論考③
ウィトゲンシュタインはここであらゆる事態が無限に多くの対象から構成されている、と言う。あらゆる事実は無限に多くの事態から成り、というのは、多くの対象の構成によって多くの事態が成り立ち、その多くの事態があらゆる事実──無限の事実──を成り立たせているというのである。
「……やはり諸対象と諸事態は存在するように違いないだろう。」という文脈から、対象の一個手前に「諸」という語を設けることが非常に豊かな表現を成り立たせていることが窺える。しかしながら、諸対象と諸事態の区別は示されていない。私見だが、諸対象のうちに事態が内包されているし、諸事態のうちに対象が内包されている。もっと詳しく言えば、諸対象のうちに諸事態が内包され、諸事態のうちに諸対象が内包されている。対象性と事態性はほぼ同義的であり、言い換えることが可能な「対象」と「事態」である。それでは対象を事態と言い換える文を考えていこう。「これは面白い対象だ」というとき、「これは面白い事態だ」と言い換えることもできるはずである。カントの「認識は対象に従う」というコペルニクス的転回を唱えるとき、「認識は事態に従う」という言い方はしない。これが対象を事態と言い換えることのできない文であることは自然に認めることができるであろう。
有意味な命題というのは、こうした疑問文による発展的な展開が加味されたときである。ただ単純な命題において、誰かがその命題に対して有意義な展開を加えた際に、その命題はしばしば有意味な命題と昇華するのである。ただし、単純な命題において、誰かが良くない反響を齎したさいには、微妙な命題となることは自然であろう。それでは命題を追求していこう。
「イマージュとは何か?」という命題があるとしよう。「細菌っぽくて微妙だ」と誰かが言ったとしよう。この物言いによって、この命題は微妙な命題となる。「今最高の食事がすぐに無条件でできるなら、何を食べたいですか?」という命題があるとしよう。「美味しいお肉をたくさん食べたい」「家族で旅館に泊まって家族で団欒して世界一の料理を食べたい」と面白い回答が返ってくるのかもしれない。その際には、この命題は有意味な命題であったと烙印を押されるであろう。
命題:人間は自然法則によって支配されている
この命題では、どんな自然法則が発生しているのか曖昧である。この命題を微妙な命題であると捉えることもあれば、曖昧性のある命題と呼ぶこともできるであろう。人間は自然法則によって支配されている、という決定論者は、いずれその自然法則が発見されるであろうと思っていることが考えられる。ウィトゲンシュタインはこういう曖昧な命題を有意味ではない命題という扱いをすることが懸念される。まずどんな自然法則なのか峻別することができない以上、仮に言い換えて「自然法則に支配される人間」がどんな影響を受けるかを問うてもその時点では答えが出ないのである。決定論者は何らかの法則があると考える傾向にある。何らかの自然法則と言えば万有引力の法則が挙げられる。万有引力の法則によって支配されている!と決定論者は声を上げる可能性がある。しかし万有引力の法則に支配されているというのは違和感がある。万有引力の法則の影響を受けながら人間は存在しているという方が適切な言い方である。支配されている、という言い方は豪語である可能性がある。決定論者は法則をあれこれ探し求めることが考えられるが、結局新たな法則は導き出せない方ばかり存在しているのである。決定論者は態度を改めて自由意志論者に移行することが懸念される。近年の発表では、自由意志があると認められたという。スピノザは決定論者であったが、彼に自由意志があると証明されたそうですよ、と告げると、─自由意志ってあるんだ─と話してくれた。自由意志は存在するという一説は、自由に行為することを考えさせてくれる。スピノザは、自由とは能動的に行為すること、本性に沿って生きることが自由であると述べた。自然法則によって自由意志を生み出す機会がないことを懸念したが、決定論者かつ非決定論者であると思っていた。自由意志はあるけど自由意志はないと思っていた。カントは理性的に行為することが自由だと思っていた。また、理性によって公的に語りうることが啓蒙であり自由であると考えていた。語りうるといってもその場所、語りうる内容、語り声、語り手に差異が見られることがある。理性によって語りうることはどのようなことだろうか。理性によって冷静に語りうることはすべてそれでよい発言ではないだろうか。理性によって生きることは往々にしてそれでよい可能性がある。理性によって語りうることはどれも有意味な命題なのではないだろうか。有意味な命題という中で疑問文と断言文が見られるが、彼はは疑問文も重視し、哲学的な問いを後期では生涯忘れないように


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