第25回日本史講座まとめ⑤(日明・日朝貿易)
1) 日明貿易
足利義満が将軍になった1368年、中国では朱元璋(洪武帝)が元を北方に撃退して、明王朝を建国した。明は、異民族の支配下にあった漢民族の王朝であったため、中華思想による国際秩序である冊封(さくほう)体制をめざし、明に朝貢する国とだけ国交を持った。さらに明は北方民族や倭寇の活動に苦しめられていたため、自国民の自由な海外往来や民間交易を禁じる海禁政策をとった。
明は日本にも倭寇の取り締まりと朝貢を促した。1401年、足利義満は交易による経済的利益と九州支配の強化を図って、明との国交を開き、1404年から日明貿易がが始まった。この貿易は、「日本国王」である義満が明に朝貢し、明の皇帝が返書と暦(こよみ)を与えるという形式だったため、公家の一部には当初から強い反発があった。また、暦の授受は、宗主国の皇帝が服属国の時間をも掌握することを意味した。
この貿易には勘合符が用いられ、1404年から1410年まで6回の交易船が派遣された。しかし、4代将軍義持は、卑屈な態度をきらって対明貿易を中止した。だが幕府財政の窮乏により貿易の利を必要とし、6代将軍義教(よしのり)は1432年、日明貿易を再開することにした。貿易の規定もこの時に改定され、10年1回、船は3隻、乗組員は300人とし、勘合符を用いて貿易することになった。これを勘合貿易といい、以後1547年まで11回にわたって勘合船が送られた。
勘合符とは、明が東アジア諸国と行った統制貿易に使用したもので、日明間では、「日本」の2字をわけて日字号勘合、本字号勘合とし、紙に「日字壱号」というように墨印をおし、それを折半して、一方を勘合符、他を勘合底簿とした。日本戦は本字号勘合をたずさえ、明では本字底簿と照合した。明からは日字号勘合を持ってくるわけであるが、実際には来航しなかった。勘合船は10年1回といっても厳密には守られず、船数も1回で10隻に及んだことさえあった。
勘合船は明の寧波(にんぽう)で査証をうけ、北京で交易にあたった。日本からのおもな輸出品は、銅・硫黄・金・刀剣・扇・漆器などであり、輸入品は銅銭・生糸・絹織物・綿糸・砂糖・陶磁器などであったが、最も利益があったのは生糸で、4~5倍から20倍もの利益があったという。貿易の実権は、初めは幕府の手にあって、幕府の直営船を中心とした。大名や寺社の船も参加を許されたが、応仁の乱後は、大内氏やそれと結ぶ博多商人、細川氏と結ぶ堺商人がもっぱら貿易にあたるようになった。
2) 日朝国交
南北朝が合体した1392年、朝鮮では、倭寇の鎮圧で武名をあげた李成桂が高麗を滅ぼして朝鮮を建国した。1395年には首都を漢城(現ソウル)とした。朝鮮も日本と国交を開き、交易が始まった。しかし、倭寇の勢いはさかんで、1419年に朝鮮が倭寇の本拠地である対馬を討とうとして、兵船200隻余り、軍兵1万7000名をひきいて襲ったが、これを応永の外寇(がいこう)という。一時、日本との間に緊張が高まったが、両国の通交はつづけられた。
九州・中国地方の大名たちがさかんに朝鮮に使節を送って貿易の利を得ようとしたので、朝鮮は対馬の宗氏にその統制を依頼し、1443年、宗氏と癸亥約条(きがいやくじょう)(嘉吉条約)を結んで、宗氏の船は1年50隻とし、通信符を用いて貿易することにした。また貿易港も富山浦(ふざんほ)など三浦(さんぽ)に限り、三浦と漢城に倭館を置いた。三浦に定住する日本人は増加し、15世紀末には3000人をこえるにいたった。
朝鮮への輸出品は、銅・硫黄のほか、胡椒・薬材・蘇木・香木などの南海特産物であった。これら南海の産物は琉球の商船が、博多に来航してもたらしたもので、これを博多商人が朝鮮に中継したものである。輸入品の中心となったのは木綿製品であったが、大蔵経も大量に輸入された。木綿は湿気の多い日本の社会に受け入れられ、この後の日本の衣料に大きな影響を与えた。