ソフト・ミソジニストの批判的分析
女が楽しんでると、顔をしかめる男がいるという。なに、それ、と、最初は思った。嫉妬なのか何なのか、わけがわからない。そんな男、ごくごく例外的なんじゃないか、と思った。
だが、どうやらそうでもないらしい。複数の女から、同じような話を聞いた。
この記事では、その話を綜合して、そういう男の側の理屈を組み立ててみよう。
そのうえで、その理屈のどこに傲慢さ、権力性が潜んでいるのかを考えてみたい。
そんなわけで、次の「ソフト・ミソジニスト曰く」の章は、そういう男の一人称目線で、独白として書いていく。
おれは普段、「おれ」という一人称を使っているが、これはおれの意見ではありませんよ!勘違いしないでくださいね!という思いを込めて「俺」という一人称を使う。
ちょっと、長くなる。途中で気分が悪くなる人もいるかもしれない。腹が立ってきて読み進めるのが苦痛になってきた人は、次の章「完全否定」へと飛んでください(笑)
ソフト・ミソジニスト曰く
俺は別に、女が楽しむこと自体を否定しているわけじゃない。そこをまず誤解しないでほしい。楽しみたいなら楽しめばいい。好きなものに夢中になるのもいいし、笑うのも、騒ぐのも、ある程度は自由だと思う。
ただ、自由っていうのは、何をしてもいいって意味じゃないだろう。社会で生きる以上、場にふさわしい振る舞いってものがある。TPOっていう、ごく当たり前の話だよ。俺が言っているのは、そこだけなんだよ。
なのに、こっちが少しでも「それは場所を選んだほうがいいんじゃないか」とか、「今そのテンションは違うだろう」とか言うと、すぐに「女が楽しむのを嫌ってる」「ミソジニーだ」と来る。いや、そうじゃないだろう。
そういう短絡がまさに問題なんだ。批判されると、自分の行動を省みるんじゃなくて、批判者の側に差別のレッテルを貼って済ませようとする。そうやって、自分は被害者だという位置に逃げ込む。でも、実際には、単に常識の話をしてるだけなんだよ。
俺が気になるのは、楽しんでいるかどうかじゃない。楽しみ方なんだ。
もっと言えば、周囲にどう見えているか、自分の振る舞いが場にどう作用しているか、その感覚があるかどうかだ。
こっちは別に、内心で何を思っていようと構わない。問題は、それをそのまま外にぶちまけて、周囲にまで付き合わせるってことだ。
大人なら、自分の気分をそのまま垂れ流さないだろう。ちょっと浮かれていても、今は抑えるとか、ここでは一歩引くとか、そういう調整をする。それが社会性ってものじゃないのか。
でも、正直言って、女はそのへんが甘いことが多いと思ってる。もちろん全員じゃない。そんな乱暴なことを言うつもりはない。ただ、傾向として、感情が先に出やすいし、「楽しい」「嬉しい」「かわいい」「推せる」みたいな自分の高まりを、そのまま正当なものとして前に出しがちだろう。
本人は自然体のつもりなんだろうけど、こっちから見ると、場に対する配慮より、自分の気分のほうが優先されているように見えることがある。
で、それを指摘すると、なぜか指摘した側が冷たい、抑圧的だとされる。でも逆じゃないのか。周囲に合わせる努力をしないほうが、よほど独善的だろう。
俺はむしろ、女に恥をかかせたくないと思ってるんだよ。そういう言い方をすると、また上から目線だとか言われるんだろうけど、現実問題として、社会ってそんなに甘くないだろう。
男なら多少雑でも「まあそういうやつか」で済むことが、女だともっと厳しく見られる。それは社会の現実としてある。
だったら、変に目立って損する前に、少し抑えたほうがいい、少し空気を読んだほうがいい、と言うのは、そんなにおかしいことか?
