Call it love
ランサーに長い間片想いをしているアーチャーが、その恋を捨てるまで。
高校生現パロです。
平成最後の投稿がしたくて駆け込みです!!
平成お疲れさまでした、令和も元気に槍弓にハマりたいと思います!!
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校舎の裏の、人気のない丘の上から暮れていく陽を眺めていた。
決して叶わないものが恋なのだと、誰かが言っていたのを思い出す。
そう、私は今日、この恋を捨てる。
◇ ◇
オレンジ色の夕陽が、だんだんと影を濃くしていく。東の空はまだぼんやりと淡く輝き、夜へと移り変わる前の、ほんのひととき泡沫の柔らかさを見せている。
私はぼんやりと丘の上で、それを眺めていた。
高校の3年間。――いや、彼に出会ったのは中学1年の時だから、正確にはもう6年になる――、私は、彼が好きだった。
だが、何一つ進展しないまま(進展させようなどと思ったことすらないのだから当たり前だ)、この恋は終わりを告げようとしている。
いつから彼を好きになったのかはもう覚えていない。気がつけば当たり前のように彼が好きだった。彼のことを考えると、いつも胸がきゅっと、軋むような音を立てる。毎日顔を合わせているというのに、そう、毎日、朝も昼も夕方も。
彼は人見知りをせず、面倒見がよく、誰にでも好かれる性格で、だからいつも彼の周りにはたくさんの人が集まっていた。
自分は彼の家の近くに住んでいるという以外、特に取り立ててアドバンテージがあったわけでも、彼から好かれる理由もなかった。
だが彼にとって家が近いということはほどほどに意味があったらしく、私はよく彼と遊んだ。
中学生らしく、また高校生らしい、健全で子供らしい付き合いだ。
彼は彼で、昔から嫌になるほどモテていたというのに、何故か本命を作ることも、遊びでいいという女性を弄ぶこともなかった。
お前と遊んでる方が楽しいし。そう、何度か言われたセリフを鵜呑みにするほどおめでたくはなかったが、それでもそう言われるたび心の一番柔らかい部分が、喜びに潰されてしまいそうだった。
彼に対して、どうこうなりたいなどと思ったことはなかった。
だが、いくら諦めようと思っていても、どうしても諦めきれず、顔を見れては、言葉を交わしては惹かれるばかりで、そんな自分のどうしようもなさに打ちひしがれるのだった。
それでも何とか諦めようと思ったのは、ランサーが陸上の推薦で県外の大学に行くと知った時だった。引っ越しをして、遠く離れて、もうきっと会うこともなくなるだろう。だから、自分の恋は行き場をなくして、もうどうやることもなく、このままいつしか消えていくのだ、と。
それでも最後に、もしかしたら、冗談の延長で――ほんの戯れのフリをして、第2ボタンでも貰うことが出来たら。自分はきっと、一生彼を美しい思い出として生きていける。そんなことを思っていた。
それすらおこがましい願いだと知ったのは、先日、クラスメイトのある女性から相談を受けた時だった。
彼女は美しい顔を切なげに歪めて、私、ランサーが好きなの、と言った。
必死で友達のフリしてたけど、どうしても無理だった。ランサーが彼女を作るつもりがないのも知ってる。でも、本当に好きなの。卒業式の日に、告白しようと思ってる。
その言葉を、私はどんな顔で聞いていたのか思い出せない。
ただ、彼女の必死な顔が、ひどく美しいと、そう思った。
彼女はクラス一の美人で、どころか学校でも1、2を争うほど美しく、確かモデルのスカウトも何度か受けているような少女だった。
ランサーも何度か、あいつ可愛いよな、と言っていたことを記憶している。ランサーがそう言うたびに胸にクギで引っ掻かれたような痛みが走ったが、けれどそれはどうにも仕方の無いことだった。
ランサーの好みは確かボンキュッボンのムチムチボディ(本人談)のはずで、彼の好みに比べると彼女はいささかスレンダーに過ぎたが、それでも美しいことに変わりはない。ランサーも彼女を好ましく思っていた。
性格もサバサバとしており、芯はしっかりしていて必要な主張はちゃんとするが、協調性もある優しい性格だった。おおよそ欠点らしい欠点もない。
きっと、彼女なら、誰にもなびかなかった彼の心を射止めるかもしれない、と。
片恋に苦しむその美しい顔を見て、私はぼんやりと思った。
私は彼女に、応援しているよ、と告げた。
私は彼を諦めようと思い、暮れていく空を見つめながら、彼への想いを、とめどなく溢れる感情を、これまでの道程を整理しようとした。
道程、というものの進展はなかってので、それはとりとめのない風景の断片でしかなかったが、小走りに駆け寄ってくる彼の髪がしっぽのように跳ねる様だとか、体育の授業で見せるその躍動的な筋肉のしなやかさ、野性の獣のような俊敏さであったりとか、学校帰りにコンビニで共に肉まんを頬張る、その顔の幸せそうなところであったりとかを思い浮かべた。それらは何ら意味のない、ただの日常のワンシーンでしかなかったが、私にとっては何物にも変えがたい、美しい光景のように思えるのだ。
暇だと言って私の家にやってきた彼が、何見てるんだよと言いながら私の隣に座り、鑑賞していた映画を覗き込む。その、ブルーライトに照らされた横顔の、あまりにも静謐で美しいことに私は息を呑み、思わず身を離してしまった時、彼は少し驚いたようにこちらを見て、何だよ、といたずらそうに笑った。
その時の、嗚呼、私の鼓動の跳ねたことといったら!
