透明化の時代に創造の魔法は可能か
■現場の危機意識とシステムの限界
映画監督の榊英雄氏に有罪判決が下された事件をめぐり、映画監督の佐々木浩久氏が次のような発言をしていた。
榊英雄の有罪判決に際して思うこと。…
— 佐々木浩久 (@hirobay1998) March 9, 2026
内容をまとめると、自主映画の時代から、監督と俳優の関係はしばしば私的な親密さを伴うものであり、撮影現場で恋愛関係が生まれることも珍しくない。しかしそこには常に、芸能界におけるセクシュアル・ハラスメントと紙一重の危うさが存在する。特に問題となるのは、これから売れたい俳優の弱みに付け込むような関係であり、今回の事件はその典型例だったという指摘である。
さらに佐々木監督は、日本の商業映画では監督にキャスティング権がほとんどなく、俳優事務所や制作会社の力関係で決まるため、ワークショップに参加しても映画出演に直結するわけではないと警告する。そして今後は、講師と参加者の私的関係を禁じるなど制度的透明化が必要だと述べていた。この指摘は、旧来の師弟関係や濃密なコミュニティが、実態としてはキャスティング権を持たない者による空虚な権力誇示の場へと変質している日本の業界構造を鋭く突いていると思う。
■搾取の温床か、創造の源泉か
この指摘は、現場を知る人間として極めてまっとうな危機意識を示している。しかし同時に、ここには映画という芸術の成立条件に関わる別の問いも潜んでいる。つまり、映画制作における「親密さ」や「濃密な関係」は、単に搾取の温床であるだけでなく、創作の重要な源泉でもあったのではないかという問題だ。
映画史を振り返れば、監督と俳優の特別な関係から生まれた作品は少なくない。たとえばジャン=リュック・ゴダールとアンナ・カリーナ、あるいはイングマール・ベルイマンとリヴ・ウルマンの関係はよく知られている。さらにファスビンダーの作品群は、彼の劇団的な共同体の中から生まれたものだった。こうした例を挙げればきりがない。そこでは俳優たちは単なる「商品」ではなく、監督と共に作品世界を作り上げる創造的パートナーであり、その関係の濃密さが映画の独特の緊張や感情の強度を生み出してきた。
それはまた、1970年代のポスト・ヌーヴェル・ヴァーグとも呼ばれた監督たち、ジャック・ドワイヨンやブノワ・ジャコ、モーリス・ピアラなどの作風そのものさえ決定づけていたと言えるだろう。彼らの作品に見られる、観客の呼吸さえ圧迫するような息苦しいほどのリアリティは、撮影現場における公私境界の消失という、ある種の倫理的劇薬と引き換えに得られたものだった。
■制度化される安全とその代償
しかし現在、その構造は大きく変わりつつある。
アメリカの独立系プロデューサーだったハーヴェイ・ワインスタインの事件を契機とした#MeToo運動は、映画制作の現場における権力関係を可視化し、制度的改革を促した。その象徴が「インティマシー・コーディネーター」の導入である。これは性的表現を含むシーンにおいて俳優の安全と同意を確保する専門職であり、制作側と俳優の間に立って調整を行う。現在では多くの作品で導入され、撮影現場の倫理的基準は確実に変化している。
だがここで生まれるのは、新たな問いだ。
こうした第三者の介入は、創作の自由や現場の化学反応を損なわないのだろうか。
映画制作は本来、極めて不確定なプロセスである。俳優の身体や感情、偶然の出来事が重なり合う中で、予定されていなかった瞬間が生まれる。その「一回性」こそが映画の魅力であり、観客が求めるものでもある。もしすべての関係が契約と管理の下に置かれるならば、そこに生まれる表現はどこか無菌的なものになってしまうのではないかという懸念は、決して的外れではない。また、この懸念は、複雑さや曖昧さを許容する「映画モード」の思考が、即時的な正解と極端な二項対立を求める「インターネットモード」の倫理観によって塗りつぶされていく過程に対する抵抗でもあると私は考えている。
