論考⑤
沈黙することと言えば秘するが華であるときである。沈黙すべきことは沈黙すべきである、これはトートロジーだが有意味である。語ってはならないこととは悪愚痴や空談であることが懸念される。
悪愚痴を言わずば幸福の道なり
空談とは余計な絵空事である。「今日は三角形だ」という発言は余計なお話であることが懸念される。言わなくていいことを述べることが空談である。言わなくていいことを自分でトピカしていくことが肝心である。
新しいトピカのために「探究」を引いてみよう。
「我々のパラドックスは次のようなものだった。規則は行動の仕方をどのようにも決定できないだろう、というのもどのような行動の仕方も規則に一致させられるのだから。そして解答は次のようなものだった。もしすべてが規則に一致させられるなら、それに矛盾するようにもできる。したがってそこには一致も矛盾も存在しない。」(201節、p173)
この文章ではやや下手な詭弁となっていることが窺える。これは解釈の問題である。行動のあるべき行動規則というものがある。「床を雑巾で拭く」という行動をとると解釈したさいに、「Aという行動規則の(雑巾の)拭き方」もあれば、「Bという拭き方(行動)」も考えられる。「Bという拭き方」は行動規則ではないと分かっているときに、「Bという拭き方」をとると解釈することが考えられる。この「Bという拭き方」をとると解釈したさいに、行動規則に一致していないと解釈することが懸念される。行動規則と一致していない「Bという拭き方」をとると解釈したことは、固定解釈という性質を持つことがある。何度床を雑巾で拭こうと、行動規則という像に揺れ動きはないことが考えられる。というのも、床を雑巾で拭くという心像において行動規則のとおりに床を手入れすることは難しいとされるからであろう。ここでは二人称が問題である。床を手入れする体験者と拭き方の行動規則を弁えている主人とでは、やはり手入れや拭き方の知識の差があるはずである。このとき、「Bという拭き方」を解釈したのは主人であり、体験者にそれを伝えて、「Bという拭き方」を解釈する体験者もまたその一員である。自分は「Bという拭き方」をとると解釈した体験者は、自らそのとおりに行動を起こすのである。規則というものが行動を誘発することはありえないであろう。行動を行動規則に照らし合わせて、一致していないゆえにベストな行動ではないという説もあるであろう。ベストな行動が行動規則という行動なのではないか。あるべき行動はすべてベストな行動なのではないだろうか。「ベストな行動」をとることが実践理性と密接な関係があることも懸念される。カントは「実践理性」において、普遍的な立法の原理に基づくよう行為せよ、と言っている。この行為というものは規則的行為を準えているようにも窺える。しかし、規則的行為と位置付けられない、新たな立法の原理に基づくような行為という考え方もある。規則的行為や行動規則とは過去の礎があってこそのイデオロギーであることが窺える。このイデオロギー形態というのは過去の礎によるものであり、かつ変化していく可能性があるものである。規則に一致しているさまとは、どういうものであろうか。畑を規則どおりに手入れすることが挙げられる。これは規則に一致している純粋な一例である。畑に水を撒くこと、種を植えること、などは丁寧に行う、いや、ベストな行動をとれば規則と一致するはずである。ベストな計画を立てることも順々としている。ベストな計画を立て、ベストな行為を実践することがカントの言いたかったところである。ベストな計画の裏に自信というものも加味されたい。自信がある者はそれだけ大きな企てをするという。自信をもって環境も揃えて夢に邁進していきたいものである。せっかく生まれてきたのだから大きなことをしようではないか。大きなことをするために、日々精進していくことが肝要である。千里の道も一歩から、というように、一歩踏み出すことが始まりなのである。せっかく生まれてきたのであれば、両親に感謝することが人道というものであろう。両親に良心で接して励ましてあげることも、両親を楽させてあげることも考えていくべきであろう。両親だけではなく兄妹にも優しく接してあげる、思いやって励ましていくことも課題となる。また、従兄妹にも大事に接していくことも課題となる。親戚全員に奉仕することも、支えてあげることも考えられる。
沈黙しなければならない、とウィトゲンシュタインはいう。沈黙の裏に優しさがある。相手が自分で理解するべきときは、何も言わないでその相手に事を任せることが重要である。相手に事を判断させることが教えない優しさである。心変わりしたらどうなるかは、自分で考えるものであろう。地球があるか否かは、自分で考えていくことがきっと大事なのである。


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