「君が今着てるシャツにアイロンを掛けたのも、毎日弁当を持たせてるのも、このマンションの家主も私なのにその上トップまで君か?」
語尾に『まさか、そんな訳ないよな?』という圧力をありありと感じる。
ダメな亭主でも見るようなアーチャーの眼光の鋭さは本物だが、言いたいことはそんなみみっちい事ではないのだろう。これは暗にアーチャーとランサーは対等だといいたいのだ。
もっとわかりやすく言うと、当たり前みたいに女扱いするな、と。アーチャーとランサーは恋人同士かつ同居中であるにも拘らず今の今まで性交渉がない。嘘みたいな悪夢だがこれは信じられない事に現実の話だった。
とにかく、
買い出しはランサーだし(あれを買ってないこれを忘れてるとうるさい)、
掃除もランサーだし(角を丸く掃くなとうるさい)、
家主は確かにそうだが家賃は入れてるし(同居始める際アーチャーの家の方が広かった)、
台所には立つなと始めに言われたので律儀に守っているだけだ(テフロン加工のフライパンをダメにされてアーチャーが泣いた)。
全く信じ難い事だが、これがアーチャーとランサーが恋人同士になりいい雰囲気になったベッドの上で行われた会議だった。
「じゃあ、どうすんだよ」
イライラさえしてきたランサーがガシガシと頭をかくとアーチャーは澄ました顔で、「今日はやめだ」とはっきりと。
あまりのことにランサーは口をあんぐりと開けたことを覚えている。だって、やっとこのお堅い男を口説き落として付き合えて、ほとんど夢にまでみた日だったのだ、今日は。
悪夢のようだが、ランサーにとって悪夢の権化のような男は悪夢より酷い台詞をなおも続けた。
「というか、当分なしにしよう」
こういうのがあれだ、目の前が真っ暗になった、というやつ。
役割の話はもちろん、膠着状態のまま何度か転機はあった。
お互い溜まるものは溜まる健康な成人男性だ。積極的にそういう雰囲気に持ち込んだしその都度揉めた。今日こそは相手を下して本番に持ち込もうと勇んで、一度目も二度目もその後も結局オーラルセックスのみで終わる。苦い惜敗の記録達だ。
そして、きっと今日が何度目かの転機である。
▽
「今日から君の食事は作らないことにした、ランサー」
ぽつりと呟くような声量の割に、全く聞捨てならない事を言ったアーチャーに、ランサーは顔を顰めた。
「そういう所から攻めてくんの新しいな。形振りかまってねえ感じ。ヨッキューフマンってやつだろ」
「逆に聞きたいんだが溜まってないと思うのか?」
朝から黙り込んだまま、テーブルをコツコツと爪で弾くアーチャーの機嫌は確かに良くはなさそうだなと思っていた。
ランサーより早く起き出していたらしいアーチャーが、暗い顔でリビングを陣取っているのを見て、正直嫌な予感はしていたのだ。
もう正午は回っていたが、休日である今日をいい日にしたい。もっと言うと争いたくないし血を見たくない。
そう思ってランサーはアーチャーに黙って湯呑みを出したのだ。日本に来てから知った空気を読むというやつである。
こんな悪魔みたいな事を考えているのがわかっていたら茶なんかいれてやらずにさっさと外出していたのに、何だってお互いの休日に宣戦布告なんかするんだろうか。
わざわざランサーが急須でいれた緑茶をアーチャーが啜った。ぬるい、とイヤミではなく本当に感想が零れた様な台詞が飛び出す。
ランサーの中の優しい気持ちが消えた。
「そういうの持ち込む奴か?お前」
「……君とこういう話をするのが疲れた。埒が明かないからな」
それは良く分かる。本当に建設的な話し合いにならない。お互いトップを譲らず激論し合うので最終的にマウントを取り合う殴り合いの大喧嘩になるのだ。お互いの傷の手当をしながら何故こんなことに、とじめじめした反省会をするのも流石に飽きがきていた。
「という訳で短期決戦でいく。どうせ三日以内に私に甘やかされた君の胃が音を上げる」
「天才かよ……」
