不死身の分隊長、舩坂弘の軌跡
舩坂弘という男は、死んでなお戻り、しかもただ戻るだけでなく、戦死公報さえも墓標ごと引っこ抜いて帰郷しました。
幽霊扱いされつつも渋谷に書店を開き、戦後の日本に新たな風を吹き込むことになります。
その名はやがて「生きている英霊」として、人々の間で語り継がれるのです。
ガキ大将、陸軍に入隊する
栃木県の農村で、やんちゃ坊主として育った舩坂少年は、小学校から高等小学校、公民学校と進み、さらに独学で学問に励みます。
そんな彼が1939年、満蒙学校専門部へ入学し、未来への一歩を踏み出すことになるのです。
1941年、軍隊に入隊すると、彼は斉斉哈爾第219部隊で国境警備の任務に就きます。
剣道や銃剣術の腕前は抜群で、特に銃剣術では「腰だけで三段」と評されるほどの達人ぶりを見せました。
アンガウル島では擲弾筒分隊長として15人を率い、その射撃技術と士気で部隊の信頼を一身に集めていたのです。
何度倒れても立ち上がり続けた男
アンガウル島の戦い、それは舩坂弘という男の伝説が生まれた激戦の地でした。
日本軍は米軍の猛攻に晒され、舩坂の所属する中隊も壊滅寸前の状況に追い込まれます。
だが、彼は退かず擲弾筒を何度も撃ち続け、筒が赤くなるほど撃ち込みました。
やがて、彼は仲間と共に島の洞窟に逃れ、米軍相手にゲリラ戦を繰り広げます。
戦いの3日目、彼は左足を負傷するも、日章旗を包帯代わりに足を縛り、洞窟まで這い戻って再び戦線に立ちました。
傷は見る見るうちに回復し、周囲からは「不死身の分隊長」と呼ばれるまでになります。絶望的な状況の中でも彼の戦意は衰えることはなかったのです。
拳銃で敵兵を仕留め、鹵獲した短機関銃で敵を撃退し、さらには銃剣で米兵を刺し、さらなる敵に機関銃を投げつけて突き刺すという奮戦ぶりを見せます。
彼の姿はまさに鬼気迫るものであり、周囲の兵士たちを鼓舞しました。
だが、洞窟に籠る日本兵の状況は苛酷を極め、食料も水も尽き、傷ついた仲間は次々と力尽きていきます。
舩坂もまた腹部に銃弾を受け、蛆虫が傷口を食い荒らすようなありさまでした。
「こんな有様で死ぬくらいならば」と彼は自決を決意するも、不発の手榴弾が彼の命を止めることはなかったのです。
「なぜ死ねないのか」と、彼は生かされる自分の運命を呪います。
ついに彼は、死を覚悟して米軍司令部への突入を決意します。
手榴弾を体に括りつけ、拳銃を手に数夜かけて匍匐で進み、司令部に迫りました。
負傷箇所はすでに20以上、全身は砲弾の破片と火傷で焼け爛れ、服は擦り切れ、髪も肌も泥にまみれた幽鬼のような姿であったのです。
そして、米軍の指揮官たちがテントに集うその瞬間、彼は手榴弾の安全ピンを抜き、司令部へ向かって突進しました。
だが、運命は彼を戦死させることを許しませんでした。左頸部を撃たれ昏倒した彼を、米軍は戦死とみなすものの、一人の軍医が彼を野戦病院に運び込みます。
驚くことに舩坂は息を吹き返し、米兵たちの目を前に「撃て!殺せ!」と暴れ回りました。
その異様な光景に、彼の存在は「勇敢なる兵士」として米軍の間でも語り草となったのです。
捕虜となった舩坂はペリリュー島に移送されるものの、戦意は失われることはありませんでした。
彼は監視の目を掻い潜り、収容所を抜け出しては飛行場を襲撃しようとし、またもや奇妙な伝説を築き上げたのです。
終戦後、数々の収容所を転々とした末、ようやく日本へ帰還します。
アンガウルの地で死を超え続けた舩坂弘。
彼の行動は、戦場で人間の限界を超える勇気と執念がいかに極限に達するかを、ひとつの物語として示しているかのようです。
本屋として戦後を生き抜いた船坂
舩坂弘は、戦死公報により家族からは亡き者とされ、戸籍上も1年3か月にわたり「幽霊」同然でした。
1946年、彼は故郷に帰還すると、まず「舩坂弘之墓」の墓標を抜きに行き、人々は本当に彼が生き返ったのかと驚いたのです。
軍服姿で家に戻った舩坂は、仏壇に合掌して自身の生還を報告しようとしたものの、新しい位牌には「大勇南海弘院殿鉄武居士」と記されており、我が事ながら大いに驚いたといいます。
復興の日本で、舩坂は戦争体験と米国の進んだ文化や産業を基盤に、日本の発展に貢献したいと考えるようになり、渋谷駅前に一坪の書店を開業しました。
この書店はやがて「大盛堂書店」という、日本初の本のデパートへと成長します。
さらに彼は剣道家としても名を残し、三島由紀夫とも剣道を通じて親交を結び、その三島が最期の介錯で使用した刀を贈ったのも彼でした。
高名な剣道家・持田盛二範士との稽古も深い感銘を受けたと伝え、自著でその体験を語っています。
戦後、舩坂は戦没者の冥福を祈り、アンガウル島をはじめペリリューやガドブスといった島々に慰霊碑を建立しました。
これらの活動の費用は著作の印税で賄い、自らは利益を得ようとせず、全てを国際赤十字に寄付したのです。
毎年欠かさず慰霊に訪れ、戦没者の魂を弔い続け、彼を知る人々からは「生きている英霊」と称されました。
そして2006年、85歳で舩坂は深い眠いにつき、戦友たちのもとへと向かいました。
だが、彼の業績とその不屈の魂は今も多くの人々の記憶に刻まれています。
参考文献
星亮一(2008)『アンガウル、ペリリュー戦記―玉砕を生きのびて』、河出書房新社