論考⑥ 像について
像についてウィトゲンシュタインは筆を休める。論理像と書くもののその論理像の具現化実態は迂回されている感がある。像というのは、イメージや心像を含む概念である。たとえば、クリスマスツリーという語を聞いて、頭の中であれこれクリスマスツリーの像を描こうとすることがあるが、それがイメージかつ像というものである。また、たとえば「時の流れに身を任せ」という語を聞いて、時間が自然に流れ、臨機応変するさまをイメージするとき、これも像と呼ぶ。完璧な像というのは描けなくても、その断片である像を描くだけで十分であることも考えられる。というのも、自然に時間の流れに任せているような像を描くだけでも、その語についての弁解は自身にとっては十分であることがありうるからである。論理像というものは、1+1=2という論理的な話題に関する像である。よく1+1=?の?は何だ、という発言がみられるが、そこに2を置いた像を論理像と呼ぶことができるであろう。ウィトゲンシュタインも論理像は1+1=2が論理像だと考えている節がある。彼も論理像の展開について詳しく視野を広げることができなかったことが懸念される。一体の兵士が他の兵士と肩を並べて行進していき、また他の兵士を仲間にしてパレードにするときに、一体ずつカウントして兵士たちに関する論理像を拵えることも可能であろう。その論理像とは、一体ずつ兵士をプラスしていくさまのイメージ、すなわち兵士的論理像であることが窺える。また、麻雀をやっているとき、場に東が三個出ているから、ひとつは他の場所にあるという論理像もあるであろう。四個のうち三個出ているから、誰かが一個持っているか、まだ伏せ牌の中に一個置かれている可能性を考慮することが、引き算をするという論理的像なのではないか。また、カレンダーを見て、今日は12月3日が水曜日であることを前提として、三日前は二日前が月曜日であるから、30日は月曜日の一日前、すなわち日曜日であると類推することが、論理的像なのではないか。カレンダーの論理的像というものは、カレンダー計算ができる方にお尋ねしたいところである。
心像というものは、心に描く像である。心に好きな人の顔を描く、これは心像を描くということと等しい。心像を描くさいに、相手の顔を見て、愛している、大丈夫、無事でありますようにと祈ることも可能である。心像を描くイメージをしてみることが、心像との接点になるきっかけになるであろう。
像を誤ってイメージすることを誤像を描くという。物事に対するぼんやりとした像、または、明確に描くけど間違えている誤像というものが考えられる。明確に描くけど、的確に描けていない、といった誤像観というものも懸念される。論理像を描いていると思ううちに1+3=2と明確に描くことがあるが、的確な像ではない。これは自覚の誤謬性とも接点がある。数学を舞台にしているという自覚があれど、その数学で踊りきれていない、というものである。数学を理解していることが論理像を描くということと密接な関係にあることは受け入れやすいところである。数学上の誤像を描くことが、学校のテストで重荷になることも考えられるところである。私たちは誤像ではなく、正像を描くことを望みとしたいところである。私たちは正しい像を描いて日夜修練に励みたいところである。正しい像を描くためには、イメージ屋さんになることが肝要である。何か話を聞いたらイメージしてみることを試みるのがこのイメージ屋の徴候である。イメージとは隅々まで想像することも考えられ、原子的粒子まで考慮することも考えられる。一点に花開け、と私は提唱しようとも考えている。一点に華を設けてイメージすることが想像の美学ではないか。像を判断像にまで昇華し、認識のさいに視界を広くして落ち着くことが華を開くことである。この落ち着きが重要であり、嫌なことを判断してあくせくするよりよいことを判断して落ち着くことが吟味されるべきである。像を把捉像にまで昇華し、理解を深めていくことも加味されたい。把捉できるほどの像を生み出すことが、あるいは像を勝手に視ることが理解を補担する。「名」というテニサーを読んで「名」のビジョンを視ることが可能であれば、「名」は像を喚起するものと言える。「名」は固有名詞や普通名詞が挙げられる。東京が好きという語があるとき、東京自体を好きであることが考えられる。しかし東京という言葉が好きということであれば、東京という場所が好きということを言い表しているわけではないと考えられる。東京という「名」が好きであって東京という「場所」が好きではないということがポイントである。東京が好きなら「東」や「京」という字も好きなのではないかと思い至る。言葉が好きというのは字が好きということも懸念されうる。東京という字が好きだけど場所も好きである場合も注意されたい。


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