ビターローズ【槍弓/Web再録】
「最低だ。君なしで、生きられなくなってしまった」
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2013年3月発行の槍弓本
吸血鬼とか教会とか趣味を詰め込んだ完全パラレル本
型月のいろんな設定とは縁もゆかりもありません
前回のWeb再録の時に消失したと言っていたんですが、PDFデータだけが何故か残っていまして…ワードに流し込みーの体裁整えーのしていたら再録に大分と時間がかかってしまいました…
HFの映画の話もまだ何も発表されていないようなタイミングの本になるわけか…と思うと時の流れが早いですね
キャプションに書いたセリフが今まで出した本の中でかなり気に入っていて、何かにつけてよく例に出してしまいます
そんな思い出深いFate本の最初の本でした
表紙はお借りしたものを使用しています
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空気が甘い。
まるで己を誘っているようだ、とランサーはひとつ笑って地面を蹴った。
吸血鬼、という人の理から離れたものがこの世界 に存在することを、果たして何人の人間が理解できるだろうか。
所謂架空の生物、御伽噺に出てくると断じられているそれは、しかしながら確かにこの世界に存在していた。
ただし物語とは違い、現代において純然たる吸血鬼は人の血など吸わない。
食物から栄養を取り込み、朝目覚め夜眠る人間とさして変わらない生活をしている。
違いがあるとすれば、個人差があるとはいえ人間と寿命の差があること、人間の身体能力をはるかに超える能力を持っていることくらいであろうか。
しかし、それは種族が違うのだから当然と言えば当然である。
人間と鼠と虎、それらがまるで違うものであるように、人と吸血鬼もまた、全く異なるものなのだ。
ただ、人の言葉を解し、人のかたちをしているからその違いがわかりにくいだけで、何も怖れるものではないのである。
吸血鬼は人よりも長く生きる。
そのため自身と人間があまりに似すぎていて、それ故に相容れないことに古くから気付いていた。
いくら同じ容姿を持ち同じ言葉を喋ろうともそこには必ず種族の違いが存在する。
むしろなまじ似ている分それが違うと知れた時の拒絶は筆舌し難いものであろう。
拒絶だけで済めばまだ良心的な方であり、大半の場合は排斥、抹殺へと変化していく。
それを幾度となく経験してきた遥か昔の吸血鬼たちは、最終的に人間に合わせ人間と共に生きていく方法を取った。
それが一番安全であり、お互いの領域を侵さない最善の策であると思ったのだ。
そうして吸血鬼たちは血を吸うことをやめ、人間と同じものを食べ、人間と同じように生活をするようになった。
月日と共にそれは決まりから習慣へと変わり、現在はその機能も半ば失われつつある。
ランサーもまた、そんな吸血鬼のひとりであった。
生まれた時より人間と同じものを食べ、太陽と共に生活をする。
血を舐めたところで鉄の味しかしないし、美味しいとも感じたことはない。
老化の速度が違うから一点に根付くことはできないが、それも昔からのことであればさしてどうとも思わなくなっていた。
あまりにも人間に溶け込み過ぎて、いつか自身の種族を忘れてしまいそうだ、とランサーは常々思う。
だから、この感覚はあまりに人間とはかけ離れていて、自然と気分が高揚するのだ。
人間になりきれない本能がまだ残っているのだ、と。
深夜で人気のない街、足元ではみな寝静まっているだろうその屋根を跳ぶように走る。
呼んでいるのだ、行かねばなるまい。
奴はそれを否定するが、しかし本心ではそれを望んでいるのを彼は知っていた。
小さな街の外れ、日も暮れると木の葉の揺れる音しか聞こえない程に森に近い場所にその教会は立っている。
一見すればその教会もまた街と同じように眠りに落ちているように見えるが、その実静寂の中で目を光らせているのがランサーにはわかっていた。
ぎい、と少し音の鳴る扉を開いて、教会の中へと入る。
天に近い場所に開いた窓からは月の光が入っていて、主たるその人を照らしていた。
それ以外は灯りすらなく、足元すらも覚束無いであろう闇。
しかしながらランサーは、その種族だからか夜目が利いた。
苦も無く光の落ちる最奥へと足を進める。
輝きに跪く黒い影の背後に立つと、気付かせるようにひとつ大きく足音を立てた。
「――よお、アーチャー。元気そうでなによりだ」
膝を折っていた男――アーチャーはその言葉にゆるりと首だけで振り向く。
色の薄い瞳がランサーのそれと重なると、はあ、と呆れたようにひとつ溜息を吐いた。
どうやら祈りを捧げていたらしい手を解くと、すっと立ち上がる。
黒でまとめられた服装だからか、胸元で光を受けた十字架が異様に目立って見えた。
簡素な紐で結ばれた、飾り気のない銀。
まるでこの男を示すようだとランサーは思っている。
背丈はランサーの方が僅かに低いか、あまり変わらない。
眉間に寄った皺が気難しそうに見せるが、それが緩むと途端に幼く見えることをランサーは知っていた。
最も、それがランサーの前で緩むことなど殆どないのだけれど。
だからこそ、ランサーはこの時が気に入っていた。
「そういう貴様も、相変わらずのようだ。こんな夜更けに訪れるなど、野良犬でももう少し利口だろう」
「可愛くねぇの。そんなこと言うなら次から来ねぇからな」
その台詞が、口に乗せただけのものであるとランサーも理解している。
アーチャーも、それが本当に起こらないことは知っていた。
このやりとりはいつものことだ。
否、本当に次回からランサーが来なくても、それはそれでアーチャーは追うこともしないであろう。
寄りかかるほどに崩れていくことを、アーチャーはわかっているのだ。
次こそはこの夜を独りで超えると思っていなければずるずると落ちてしまう。
そして、そのアーチャーの気持ちを知っていてランサーは次もまたこの場所へ訪れるのだ。
一か所に留まることのできない性質から、どちらかと言えばさっぱりとした性格であると思っているランサーであるが、こればかりは意地が悪い、と内心で笑った。
いくら理論で武装したとしても、目の前のご馳走に結局本能を剥き出しにしてしまうのを楽しんでいるのだから。
心に反応して、口角がにやりと上がるのがわかる。
来いよ、と言わんばかりに両腕を軽く開くと、アーチャーはそれを右手で叩いて乱暴に襟首を掴む。