■デジタル時代における肉体の一回性
さらには現在、映画を取り巻く技術環境も大きく変化している。CGやAIによって映像の多くが人工的に生成可能になった時代、観客が逆に求めているのは、人間の身体がそこに存在しているという確かな感覚である。例えば『マッドマックス 怒りのデス・ロード』や『トップガン マーヴェリック』が映画ファンの熱狂を生み出した理由の一つは、デジタル技術の時代にあえて実際のスタントや身体的パフォーマンスを重視した点にあったように思う。つまりテクノロジーが進むほど、観客はむしろ「本当にそこにあった出来事」を求めるようになるのだ。AIには不可能であるとも思われる(少なくともその操作者があえてプロンプトに含めようとは思わない)計算不可能な生身のノイズこそが、これからの映画の最後の砦となるかも知れない。
さらに言えば、上記したフランス70年代映画作家達の作風は、まさにこうした感情や身体の「一回性」の魔術を、監督と俳優たちの親密かつ切実な関わり合いの中で生起させようとしたものだと言える。その「関係の特別さ」を生み出すため、彼らが意図的にキャストやスタッフ達の感情を削り取るような演出を行ったこともよく知られている。そして、こうした試みが映画に強い強度をもたらした事実はやはり忘れられてはならないだろう。勿論、それはもはや許されない手法かも知れない。事実、彼らの多くは、後にハラスメント訴訟の対象ともなった。だが、彼らの試みは同時に、映画史の流れを変えるような決定的作品を数多く生み出したこともまた事実なのだ。我々は、過去の傑作が孕んでいた「暴力性」を否定する(これは時代の必然だろう)と同時に、その暴力性がもたらした「強度」までも失いつつあるのではないかと私は危惧している。
■持続可能な狂気は設計できるのか
こうした状況を踏まえると、映画制作における現在の課題は単純な倫理化ではないと私は思う。もちろん権力関係の悪用を防ぐ制度は不可欠であり、それは今後も強化されていくだろう。しかし同時に、その透明化の中でどのように創作の魔法を生み出すかという問題が残るのだ。インティマシー・コーディネーターのような第三者が介入することで、安全性は高まるかもしれない。しかし彼らは必ずしも作品の芸術的成功を第一の目的としているわけではない。その意味で、創作と安全の利害は完全には一致しないのだ。
ここで問われるべきなのは、透明化と創作を対立させることではなく、両者を両立させる新しい製作現場をいかに構築するかであろう。かつての映画は、親密な共同体の中で魔法を生み出す一方で、その内部に多くの不正や暴力を抱えていた。それらは地続きだったのだ。現在の映画制作は、その反動として制度化と管理を強めている。しかしその結果、創作の共同体そのものが弱体化してしまう危険もある。だからこそ、これからの映画に必要なのは、おそらくそのどちらでもない第三のモデルだと私は考える。
透明なルールの下で信頼関係を築きながら、それでもなお偶然や身体性や感情的に切実な関わりが介入する余地を残すこと。言い換えれば、安全に魔法を起こす仕組みを設計することだ。だが、それが本当に可能なのかどうかは、まだ誰にも分からない。実際のところ、これからの映画製作現場に課された非常に難しい問題だろうとも思われる。しかし、少なくとも確かなのは、こうした新たな倫理基準の映画製作現場への適用そのものが、直ちに映画の終わりを意味するわけではないということだ。むしろAIと倫理的制度化の時代においてこそ、人間の身体と感情が生み出す一回性の価値は、これまで以上に強く求められているように思われる。それを見たいと考える観客は、決して少なくはない。問題は、その一回性を、搾取ではなく創造として成立させるための新たな方法であろう。そしてそれを、具体的実践の中で、映画人自身が無頼の共同体とは異なる形で見つけ出せるかどうかなのだ。


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