「生きていれば20歳…どんな大人になっていたかな」次男を亡くした小学教諭・斎藤誠さん 東日本大震災15年
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「生きていれば20歳だね。どんな大人になっていたのかな。たまにはパパの夢の中に出てきてくれてもいいんだよ」。幼稚園児の次男、翔太君=当時(5)=を津波で失った小学校教諭の斎藤誠さん(55)は今でも教え子のランドセル姿を、亡き息子の後ろ姿と重ね合わせてしまう。 【写真】翔太君が被災当日に着ていたトレーナーを手にする父の斎藤誠さん ■自宅を襲った8メートルの津波 平成23年3月11日。まだベッドで眠りにつく翔太君と言葉を交わすことなく出勤した。この日が最後になるとは、思ってもいなかった。午後2時46分。当時勤務していた自宅近くの福島県南相馬市の小学校も激しい揺れに襲われた。児童を避難させ、翔太君がいる自宅に戻ろうとしたが、浸水で近づけなかった。後に自宅を襲った津波が約8メートルもの高さだと知った。 「翔太は逃げられたのかな」「大丈夫だよ、きっと大丈夫」。避難先となった高校で、合流できた当時小学4年の長男の拓人さんを励まし続け夜が明けるのを待った。だが、東京電力福島第1原発事故で捜索はままならなかった。 翔太君が見つかったのは約1カ月後の4月9日だった。眠るように目をつぶっていた。妻の真紀さん(49)がペンで《しょうた》と名前を記していたトレーナーが目印になった。真紀さんは泥だらけになった衣服を何度も水洗いした。表情は消えていた。 活発な性格で、いつも傷が絶えず心配事も多かったが、かわいくてたまらなかった。仕事から帰ってくると「パパおかえり!」と無邪気な笑顔で駆け寄ってくる。仕事の疲れが一瞬で飛んだ。生きがいだった。 ■こみあげた自責の念 あれから15年がたち南相馬から約70キロ離れた宮城県名取市で暮らしている。福島県浪江町にある勤務先までの片道80キロを1時間以上かけて車で出勤しているのは「翔太を失った街で生活する方が苦しかった」からだ。 自宅には翔太君が背負うはずだった青いランドセルが大切に保管されている。ただ、背負った写真は一枚もない。《成長する姿を見たかった》《一緒に酒を飲みたかった》《将来について語りあいたかった》。「教師の立場が許さずとも、すぐに自宅までさがしに行けば、助けられたかもしれない。親として失格だった」。こみ上げてくるのは自責の念ばかりだ。 子供が好きで、天職だと思っていた教職の道だが、教え子と翔太君が重なり、何度も心が苦しくなった。「教師をやめようかな」。幾度となく頭をよぎった。だが、踏みとどまったのは、教え子からの言葉だった。当時担任として避難させた教え子から教師になったと報告を受けた。「先生のような教師を目指して勉強しました」。照れくさくて、うれしくて、心が救われた。
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