うっとり、と。その荒い動きとは逆に、瞳はゆっくりと溶けていった。
鋼鉄のように見えたその目の奥が熱でどろどろになっていく。
ランサーは声を出さずに口元だけで笑った。
犬のようなのはどちらだ。
眼前のものに抑えが利かず飛び付く様は、自分よりよほどそれらしい。
もっとと言わんばかりに力強く引き寄せられるのと同時に首筋に甘い痛みが襲う。
ランサーはアーチャーに気付かれぬよう、頬を撫でる白い髪にそっと口付けた。
吸血鬼は人の血を吸わないし、必要としない。
しかしながらそれは両親が共に吸血鬼である場合のみに適用される理である。
元より血を吸収できる存在である彼らは、理性を持ってそれを止めていた。
いくら能力が退化したとはいえ、全くできなくなったというわけではない。
ただ、古くからの決まりで習慣として吸血がなかったから、必要性を感じないのだ。
だから、少ないながらにある本能を理性で留めることができる。
しかし、その理から外れた存在が僅かばかりいた。それが人と吸血鬼の子である。
彼らは異種同士での交わりで生み出されたものであり、だからこそその本能に抗うことができない。
人よりも血で勝る吸血鬼の欲望が人の理性で抑えられるほど弱くないのだ。
元より異種間の子供は短命であり、生まれてすぐに死ぬか、そうでなくても五年も生きられないものが大半であった。
本能に勝てずまともに生きるだけの理性を持ちえない彼らは、運よく生きられたとしてまず身近にいる両親を殺す。
そうして次は他の人間を。
化け物として語られている吸血鬼の殆どはこういった事象が元になっていた。
寿命が長いだけで別段外的損傷に強いわけではない吸血鬼は、人間の武器に簡単に死ぬ。
だからこそ、化け物扱いをされ殲滅されないがために人に溶け込んで生きる方法を取ってきたのだ。
吸血鬼を異端として決定付けることになるこのような事象は、吸血鬼たちとしてもどうしても避けたい問題である。
当たり前のことながら、古くから人との子を成すことは禁止されていた。
もちろん交わることも然り。
決まりには罰が必要であり、人間にその存在を知られないがために昔から吸血鬼は人と交わった吸血鬼、もしくは人と吸血鬼の子を処分する組織を作っている。
罰、とは即ち死を表すことであり、つまりは暗殺部隊だ。
人に知られる前に、害を成す前に先にその芽を摘んでしまう。
それが吸血鬼たちにできる自衛であった。
もちろん、人に害を成してしまえば有無も言わさず処分の対象である。
もっとも、普通に生活している吸血鬼には関係のない者たちである。
そして彼らも、仕事がなければそれとわからないように普通に生活をしていた。
ランサーもまた、招集がなければ各地を放浪するだけの吸血鬼である。
もちろん、一応名目上は査察となっているが。
彼らは、その仕事柄普通の吸血鬼は知らない情報を知っていた。
その中でも特に重要なのが、その吸血本能を満たすのに最適なのは同族の血であることだというものである。
この情報とはつまり処分の際に血を流すなということを伝えているのであり、間違っても吸われることなどないようにとランサーや同業者たちは口煩く言われていた。
遅れを取る気などさらさらないランサーにとっては別段興味のある話でもなかったし、何度も言われなければ覚えてすらいなかったであろう。
そんな位置であったものがランサーの中で変化したのは五年程前の話だ。
アーチャーとランサーが出会ったのは今と変わらず、小さな街のその更に奥、森の中にある小ぢんまりとした教会であった。
元々敬虔な信徒というわけでもないランサーがたまたま立ち寄っただけの街の、しかも外れにある教会に足を運んだのは偶然としか言いようがない。
しかしながら運命と言えるほど甘い関係でもなかった。
しいて言えば、その日もきっと無意識に惹かれて来たのだろう。
その本能の叫ぶ声に。
まだ日の高いうちにそこに訪れたランサーを、神父であるらしい彼は職業然として迎えた。
見た目は二十歳をいくらか超えただけに見えかなり若いが、しかし他に人もいないようだから彼がこの場所の主なのだろう。
こんな田舎の街では十字架を持ち法衣を着ていれば例え正式でなくとも神父もどきにはなれるであろうが、ランサーにはその真偽はどちらでもよかった。
それよりも室内に充満した血の匂いに気が向いてしまう。
綺麗に清掃され、きっと人ではわからないであろうそれを、しかし人ではないランサーの嗅覚は確実に感じ取った。
もっとも、それは人間や吸血鬼のものではなさそうではあるが、だからと言って無視できるものでもない。
所詮流れ者であるし、今日ここに来たのだって気まぐれだ。
別にどう思われようが構わないと、ランサーはその異常を口に出した。
血の匂いが酷いな、と。
普通であれば怒りで追い出されてもおかしくない言葉ではあるが、その若い神父は目に見えるほどに動揺した。
隙など見せないような雰囲気であったのに、それが一瞬で崩れる。
心中と同じく揺れる瞳を見てランサーはああ、と思い当たったように声を上げる。
「そうか、お前血が欲しいのか」
そんなことはない、と瞬時に否定した口と繋がった喉は、それとは反対にごくりと音を立てた。
この瞳をランサーは知っている。
仕事で出会う年端もいかない子たちはみんなこんな目をしていた。
本能に従順な、獲物を見る目だ。
吸血鬼が突然先祖返りでも起こしたのか、何らかの要因が重なってこの年まで処分されなかったのかは知らないが、目の前の彼が血を求めていることはランサーにもよくわかった。
これを処分するのは随分面倒そうだ。ランサーが 最初に思ったのはそれである。
背丈もさして変わらないでろうし、力がないようにも見えない。
ここで暴走されると処分を任されるのは自分だろう。
そう思うと少しばかり血を与えそれを先送りにする方がいい、というのが判断であった。
そのうちに自分は居住を変えているだろう。
ランサーの仕事は優秀であったが、本人としては同じ形をしたものを処分することをあまり是とはしていなかった。
できるのであれば、監視という名で各地を流れているだけの方がありがたかったのだ。
もちろん、血を与えるなど規則上許されることではなかったが、ふたりきりしかいないこの場所では誰が言い触らすわけでもない。
周りに知れて困るのはお互い様、という神のいる場に似つかわしくない心境ではあるが、それもまたランサーには面白く感じられた。
「同族の血は効くぜ?」
「…同族でなど、あるものか」
