雨が、ようやく止んだ。
稽古場の瓦屋根から滴る水音が、ぽつり、ぽつりと間を置いて落ちる。空はまだ灰色に濁ったままだったが、西の端に薄い光が差し込み始め、濡れた石畳に細長い反射を生んでいる。風が止み、木々の葉が重く垂れ下がったまま、静かに息を潜めていた。土と雨の匂いが濃く残り、どこか甘酸っぱい。
比鷺は萬燈の胸からゆっくりと顔を離した。額に押しつけていた部分が、萬燈の着物の生地に湿った跡を残している。比鷺はそれを指でそっと撫で、慌てて手を引いた。視線を上げると、萬燈の顔がすぐそこにあった。雨に濡れた黒髪が額に張り付き、普段の整った容姿にわずかな乱れを加えている。それが、妙に人間らしく見えて、比鷺の胸がまた小さく疼いた。
「……すみません」
比鷺の声は、雨の残響に溶け込むように小さかった。萬燈は首を軽く横に振る。表情は穏やかだが、どこか遠い。萬燈の瞳に、比鷺の姿が映っている——濡れた髪、赤くなった耳朶、握りしめた外套の襟。
「謝る必要はありません」
萬燈の指が、比鷺の頬に残っていた雨粒を拭う。触れ方が、さっきより慎重で、まるで壊れ物を扱うように。比鷺は息を詰め、その指の冷たさと温かさが混じった感触に、目を伏せた。
二人はそのまま、稽古場の入り口に並んで立っていた。肩が触れ合うほどの近さで、互いの体温がまだ残っている。言葉はなく、ただ雨後の静けさが二人を包む。遠くで、鳥が一羽、翼を震わせて飛び立つ音がした。
比鷺は外套を肩から外し、萬燈に差し出した。萬燈は受け取らず、代わりに比鷺の手に自分の手を重ねた。指が絡むわけではなく、ただ掌を重ねるだけ。化身の痣が、互いの皮膚の下で微かに共鳴するように熱を帯びる。
「萬燈先生……さっきの、俺の言葉」
比鷺は喉を湿らせて、言葉を続ける。
「本気です。信じていいのか、分からない。でも、信じたいとも思ってる。……それが、怖いんです」
萬燈は黙って聞いていた。視線を石畳に落とし、濡れた地面に映る二人の影を見つめる。影は寄り添うように重なり、雨の雫が落ちてゆがむ。
ようやく萬燈が口を開いた。
「君はいつも、すべてを正しく決めようとします。願いを、舞を、感情さえも。……私の前でだけは、迷う権利を差し上げましょう。他の誰に見せる必要もありません」
比鷺の目がわずかに見開かれる。先生の言葉は、いつもこうして心の奥底を抉る。優しく、残酷に。
「俺、迷ってるんです。先生に触れたいのに、触れたら……俺のなかの何かが、二度と元に戻らなくなる気がして。それが、怖いんです」
比鷺の声が震える。萬燈はゆっくりと息を吐き、比鷺の手を握ったまま、指を軽く絡めた。今度は、ただの重ねではなく、確かな繋がり。
「怖がるのは、悪いことではありませんよ。……むしろ、その恐怖こそが君の舞をより鋭く、美しく研ぎ澄ますのですから」
萬燈の瞳が、比鷺をまっすぐ捉える。深い闇色の瞳に、比鷺の不安が映り込む。
「迷ったままでいなさい。私がここにいる限り、君が勝手に壊れることは許しません。……少なくとも、今は」
その言葉に、比鷺の肩から力が抜けた。外套を握っていた手が緩み、地面に落ちそうになる。萬燈が素早くそれを拾い、比鷺の肩にかけ直した。動作は自然で、まるで何事もなかったかのように。
雨上がりの空気が、二人の間をゆっくりと流れていく。化身の疼きはまだ残っているが、今は穏やかだ。比鷺は小さく息を吐き、萬燈の横顔を見上げた。先生は空を見上げ、薄れゆく雲の向こうに差し込む光を静かに眺めている。
「先生」
比鷺が、囁くように呼ぶ。
「また、稽古……一緒に、してもらえますか」
萬燈は視線を戻し、比鷺に微笑んだ。雨に濡れた唇が、わずかに弧を描く。
「もちろん」
短い言葉。だが、それで十分だった。
二人は肩を並べ、稽古場の外へゆっくりと歩き出した。石畳に残る水溜まりが、足元で小さく光を反射する。雨の匂いが薄れ、代わりに土と草の清々しい香りが立ち上る。化身の痣は、静かに、確かに、互いの存在を覚えていた。
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