論考④
或る文に矛盾する文は何れもその文を否定する。
とある文に矛盾する文、例えば、「アイスは100円だ」という文に矛盾する文である「アイスは100円ではない」という否定文が考えられる。矛盾する文があるとき、それはとある文を否定する文であるということが窺える。
5.141 p から q が帰結し q から p が帰結するならば、それらは同一の文だ。
同一の文というのは見分けやすい傾向にあるが、同一の文は互いに同じ意味を成す。互いが同一の文と見積もってよい内容文であることに違いはない。
5.6 私の言語の限界とは私の世界の限界のことだ。
5.61 論理は世界を充たす。世界の限界は論理の限界でもある。
言語の限界とは世界の限界のことであるとは、わかりにくそうで、少し深めればわかりやすい。全世界における言語の使い道の在り方は、諸世界の限界に制限されうる。諸世界のうちにおけるひとつの言語、すなわち英語を以って記述することはその諸世界の限界に制限されうる。日本語を話してもその諸世界の限界に制限されうる。様々な世界を渡り歩いたからといって、世界の制限を受けることは不可避なのである。「私の言語の限界」というとき、私の言語活動の限界が私の世界の制限を受ける。他者の言語的活動の顛末を知りうることができるならば、減限界になる可能性がある。他者の世界においての限界を加味し自分自身の世界の限界を超えることができたなら、ウィトゲンシュタインは笑って「限界突破かい?さすがだね」と褒めてくれるであろう。限界突破とはとある限界を超えることを指している。今まで他者の世界を俯瞰し自分自身の世界に取り入れることは不可能であったはずである。誰も他者の世界を絶え間見ることは不可能であったはずである。分からない何かというものは往々にして存在している。分からない事態があるということは分からない対象があるということである。分からない何かを分かる方は奇跡的な出来事を行使したときに幸運である。天才は幸運である。カントによれば天才の感性は天才にしか分からない、という出来事がある。ヘーゲルは天才は天才にしか知れないと言っている。
文には基本的に論理が反映されている。基本的文と彼は呼んでいるこの文は秩序ある言語的背景を担っている。誰も論理の外に出ることはできない。論理の外に出ようとするならば、オリジナルの論理が考慮されている場合がある。オリジナルの論理と言えば、「好き彼」という文においてあり得ることがある。「好き彼」という言葉遣いは、好きな彼が……といったニュアンスを齎している。また、「丈夫大君」という言葉遣いは、「君は大丈夫よりもっと丈夫」というニュアンスがある。また、「マトマ」という言葉遣いは、トマトの上位概念であると危惧されがちである。こうした上位概念の頂点に「存在」が挙げられることは補足されたい。存在について誰も明晰に語りうることはできない。「マトマ」という存在についてオリジナルの論理を語るさいに、「マトマ」の一字目と三字目を「ト」、二字目の「ト」を「マ」に置き換えると、トマトという感を出すことになる。このトマトのようにも解釈できる「マトマ」という言葉遣いは、何だかトマトの上位概念のように感じる節がある。この「マトマ」という言葉遣いは、オリジナルな論理的背景をその外にも齎すのである。それがエクリチュールであれば、文字の差延を齎すことが考えられる。「マトマ」という書き言葉の差延によって「トマト」という文字列を想像させられる、そんなときに「マトマ」という言葉の差延が齎される。
語りえないことについては沈黙せざるをえない。
最終章はこの言葉で締め括られる。語りえないことについては語ろうとしても語りえない。能動的に語ろうとするさいの話題、例えば、「差延」について能動的に語ろうとするさいに、この差延とは語でも概念でもないと言われている、とは語れる。しかし、それは二番煎じであるから、新しいトピカではない。その先の「差延」について語ろうとするさいに、言葉に窮すると考えることができる。差延とは語でもないのであれば、説明としては抽象的にならざるをえない。差延という語(シニフィアン)の内容(シニフィエ)が語では語れないというニュアンスが差延とは語ではないという言説のニュアンスであろう。差延のシニフィエとして常時的なズレという内容があることが第一であり、差延はトーマ(差延)とも言い換えられる。常時的なズレだけではなくベストタイミングのズレというものが幸運というものである。ベストタイミングでズレが生じることについては奇跡的な運命というものも懸念されうる。奇跡的な展開を起こすべく、日々神様と祈ることが哲学的実践である。神様を信じて神様と向き合っていくことがよりよい人生を築いていくことの要因になると懸念される。


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