吸いやすいようにと首を傾けて言うと、きゅっと眉間に皺を寄せて吐き捨てるように返される。
はは、とランサーがそれに笑う前に、ちくりとした痛みが走った。
それがふたりの出会いである。
以降五年間、ランサーは街を起点にふらふらとしながらも、必ず月に一度、満月の夜に教会を訪れる。
誰に頼まれたわけでもなく、確かな理由も言葉にしたことのない逢瀬。
しかしながら、ランサーは飽きもせず通い続けていた。
悪魔の囁きにも似た欲望に耐えるべく祈りを捧げる彼に、その血を与えるために。
ふう、とランサーは紫煙を吐く。
徐々に空が白みだし、そろそろ鳥たちが起き出してきそうな夜明け前。
教会の長椅子に腰をかけたランサーは、己の膝に置かれた頭を空いた手でゆっくりと撫でる。
色の抜けたような白い髪の持ち主はぴくりとも反応せず、ただゆっくりと静かに呼吸をしていた。
くうくうとでも擬音の付きそうな寝息を立ててされるが儘になっている彼は、それだけでその眠りがかなり深いものだということがわかる。
身体を横たえているのは狭く固い長椅子で、枕は男の膝。
ランサーと同じく長身であるため、椅子から足が少しばかりはみ出していて、毎度のことながら寝心地が悪そうだ、とランサーは思った。
教会の二階に自室があり、そこにはしっかりと身体に合ったベッドがあるのだからそこで寝ればいいのに、とランサーは過去に何度か言ったが、結局いつもこの体勢に落ち着いてしまう。
俺も大概甘いな、とランサーは煙草を咥えた。
意識のない、自分とさして背の変わらない人間を二階に運ぶのが面倒、なんて。そんなのはただの言い訳だと自分で自分に指摘する。
血が抜けてぼんやりとした意識の中、それを閉じないようにと煙草を吸って彼が目覚めるのを待っているこの時間が、なんだかんだと言いつつもランサーは非常に気に入っていた。
何かを、取り返しのつかないことをしでかすのが怖い。
この行為の後にまるで意識を失うように眠りに落ちる理由を聞いたランサーに対して、アーチャーはそう答えた。
自分の理性の働かないところに行くのが怖ろしいのだ、と。
そう思うと眠れなくなるのだという。
満月が近付くにつれその眠りは浅くなり時間は短くなる。そうして月が満ちる日、アーチャーは決まって祈りを捧げていた。
どうか何事も起こらないように、何事も自分が起こさないように、と。
つくづく吸血鬼らしくない男だとランサーは思う。
吸血鬼が血を望むのは本能だ。
例えば空腹時に食事を出されてそれを食べない人間がいないのと同じことである。
ランサーとて吸いたいと思わないからそれを行わないだけで、それが当たり前であったならばそこに恐怖など感じなかったであろう。
しかしながらその本能が怖ろしいのだと彼は言い、それを否定する。
それはまるで、人間が吸血鬼を拒絶するかのようだ、とランサーは思った。
「――それ、気になるわね」
ぱたりと本を閉じて黒髪の少女はランサーに言う。
膨大な量の本が壁一面に詰まっている部屋は、少女とランサーしかおらず声がよく響いた。
本を棚に仕舞う音が反響すると、少女は乗っていた脚立を降りてランサーの方へと歩く。
最近知り合った吸血鬼が少し妙なやつなのだ、と少女に言ったのはランサーだ。
定期的に、とは言えないような周期でランサーは雇用元であるこの場に赴き、処分以外の仕事である監視の報告をする。
これはその一環、というよりも世間話に近いものであったが、どうやら彼女は少し何かしらの情報を持っ ていたらしい。
「へえ、何か面白い話でも知ってんのか?嬢ちゃん」
部屋の中央に置いてある机に頬杖をついてそう言うと、ランサーは紅茶のカップを口元へと持って行った。
少女もまたその向かいへと座ると、そうでもないわよ、と近くのメイドを呼び寄せる。
紅茶を用意するように言うと、メイドはゆるりと一礼をして部屋から出て行った。
少女――遠坂凛は吸血鬼である。
それも吸血鬼を管理する一族の当主、それが二十歳にも満たない容姿の少女の職であった。
もっとも、この容姿も凛の年齢とは大分と相違がある。
ランサーの寿命はほぼ人間と同じなため成長速度もさして変化はないが、凛はその血筋の関係上人間の十倍の寿命を持っていた。
だからこそ、ランサーよりも年上でありながら十代の容姿を保っているのである。
ランサーがこの職に就き、彼女を上司とする以前から、彼女は吸血鬼を管理していた。
いつからそれをしているのかはランサーもよく知らない。
ただ遥か昔、その生の長さから吸血鬼の管理を任された一族の末裔が彼女であり、種族を纏める長として長年ここに全ての情報が集まってくるのだということは知っていた。
ランサーたちのように処分を任された吸血鬼にその指令を下すのもここである。
「十年前、一度処分に失敗しているの」
くるり、とその琥珀色の水面を混ぜて、彼女はカップを持ち上げる。
その紅茶を持ってきたメイドはもうここにはおらず、反響するのを怖れるかのように声は小さかった。
へえ、そりゃあ。言いかけたランサーの声も自然と小さいものとなる。
「けどいいのかよ。こんなとこで俺にそんな話をして。バレちゃあいろいろとまずいだろ」
「あら、あんた口は堅い方だと思ってたんだけど。まぁ言い触らすつもりならそれ相応の覚悟を持って頂戴?」
にこり、と容姿に似合わない笑みでランサーを見て、凛は言った。
さすがに自身の生まれる前から管理をしてきたような吸血鬼に喧嘩を売るほどランサーも馬鹿ではない。
嬢ちゃん、と砕けた呼び方をしていても、凛の上司としての能力を認めてはいるのだ。
冗談だ、と短く笑うと、それで、と話を促す。
いつになく真剣な瞳で凛を見るランサーに、彼女はふうんと面白そうに声を上げて、カップをソーサーの上へと戻した。
「…十年前の話よ、ある一報が入ったの。血を求めている吸血鬼がいるってね」
「へえ、そんな話あったか…?」
十年前と言えば新人に近かったとはいえランサーも既に職に就いている。
処分の話があれば真っ先に話が来そうなものなのだけれど、とランサーは首を傾げ記憶を遡った。
公にはなっていないの、とその様子に凛は補足を入れる。
「まずわたしのところに話が来たのだって、全てが終わったあとに等しかったわ。その手の情報を一般の吸血鬼からも求めているのは知っていると思うけれど、これもそのひとつだったの。一般の情報だから、普通であれば一報があってから人を派遣して真偽を調べ、その上で処分を下すことになる」
まぁ知っての通りよ、と肩から滑り降りてきた艶やかな髪の一房を後ろへと流して凛は言った。