理想論で「みんな自由でいい」と言うのは簡単だけど、実際に評価されて傷つくのは本人なんだよ。だから俺は、無責任に「好きにしなよ」とは言えない。
それに、楽しみって、本来は私的なものであるべきだと思ってる。もちろん共有してもいい。けど、どこまで見せるか、どれだけ表に出すかは考えるべきだろう。何でもかんでも「私はこれが好き」「私は今こんなに楽しい」「見て、聞いて、わかって」と前面化させるのは、幼いんだよ。
自分の快楽を世界の中心に置いてしまっている感じがある。そういう幼さを、最近は肯定しすぎなんじゃないかと思う。自己表現だとか、自己肯定だとか、耳ざわりのいい言葉で包んでいるけど、実際には単に抑制が効いてないだけのこともがほとんどなんじゃないか。
たぶん、俺が嫌なのは、節度のなさなんだと思う。いや、正確には、節度がないのに、それを無垢とか率直さとして免責しようとする態度かな。
男にももちろんそういうのはある。でも、女の場合、それが妙に守られる感じがあるんだよ。「楽しそうなんだからいいじゃん」「好きなんだからいいじゃん」……でも、好きなら何をしてもいいわけじゃないだろう。好きだからこそ、抑えるべき場面だってある。そこが抜け落ちたまま、「私の楽しみを否定するな」という話になると、さすがに違うと言いたくなる。
それに、見ていて思うんだよ。本人はただ楽しんでるだけのつもりでも、周囲に対してある種の圧をかけてることがある。
空間の空気を自分のテンションで塗り替えたり、反応を暗に要求したり、共感を強いたり。そういうのって、かなり暴力的だろう。
なのに、それが「明るさ」とか「愛嬌」として処理されるとしたら、不公平じゃないか。こっちがそれに違和感を持つのは当然だし、その違和感を口にする権利だってあるはずだ。なのに、なぜか女の快楽に対して距離を取る側だけが、心が狭いとか差別的だとか言われる。そこにはかなり理不尽なものを感じる。
俺は別に、女におとなしくしていろと言いたいわけじゃない。そんな単純な話じゃない。
ただ、自分を出すなら、場に合わせて出せと言ってるだけだ。場に合わせられない自己表現なんて、ただの自己都合だろう。
そして現実として、女はそこを甘く見がちだと思う。周囲が多少合わせてくれることに慣れてるというか、自分の快・不快を出しても受け止めてもらえる前提で動いている甘えがある。
だから、誰かがブレーキをかけなきゃいけない場面が出てくる。俺はその役をやってるだけなんだよ。嫌われ役かもしれないけど、必要なことだと思ってる。
むしろ、何も言わないほうが無責任だろう。おかしいものを見ても「まあいいか」で流して、その人がどんどんTPOを失っていくのを放置するほうが残酷だ。
叱るっていうのは、相手をまだ社会の中に置こうとしてるからできるんだよ。本当にどうでもよければ、何も言わない。見切るだけだ。俺はまだ、言えばわかると思ってるから言う。そこにはある種の誠実さだってあるはずなんだ。
それを支配だとか抑圧だとか言われるのは心外だ。こっちは自分の好みで言ってるんじゃない。秩序とか、礼儀とか、節度とか、そういう社会生活の基礎を言ってるだけなんだ。
もしそれを全部「女が自由に楽しむことへの敵意」だと解釈するなら、もう議論にならない。自由には自己規律が伴うし、自己表現には自己抑制が伴う。そこを免除された自由なんて、ただのわがままだろう。俺は、その当たり前の線を引いてるだけだ。
だから、何度でも言うけど、俺は女が楽しむことそのものを否定してるわけじゃない。ただ、楽しみ方には品位が要るし、場に応じた加減も要る。そして女は、その加減をしばしば見失う。だから指摘する。叱る。止めることもある。
それは女だから抑えつけたいんじゃなくて、むしろ社会の中でちゃんと見られるようにするためだ。そこを理解しないで、何でも差別に回収するのは、ずいぶん幼い態度だと思うね。
はい。ここまで、我慢して読んでいただけましたか?不快な思いをさせてすいません。この理路のどこかおかしいのか、おかしいというか、どんなふうな論理の詐術、つまりすり替えがはたらいているか、以下は、その分析になります。