「だから、大人しく抱かれてくれ」
「愚か者かよ……」
アーチャーの顔は何故か晴れやかだった。
手段を選ばない、誇りを捨てた戦士の顔だ。
衣食住の内の一つ、生活に直結する生命線を刈り取りに来るあたりこいつは最悪だ。アーチャーの飯に甘やかされたランサーの舌と胃はコンビニ弁当や外食では本当に三日でギブアップを唱えるだろう事が想像にかたくない。
「いい案だと思うぜ。だが徹底的に誇りを欠いている。こんなやり方で勝って嬉しいのかお前さんは」
「嬉しくはないさ」
アーチャーはそこで初めて苦悶の表情を見せた。
お、と思う。
「でも、もう。」
おいおい、こっちまでゾクゾクしてくるような顔をするな、と思う。真昼間から発情しやがってどっちが躾のなってない犬なのだ。
にやにや笑いながらアーチャーに擦り寄る。
「ハニー、諦めて抱かれたら?」とふざけて肩を抱き寄せて、改めて硬い、男の体だなと思った。
その体にふさわしい力の強さで「ふざけろ」と顔をおしのけられる。
「じゃあもういつも通りだな。つーか今から喧嘩しよう、ってなんかおかしいだろ。いつも気がついたら手が出てんだ。じゃあ始め、はもう……なんなんだよ、」
「いつも通りじゃない。」
アーチャーが能面のような顔でいう。
「今日は最後までする。……どっちが負けてもだ」
実は、それは事実上の敗北宣言だった。
感情が窺いしれない無表情だが、今までの戦績上勝敗でどっちがどうなるなんて決めてしまったらボトムになるのはアーチャーな事は歴然だったからだ。
ちなみに、これは完全な余談になるのだが、今までの戦いをランサーが制したのは実は理由がある。
本人が気がついているのかは知らないが。
アーチャーの膂力胆力共に、鬼の様な師匠の元で武術を納めたランサーですら申し分ない実力と思うのだが、アーチャーには何処か迷いがあった。
そんなやつを捩じ伏せるのは簡単なのだ。
もっと直裁的に言ってしまえばランサーの顔を積極的に狙わなかったのがアーチャーの今までの敗因だった。
その事実に気付いた時は若干引いたが。そうでなければいつまで決着がつかなかったかわからないので、アーチャーが面食いで助かった。
子供の頃、故郷で光の御子とか呼ばれるくらい顔が良くてよかったとランサーは思った。
余計な事まで付随したが、そこまで思い至り、ランサーは急にアーチャーが愛おしくなった。
ここまで漕ぎ着けるのに朝から不機嫌な振りまでして、いや、自分がボトムになる事を自分に納得させる所からアーチャーの気持ちを考えると、もう感動的な映画を一本観た様な気持ちになった。
高らかに手を打ち鳴らしてしまわなければこの感動は伝わるまい。スタンディングオベーションだ。
「結果は決まってるのにお互いボコボコにする過程は必要なのか?」
「……なんで結果が決まってるんだ?」
にやけるのを我慢して失敗した様な表情になりそうだった。
弾んでしまいそうな声音を必死に押さえつけて抑揚を無くした声で問うと、アーチャーは鼻先で笑った。
なんで素直にもう我慢出来ないので抱いてくださいって言えないのかね、この可愛い恋人は。と微笑ましい気分にすらなってしまう。そして今までの道程を考えると、長い闘いだった、と感慨深くもある。
今まで散々揉めに揉めてきた問題をあっさりと自分が下る事で片付けるのが難しいのだろう、素直じゃない恋人を呆れ半分、愛しさ半分で思わずじっと見つめる。
目が合うと仇敵に相対したかの様な表情で返された。
が、この男に己を折ってまでランサーとセックスしたいと思われている事に途方もない様な喜びを感じるのは仕方の無い事だ。なにせ今までの関係性は殆ど犬猿の仲みたいなものだったし、アーチャーは途轍も無く素っ気ない男だった。
後二週間もしていたらお願いだから抱かせてくれ、と土下座していたのはランサーの方だったのでアーチャーが言ってくれて助かった。
▽
そして予想通りの結果になった。