ランサーはああ、とひとつ相槌を打っただけで、続きを求めるように口を閉ざす。
「けどその一件だけは違ったの。ある日の夜、ひとりの男がここに一報を入れたらしいわ。吸血鬼に襲われている、助けてほしい、ってね。とにかく必死な様子だったから、ここの職員はとりあえず近くの処分担当者に連絡して見に行ってもらった。近く、とは言っても言われた場所は近隣の街とも離れた何もない辺鄙な田舎町でね、到着したのは深夜を過ぎた頃だったらしいわ」
そこまで言うと凛はカップの紅茶をくるりとスプーンで回し、ゆっくりとそれを口に運んだ。
「それで…ってそのまま捕まってりゃあ話にはなんねぇよな」
「そういうこと。担当者が行った時にはもう手遅れだったらしいわ。噛み跡があったし血を目一杯吸われていたから間違いなく犯人は吸血鬼だろう、って話にはすぐになったの。けど犯人の情報は何ひとつわからなかった。誰も聞いていなかったのよ、その特徴だとかを。これじゃあ探しようがないでしょう?」
深夜とは言え杜撰だわ、と吐き捨てるように言って凛は最後の一口を飲み切る。
かちゃり、と小さく音を立ててカップがソーサーへと戻された。
はは、と凛の言葉にランサーは苦笑を返す。
「そりゃまぁ、仕方ねぇ部分もあるだろ。基本的に相手はガキだって先入観がこっちにはあるんだ。派手に暴れはするが、所詮子供。思考も行動範囲もたかが知れてる」
「…まぁ、わたしもそう思って油断してた部分は否定しないわ。実際、取り逃がして情報もない、ってわかっても、待ってればそのうち尻尾を出すと思っていたのよ」
血を求める吸血鬼は基本的に子供だ。
吸血鬼と人間との間に生まれ、この世に着いた瞬間から本能でしか生きられないような構造をしている彼らは、その手足が自由になるとそれに従い行動をする。
被害が出る前に食い止めようと考えると、自ずと彼らと対峙する年齢は下がっていくのだ。
だからこそ、処分の方法を教わるにしろ覚えるにしろ、自分よりも身体的に未発達な子供を基準に考える。
もちろんそれ以外の処分に関わることも全て同じく、子供であることが前提となっていた。
それは長年当たり前のように続いていたことであり、誰もがまさかそれが 抜け道になると思っていなかったのだ。
「吸血鬼の血を得たと言っても長くて半年も理性を持てればいい方、むしろ味を占めたのなら早い段階で次の行動を起こすと思っていた。けど一年経っても二年経ってもそれらしい人物は現れない。最初は躍起になって探したものだけれど、結局手掛かりもないまま十年よ」
どう、面白くないでしょう。凛はそう言って笑う。
ランサーの言った純粋な“面白い”とは意味の違うそれに彼は、嬢ちゃんらしいな、と苦笑を漏らした。
なるほど確かにこうも油断していたとなれば面白くもないだろう。
先代が不慮の事故で亡くなって以降、若いうちからひとりきりで同族を取り纏めている凛にとってこの失敗は早々に解決したい案件でもあるのかもしれない。
「まさか、怪しいからひっ捕まえて来い、なんて言わねぇよな」
「そんなわけないでしょ。吸血に関する思考なんか人それぞれだもの、普通に生活しているだけで何を理由に連れて来いって言うのよ」
失礼ね、と言わんばかりにふんと鼻を鳴らせて凛は言った。
それからひとつ息を吸うと、けど、と続ける。小さいわけではないが、低く落ちた声。
「人間や吸血鬼を襲ったら別よ。証拠がないから見逃しているだけで捕まえたいことには変わらないんだから」
とん、と自身の首筋を指で示す。
ここ、と言外に言われたそれにランサーが鏡のように首へと触れると、ざらりとした絆創膏の感覚。完治しきっていない先日の跡だった。
「怖い、なんて感情は経験しなきゃわかんないものよ。さて、その彼は最初に一体どこでそんな経験をしたのかしら」
「…さあて、な」
ふと視線を逸らしたランサーに、凛はふうん、とひとつ声を出す。
暗に、黙っているつもりならそれでいいけれど、と言っているようなそれであった。
実際のところ、ランサーはその真実など知らなかったのだけれど。
「まぁいいわ。…ただ、面倒を見るなら最後まで見なさい」
「まるで犬みたいな言い方だな」
「あら、あんたに犬扱いされるなんてよっぽどね」
うるせぇ、と短くランサーが笑うと、とんとんと扉が控えめにノックされる。
凛を呼ぶ声がその後ろに続くと、ランサーは立ち上がりくるりと凛に背を向けた。
じゃあな、と片手を挙げひらひらと振ると、扉の方へと歩く。
先程指摘した傷跡だけでここまで呼び寄せる証拠くらいにはなるだろうに、凛はそれをしなかった。
十年以上の付き合いになるが、彼女はなんだかんだ言いつつ長になるには少し優しすぎるとランサーは思っている。
ランサーが血を与えていることくらい彼女にはお見通しであったであろうに、現状何の問題もなければ、と私情を置いてランサーを帰すのだ。それも丁寧にランサーに釘まで打って。
それに応えなければならない、とランサーはひとつ息を吐いて扉を開けた。
ああ、でも。
吸血鬼を襲うほど血に飢えていたものが、それに怖れを抱くのだろうか。
とんとんと規則正しい音を立てる手元を見ながら、ランサーは、わからねぇな、と呟く。
月の表面の半分ほどが見える夜、ランサーは教会を訪れていた。
絶対的周期として月に一度はこの場所に足を運ぶランサーではあるが、それ以外にも気まぐれにこうして教会へとやって来る。
基本的には昼食や夕食をいただきに、時として他愛のない話をするだけで帰ることもあるが、今日はただ夕飯時にそこを通りがかったという理由であった。
彼の姿を見つけたアーチャーは、いつものように軽い口調で訪ねて来たランサーにひとつ息を吐いたが、これもまたいつものことながら追い出すことはしない。
帰れと一言言えばランサーとて無理強いをするつもりもないのだが、それを言わないのは彼に多少なり負い目があるからだろうか。
なんとなく理由の目星はつけていても、実際にそうだと肯定されると温かく美味しい食事が懺悔のように見えそうで、ランサーはそれを問うたことはなかった。
ただ、ふらりと現れて食事をして他愛もない会話をして帰る、それだけ。
それは満月の逢瀬と同じく理由を明確にしない行為だった。
否、きっとお互いに明確にすることを怖れているのだ。
だからこそ、お互いがお互いを真実どう思っているのか、それを知ることのできないまま、ゆるゆるとした関係を続けている。
それをランサーは今まで特に気にしたことはなかった。