私は彼に自分の激しい心音が聞こえるのではないかと気が気でなく、無意味に彼を避けたりした。私の態度に彼は少しだけ拗ねたように頬を膨らませ、その様子が、なおさら私の胸を切なく疼かせるのだった。
そんな些細な、何が起こったわけでもない出来事の一つ一つを、私は思い出しては噛み締め、ああ、彼が好きだった、と胸のうちで誰にも言えない一言を言葉にする。決して口には出せない言葉だ。
あの彼そのもののような美しい青空が、いま夕闇に染められ消えていくのに合わせて、彼への想いも、深く、深く、胸のうちへと沈ませねばならない。
友人のフリというみすぼらしい夜を纏わせ、昼の陽光を、鮮やかな青を消してしまうのだ。
橙に染まっていく空を見つめながら、私は何もかもを捨ててしまうために、好きだったよ、ランサー。と。また、心の中で呟いた。
けれど何故かそうするごとに、彼への想いは消えるどころか厚みを増して、どうにも堪えられず、おろかな私の試みは、夜が完全に世界を覆い尽くしてもなお、わずかも成功することはなかった。
卒業式の朝は、常となにひとつ変わらぬ様子でひっそりと訪れた。晴れやかな春の日差しは柔らかく、別れの哀しみなど微塵も感じさせないほどにうららかで、学校へと向かう足取りの重さとはまるで相容れぬまま、私は小さくため息をつきながら歩みを進めた。
ランサーと私は家が近いこと以外にも、もう一つ、2人の距離を縮めた出来事があり、それは高校の三年間、偶然にも全ての学年で同じクラスになったことだった。
その日も、教室に顔を出すと、いつも寝起きのいいらしく朝の早いランサーはすでに教室にいて、学友たちに取り囲まれていた。
皆、彼と別れるのが名残惜しいのだろう。その気持ちが痛いほどにわかる私は、だが彼を思い切らないといけないという義務感に任せ、彼に挨拶もすることなく自分の机へと向かい着席した。
一瞬だけ、彼はもの言いたげにこちらに視線を寄越したが、彼が何かを言う前に彼と少しでも言葉を交わしたい学友(特に女生徒)に阻まれて、結局私たちの間には何も言葉は交わされなかった。
式が始まると、私とランサーは整列の順が離れていることもあり、私は前方に立つ彼の後ろ姿を一方的に眺めることとなった。
学校の卒業という行事にはなにひとつ感慨はなかったが、それでも、私の高校の思い出には全てにあの男がいた。
今も、気だるそうに整列しながら、ぼんやりと壇上を眺めているランサーの、小さな後頭部や、後ろに纏められた髪の結び目や、白いうなじや、すきっと立つその背中などを、まるで貝の中の真珠を眺めるような心地で見つめていた。
こんな様子で、はたして自分は彼を思い切ることが出来るのだろうか。
昨晩、丘の上から春の夜を眺めてさんざん積み重ねた努力は、なにひとつ実りはしなかった。
このままだとどうやら自分は、みっともなく、愚かしく、彼への恋を捨てられもしないまま、どうしようもない行動を取ってしまうのではないだろうか。
そう思った瞬間、私は彼との別れが恐ろしくなった。
このままクラスで顔を合わせて、さよなら、と。元気でやれよ、と。彼に言われた瞬間、自分が取ってしまうかもしれない行動がそら恐ろしくなった。
だから、そう、そっと。
自分の整列の順の一番後ろであるのをいいことに、私は気分が悪くなったふりをして、卒業式を抜け出したのだった。
式を抜け出したはいいものの、まだ学校が終わったわけでもないのに帰宅するのもはばかられ、私が取った策は仮病を使って保健室でサボることだった。
全く、高校の3年間無遅刻無欠席で通してきたというのに、まさか卒業式になって初めて学校をサボるとは思わなかった。だが、このまま別れを名残惜しむ級友たちの中にまみれて、彼からの別れの言葉を聞く覚悟はどうにも出来ず、こよまま適当に時間を潰して、式の終わりと共にさっと帰ってしまおうと思った。
毎年この時期にはわけありの生徒が来るものなのか、保険医は私が保健室に来ると特に診察をする様子もなく、気がすむまで休んでいなさいと言って早々に部屋を出て行った。
