
ユーベル「見てみたいなー、それ」
ゼンゼは露骨に嫌そうな顔をした。
ゼンゼ「『重い日』?地獄だよ。考えたくもない」