来る者を拒まず去る者を追わず、風の吹くままに居場所を転々としてきたランサーにとって、他人のことはあまり重要ではなかったのだ。
しかし、今になってそれが仇になるとは思わなかった。
ランサーは軽く頭を掻く。そういえば自分は、この吸血鬼のことを何ひとつ知らなかったのだ。
この、血を吸うことに怯え、眠りを拒み祈りを捧げるような吸血鬼が同族を襲うのだろうか。
例えそれが正解だとしても、殺めた後に償うこともせず逃げ隠れするのだろうか。
この五年でランサーが見てきたアーチャーが思い違いである可能性ももちろんある、しかしそれを判断するにはランサーには証拠が少なすぎた。
ああ、頭を使うのは苦手だ。
ランサーは、なあ、とひとつ声をかける。
なんだ、と短い相槌は来るが、視線は手元から動かずアーチャーは手際よく料理の支度をしていた。
「――吸血鬼の血って美味しいのか?」
すとん、と包丁がまな板に落ちる。
僅かに目測よりずれたのか、それはアーチャーの指を傷つけ、見る見るうちに赤い血が溜まった。
あーあ、とランサーはそれを見て、未だ固まったままのアーチャーの指を取ると口へと運ぶ。鉄の味が口に広がった。
「…こんなん、俺には鉄の味にしか感じねぇんだけどな」
二、三度それを舐め取ると、口内から離しアーチャーを見る。
色の薄い鋼のような瞳とランサーの視線は合わず、答えあぐねているのか宙を彷徨っていた。
「答えねぇんならそれでもいいんだ。俺の血だけでいいなら何の問題もない。ただよ、他のやつらに手を出しちまったら、俺もどうしようもねぇんだわ」
そういう仕事なんでな、とランサーが言うと、色素の抜けた髪を軽く撫で台所から離れる。
ランサー、と背中にかけられる声に振り返ると、先程とは違いしっかりとした意思を持った瞳と目が合った。
「その時は、君の職務を全うしてくれ」
「…よっぽど、自信があるんだな。さもなきゃ死にたがりか?」
本能に逆らってまで生きたいと思っているのだからそれはないか、とランサーは笑う。
本能に従った先にはランサーと同職の仕事現場だ。それはアーチャーとてわかっている。
本当に死にたいと思っているのならば、本能を抑える理由もないであろう。
「死にたくはないさ。しかし、きっとそうなるのだろう」
「止められるなら止めてくれた方がありがてぇんだけど。こんな職業をしていて言うことでもねぇが、同族狩りは趣味じゃない」
せめてここを俺が離れるまでは、と言いかけてランサーはやめた。
一度見逃してからそうすればよかったものを五年もずるずると続けているのは自分自身だ。
これから先、離れる予定もなければその決心すら固まっていないものを口に出しても仕方がない。
むしろ決心をしなければならないほどに居着いてしまった自分にランサーは少し驚いた。
そんな内心を知らずアーチャーはランサーの言葉に短く笑う。
おかしくて、というよりは自嘲めいた笑いであった。
「――ならば安心するといい。私は同族でなどないからな」
そういえば、そんなことを聞いた気がする。
ランサーの脳裏に遥か昔のように感じられる記憶がふと通り過ぎた。
しかしながらそれはただの自虐の類であると、ランサーはそう思っていた、けれど。
ああ、確かに違うもののようだ、と。
ランサーがふとそう思ったのは、薄れていた種族の本能の部分が伝えたのかもしれない。
仕事をこなしてきた回数は決して少なくないというのに、こんな吸血鬼を自分は今まで見たことがない。
なるほど、だからこんなにも惹かれるのか、と。
ランサーは静かに納得した。
人に個人差があるように、吸血鬼にもその差は存在する。
例えばその寿命や身体能力も、人間に比べれば全員が高い基準を有しているが個人の差にはかなりの開きがあり、ほぼ人間に近い者から混ざることのできない程に人間離れした者まで様々だ。
ランサーなどは寿命が人間に近い分、身体能力は人間を遥かに超えている。
逆に凛は寿命が長い分身体能力はあまり人間と変わらない。
もちろんそれは必ずしも反比例するわけではないが、同じ吸血鬼であってもその差にはかなりの違いがあり、自然と個人の在り様にもばらつきが生じる。
吸血鬼をひとつの種族として纏めているのは凛であるが、あらゆる理由からその決定に従わないという者も少なからず存在していた。
吸血鬼がどれほど本能を残しているか、言い換えればどれほど吸血欲求があるかもまた、同じように種族の中での個人差がある。
現状殆どの吸血鬼はその本能がかなり低下し、血に対する味覚や身体的反応も人間に近いものとなっているが、極僅かその本能を残している吸血鬼が存在するという話は長い間まことしやかに囁かれ続けていた。
もっとも噂によれば彼らは本能で血を求める人と吸血鬼の子とは違い、理性を持ってその本能を抑えているらしい。
だからこそ表立って存在が知れることはないが、ひっそりと静かに獲物を狙っている、という怪談のような話だ。
彼らは血を啜るその性質から、存在していたとしても凛の統治下には入っておらず、この広い世界では見つけることすら不可能に近い。
普段の言動や行動はおそらく普通の吸血鬼と同じであろうし、現行犯でなければ尻尾を掴むことすら儘ならない状態だ。
実際見た者もおらず、存在を信じる者もいれば子供を躾けるための親の創作だと笑う者もいる。
ランサーも同じく、いたとしてもとうに途絶えているものだと思っていた。
おそらくは凛も頭の中から抜けていたであろう。
十年前、処分対象である吸血鬼が予想よりも育っていて、捜索の目を掻い潜ってしまったのだと、そう考えていたはずである。
昔々の話をしよう。
同族でないと言ったアーチャーは、ひとつ呼吸を置いてそう話し始めた。
都市部から大きく離れた人の少ない田舎町。
隣を森に囲まれ、何もなくそれ故に静かで穏やかの土地の話だ。
旅人だと言って彼が現れたのは数日程前、普段人の来ることなどないそこでは一躍注目の的であった。
彼はまだまだ若く、旅慣れているような年齢には思えなかったが知識は豊富。
都市部との交流などあまりない住民にとっては、それがいかにおかしなことだとしても、そういうこともあるのだ、と言えばそれで納得してしまう。
人当たりのいいその人は話題性もあってよく人に囲まれていた。
数年前からこちらに移り住んできた一人暮らしの男とは、境遇が似ていたのか最初から一緒にいることが多く、自然と宿はその男の家に。