完全批判
1. 「俺は別に、女が楽しむこと自体を否定しているわけじゃない」
この一文は、語り全体の出発点であると同時に、もっとも重要な防御線でもある。
ここで彼はまず、自分が「女の快楽そのものを嫌悪している人間」ではない、と先回りして宣言する。つまり、自分のこれからの発言が、女性嫌悪としてではなく、もっと穏当で常識的な意見として受け取られるよう、冒頭で足場を作っているわけだ。
この手の語りの狡猾さは、露骨な禁止の言葉を使わないところにある。「楽しむな」とは言わない。
その代わりに「楽しみ方には条件がある」「見せ方には節度がいる」「公共では控えるべきだ」という条件を次々に付けていく。表面上は女の快楽を否定していないようでいて、じっさいにはその成立条件を厳しく削っていくのだ。
人は、ただ心の中だけで楽しむわけではない。笑う、夢中になる、話す、共有する、姿勢や表情に出る、優先順位を置く。そうした具体的な身ぶりや熱量を通じて楽しみは生きられる。そこに細かく制限をかけていきつつ、「楽しんでよい」と宣う。は?である。
2. 「自由っていうのは、何をしてもいいって意味じゃない」「TPOっていう、ごく当たり前の話だ」
ここで彼は、一気に自分の立場を一般原理の側へ移している。
自由には限界がある。社会にはTPOがある。節度は必要だ。こうした言い方自体は、それだけ見ればもっともである。誰も、あらゆる場面で一切の配慮もなく振る舞ってよい、とは通常考えない。だからこそ、この種の言説は説得力を帯びる。偏見を言っているのではなく、ただ当たり前の常識を述べているだけだ、という顔ができるからだ。
しかし問題は、原理の正しさそのものにはない。問題は、その原理が誰に対して、どのように、どの程度の強さで適用されているのかということなのである。
本当にTPOの話であるなら、同種の振る舞いに対しては、性別にかかわらず同程度の評価がなされるはずだ。ところがこの語りでは、TPOという言葉は普遍的な基準として提出されているにもかかわらず、じっさいに問題化されるのは主として女性の振る舞いだ。ここにずれがある。
本来問われていたのは、「その批判は性別に偏っていないか」「女性の快楽だけを特別に問題化していないか」という点だったはずだ。ところが「TPOは大事だろう」という話に持っていかれると、あたかも相手が常識一般を否定しているかのような構図になる。
これはかなり巧妙な論点移動だ。
3. 「批判されると、自分の行動を省みるんじゃなくて、批判者の側に差別のレッテルを貼って済ませようとする」
この一文では、差別批判の回路そのものが先回りして無効化されている。彼はここで、「自分が差別的である可能性」について検討する前に、そうした指摘をする側の態度を問題化してしまう。つまり、「それはミソジニーではないか」という問いそのものを、「レッテル貼り」「被害者ぶり」「議論からの逃避」として処理しているわけだ。
この操作が厄介なのは、内容の検討に入る前に、批判の形式を貶めてしまうところにある。
差別の指摘がなされたとき、本来なら問うべきなのは、その指摘が妥当かどうかであるはずだ。
なぜ性別一般に広げて語るのか。男性の類似行為には同じ調子で反応しているのか。そこに繰り返しのパターンがあるのか。そうした点を見なければならない。
ところが彼は、そのプロセスを踏まない。代わりに、「差別という言葉を使う人間は短絡的だ」と位置づけてしまう。これによって、自分の発話が持つ構造的な偏りは、最初から審査対象から外されることになる。
ここで起きているのは、単なる反論ではない。差別批判を、差別の話として受け取らない仕組みを作っているのである。
しかもこの仕組みは、語り手の自己像とも深く結びついている。彼は自分を「感情的なレッテル貼りに屈せず、あえて常識を言う側」の人間として描いている。その結果、彼の立場はますます道徳的で理性的なものに見え、逆に批判者の側が幼く、感情的で、不誠実なものとして処理されていく。
