純粋理性批判⑨
理性には二種類あるとカントは考えた。理論理性と実践理性がそれである。論理的・思惟的な考え方が理論理性である。実践的な概念の想起が実践理性である。
私は何を知りうるか、と問い、認識できる限界を明らかにするのが理論理性である、という意見もある。
しかしこれは、理論理性という言葉遣いでしっくりこない。うまく着地していない。カントは認識できる限界を述べていない。理論理性で認識できる限界を明らかにしたためしがない。認識できる限界を示すのは夢物語のような事柄ではないだろうか。
認識の限界に行き着いたら、次は『私は何をすべきか』という命題にあたる。その際に善悪の判断を行なうのが実践理性である。……という意見もある。
善悪の判断を行なうのが実践理性でいい、と後期カントは考えた。
デカルトは理性を神聖視していた。理性があればどんなことも追究していける、という語の意味は、『デカルト神』という内容である。デカルトは理性を一番大事にした。理性によって物事を追究する、という語の意味は、これもまた『デカルト神』という内容である。デカルトはイギリス経験論の合理主義の立場をとった。理性主義とも称される立場に立ったデカルトは、リベラルという概念を一番重視した。リベラルとは理性主義という意味内容を内包する。デカルトは理性主義という意味内容を内包すると考えたリベラルという解釈していたことが窺える。
あらゆる理性的なものは現実的であり、あらゆる現実的なものは理性的である、……とヘーゲルは述べた。
あらゆる理性的なものは客観的にありうるし、客観的にありうることは理性的である、という解釈も可能である。
理性は神聖なものでも何でもなく、単に知識や経験が束になって作り出されたものにすぎない、とヒュームは述べた。
この一言が、独断を抜け出したきっかけとなったと後期カントは振り返り、独断のまどろみとは言いすぎたと振り返った。カントにヒュームに衝撃を与えられたことが何度もあったと振り返った。(純粋理性批判⑤の太陽の話)
三批判書の批判とは、私たちがよく使う、対象を否定したり異なる意見をあてたりするのではなく、吟味する、熟考する、という意味である。
理性批判とは、理性について吟味し、熟考すること、である。
カントは認識形式の杞憂さに後期で統覚という概念を追究するようになった。認識は天才しかできない、と知っていた。ということは、私たちが認識することも認識形式をはたらかせることもありえないということになる。ということは、認識形式ではなく統覚形式という概念が持ち出されることが懸念されうる。空気と時間の純粋形式は厳密には統覚形式であると考えられる。
では天才の認識論とはどういうものか。一日にたくさんあるわけではないこともあれば、四十回あった日もあった。「強い」、「勝ちそう」、「大丈夫」という認識が今日確認された。認識が他者より少なからず見出されることから、まあまあ役に立ったという感想がある。
理性的でも経験しなければ虚無的な精神であるという風に(純粋理性批判③)で述べたが、空虚な精神と呼ぶこともできよう。
空間と時間は純粋形式であるが、カントはこの両方を認識形式であると述べていない。空間と時間は認識される対象ではない。この両方を「認識が生まれるための二つの源泉であり、……」とカントは純粋理性批判で述べている。しかし後期カントでは、この源泉説を否定している。
規定的判断と反省的判断に分けて考えるカントは、規定的判断より反省的判断の方が難しいと考えた。
規定的判断力と反省的判断力です。
規定的判断力というのは、あらかじめ普遍が与えられていて、そこに私の特殊な考えなどを当てはめて判断するというものです。 判断というものは包摂関係だから、全体があって部分を包み込む、というもの。 その意味の規定的判断力というのは、普遍という全体があらかじめ与えられていて、そこに私の特殊な考えを当てはめればいいので、比較的簡単です。 例としては、政治的判断が挙げられます。 政治状況というものが与えられていて、そこでどのように考えたらよいか、判断したらよいかを考えるものですから、あらかじめ全体というものが与えられています。
難しいのは、反省的判断力です。 この場合は、あらかじめ普遍というものが与えられていなくて、特殊なものから、普遍を導き出さねばなりません。 例としては、芸術作品の創造とか、美的なものの創造が考えられます。 美というものは、あらかじめ与えられているわけではなく、芸術活動を通じて美を創造しなければならないので、はるかに難しいです。 何が美か、という規範があらかじめ与えられていれば、簡単ですけど、それが与えられていないから、暗中模索しなければなりません。
カントは目的論的判断も考えた。


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