大して見るものもない、人も少ない場所だからどうしてこんなところへ、と皆気にはなっていたが、元より話題の少ない土地に久々にやってきたニュースであったから誰もそれを直接聞くことはなかった。
そうして初日から数日経った深夜の話に戻る。
彼は行動を起こした。
寝ている男を起こさないように静かに身体を起こすと、ゆっくりと部屋を出ていく。
彼は吸血鬼であった。正体は隠しているが男もまた同じものであり、それに気付いた男は久々に見た同族に少しの間だけでもと世話を焼いたのだ。
しかしながら男は彼の秘密を知らなかった。
否、言われたところで信じたかどうかも怪しいであろう。
彼は、吸血本能を色濃く残す吸血鬼であった。
血を美味に感じ、それを求めてふらふらと放浪している、吸血鬼。
この場所に来たのも人が少なく吸血鬼の追っ手から逃れやすいと踏んだからだ。
閑静な土地を求めてやってきたという男がいたのは予想外ではあったが、それも彼にとってはあまり関係のないこと。
さてどこからいただこうか、とごくりと喉を鳴らせる。そこまでは殆ど完璧であった。
本能を剥き出しにし、いざ吸おうと動き出す寸前、男が目を覚ますまでは。
彼と目が合った瞬間、男は出てきた家へとすぐさま踵を返した。
これは、やばい。
防衛本能とも言える部分が全てを察し、大きな音と共に扉を閉める。
そうしてすぐに一報を入れた。気が動転してしまい、助けてくれ、とそれだけ言うのが精一杯。
あの目は危険だ。
きっとこれが普通の人間であればわからなかっただろうし、安易に彼に近付いていたかもしれない。
すぐに人を寄こすとは言っていたが、こんな田舎ではそれもいつになることか。
夜はまだ長い。対策を立てなくては、と息をひとつ吐いた瞬間、がらりと窓が開いた。
一部屋しかない場所では逃げることもできない。
男の記憶はそこで終わった、であろう。
舌を転がる瞬間、喉を通る感覚。全てが彼の知っているそれと違っていた。
ああ、吸血鬼の血とはこんなにも美味しいものなのか。
夢中でそれを吸っているうちに男はぐったりと重くなり、彼はそれを手放す。
入って来た窓から抜けると、姿をくらませるように人気のしない田舎町を抜けた。
喉が渇く。それは単に水分が足りなくなったというわけではない。
彼は今まで人間のそれしか得たことがなかった。
だから、初めて摂ったそれに身体が過剰に反応してしまったのだ。
まるで中毒のように先程のイメージが脳裏に焼き付き、何度も繰り返す。
走っても走ってもそれは抜けず、日が昇ってやっと隣町へと辿り着いても消えることはなかった。
朝になり通りに人の姿が現れるようになる。
ああ、美味しそうだ。しかしこんな場所ではすぐに見つかってしまう。
彼はきょろきょろと得物を狙うも、そう簡単に吸血鬼が見つかるわけもなく、ふらふらと町を歩いていた。
どれくらい経っただろうか。
疲れ果てて裏路地で足を止めていると、ふと下から小さく声をかけられた。
腰ほどの身長の子供が、心配そうに彼を見る。
どうやらあまりに酷い顔色だったために声をかけたらしかった。
しかしながら彼にとってそれはこの上のない僥倖に近い。
もはやそれが人間であっても何であってもよくなっていた。
この喉の渇きを少しでも潤してくれるのであれば、と。
彼は子供の肩を掴み、その首筋に噛みついた。
子供は至って普通の少年であった。
静かな町に住み、両親はいないが町の制度によって何とか不自由をしない程度には暮らしている。
その日も学校へと通う道を歩いていた。
裏路地は人が少ないが学校までの近道になるためよく子供は使っていたのだ。
治安も悪くなく、あるのは落ち葉やゴミだけ。
だからそこに人がいるのは珍しく、しかも顔色が悪かったためについ声をかけてしまった。
ぐっと身体を押さえられ、首に痛みが走る。
暗くなっていく視界と同時に、何かが抜け、そして何かが入って来た。
暗く静かな部屋。腕の中で重くなる男。飲み込んだそれは蕩けるように甘い。人気のない道を走る。
そうして、声をかける自分を見下ろす、視点。
ふと子供が気付くと、血の気がなくぴくりとも動かない自身を抱き抱えていた。
ひっ、と息を吸ってそれから手を引く。
どさりと音を立てて子供は地面に落ちた。
口元に触れるとぬるりとした感覚。手を見れば赤くべったりと何かが付いている。
その掌は見慣れたそれではなく、もっと成長した、しかし発展途上のもの。
子供――彼は逃げ出した。
そりゃあ、と口を開いたランサーは、その後に続く言葉を思いつかず宙を見る。
アーチャーの話は少しばかり長いものであり、まだ脳内の整理が追いついていなかったのかもしれない。
「…同族ではない、というのはそういう意味だ。同族と言うのもおこがましい存在なのだからな、私は」
「いや…あー、なんだ、聞きたいことはあるんだが、何から聞いたらいいのかさっぱりだ」
時間も場所も凛に聞いた話と合致するため、それを線で結ぶことはできたランサーではあるが、あまりに自分の理解から離れた話だったため、ここで話題を切ることもできないが言葉を発することもできない状態に陥ってしまった。
ランサーはどちらかと言えば、そういった吸血鬼がいることを信じていなかったし、いたとしてもまさか自分が出会うとも思っていなかったのだ。
「…結局お前はどっちなんだ?」
「どっち、と言われると難しいな。記憶は両方あると言っていいだろう。ただ吸血鬼であったこの身体の方はかなり曖昧だがね。身体に関しては知っての通りだが、混ざったからか吸血鬼だとは知覚されにくくなっているようだな」
君とて最初は気付かなかったのではないか、とアーチャーは言い、そしてくるりとランサーに背を向ける。
腹が減っただろう、と置かれていた野菜を再び手に取り、料理を再開した。
暗にこれ以上の話をする気はないと言われているようであったが、しかしランサーはぐっと足に力を入れ、子供は、と問う。
再び始まりかけた包丁の音が数度鳴っただけで止んだ。
「…子供は、死んだのか」
「さて、な。その後すぐに巡教に来ていた神父に弟子入りし世界を周っていたから、話にも聞いたことはない。私自身に自覚はなかったが、きっと特殊な体質だったのだろう。それが生命の危機に反応してこのようなことになってしまった。今の状態は謂わばこの身体の主の精神を殺し乗っ取ったようなものだ」
しかし、とアーチャーは言いかけて、それから何事もなかったように包丁を動かす。
ランサーは止めたそれを鸚鵡返しで尋ねるが、その続きをアーチャーは言わなかった。
