当庵で長く修行を続けているご同行のご報告です。多くの気づきをいただく内容でした。大森
10代の頃から一人で寺社に参拝していたため、宗教家の方や参拝者の方など、さまざまな人に声をかけていただく機会がありました。
けれども多くの場合、「悩みがあるのでしょう」「人生がうまくいっていないのでは」といった言葉を向けられ、不思議に思ったものです。神仏が好きでお参りしていただけなのですが。
「そのお地蔵さんは拝まないほうがいい、霊がついてくる」と言われたこともあります。しかし当時の私は、「もしついてくるとして、なぜそれがいけないのだろう」と素朴に感じていました。
これまで何人かの、いわゆる霊能者を名乗る方にもお会いしました。非常に具体的なことを断言される方もいましたが、実際には当たっていないことも多くありました。けれども、熱心な信奉者の姿を見ていると、たとえ一つでも当たったと感じる体験があれば、それが強烈な印象となり、信じるきっかけになるのだろうとも思いました。
最初は良心的に見える鑑定料でも、帰り際に御札などを次々と勧められることもありました。また、会う人ごとに同じような不安を指摘するケースや、基本的なことを取り違えている場面に出会ったこともあります。
ある宗教者からは、初対面にもかかわらず出家や寺院の継承を勧められたこともありましたが、後にさまざまな問題を抱えている方だと知りました。実際に話に出た寺院も、後日訪れると状況が変わっており、現実との落差を感じました。
SNS上で派手に活動し、肩書きを掲げている人物の中にも、実際には正式な資格や立場を持たない方がいることを知りました。また、社会貢献を掲げる団体に寄付をしたところ、運営の実態に疑問を感じる出来事もありました。善意や信仰心を利用する構造があることを、身をもって学びました。
さらに、「純粋さ」を強調する宗教活動であっても、歴史的に見ればさまざまな影響や混淆の中で成り立っているはずだ、と感じたこともあります。
こうした経験を通して、自分自身もまだまだ人を見る目を養わなければならないと反省しました。
海外の仏教徒の中には、お布施や寄付の使途をあまり問わない文化もあると聞きますが、やはり現代社会においては、その使い道や透明性は大切だと思います。
霊視などにお金を使うよりも、神仏への供養や、自らの修行に充てようと気づいてからは、そうした場所に足を運ぶこともなくなりました。
どれほど立派に見える宗教者や霊能者であっても人間であり、病にもなりますし、過ちもあります。その現実を見て、「自灯明」という言葉の意味を、以前より深く感じるようになりました。
他者の言葉や権威に依存するのではなく、自らを灯明として歩むこと。その大切さを、さまざまな出会いを通して学ばせていただいたのだと思います。