論考⑧ 論理空間と虚構世界
前回、ファナスティという人Aとファナスティという人Bという記憶が規程のときまでに同じであった二名の詳細の一部に触れた。これは論理空間で頻繁に出るか否かの判断はさておき虚構世界のゾンビネタと近しいものであることが加味される。哲学的ゾンビというのは記憶がないものの決定論的に行動するとされている。私の姉も一生を終えたのに妖霊という形で何も考えずに行為していることが散見される。この妖霊という姉のような存在は、見えるけれど意志を持たない、決定論的に行動する「らしさ」で動く存在であり、甥っ子は「お母さんはいるときといないときがある」と哀愁漂うコメントを残している。その妖霊(姉の亡霊のような存在)はときどき現れるが消え、またときどき現れる。「お母さんはいるときといないときがある」というしんみりする言葉遣いは、私の生に彩りを考えさせ、甥っ子に彩りを与える源動力になっていく。甥っ子はお母さんの存在を頻繁に気にかける。お母さんのように見える妖霊だとしても逢いたい、ボクを構って、と涙を零す。甥っ子はまだ幼児であるのにお母さんを失ってしまったのである。妖霊でもいい、早く逢いたい、ボクのお母さんと呼んでもいいから、ねえ早く来てよ、ボクのお母さん……。と訴えかける。どうして来てくれないの、ボクのお母さん……愛してるのに……そばにいないのはどうして……早く誰か逢わせてよ、お願いだから……。甥っ子のお母さんに対する思いは哀愁を覚えさせる。さて、ゾンビネタというのは複数ネタという女子語的意味がある。ファナスティという人Aが店舗に歩いていくとき、ファナスティという人Bが学校に行くとしよう。ここで記憶の中身の差異が散見されうる。店舗に行っておにぎりを買って店員に「温めますか」と訊かれるという経験をする。ファナスティという人Aは「結構です」と日常言語を使用する。「結構です」という語は「はい/いいえ」どちらもニュアンスに含めることができる。「結構です」というのは「それでいい」という意味として使用できるし、「それはよくない」という意味として使用できる。ウィトゲンシュタインはこうした日常言語を究明することがいわば言語活動の究明に役立つことを考慮していた。ちなみに「温めますか」という語の意味はウィトゲンシュタインいい、という内容である。「結構です」という語の意味は同じく「ウィトゲンシュタインいい」という内容である。仮想の世界とは虚構世界であり、論理空間でも仮想の世界を築くことが可能である。「どっちみち」という語を論理空間で店員に言った場合、そのニュアンスを考えるというものが加味される。論理空間で「どっちみち」と返事をしたさいに「温めなくていいですよ」というニュアンスで使用するということが考えられる。また、論理空間で「どっちみち」という返事をしたさいに「どちらでもいいですよ」というニュアンスで使用するということが考えられる。また、論理空間ではお客様に店員が「どうしますか」と問いかけることが考えられ、「温めますか」というニュアンスで使用することが考えられる。また、論理空間では「クッペクッペ」という語を「来て来て」というニュアンスで使用することが考えられる。また、論理空間では「はひひひ」という語を面白いというニュアンスで使用することが考えられる。また、論理空間では「くペッシ」という語を「気を付けなさい」というニュアンスで使用することが考えられる。これは「クッペシ」という語が由来のように考えることができる。その意味は「気を付けなさい気を付けなさい気を付けなさい」という内容である。また、論理空間では「こおっぺ」という語を「怖がるね」というニュアンスで使用したり「氷るね」というニュアンスで使用したりすることが考えられる。また、論理空間では「しっぺ」という語を「ダメだべ」というニュアンスで使用することが考えられる。また、論理空間では「よかばい」という語を「よいだろう」というニュアンスで使用することが考えられる。また、論理空間では「あしあし」という語を「わるいべな」というニュアンスで使用することが考えられる。このように論理空間では虚構構造を築くことができる。もしかしたら山奥で上述の語を日常言語として使用しているかもしれない。そこでウィトゲンシュタインは日常言語を「探求」しようとして「探究」を論考の次に著したのである。日常言語の見つけ方は他者と知識を共有することが挙げられる。日常言語の要素化によって、なぜその言語は日常言語なのか探求することが考えられる。方言というカテゴリーもあり、日常言語の一部は方言であるとみることもできる。「こわい」という日本の方言は「疲れた」という意味で使用されることがある。「こわい」と聞くと「怖い」という不安のようなものと捉えがちであるが、「怖い」という意味以外の意味もある。ここに日常言語のドラマがみられるのである。


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