おかげで私は、体調が悪いと式を抜けてきたにも関わらず、ベッドに横になりすらせずに保健室の椅子に座って、あてどなく時間を潰していた。
窓から見える陽光は朗らかで、常緑樹は鮮やかに色づいていた。隙間から見える桜は二分咲きといったところだろうか。わずかに蕾が綻び始めている。あの桜が満開になる頃には、きっと彼はもう引っ越してしまっているのだろう。
そう、切ない想いをどうすることも出来ず、窓を眺めていると、ガラガラ、と音を立てて保健室のドアが開かれた。
保険医が帰ってきたのかと振り向いた私だが、――正直に言おう。
わずかに、……ほんのわずかに、あり得ない期待を抱いてしまった。
まさか、式を抜け出した自分を探して、彼が来てくれたのではないかと――……、
しかし、そんなことはあり得るはずはなく、だがしかしドアを開けて現れたのは、予想だにしない人物だった。
「エミヤくん、大丈夫?」
そこに現れたのは、クラスメイトの女生徒だった。鈴木と言う名の彼女は、何度か授業で同じ班になったことのある少女だった。
取り立てて親しいわけではなかったが、そもそも彼以外に親しい友人がいない自分にとっては、まだ親しい部類に入るかもしれない。
さらりとした長いストレートの髪が美しい、清楚な印象の生徒だった。
「鈴木さん?どうしたんだ、まだ卒業式の途中では」
「エミヤくんが体調悪くて式を抜けたって聞いて、心配で私も抜けてきたの」
そう言って、彼女は言葉通り心配そうに、私の側へと寄ってきた。
「寝てなくて大丈夫?」
「見ての通りだよ。ただのサボりだ」
私は自分があまりにもおこがましい期待をしたことについて、つい自棄のような気持ちになり、いつもは決してしないような仕草をしてみせた。口の端をわずかにあげて片目を瞑ってみせただけであるが、鈴木さんは一瞬大きく目を見開いて、その後、何故かその可憐な顔を真っ赤に染めた。
「そっか、良かった。ふふ、あの真面目なエミヤ君が卒業式をサボったりするんだね。すごく意外」
「そうだろう。なんせ私も予想だにしなかった」
そんな軽口をたたいていると、鈴木さんは何か眩しいものを見るかのような眼差しで、私の顔をじっと見つめてきた。
「…心配をかけて、悪かった。でも、私はこの通りだ。君にとっても最後の登校日だろう、気にせず式に戻ってくれ」
彼女の顔を見ながらそう告げると、鈴木さんは少し困ったように微笑した。
その表情はひどく美しく、私はその面影が何かに似ている、と思った。
「ちょうど良かった。エミヤ君と2人になれたら、言おうと思っていたことがあったの」
ああ、そうだ。
あの顔だ。
思いつめたような表情で、少しずつこちらに近づいてくる鈴木さんの顔は、
「私、ずっと、エミヤ君のことが好きだったの」
私、ランサーが好きなの。
そう言った彼女の表情と、ひどく同じ美しさを纏っていたのだ。
だが、私には。
彼女の純粋な想いを嬉しく、また眩しく思うことはあっても、その気持ちに答える術を持ち合わせていない。
私の気持ちは、とっくの昔にある男に穿たれ、捕らえられたままなのだから。
ただ、こんな出来損ないの自分に、そんなやさしい想いを向けてくれたことは、純粋に嬉しかった。
「鈴木さん、ありがとう…、だが、私は」
お礼と、どうすれば傷つけずに断れるかと思い口を開いた私の言葉を、遮ったのは彼女だった。
「ううん、いいの。伝えたかっただけだから。想いが叶うなんて思ってない」
その言葉に、私はひどく驚いた。
叶うはずがないとわかっている想いを、何故彼女はわざわざ口に出したのだろうか。
「自分の気持ちに区切りをつけたかったの。エミヤ君のこと好きになった自分を褒めてあげたかった。素敵な恋が出来て嬉しかった。最後に、エミヤ君にお礼が言いたかった」
鈴木さんはそう言って、ぽろぽろと大粒の涙を流した。
ぽた、ぽた、と保健室の床に滴が落ちて染みを作り、私は彼女の口から溢れた言葉の美しさに、ただ衝撃と感銘を受けた。
好きになったことを褒めてあげたかった。
素敵な恋が出来た。
お礼を言いたかった。
私はランサーに、そんな気持ちになったことがはたしてあっただろうか?
