恐山とケア概念がセットで流れてくるタイムラインに驚いているんですけど、私はこの、不幸に対して「ざまあねえな」と肩パンすることをケアだと思わない。
おそらくそれは、浪人とか失恋とか、自力でなんとかすべきことを、男としてしくじった、みたいなことへの、男性性を潰さずに相手を励ます、弱体化しない、励まし方、というだけで、そんなことをケアとか言われたら、あいさつくらいのもんだろうと、私は思う。
だけど、男が仮に、メンツとプライドが本体の世界を生きている(生きさせられている)なら、相手をケアして弱体化させるより、「ざまあねぇな」のほうが、ケアなのだと思う。だけど、そんな世界をつくっているのは男ではないかという気持ちもあり、そして、ほんとうの深刻さは乗り越えられないと思う。
例えば、震災や、死別、病気、障害、あと本当に深刻な失恋とかは「次行け次!」みたいなことでも済まされないし。喪失がないんですよね。絶望も。傷を浅く済ませるカルチャーに感じて、私は男同士のこづきあいは、本来のケアの世界からは多いと思う。そういう、痛みを無かったことにする肩の叩き合いをケアと呼ぶことには私は疑問がある。気にかける、が、「相手のプライドを立てながら、たいした失敗ではないと言っていく」が男同士のケアなのであれば、痛みと紐づきやすいケアの考え方とは相入れないと思う。
深い傷を、浅いことにする、ある傷をないことにする側面が、この文脈の男性同士のケアにはあると思う。それは割と痛みの無視とも繋がってると思う。それでも、競争とかメンツの立合いが前提の世界で、「お目こぼし」をしあうことが男性のケアなら、勝手にやってろ、という感じである。それで必死なんでしょ?と思う。
「ざまぁねぇな」では済まされないことがケアなんだと思う。例えば障害のある子供が友人のところに生まれたと知った時に、「買い物する時間ない時うちの分とまとめて買っておこうか?車出す必要あるとき言ってね!」みたいなこととか、そういう気遣いを私はケアと呼びたい。そういうもっと、メンツの前の、生活が0基点より落ち気味の時に、0に戻すもの、が女性性のケアだと思います。男同士がメンツの立て合いのじゃれ合いをしてるとき、病気障害家事育児にまつわる生活に関する深刻な問題を女の人が引き受けてる場合があると思います。お母さんにしろ、妻にしろ、この社会全体にしろ。
男同士のこづきあいカルチャーはいいんですけど、そこに寝たきりの人のケアとか、老人とか子どもの世界はないじゃないですか。誰かの助けを借りないと生きられない人のことってないからこそ、すべてが上部の「ざまぁねぇな」で成立してるところがあると思っていて。そんなことよりもっと深刻なことをやってくれ!どうせ老いる!病気になったりして人の助けを借りんといけん日が来る!だるすぎる!とか、私は思うんですけど、「俺たちは1人で生きてて、男としての頑張りをやっておりますので、お前のことは信頼してるぜ!メンツメンツプライドプライド!」で、こづきあいしてたいならしててください、と思います。
そんなことより近所の一人暮らしの老人と顔を合わせるたびに一応挨拶をしてる青年とかの話をしてほしいな。最近見かけないけど元気かな、ちょっと心配だな、みたいな。なんかもっと、大切なところに降りてきてくれないかなあ、牧歌的であろうや、という感じです。単なる気にかけあいとか、友情をケアというなら、まあそうなんでしょうね。という感じで。それってコミュニケーション毛繕い、くらいの話だよなと思います。
そもそも、ケアというのが、自分ではない他人を気にかけるという側面があるので、自分の領域から踏み出してない、互いにちいちゃくファイティングポーズをとった「ざまぁねぇな」は、なんか、威嚇しあってる小動物のようで可愛いですね、くらいの感じです。メンツがなくても本当は死なないけど、ケアってもっと、生きるとか死ぬとか不可逆な悲しみとか、楽しく豊かに生きることに紐づいてる気がします。個人的な解釈も含みます。
Quote
Keisuke HATTORI
@HAT0406
ダ・ヴィンチ・恐山が書いていることには本当に納得で、自分なりに言い換えると「ケア役割が女性化されている」のとは別に「ケア概念が女性化されている」側面がきっとあって、肩パンし合ったり、不幸があったときに「ざまあねえな」と声をかけたりするのが〈ケア〉である可能性だってあるんだよな