ここでもまた、権力関係はきれいに隠されている。
4. 「俺が気になるのは、楽しんでいるかどうかじゃない。楽しみ方なんだ」
この語りのもっとも核心的な部分だ。
表面上、この言い方はとても穏当であるように感じられる。快楽そのものを禁じているのではなく、ただその表し方、場との関係、周囲への影響を問題にしているだけだ、と聞こえる。しかしじっさいには、「楽しみ方」の統制は、しばしば「楽しみ」の統制そのものよりも強く作用する。
なぜなら、快楽は常に形式を通じて現れるからだ。
人が何かを楽しんでいるとき、その楽しみは、声の調子、身体の向き、話題の持続、熱量の配分、共有の欲求、視線の集まり方など、さまざまな形で現れる。その形式のほうを「問題だ」といちいち指摘し続ければ、内容そのものは言葉の上では許されていても、じっさいには禁止されているのと同じことになる。
たとえば「好きでいるのは勝手だが、そんなに見せるな」「楽しんでいてもいいが、場を占有するな」「熱中してもいいが、他人に伝染させるな」と言われ続ければ、その快楽は自然に縮小し、内面化し、自己検閲されるようになる。つまりここでは、主体の感情そのものより、感情が社会的に存在する仕方が規制されている。
しかもこの規制は、露骨な禁止よりも厄介だ。禁止なら外からの抑圧として見えやすい。しかし「表現の加減の問題だ」と言われると、本人も「自分がやりすぎたのかもしれない」と思わされやすい。
このかたちの統制は、自己規律のかたちをとって内面化される。
この一文は、単なるマナー論ではない。主体がどう存在してよいか、その輪郭そのものを制御・支配する発言なのである。
5. 「女はそのへんが甘いことが多い」「もちろん全員じゃない。そんな乱暴なことを言うつもりはない。ただ、傾向として…」
ここで彼は、いよいよ性別本質論に足を踏み入れる。しかも、その踏み込み方は非常に典型的だ。
まず「全員じゃない」「乱暴なことは言うつもりはない」と、一度身を引いてみせる。これによって、自分は無思慮な差別主義者ではなく、あくまで慎重でバランス感覚のある人間なのだという印象を与えようとする。だが、その直後に「傾向として」と続けることで、結局は性別カテゴリ全体に欠陥傾向を割り当てる。
この「傾向として」という語は、差別的な一般化を非常に言いやすくする便利な言い回しだ。
全称命題ではないから乱暴ではないように見える。統計も出さずに済む。自分の印象や経験則を、半ば客観的な観察結果のように語ることができる。だが、やっていることの本質は変わらない。個別の行為の問題を、属性に結びついた人格傾向へ一般化しているのである。
ここで決定的なのは、彼がもはや「ある人のある行為」を批判していないことだ。そうではなく、「女」というカテゴリを、規範感覚が鈍く、抑制が甘く、手綱を必要とする存在として記述している。この時点で、それは十分にミソジニーである。「全員じゃない」と言ったところで、その差別性は消えない。
むしろこの但し書きがあることで、偏見はより社会的に流通しやすくなるという意味で、加害性がじつは強い。あからさまな憎悪ではなく、分別ある観察のように見えるからだ。
その意味で、この箇所はソフトなミソジニーの典型的な文体を非常によく示している。
6. 「感情が先に出やすいし、『楽しい』『嬉しい』『かわいい』『推せる』みたいな自分の高まりを、そのまま正当なものとして前に出しがち」
この部分では、女性の快楽表現が、未熟さや過剰さの徴候として記述されている。
まず目につくのは、「感情が先に出やすい」という把握だ。これは古典的なジェンダー・ステレオタイプに直結している。
理性より感情、判断より反応、抑制より発露、そうしたイメージを女性に貼りつけることで、女性の楽しみや熱中は、最初から「十分に社会化されていないもの」として扱われやすくなる。
さらに重要なのは、例示されている語彙である。「かわいい」「推せる」といった語は、しばしば女性的な文化実践と結びつけられがちだ。つまり彼はここで、単に感情表現一般を問題にしているのではなく、女性的とされる楽しみ方、女性的とされる語り口、女性的とされる熱狂の様式を、暗に軽いもの、浅いもの、節度に欠けるものとして位置づけている。