ただただ苦しいだけの恋だった。押し殺さねばならないと、毎日彼の近くにいながら、針の筵に座るような心地でいた。
苦しい、逃れたい、叫び出したい、苦しい、と。
こんな恋を抱いてしまった自分を攻め、こんな苦しい気持ちにさせる彼を恨めくし思ったことすらある。
だが目の前の彼女は今、精一杯の勇気を振り絞り、輝かしく頬を濡らしながら、ありがとう、と言ったのだ。
彼女の想いなど何一つ気付かず、優しい言葉をかけてやることも出来なかった私に。
「…こちらこそ、ありがとう。鈴木さん」
「…っ、え、えみやく…っ、ず、ずっと…好きでした…っ」
子供のように泣きながら、ぐずるようにそう告げる彼女の手を取って、私は思わず彼女の背に手を回した。
それは抱擁というよりは慰めるようなそれだったけれども、彼女は堪え切れなくなったように私の胸に顔を埋めて、わんわんと泣いた。
震える肩があわれで、彼女に対する優しい気持ちと、申し訳ない気持ちと、彼に対するどうしようもない慕情が湧き上がって、私はしばらく身動きが取れなかった。
それはおそらく、ほんの数秒のことだったに違いない。だが、まるで時が止まったかのような時間だった。
私は彼女の肩を抱き、彼女は私の胸に顔を預けて、春の日差しの差し込む保健室には、かすかな彼女の嗚咽だけが響いていた。
しかし、その静謐は突然に破られた。
思いもしない来訪者によって。
「おいアーチャー、大丈夫か。カバン持ってきてやったぞ」
ガラリ、と。
ノックもなく、遠慮の欠片もなくドアが開かれた。
空を写したような青い髪、血よりも濃い真紅の眼差し。白磁のような作り物めいた顔。
ああ、まさかこんな時に!
そこにいたのは、まごうことなきランサーであった。
「……っ」
突然の闖入者に、鈴木さんは驚きに目を見開き、ビクリとその肩が揺れたのを、私は抱き寄せた肩から如実に感じ取った。
私は思わず、彼女の姿を隠すように、庇うように彼女を抱き込み、ランサーに向かって背を向けた。きっと彼女は泣き顔を見られたくないだろうと思ったからだった。
後ろでピリ、と、空気が軋むような不思議な気配がした。
その直後、ランサーが静かに声をかけてきた。
「……悪かったな。邪魔をした」
低く掠れた声だった。
ああ、ランサーの声。
もうすぐ聞くことも出来なくなる、大好きな彼の声だ。
そんなことに胸が潰れそうになる。
私の胸の中で、鈴木さんは小さく怯えたように震えている。
それがまるで寒さに凍える小鳥のようで、こんなに弱々しく思える彼女が、なんと大きな勇気を持って自分に告白をしてくれたのかと考えると、感動と自分の心の意気地の無さに、心がぞわりと震える心地がする。
私は、勇気を出せるだろうか。
好きだと伝えることは出来なくても、6年間、そばにいてくれて。友達でいてくれてありがとう、と。
彼に告げることが出来るだろうか。
そう思って、私は何とか震えそうになる声帯に力を込め、背を向けたまま、ランサーに問いかけた。
「ランサー、この後は?」
ランサーとは6年間も友達だった。卒業式の日に、一緒に帰ろうと誘いをかけるのは、何ら不自然ではないはずだった。
だが、背中から返ってきたのは、
「あー…、悪い。ちっと予定がある。……オレのことは気にすんなよ。ごゆっくり」
どこか掠れたように聞こえる声と、ガラガラと閉まる戸の音だけだった。
ああ、そうか。
そうだな。
また私は馬鹿な、ありえない期待をしたらしい。
この後の予定?あるに決まっている。
だって私は直接相談を受けていたじゃないか、彼女から。
ランサーはきっと、彼女から呼び出しを受けている。
告白されるために。
もしかしたら、彼女だけではないかもしれない。
クラスも学年も問わず、ランサーに憧れている女子など溢れるほどいて、その全員が彼との別れを惜しんでいるのだ。
1人と言わず2人と言わず、ランサーは呼び出されているのだろう。
その想いに応えられるかどうかはさておき、彼は女性の想いを軽率に踏みにじるような真似はすまい。
