「母親を被曝で亡くした」「子どもを産めない」――。
東日本大震災から10年後の福島を舞台にした映画「こんな事があった」に、科学的根拠に基づかない情報や描写が複数盛り込まれていた問題。
映画はオランダの国際映画祭でも上映されており、東京電力福島第一原発事故から15年が経った今も、「誤った福島像」が国内外に発信されてしまう現実が浮き彫りになった。
福島を題材にした作品のこうした問題は、これが初めてではない。2014年、漫画「美味しんぼ」にいわゆる“鼻血描写”が掲載され、地元から抗議の声があがるなど社会問題になった経緯もある。
なぜこの問題は繰り返されるのか。表現の自由と福島はどう向き合うべきなのか。
福島を研究する社会学者で、東京大学大学院情報学環の開沼博准教授にインタビューした。
人権問題を引き起こす危険性
――映画は震災から10年後の福島が舞台です。科学的根拠のない情報が盛り込まれていましたが、どこまで「表現の自由」として許されるのでしょうか。
表現の自由は重要なものである一方で、誤・偽情報が現実社会に与える影響も無視できません。
なぜなら、そのような情報が「影響工作」「認知戦」に利用されているからです。
福島第一原発の処理水の海洋放出を巡っては、中国当局が「核汚染水」という言葉を用いて不安を煽ってきました。北朝鮮が反日行為の扇動に利用していたとする報道もあります。
さらに、陰謀論を信じる集団による米連邦議会議事堂襲撃事件や、国内で起きた新型コロナウイルスワクチン反対派による建造物侵入事件など、根拠のない情報が引き金となった事案は後を絶ちません。
こうした状況を踏まえたとき、“オールドメディア”の一つとも言える「映画」が、根拠のない情報発信に加担してもよいのでしょうか。
それはメディア不信を助長するだけでなく、社会的に誤った認識を広げ、差別や偏見、人権問題を引き起こす危険性をはらんでいます。
とりわけ福島を巡っては、表現の自由を理由に、人権侵害につながりかねない情報発信が正当化されてきた側面があります。
しかし、そのような情報発信を行う人たちが、少数民族や性的マイノリティ、宗教に対して同様の表現を行っている場面を目にすることはありません。
なぜ福島に対してだけは、人権侵害につながりかねない情報発信が許されるのでしょうか。
結婚や出産、就職など人生の様々な場面で、福島の人々は差別・偏見を受けてきました。再びこのようなことが起きたら、責任を取ることができるのでしょうか。
もし、「福島には石を投げても投げ返してこない」という認識のもと、こうした情報発信が行われているのだとすれば、極めて卑怯な行為だと言わざるを得ません。
――「誤った福島像」を広める人たちに、社会的責任は生じないのでしょうか。
福島第一原発の処理水の海洋放出の際、風評被害対策として800億円規模の基金が設けられるなど、膨大な税金が投入されてきました。
福島の人々が受け続ける精神的苦痛・社会的影響には、お金に換算できないものもあるかと思いますが、いずれにしても差別を煽ることへの責任は取るべきです。
社会的責任を正面から引き受ける意識があれば、そもそも根拠に乏しい情報発信は今よりもずっと抑制されるはずです。
風評「加害側」の責任が問われてこなかった
――メディアは本来は差別に抗うべきですが、日経新聞は映画を無批判に取り上げていました。
原発や政権批判を扱う作品については、内容の妥当性や事実関係の精査よりも「大衆に“ウケる”」という発想があるのではないでしょうか。
何かを深く考察するのではなく、思考停止して、答えありきで物語をでっちあげていく。
影響力の大きい新聞が、そのようなことに加担していいはずがありません。周辺の協力者も含めて、責任を取るべき状態にあります。
――映画は海外でも上映されており、世界に“誤った福島像”が広がった懸念もあります。
現状、海外における福島差別や誤情報の対応は、決して十分とは言えません。
「海外での影響は限定的だ」と考える人もいるかもしれませんが、処理水の海洋放出では、中国やロシア、北朝鮮による影響工作に利用されました。
その経験を踏まえれば、今回も映画という形を通じて、福島への嘲笑や揶揄、誤ったイメージが海外で広がってしまうことは十分考えられます。
――2014年、漫画「美味しんぼ」の“鼻血描写”に批判が相次ぎ、福島の地元自治体も抗議しました。それから10年以上経った今も、同様の問題を抱える映画が生まれ、さらに国内外で上映されています。
この15年間、風評の「加害側」の責任が問われない状態が続いてきました。
福島をよく知っている人からすれば、「また同じ問題が出てきた」と感じるでしょう。
「社会の輪」の責任もあります。本来であれば、議論を重ね、正確な情報を共有し、誤りを正していく文化が育っていなければならなかったはずです。
しかし、現実にはそうした取り組みが十分に根付いてきたとは言えません。
近年の風評加害研究が示している通り、風評加害を批判しようとする側が、嫌がらせによって沈黙させられたり、議論そのものを歪められたりするケースも少なくありません。
その結果、風評加害はなかったことにされ、責任の所在も曖昧なまま放置されてきました。
このことを反省しなければ、同じことが何度も繰り返されてしまいます。
「これは事実と違う」と立ち止まる
――映画には「子どもを産めない」といった描写もありました。原発事故の放射線被曝そのものによる健康被害はないことは、これまでの科学的知見からも明らかです。
これらの事実は、公的資料や過去の新聞記事を調べればすぐに確認できるものです。
通常の社会問題であれば、最低限の事実確認をした上で語るのが当たり前ではないでしょうか。
ところが、福島の問題については、何も調べないまま、いわば“丸腰”で語っても「いいね」と言ってくれる人がいる。そうした歪んだ構造があります。
この状態を放置したままでは、地道に正確な情報を発信し、誤解や差別と向き合ってきた福島の人々の努力は報われません。
別の角度から見れば、科学的事実を積み重ね、差別や偏見と闘ってきた人々の存在を、こうした映画は軽んじ、嘲笑しているようにも映ります。
――福島を題材にした創作活動は、事実、科学、当事者の声、表現の自由などとどう向き合えばいいのでしょうか。
古い認識や凝り固まったイデオロギー、政治・経済的な利害関係の中で、物事の一面を信じ、「世界を理解したつもり」になることは、とても楽です。
重要なのは、こういう情報発信に触れたとき、「私が知らなかった世界の真実がここにある」と思わないことです。
むしろ、「これは事実と違う。もっと私は勉強したんだ」と立ち止まり、正確な情報を確認し、それを周囲に伝えていく姿勢こそが、原発事故から15年という今の社会において大事になってきます。
私が関わった高校生を対象にした研究では、回答者の7割が「福島第一原発でつくられた電気は全て首都圏などに送られていた」という事実を認識していないことがわかりました。
福島第一原発の経営母体についても、「東京電力」と正答した人は約半数にとどまり、ほかは「東北電力」「福島電力」といった誤った選択肢を選んでいます。
ただ、この回答者には悪意はありません。
こうした基礎的な認識の不足がある中で、福島に対する差別が今なお続いているという現実を、伝え続けていく必要があります。
(取材・執筆:相本啓太)