いや、何も本当にじゃあ喧嘩しようか、なんて間抜けにも始めた訳ではない。
実質ボトムをやると決めた、そしてそれがランサーに正しく伝わった事に羞恥心が限界を超えたのか、いつも以上にアーチャーの皮肉が止まらなくなり、そこからはいつも通りだった。
言い訳させて貰うならランサーは三回まで我慢した。照れていると正しく認識出来ていたから温い笑顔でもってアーチャーを見守っていたのだが、ランサーの態度はむしろアーチャーの前頭葉に火をくべたらしかった。
何したり顔で見てんだコラ、と言った所だろうか。喧嘩を売る動機が完全にガンつけられたとかいう言いがかりのレベルだ。お前はそれでいいのかアーチャー。
四回目でとんでもない暴言を吐かれ(詳細は割愛するが沽券に関わる)どちらともなく胸倉を掴み合った。多分同時に。
180cmの大台を越えた男二人が大暴れしても大丈夫な物件なんて契約の条件に存在するのか知らないが、少なくともここはダメだった。
つまり二人の攻防は、玄関を殴られると言う隣人の怒りの抗議によって終着したのだ。
決まりだった。
気まずさにお互い黙りこくり、目が合う。
ランサーはアーチャーのその嫌に括れた腰を鷲掴みにして肩に担いだ。実はも何も、アーチャーの均等の取れた美術品みたいな身体の中でその細い腰はランサーの好きな部分だったりする。
「うわ?!」と色気のない声を上げるアーチャー。
自分より重い恋人を運搬しているのに暴れられたら適わない。この後の体力の分配的に。
「お前の負けだ。わかってんだろ」
お姫様みたいに運ばれたくなかったら大人しくしてろ。と付け足すとアーチャーが途端に挙動を止める。
その隙にずんずんと寝室を目指した。なんだっけこれ、鉄は熱いうちに……違うか、?据え膳食わぬはってヤツ?
口に出せばアーチャーに日本語誤用防止パンチを受けそうなので黙って心の中だけでつぶやいてみる。
「……?」
肩に担いだアーチャーが何事かを呻いているので耳を傾けると「絶対に殺してやる」と言っていた。聞くんじゃなかった。照れ隠しにしたって怖すぎる。
今からこんな物騒な男を抱くのか。そもそもこんな奴に出会わなければ今頃女を日替わりで選べる身分だったランサーは今更ながら己にゾッとした。
でもしょうがないと諦めてもいる。
自分の人生から退場してもらいたいと思ったのは実は一度や二度じゃないのだが、それはこいつも同じだった。
その度に発生した殴り合いを経て現在までお互いにしがみついて来ているのだから、もうどっちも腹を括るべきなのだ。
寝室を蹴破る勢いで開いて、ノリノリで選んだのが恥ずかしくなる程そういう意味で使用頻度の低いベッドにアーチャーを放り投げる。
そして放り投げられた相手は何故この状況でそんな態度が取れるのか心底不思議だが、白黒ついた筈の上下をひっくり返さんばかりの眼光でランサーを睨んでいた。
「気が変わったらいつでも交代してやる、ランサー」
「……三時間でいいから口を閉じててくれ、アーチャー」
萎えそう、と思った。いや実際にはこの千載一遇のチャンスに興奮してはいるので心が、という話だ。
だが最中にいつもの小煩い小言を耳元で聞かされでもしたら中折れする可能性すら懸念にある。初夜で恋人を勃起不全に陥らせた所でこいつが罪悪感を抱く訳もなく、じゃあ交代しようとランサーに乗り上げてくるのが確実なのでランサーは絶対に闘志を絶やす訳にはいかないのだ。これは死合いだ。
ああ、でも甘かったな。
こんなに憎たらしいのに、絶対にこいつがいいなんてランサーに思わせた時点でアーチャーは負けたも同然だったのだからこれは没収試合だ。
学生時代にアーチャーに惚れてから今日まで、ランサーは人生のままならなさを一人噛み締めてきたのだ。役割で揉めてお預けを食らってアーチャーより我慢できたのは今まで培われてきた忍耐強さが物を言ったに他ならない。今度はアーチャーに諦めてもらう番だろう。
惚れたものが負けるなんて、誰が言ったんだか。