舞が止まった瞬間、広間の障子が軽く開く音がした。
「比鷺ー! 三言がどうしてもって言うからさー」
八谷戸遠流の明るい声が、静寂を破る。続いて、六原三言の落ち着いた足音と、遠流の軽やかなステップが畳に響く。
二人は汗を拭きながら広間に入り、比鷺と萬燈の姿を見て目を丸くした。
「え、比鷺、ひとりで練習してたの?」
遠流が無邪気に近づいてくる。三言は少し離れた位置で、静かに状況を観察している。
比鷺の体が、びくりと硬直した。
萬燈の空気が、瞬時に変わった。
「おや、忘れ物かな。それとも、稽古を覗きたくなったのか?」
萬燈の声が、涼やかに響く。さっきまでの、あの湿り気を帯びた丁寧な敬語が、跡形もなく消えていた。代わりに、いつもの——天才らしい、どこか人をからかうような口調。
肩を軽くすくめ、黒い袖を直しながら、遠流の方へ視線を移す。
「ちょうどいい。比鷺の舞を見てやってくれ。俺が一人で見ていたせいか、少し緊張が過ぎたらしい」
萬燈は笑う。誰にでも分け隔てなく向けられる、完璧な「指導者」としての笑み。
比鷺は、自分の胸の奥が冷たく凪いでいくのを感じた。先ほどまで耳元を熱くさせていた「預けなさい」という命令が、まるで白昼夢だったかのように霧散していく。
萬燈の笑みは比鷺に向けられたものではない。遠流に向け、三言に向けられた——「公の場」の笑みだ。
比鷺は息を詰めた。胸の奥で、何かがずるりと滑り落ちる感覚。
先生の視線が、比鷺から離れ、他の二人を捉えている。
その切り替わりの速さが、残酷だった。
「萬燈先生……」
比鷺の声は小さく掠れる。
萬燈はもう比鷺に触れていない。代わりに、遠流の肩を軽く叩く。
「遠流、お前も混ざれよ。型にちょっと甘いとこあるから、個人稽古してやってたんだ」
三言が静かに頷き、「比鷺、さっきの舞を見せてくれ」と促す。
比鷺は頷くしかなかった。
再び構えを取る。
手の甲の痣が、熱く疼く。
萬燈の視線は今、比鷺の舞全体を「評価」するものに戻っている。
二人きりの時の、あの重く、熱い視線ではない。
(先生……!)
心の中で呼ぶ。
返事はない。
萬燈は遠流と並んで立ち、腕を組んで比鷺の舞を見ている。
口元に浮かぶのは、満足げな、しかしどこか冷めた笑み。
舞が再開する。足運びはさっきより安定している。指先は研ぎ澄まされている。だが、比鷺の胸はざわついていた。
他のメンバーがいる今、先生は「萬燈夜帳」として振る舞っている。
天才として、闇夜衆として、対等なライバルとして。
三言が小さく息を吐き、「比鷺、今日はいつもより鋭いな」と呟く。
遠流が手を叩いて、「マジで! なんか、めっちゃ気合い入ってるじゃん!」と笑う。
萬燈は、ただ静かに頷くだけ。
「彼は、見られることで研ぎ澄まされる質(たち)だからな」
その言葉に、比鷺の指先が一瞬震えた。
萬燈の視線が、ようやく比鷺に戻る。
だが、そこにはもう、二人きりの時の柔らかさはない。ただ、評価するような、試すような、深い闇色の瞳だけ。
稽古は続く。
比鷺は舞いながら、思う。先生の口調が切り替わった瞬間から、胸の奥に小さな棘が刺さったまま抜けない。二人きりになるまで、この棘は消えないのかもしれない。そして、萬燈の視線は——今は「公の」ものだが、比鷺だけが知っている。また二人きりになった時、戻ってくることを。
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