バイト帰りのいつもの交差点。辺りはすっかり暗くなっており、先日まではねっとりとした熱を孕んだ風が吹いていたのに、今では肌を刺すような冷え冷えとした風が街に吹き抜けていた。寒さに身を縮こませ、早く信号が青にならないかと道路を挟んだ向こう側の信号機を眺めていると、ふと、ご年配の女性の姿が目に留まる。木製の杖を突き、藤色の艶やかな着物を纏い、細やかな模様の入ったショールを肩にかけている。手に大事そうに抱えているのは大きな風呂敷に包まれた荷物だろうか? その黒の色彩は闇夜よりも暗く、深い色だった。
ご老人がそんな重そうな荷物を運ぶのは大変だろう。ましてや今は足元も暗く、小さな段差で転んでしまうかもしれない。せめて駅前か明るい所まで運ぶのを手伝ってあげられないだろうか。ここで擦れ違うのも何かの縁だろう。
不自然になりすぎないようにご老人を観察しながら信号が変わるのを今か今かと待つ。歩行者の信号が青になり、すみません、と声をかけようとしたところで横から強い力で腕を掴まれ、そのままズルズルと問答無用で引きづられてしまう。
いきなりなんだ!
唐突に人を引きづろうとする乱暴な輩の顔を拝むべく横を見上げると、まず目に入ったのは星も見えない夜にぽっかりと浮かび上がる白い髪。それは自分にとってとても見覚えのある頭で、なんでコイツが此処に居るんだと疑問に思った。
「貴様があまりにも帰ってくるのが遅いから、皆心配していた。女性をこんな夜に出歩かせるわけにはいかないからな、私が来たという訳だ」
アーチャーは心底嫌そうに顔を歪ませ、迎えに来たのは不本意だと言う。そこまで嫌なら、なんでこいつは俺の迎えに来たんだ。
「さっさと帰るぞ」
「あっ、おい、待てって! さっき重そうな荷物を持ってた婆さんが……」
「何処に居ると言うんだ」
「はぁ? だから……あれ?」
俺達の後ろに居ただろう、と振り返るが、老人の後ろ姿どころか影も形も見えない。足がそんなに早いとも思えないし、角でも曲がったのだろうか。
「さっき俺達と擦れ違っただろ?」
「知らんな。寝惚けてたんじゃないのか。まったく……立ったまま寝れるなんて恐れ入る」
「おっまえなぁ……!」
いちいち煽るような物言いにカチンときたが、アーチャーは本気で帰りたいらしく足早に歩を進めた。腕を掴まれている俺も必然的に早歩きになる。何処か焦りを含むようなアーチャーの雰囲気に、俺までそわそわと心細くなる。
互いに無言で歩き、このまま家に直帰だろうなと思っていたのだが……。
何故かアーチャーは、道中で見かけた困った人に声をかけて片っ端から手助けをしていく。小銭をぶちまけた女子高生やボールが溝にハマって取れなくなってしまった少年。散歩中に飼い犬が逃げてしまって泣いていた少女などなど。
早く帰りたい、とはなんだったのか。それでもアーチャーの人助けに付き合ってしまう自分も大概だが……。
見慣れた家の塀が見れる頃には、時計の短い針は九時を過ぎていた。
「ほんと、なんなんだ、お前……」
「なにがだ」
婆さんのことは気にもかけなかったのに。
内心が顔に出ていたのだろう。自分が思わず立ち止まってしまったせいで、横を歩いていたアーチャーと数歩距離が出来てしまった。
アーチャーはちらと此方を振り返るが、すぐに前を向いてしまう。
「お前は、あの荷物がなにに見えた」
一瞬なんのことを言っているのかわからなかったが、あの婆さんが持っていた荷物のことだと思い当たる。
「なにって、そんな……暗がりでよく見えなかったし……俺が知るかよ」
「暗がりでよく見えなかった、か」
アーチャーは訴えるように復唱した。
そうだ、月も無い、星も見えない夜。それで、あれ? なんで婆さんのショールの模様までわかったのに、手に持っていた荷物は゛風呂敷に包まれた荷物だろうか?゛なんて、なぜ不明確なのだろうか。
「、……」
喉が急速に水分を失い、情けない声が出た。我が家の門までの数メートルがとてつもなく遠く感じる。
あの婆さんが持っていた荷物。あれは風呂敷で包んだ荷物なんかではなく、そう、黒い、黒い、あれは──……。
ひたり、と後ろから何かが這うような水音に、はく、と声にならない悲鳴が溢れる。
「なにをしている。さっさと帰るぞ」
出会ったときと同じような台詞をアーチャーは繰り返し、俺の腕をむんずと掴んで足をもつれさせる俺のことなんかお構いなしに歩き出した。
あれだけ遠く距離を感じたのに、あっという間に門を潜ることができた。細く長く肺にたまった息を吐き出していると、アーチャーは
「凛もセイバーも居間でお前を待っている。さっさと行け」
と俺の背を押した。
凛。セイバー。知っている名前にどうしようもなく安心してしまう。そういえば無意識か意識的にかどうかはわからないが、俺もアーチャーも出会ってから誰の名前も言うことはなかった。
それがなにを意味するのか。アーチャーに聞いても知らん存ぜぬで最後まで通されるだろう。
玄関の戸を開け、後ろを振り返る。
「お前は来ないのか」
数メートル離れた場所にぽつりと立つアーチャーはゆるりと頭を振った。
「私には、やらねばならないことがあるのでね」
だから無理なのだと。アーチャーは言った。
エーテル体となって空気に溶けたようにみえるアーチャーの表情は、俺からは見ることができなかった。
見てもおもしろいものではないだろう。俺は玄関の戸を潜り、あたたかな光溢れる我が家へと帰ってこれたのだった。
了
その境界は、死者か生者か。