これが男性の情熱や没入とどう違うかを考えると、構図ははっきりする。
男性が何かに熱狂すると、それは「本気」「こだわり」「マニアック」「専門性」「情熱」と価値づけられる。ところが女性の熱狂は、「感情的」「はしゃぎすぎ」「空気が読めない」「承認欲求が強い」と貶められる。つまり同じような集中や快楽であっても、それが誰によって担われているかで、価値づけが変わるのである。
この箇所は、単なる観察ではない。女性の快楽の文法そのものを、低いもの、幼いもの、規範感覚に乏しいものとして読む価値判断が含まれている。
そこにジェンダー化された軽視がある。
7. 「俺はむしろ、女に恥をかかせたくないと思ってる」
ここから彼は、自分の叱責や制止を、攻撃ではなく保護として再定義する。これは家父長的なロジックの非常に重要なポイントだ。
彼は自分を、女性の楽しみを潰す人間ではなく、女性が社会で損をしないように助言する人間として描こうとする。
つまり、自分の介入は敵意からではなく、善意から来ているのだ、と言いたいわけだ。だが、この善意は本当に中立なものではない。
というのも、「恥をかく」とは何かを決めているのは、ここでは彼だからである。どんな振る舞いがみっともないのか。どこからが度を越しているのか。誰の前でどのように見られることが問題なのか。その判断基準は一方的に彼の側にある。そして女性の側は、その規範を受け取る対象としてしか置かれていない。
つまりここで働いているのは、「あなたのためを思って」という形式をとった支配である。
表現は柔らかいが、構造としてはかなり非対称だ。相手を自律した判断主体としてではなく、「導かれるべき者」「守られるべき者」として扱っているからである。
しかもこの手のロジックは、しばしば既存の差別秩序を所与のものとして前提にする。社会が厳しいから、それに合わせて振る舞え。そう言うとき、批判されるべきなのは本来、女性にだけ過剰な品位や抑制を求める社会の側のはずだ。ところが彼は、その社会的偏りを変えることではなく、女性の順応を勧める。
その意味でこれは、保護というより、差別秩序への適応指導なのである。
8. 「男なら多少雑でも『まあそういうやつか』で済むことが、女だともっと厳しく見られる」
この箇所は、語り全体の中でもとりわけ興味深い部分と言える。
なぜなら彼はここで、ジェンダーによる不均衡が存在すること自体は認識しているからだ。
つまり彼は、女性が男性より厳しく見られやすい、という社会的事実を知らないわけではない。
にもかかわらず、その認識から彼が引き出す結論は、「その不均衡は不当だから変えるべきだ」ではない。彼が引き出すのはむしろ、「だから女性のほうがより慎重に、自制的に振る舞うべきだ」という結論だ。
ここには重要な転倒がある。
本来、差別的な評価の非対称性を認めたなら、問題にすべきはその非対称性そのものである。
しかし彼は、それを是正すべき構造としてではなく、女性が現実的に受け入れるべき条件として扱う。結果として、差別のコストは差別する側ではなく、差別される側の自己抑制へと転嫁されることになる。
こういう物言いはしばしば「現実主義」の顔をして現れる。社会はそんなに甘くない、理想論では生きられない、傷つくのは本人だ。
たしかに、現実の不公正に適応せざるをえない局面はある。しかし、それを語る主体が、同時にその不公正を再生産する側でもあるなら話は別だ。この独白では、彼は不平等を説明するだけでなく、その不平等に沿った自己規制を女性に要求している。
9. 「楽しみって、本来は私的なものであるべきだと思ってる」
この一文では、快楽の正当な位置が「私的領域」へと押し込められる。一見すると、これは慎みや節度の話に聞こえるかもしれない。何でもかんでも公に出す必要はない、内輪で楽しめばよい、というような感覚は、ある程度共有されやすいからだ。
