合同稽古の場は、相模國舞奏社の古い能舞台を模した広間だった。
朝の光が障子越しに柔らかく差し込み、畳の上に淡い格子模様を描いている。空気にはまだ雨の残り香が微かに混じり、木の香りと汗の匂いが重なる。櫛魂衆の三言と遠流が先ほどまで軽く息を合わせ、比鷺は今、ひとり中央に立っていた。
次の相手は、闇夜衆の萬燈夜帳。比鷺は深呼吸を一つ。手の甲の化身の痣が、微かに熱を帯びる。
あの日以来、先生の視線が怖い。
いや、怖いというより——重い。
胸の奥に沈む鉛のように、視線が絡みついて離れない。萬燈は舞台の端に座っていた。黒い着物の袖を軽く捲り、二の腕の痣がちらりと見える。普段は穏やかで、どこか人を試すような微笑を浮かべている先生が、今は静かに比鷺を見つめている。
瞳は深い闇色。光を吸い込むように黒く、しかしその奥で何かが揺れている。比鷺はそれを直視できず、視線を畳に落とした。
「始めましょうか」
萬燈の声は低く、静かだ。雨の日の耳元で囁かれた言葉を思い出し、比鷺の耳朶が熱くなる。
比鷺は小さく頷き、構えを取る。足を滑らせ、指先を広げ、ゆっくりと舞の型を刻み始める。
だが、いつもより体が硬い。
萬燈の視線が、背中を這うように感じる。首筋を、肩を、腰を、足の運びを——すべてを、丁寧に、確かめるように追っている。(見られてる……)
心臓が早鐘のように鳴る。
普段なら、萬燈先生の視線は「評価」として受け止めていた。櫛魂衆の舞を、闇夜衆の視点から冷徹に見つめるもの。
でも今は違う。
あの雨の夜、胸に額を押しつけた瞬間、先生の鼓動を聞いた瞬間から、視線が「見つめる」ものに変わってしまった。比鷺の指先がわずかに震える。型が乱れ、足が一瞬止まる。
萬燈は動かない。ただ、見ている。
その視線が、比鷺のうなじの化身の痣に集中しているのが分かる。熱がそこに集まり、疼きが走る。
「……集中が、途切れていますね」
萬燈が立ち上がり、ゆっくりと近づいてくる。足音が畳を踏む音が、比鷺の耳にやけに大きく響く。
先生は比鷺の背後に立ち、肩越しに顔を覗き込む。息が、耳にかかる。
「私の視線が、気になりますか」
比鷺の体がびくりと震えた。
言葉が出ない。喉が詰まる。
代わりに、頰が熱くなる。耳まで赤く染まるのが、自分でも分かる。
「……気になります」
ようやく絞り出した声は、掠れて小さかった。
萬燈は小さく息を吐き、比鷺の肩に手を置く。指先が軽く沈み、温もりが伝わる。
「慣れてください。そのための稽古なのですから」
先生の声は穏やかだが、どこか残酷だ。
比鷺は目を閉じた。萬燈の指が、肩からゆっくりと腕を滑り、化身の痣がない場所をなぞる。
触れられていないのに、痣が共鳴するように熱くなる。
「君の舞は、いつもより鋭い。……私のせいだと、その体が言っていますよ」
比鷺は首を振ろうとして、止めた。
違う。
違うと、言えない。
「先生のせい……です」
本音が零れ落ちる。
萬燈は静かに笑った。比鷺の耳元で、低く。
「それで良いのです。もっと私に、君の全てを預けなさい」
先生の手が離れる。
だが、視線は離れない。
比鷺は再び構えを取り直す。今度は、視線を意識しながら、意識して受け止める。
萬燈の瞳が、比鷺のすべてを捉えている。
その重さが、怖いのに——心地いい。舞が、再び動き出す。
足運びが、指先が、息遣いが、少しずつ、先生の視線に合わせて研ぎ澄まされていく。
化身の痣が、熱く、確かに疼く。
雨の日の記憶が、胸の奥で静かに息づく。稽古は、まだ終わらない。
萬燈の視線は、今日も、比鷺を離さない。
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