何度かそうして見るが口を開くことはなく、ランサーもそのうちに無理をして聞くことでもないと諦める。
それよりも、聞いた話を整理することで精一杯であった。
しかし、生きているとすれば。彼はどうしたというのだろうか。
温かい食事を終え、食器を洗う音が響く中、アーチャーは振り返ることもなくランサーに声をかける。そういえば、と。
「君の質問に答えていなかった。――君の血は酷く美味しいよ、ランサー。動物に手を掛けていた頃には戻れなくなるのではないかと、私はそれが怖ろしい」
「…そうか」
ならば戻れなくなればいい。
このままこの関係を続ければいいのではないか、と。
ランサーは職業に似つかわしくない言葉を脳裏に浮かべたが、それを口に乗せることはなかった。
言ったところできっとアーチャーは笑って流すか、否定をするのだろうけれど。
この関係、だなんて。
背中を向けるアーチャーをランサーは見つめる。
例えばここで、彼を抱き締めたとしたら何かが変わるのだろうか。
そのいつでも引き締まった唇を奪えば。
きっと彼は拒否をしないだろう。
今日ランサーが押しかけて来たのと同じように、結局受け入れてしまうのだ。
ただ、ランサーが血を与えているから、それだけの理由で。
だからランサーは思いついたそれをふるふると否定して、帰るわ、と玄関へと歩いた。
この関係を明確にしなかった理由に、ランサーは行き当たった。
否、思い当たってしまった。
自身の好意を、代償として受け入れられるのが怖いのだ。
きっと彼はそれを当然としてしまう。
アーチャーの生殺与奪の権利を殆ど握っていると言っていい状態の今、ランサーがそれを口にすることはとても難しいことであった。
「…弱ぇの、俺」
星空の中に浮かぶ月を見ながら、ランサーは呟く。
さっぱりとした関係を好むのであれば、それすらもわかった上で伝えればいいというのに。
いつの間にこんなにねちっこくなってしまったのだろう、とランサーは短く笑う。
月が満ちるまで、あと半分。
アーチャーと最後に会ってから数日が経った頃。
ランサーはいつもの街を抜け、近くの少しばかり大きな街へ来ていた。
理由としてはさしたるものでもない。
近隣の同業者を集めて情報交換をするというありきたりなそれであった。
とはいえ情報は凛のいるところから流れてくるのが殆どで、この集まりも ただの近況報告会に近いものではあるが。
そうは言えどランサーも別段嫌いではない。
そこそこに気心の知れた仲間と歓談をして彼らを見送り、帰るのも面倒になったランサーは安宿にでも行こうと本日の寝床を探していた夕暮れ。ふと後ろから声をかけられた。
それに足を止めて振り返ると、何をしているんだとでも言いそうな顔をしたアーチャーと目が合う。
手には中身の入った紙袋を持っていることから教会で入用のものがありそれの買い出しとでも言ったところであろうか。
ランサーとアーチャーがあの場所以外で会うことはあまりない。
正体が知れることを怖れるアーチャーが教会からあまり出ないというのが理由ではあるが、それでもこうして会ったのは初めてのことであった。
「仕事関係。つってもまぁ適当に喋ってただけだがな。そっちは買い出しか?」
ああちょっと、とがさりと袋を揺らせてアーチャーは言う。
「今から帰るのか?」
「いや、やることは終わったが面倒だから泊まろうと思って。お前は?」
確かに、陽は沈んでしまうであろうがまだ街には帰ることのできる時間である。
帰るつもりだが、とアーチャーもそれに答えたため、それじゃあお供しようかね、とランサーはアーチャーに寄った。隣にまで来ると、ゆっくりと歩を進める。
いつもと同じように他愛もない話をしていた。何もおかしなこともなく、こうして街に行くのも悪くないかもしれないとランサーが考えていた時。
アーチャーの横を街の人間だろう少年が通った。
ランサーたちよりも頭ひとつは小さいであろう、まだ成長途上の身体。
それをランサーと同じく横目に見ていたであろうアーチャーは、荷物を掌から落とし、大げさに振り返る。
しっかりと確認したであろう時間じっくりと少年を見て、それからその背を目掛けて走り出した。
いきなりのことに、とりあえずと袋を拾っていたランサーは慌ててアーチャーを追う。
しかしながらその動きは早く、ランサーが彼に追いついたのは近くの目立たない路地に入ったところだった。
路地には人気もなく、やっと人がふたり隣に並べるかと言うくらいの広さしかない。
ランサーは壁側に押さえつけられている少年を見た。
十代の後半くらいであろうか、その大きな琥珀色の目が不安げに揺れているのがよくわかる。
「…おい、何があったか知らねぇが落ち着けよ」
「これが落ち着いていられるものか。ああ――やっと見つけた」
掴んでいる肩に力を込めたのであろう、少年の顔が苦痛に歪んだ。
これはいけない、とランサーはアーチャーの肩に手をやり、とりあえず離してやれよ、と声をかける。
しかしながらアーチャーはその言葉を手の甲を弾くことで応え、視線すらも合わせなかった。
「…生きているかは曖昧だったが希望を捨てずによかったようだ。この顔に見覚えはあるか、小僧」
「何の、話」
「わからないか。記憶が飛んだのか、それとも私が持って行ってしまったのか…。まぁそんなことはどうでもいい」
会いたかったよ、“オレ”。
アーチャーは笑っていた。
それはしかし普段ランサーが見るようなものではなく、もっと狂気を孕んだ、思わずぞくりと悪寒がするようなものだ。
何を、と。ランサーが言えたのはそれだけだった。
殺すつもりなのだ、とそれだけは本能的にわかる。
しかし少年はただの人間のようだ。それであれば自分は止めなければならない、とランサーは思った。
「わからないか、ランサー。“こいつ”は特異体質の子を噛んだことでこうなってしまったんだ。ならば、そいつをもう一度噛めばどうなるか。もしかしたら戻ることが、否、この身体だとしても人間になることができるかもしれない」
「そんなの、ただの想像でしかねぇじゃねぇか!俺の目の前で人間を襲うってこと、わかって言ってんのか?」
「ならばどうすればいい!これは私の希望だ、他に方法など思いつかない」
一週間程前の答えがランサーにはやっと辿り着く。
しかし子供が、自分の身体が生きているとすればどうしたか。
そうしてそれを言うことでアーチャーは事が阻止されるのを怖れたのだ。
それほどにこの願いは強い。けれど、それが遂行されるのをこのまま見ていることもできなかった。
ランサーはもう一度彼の肩に手を置いてこちらに顔を向かせる。