だが、この言い方がジェンダー文脈で機能するとき、それはしばしば女性の主体性を公共空間から退かせるロジックになる。
なぜなら、公共の場で楽しむということは、単に楽しみを見せること以上の意味を持つからだ。それは「この場の正当な構成員として、ここで感じ、語り、熱中し、存在してよい」ということでもある。女性が公の場で喜び、夢中になり、声を持ち、空間を占めることは、単なる趣味の問題ではなく、公共性の分配の問題に触れてくる。
彼が不快に感じているのは、女性が楽しんでいることそのものというより、その楽しみが公共の場に出てくること、他人に見えること、場を組み替える力を持つことなのである。だから、「本来は私的なものであるべきだ」として抑圧しようとする。
その言葉によって、女性の快楽は「家の中で」「目立たないところで」「周囲に干渉しないかたちで」存在するものへ押し戻される。
ここで作動しているのは、慎みの倫理ではなく、公共空間への参加資格の選別だ。
女性の快楽や自己表現が、私的な領域にとどまる限りでしか承認されないのだとすれば、それはすでにかなり強い排除の論理であると言える。
10. 「『見て、聞いて、わかって』と前面化させるのは、幼いんだよ」
この箇所で彼は、女性の共有欲求や表現欲求を「幼さ」として読み替えている。
たしかに、どんな場面でも他人に注目を求め続ける態度は批判の対象になりうるだろう。
しかし問題は、ここでそうした傾向が特に女性の快楽表現に結びつけられていることだ。
誰しも、自分の好きなものについて話したい、自分が今感じている喜びを共有したい、分かち合いたいという欲求を持つ。それは人間の社会性の一部であって、即座に未熟さの証拠になるわけではない。ところが、彼は、女性が楽しみを外へ向けて表現した瞬間、それは「見てほしい」「構ってほしい」「わかってほしい」という幼児的な要求であると解釈している。
ここにあるのは、主体的な発話や可視化を、承認依存的で未熟なものへ還元する視線だ。
そして、この還元には、男性の自己表現との非対称も見える。
男性が自分の関心を熱く語ったり、自説を前に出したり、趣味の世界を他人に説明したりすると、それはしばしば知識、情熱、こだわり、主導性として解釈される。ところが女性のそれは、「わかってほしいだけ」「感情を受け止めてほしいだけ」と幼児化されやすい。
11. 「女の場合、それが妙に守られる感じがあるんだよ」
ここで語り手は、自分を抑圧される側、あるいは少なくとも不公平を感じる側として位置づけ始めている。
彼の感覚では、女性の快楽表現や感情表現は、近年「守られすぎている」ということになる。少しでも違和感を示すと差別扱いされる。女性だけが免責され、こちらはものが言いにくくなっている。そういう感触を語っているわけだ。
しかし、この感触自体がすでに権力位置の錯覚を含んでいる。既存の社会では、長いあいだ女性の振る舞いは細かく監され、規範化され、品位や慎みの名のもとに調整されてきた。そうした状況のなかで、女性差別的な評価への批判がようやく可視化されてきたとき、従来は男が無自覚に行えた統制が以前ほど自由にできなくなる。そのとき、統制する側である男はしばしば「自分の言論が抑圧されている」と感じることになる。
つまり彼が感じている「守られすぎ」は、実際には女性が特権化された結果ではなく、自分の無意識の優位が相対化された結果でしかないのである。だが彼はその可能性を一顧だにすることなく、「自分は理不尽に言いにくくされている側だ」という被害者意識を育てるだけなのである。
ここで重要なのは、加害の位置が反転していることだ。女性の快楽を監督し評価する側であるにもかかわらず、彼は自分を、正論を言うだけで叩かれる不遇な側に置く。この反転によって、自分の規範権力は見えなくなり、批判への不快だけが前景化される。
その意味でこの箇所は、逆差別感情の典型的な表現であると言える。
12. 「周囲に合わせる努力をしないほうが、よほど独善的だろう」
ここでは争点が、「女性への不当な規範適用」から、「協調性の有無」へとすり替えられている。
