論考⑦ 論理形式と論理空間
雄大な諸形式においては文脈の正否が加味される。「故郷は母である」という雄大な形式があるとき、まず故郷は母ではないと思考される。しかし論理空間ではこの故郷について母と関連するものとして扱うことが可能である。故郷が母という感覚であったり「故郷が母」という詩であったりすれば、論理空間の中では成立する。論理空間とはあらゆる事態の可能性を伴う場として考慮される世界観である。論理形式があるとき、そこには論理が反映されている。命題があるとき、そこには往々にして論理形式が伴っている。この論理形式が伴う命題があるときに、命題の真偽が問われるのである。「あjっl」という命題擬きの文があるとき、そこには論理構造がみられない。誰かが論理形式を意図的に構想してこの文の文脈に色を付けた可能性も考えられるが、「色を付けたんです」と補足がないと判明しないことも考えられる。このような私的言語にも捉えられうる言語活動は、私的言語のまま終焉を迎えて──他の誰もが分からないまま──理解されない可能性がある。「あjっl」という文は「殺されない」という女子語的意味があることも過去の故人が見出していた。それでは「ファナスティ」という語はどうか。ファナスティとは意味がないように扱われる語である。「ファナスティ」を暗号として利用することも論理空間では可能であり、「ファナスティ」を人称的に使用することも論理空間では可能である。意味がない言葉の意味を作ることも、そして意味がない言葉を何かの名称として見出すことも論理空間では可能性を秘めている。論理空間ではあらゆる事態が可能性を持ちながら変異的展開を魅せる。ファナスティという人が月に向かって新幹線に乗って進んでいく、こうした事態も論理空間では可能である。てんとう虫に人間から変異しててんとう虫の家を創る、という事態も論理空間では可能である。ファナスティという人とてんとう虫が太陽の大きさを眺めながらラブラブでいるという事態も論理空間では可能である。ファナスティという人がてんとう虫に変異しててんとう虫の家を探しに駆け巡るという事態も論理空間では可能である。論理空間ではすべての論理空間的事態を無に帰すことも可能である。論理の存立の可能性は無限にあり、諸形式は無数にある。論理の存立の可能性が問われるとき、現実の事実命題との差異にも着目して考えていくことができる。ファナスティという人が笑った、という論理形式があるとき、事実命題としてはファナスティという人は存在しないから、笑ったという述語は誤りである。しかしファナスティという人が笑ったという事態は論理空間では可能である。論理空間とはあらゆる事態の可能性を追求する憩いの場所であろう。諸形式が無数にある中で、無数の命題も考えられる。事実は無限にあるが、事態も無限にある。論理空間では現実の非存立の事態が可能性を纏って存立される。それは夢を叶えたい少年の夢を受け入れるかのように、そしててんとう虫になれる夢を授けるように、受け入れられるのである。論理形式があれば論理空間を築けるか、という問いも重要性がある。論理形式というのは「AはBである」という形式を含む。「AはBをCしている」という命題も論理形式が確立されている。それは「Aは」という形式と「Bである」という形式を両立させているからであり、「Aは」「Bを」「Cしている」という諸形式を遵守しているからである。論理形式の中には変哲な文もあるかもしれないが、論理空間でも論理形式を写像することが可能である。現実を写し取る模型であった像も論理空間では輝きを魅せる。エンゼルのように映る像も論理空間では姿を見せることが可能である。猫の像を論理空間では姿を見ることが可能である。論理映像空間とでもいうべき場所であらゆる像がみられる可能性があり、あらゆる論理形式が光り輝き過去を洗ってくれる諸存立となっていく。過去に後悔があった出来事を残酷さと比較することで洗ってくれることが考えられる。ローティは残酷さを軽減することを推奨している。残酷さを受けなければ生を肯定しうる。諸形式の諸存立が論理空間の限界である。論理空間には限界がないという幻想があるが、論理空間には諸形式の限界ゆえに限界がみられる。無数の命題も論理空間に写像したさいに限界が生じる。諸形式が無数であっても論理空間に写像したさいに限界が生じる。論理空間ではファナスティという人をもう一つ増やして考えることもできる。ファナスティという人が二人いるが、どちらも同一人物という話である。ファナスティという人はファナスティという人Bと何が違うのであろうか。そこに論理空間の哲学的課題が発出するのである。当初ファナスティという人は記憶の量はファナスティという人Bと同じで、別行動をとるとしたら経験値に差異があることになる。このように論理空間では可能性の事態を探すことになる。


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