断るにしろ、きちんと受け止めて対応するはずだ。
今までだってそうだった。
そこに、私が彼の時間をわずかでも独占し、彼女たちの最後の勇気を邪魔する権利などあるはずがない。
そう思って、私は微笑を浮かべようとした。
だが、うまく力が入らず、唇が歪んだだけで、それは笑みの形にはなってくれなかった。
「…ごめんね、エミヤくん」
何故か、彼女から謝罪の言葉が漏れた。
「何故?」
彼女が謝る理由が、私には全くわからなかった。だからそう聞いた。
彼女はしばらく肩を震わせて、その細い指で涙を拭いながら、「私のせいで、時間取らせちゃったね」と呟いた。
「どうして。謝るようなことじゃない」
「…エミヤくんは優しいね」
「まさか。君の買い被りだ」
彼女の、何もかも見透かすような瞳に、わずかに私は恐れを感じた。
彼女は何を感じ取ったのだろう。
「ねえ、エミヤくん、一つだけお願いがあるの」
「え」
「思い出に、制服のボタン、くれない?」
その言葉に、私は思わず彼女の顔を見返した。
我が校の制服はブレザーで、第2ボタンは胸ではなく腹にある。
そんな色気の無いものでいいのかと思ったが、彼女は私の考えなど全て知っているかのように
「どこのボタンでもいいの。エミヤくんと3年間、一緒に過ごした制服のボタンが欲しいの」
と言った。
そんなものでいいのなら、と思って、私は保健室の机に置かれていた鋏を勝手に取り、それで自らのブレザーのボタンの、二つあるうちのをひとつ外し、彼女に手渡した。
一瞬だけ、さきほどのランサーのことが脳裏に浮かび、今日の帰りまでに、彼のボタンはきっと、ブレザーどころかシャツに至るまで、ひとつ残らず奪われてしまっているのだろうと思った。
「……ありがとう」
彼女はその大きな目に、再び涙を滲ませて、小さな唇を噛み締めながらそう言った。
保健室で彼女を見送った後、私は教室に顔を出す気にもなれず、ランサーが持ってきた通学鞄を掴むとそのまま学校を後にした。
この田舎町ではランサーのように県外に進学する者は少なく、私を含め、大多数が地元で進学するか就職する。これからいくらでも、級友たちとは顔を合わせる機会があるだろう。
確か春休み中にも一度、卒業生たちで集まって食事にいく約束になっていた。その頃にはもう、ランサーは引っ越してしまっているだろうけれど。
式は午前中で終わりで、あとはめいめい、学校の思い出を辿ったり、級友たちと別れを惜しんだり、これが最後と告白劇を繰り広げたりする。どこかざわついた、チープだが純粋な感動に満ちた空気を横目に、私は校門をくぐると、振り返ることもなく歩き出した。
何だか無性に、一人になりたかった。
向かった先は、昨日も訪れた丘の上だった。ここならきっと誰も来ないだろう。そう知っていたから選んだ。この町は狭く、どこにいっても知り合いがいる。
だから私は、誰も来ないとわかっているこの丘以外、どこにも行けないのだ。
誰がどこで誰誰と会っていた。誰それは深夜遅くまでどこそこを出歩いている。
何もない田舎だ。人の噂ばかりが娯楽になっているのだろう。そんな狭い箱庭のような街を離れて、ランサーは巣立っていく。きっと、華々しい今後が、彼には待っているのだろう。陸上部のエースだった彼は、スポーツ推薦を受けて進学する。彼がますます逞しいその身体を薄いシャツに包んで、広いグラウンドを駆ける様は、きっとたちまち大学内の評判になるに違いない。
可愛い彼女も、出来るだろう。高校までは、「お前と遊ぶ方が楽しい」などと言っていた彼も、都会の美しい女性たちに囲まれて変わってしまうかもしれない。そも、今頃、告白をしている彼女たちの何れかの好意を受け取っているのならば、彼は今日から遠距離恋愛をすることになる。
そんなことをつらつらと考えて、その都度馬鹿みたいに傷ついている自分の胸を押さえて、私は笑った。
なにひとつ、
なにひとつ、
忘れることなど出来ないではないか。