協調や配慮は、もちろん社会生活において無意味な価値ではない。
しかし、誰がどれだけそれを求められてきたかを見ると、話は単純なものではなくなる。女性は歴史的にも文化的にも、場の空気を読むこと、他者の感情を先回りすること、場を和ませること、自分の欲求を少し引いてでも全体の調和を守ることを、過剰なまでに期待されてきた。
その文脈を無視して、「合わせないのは独善だ」と言うと、既存のケア負担や感情労働の偏りが、そのまま自然なマナーとして再度正当化されてしまうことになる。
つまりここで問題なのは、協調という価値の存在ではなく、それがジェンダー化された義務として運用されていることなのだ。
彼の語りでは、女性が自分の快楽を少しでも前に出すと、それはただちに「周囲への配慮を欠いた自己中心性」として解釈される。
しかし本来はこう問うべきではないのかー「なぜその『合わせる努力』が、これほど強く女性に求められるのか」「なぜ、女の快楽の表現が、即座に『周囲に合わせていない』と判定されるのか」「そこには誰の感覚が『周囲』として標準化されているのか」、と。
要するにこの箇所では、性別化された配慮負担が、普遍的な協調原理に偽装されている。それによって、女性にだけ多く求められる自己抑制が、「ただの常識」に見えてしまうのだ。
13. 「誰かがブレーキをかけなきゃいけない場面が出てくる。俺はその役をやってるだけなんだよ」
この一文で、彼はついに自分を規範の執行者として明確に位置づける。
ここで注目すべきなのは、彼が単に「自分は不快だ」「自分は苦手だ」と述べているのではないことだ。そうではなく、「誰かがブレーキをかける必要がある」と言い、その役割を自分に与えている。
これは、個人的評価の表明を超えて、介入権の宣言になっている。
つまり彼は、自分を対等な他者としてではなく、判断し、止め、修正する位置に置いている。女性のふるまいは、彼にとって単に好き嫌いの対象ではなく、調整の対象、矯正の対象になっている。ここに、ソフトなミソジニーの支配性がもっともよく表れている。
しかもこの「ブレーキ」という比喩には、かなり強い含意がある。ブレーキが必要なのは、暴走しているもの、危険なもの、制御を要するものだ。つまり女性の快楽表現はここで、自然な主体性の発露としてではなく、放っておけば行きすぎる傾向を持つものとして描かれている。そのうえで、自分はそれを止める合理的な存在だ、と位置づける。
ここには、単なる不快感以上のものがある。それは「自分には介入する資格がある」という感覚だ。そしてこの感覚こそが、家父長制的な規範権力の中核にある感覚なのである。
14. 「叱るっていうのは、相手をまだ社会の中に置こうとしてるからできる」
この箇所では、叱責が排除ではなく包摂であるかのように語られる。
表面上は、一見やさしい論理にも見えます。何も言わず見捨てるのではなく、まだ相手を共同体の一員として扱っているからこそ、あえて苦言を呈するのだ、と。つまり叱る行為は敵意ではなく、社会への参加を可能にするための配慮だ、というわけだ。
しかし、この包摂は実際にはかなり条件付きであることを見逃してはならない。彼のいう「社会の中に置く」とは、結局のところ「自分が正当だとみなす規範に沿って振る舞う限りで受け入れる」という意味になっている。つまりこれは、相手の多様なあり方を対等に承認する包摂ではなく、同化を前提にした受容なのである。
さらに重要なのは、彼がここで「社会」の代理人のように振る舞っていることだ。
自分の規範感覚、自分の不快、自分の品位観を、ほとんどそのまま「社会」の判断と重ねている。だから彼にとって、自分の叱責は個人的な価値観の押しつけではなく、社会秩序の代行になる。
これはかなり危うい構図である。「社会」という大きな語を使った瞬間、自分の偏った基準が普遍的なものに見えやすくなる。そして、その「社会」の側に自分を置き、女性をそれに適応させるべき側に置く。そこにはすでに確固とした非対称の権力関係が成立している。
叱ることそのものを是非は、どうでもよい。問題なのは、叱る主体が自分を社会そのものに重ね、その介入を公共的正当性のあるものとして語っているところにある。
15. 「自由には自己規律が伴うし、自己表現には自己抑制が伴う。そこを免除された自由なんて、ただのわがままだろう」
最後に彼は、議論を高い一般原理のところで閉じる。
自由には責任が伴う。自己表現には抑制が必要だ。これもまた、一見すると非常にもっともらしい。
だからこの一文だけ切り出して読むと、むしろ成熟した市民倫理のようにさえ聞こえる。
しかし問題は、ここでもやはり適用の偏りです。自己規律それ自体が不要だと言っている人はほとんどいない。争点は、その原理がなぜ女性の快楽表現にだけ強く、執拗に、道徳的重さを伴って適用されるのか、というところにある。
さらにこの一文には、相手の主張を極端化して見せる働きもある。女性の快楽への過剰な取り締まりを批判する人は、通常「何をしてもいい自由」を主張しているわけではない。にもかかわらず彼は、それをあたかも「抑制ゼロの自由」「ただの好き放題」の要求であるかのように再構成し、それに対して常識的な反論を返している。
これは典型的なストローマン化である。
つまり彼はここで、相手の要求をまず過剰化し、自分はその過剰を諫める理性的な側に立つ。その結果、彼のミソジニスティックな規範適用は、自由一般をめぐる健全な道徳論に見えてしまう。この終わり方が巧妙なのはそのためだ。
結局のところ、彼が本当に問題にしているのは、自由一般でも自己規律一般でもない。
彼が不快に感じているのは、女性が自分の快楽を、自分のものとして、周囲の評価を待たずに、可視的に生きることなのである。
それを直接言うと差別的に聞こえるので、最後は普遍的な倫理語彙で包み直して閉じる。
この閉じ方によって、語り全体は「偏見」ではなく「常識」に見えるように仕上げられる。
総括
この語り全体の不気味さ、厭らしさは、露骨な女性憎悪が前面に出ていないところにある。
むしろ彼は一貫して、自分を常識的で、現実的で、配慮があり、秩序を気にする成熟した人間として描こうとしている。だからこそ、その言葉は社会のなかで流通しやすい。
しかし、1から15までを通して見えてくるのは、非常にはっきりした差別の構造だ。
まず、TPO、節度、社会性、自由と自己規律といった、一般にはもっともらしい中立原理が持ち出される。
次に、それが女性に偏って適用される。
その偏りは「傾向」「現実」「保護」「配慮」といった言葉でやわらげられる。
さらに、差別批判そのものはレッテル貼りとして先回りして封じられる。
最後に、自分はただ常識を守っているだけだ、という自己像が完成する。
この流れによって起きているのは、女性の快楽や自己表現に対する敵意のロンダリングである。
つまり、単なる「女がそんなに楽しそうに、目立つかたちで、空間を占めるのが気に食わない」というだけの、せこい男の粘ついた感情が、「TPO」「品位」「秩序」「自己規律」の言葉に翻訳されることで、差別ではなく常識のように見えてしまう。
この種のソフトなミソジニーを批判するときに重要なのは、表向きの穏当さに惑わされないことである。
その言葉が何を禁止しているかではなく、何を成立しにくくしているかを見る必要がある。
この語りは、「女は楽しむな」とは言わない。
しかし、この男は、「女が楽しむ主体として目立つな」「女が快楽を公共に持ち込むな」「女が自分の喜びを自分のものとして生きるな」ということを一貫して言っている。「女は楽しむな」より、余程有害である。



「せこい男の粘ついた感情」←ここが全てだとw そもそも自分が「どれだけ男として社会に適応しているように我慢してる」ってところを「一般常識的」という鎖で話を盛って女を罰せようとし…
面白かったです。 それはそれとして、ソフト・ミソジニスト曰くを真面目に読んでいて1ミリも理解できませんでした。 自他境界が曖昧すぎる……。こういう人もいるんだなぁとその後の解説…
こういう理屈をいくら並べても、単にやっかんでるだけなんだなあとなって自分が情けなくなります。