「言ったよな、こいつは人間だって。冷静になってもう一回考え直せ!ここで襲ったら二度と満月に教会には行かねぇからな!」
「好きにしろ!最初から頼んだ覚えなどない!」
子供のような会話だ。
ランサーとて冷静な部分ではそれをわかってはいたが、それよりももっと表層の部分で自分を抑えることができなかった。
右手を拳にしてその頬を殴りつける。
少しばかり重たい音を立ててアーチャーは地面に崩れ、僅か呻き声がそこから上がった。
「…ならお前も好きにしろよ」
そう言ってランサーは踵を返す。袋はそのままそこへ置いた。
あれだけ血を吸うことを怖れていたアーチャーがただひとりの人を襲うことに躊躇しなかったことに愕然とした、だとか。
自身の言うことに従ってくれなかった、だとか。
そういう理由ではなかった。
もっと言うのであれば、職務を全うしていないと言われようが、ここでアーチャーが少年を襲うことすらもランサーが感情的になった理由ではない。
最初から、あの行為は頼んだものでも頼まれたものでもなかった。
そんなこと、ランサーとてわかっていたはずの事実だというのに、それをアーチャーの口から言われたことが堪らなく辛かったのだ。
その通りだ、と理性的な部分ではわかっていても、それでもあれが何かしらふたりにとって特別なものであるのではと、ランサーは期待していたし、実際ランサーにとっては特別であった。
そんな簡単に、切ってしまうものなのか、と。
戸惑いすらもせずにばっさりと言えてしまう程度のものであったのか、と。
そんなの、あまりに女々しいじゃないか。
ランサーはひとつ舌打ちをした。
しかしそうして臆病になってしまう程に本気であったのかと思うと、自嘲めいた笑いさえも込み上げてくる。
月は形を取り戻そうとしていた。
月が昇った。
ランサーはそれをいつもの場所とは離れた街で見上げる。
空気が澄んでいて、それが綺麗な円を描いていることがよくわかった。
己を呼ぶか、それとも呼ばないか。
確かめることが怖く、しかし言ってしまった手前顔を出すこともしたくはないランサーは、こうして声の聞こえない場所で月を見ている。
あの後すぐに近隣から離れたため本当に噛んだのかはわからないが、それすらも確かめれば何かしら行動をしなくてはならないと思うと、見て見ぬふりをしていた方がいいような気がして調べることもしなかった。
悲願であるのならば、きっと実行したのだろう。
その結果がどうであったかなどランサーにはあまり興味のないことだ。
ああ、けれど。
月を見たところで思い出すのは彼のことばかりだ。
「――ばっかじゃないの」
「…返す言葉もございません…」
満月の日から一週間程経って、ランサーは凛の元を訪れていた。
一応先日の話の追加情報を持ってきたという目的ではあったが、それに加えていろいろと話をしていると凛の表情は徐々に苦いものへと変わっていく。
そうして最後に出た言葉がそれであった。
ランサーとしても自分が完全に正しいとは思っていないため、言い返すこともできない。
「職務としてそんなやつを放って帰るのも馬鹿だけど、その理由がそれってどうなの。あんたにしては珍しく短い間隔で来たと思えば…報告は別に恋愛相談じゃないのよ」
「いやまぁ俺だってする気はなかったけどよ…話の流れでそうなっただけで」
どうだか、と凛は半目でランサーを見た。
机下にある足を組み直すと、まぁいいわ、と口に紅茶を運ぶ。
「情報としてはいただいておきましょう。もっとも、証言だけじゃどうしようもないけど。こんな例、わたしだって聞いたことがないし」
「まぁ、だよなぁ」
かちゃり、と陶器同士の触れる音。
それに話の終わりを感じてランサーは席を立つ。
話の流れがどうなったとしても今日の予定は先日の続報を伝えたかっただけだ。
情報がしっかりと受理されたのを確認すれば、あとはここにいる必要もない。
「――ねぇランサー」
静かに呼ばれた声に、ランサーは目をやる。
窓もない本に囲まれた部屋であるから、外を見ることはできないが、それでもどこか室外を見るように凛は視線を遠くにやって、続けた。
「その彼は、本当に血を吸ったのかしら。もしそうだとしたらどう転んでも騒ぎになりそうなものだけれど、わたしは聞いてないの。あんたも教会に行ってないんでしょう?まぁ、これは杞憂だといいんだけどね」
「…それは何だ、要するに近くの街を襲わないか、って話か」
「非情な話だけれど、長として心配するのはそれよ。自滅してくれるなら特に問題じゃないもの」
そう言うと凛はひとつ息を吐いて、視線をランサーへと戻す。
「ごめんなさい、体よく頼ってるのは自分でもわかっているの。今ならまだ、鎖を切られた後だと他人事にできるわ。これは命令でもなんでもない、ただのわたしの想像よ。…けど、それをもう一度拾ったら、そう決めたら」
――面倒を見るなら最後まで見なさい
前に言った凛の言葉が蘇った。
その時は、まるで犬みたいな言い方だとランサーは言ったが、あいつは違うなとランサーは少し笑う。
首輪をしていない猫のようだ、いつも警戒を張り巡らせて、最後まで本心を明かそうとはしない。
凛は暗に様子を見て来いと言いたいのだろう。
それがランサーを体よく使うことになっていることもわかっている。
何事か起こっていればランサーが彼を殺すことになるのだから、そう簡単に声に出して行けとは言えないのだ。
だから、彼女はそれを選ばせた。
ここで無関心を選べば、きっと誰か違う吸血鬼が様子を見に行くのだろう。
問題があればその吸血鬼が処分をする。
優しすぎるな、とランサーは思った。
「何、ただ手を引っ掻かれただけだ。そんなんでびびってたら何にもできやしねぇよ」
「…今まで散々びびってたやつがよく言うわ」
ランサーの言葉に凛は柔らかく笑う。ランサーはひとつ決意を固めた。
久しぶりだ、とランサーは思う。教会の入り口に立って音の鳴る扉を開けた。
久しぶりも何も、丸一月来ないこともあったというのに、たった二週間程来なかっただけでこんな風に思ってしまう。
教会は 静かで、人の気配すらない程であった。否、いるはずであるのだ。ここに来る途中の街で近況を聞いてきたが、神父様はご病気らしくて臥せっている、と言っていたのだから外には出ていないだろう。
だとすれば、生命力がそこまで希薄になっているのか、あるいは人がいると思われたくないのか。
いつもの主の前には見知った姿はなく、ランサーは二階へと階段を上がる。
小さな居住スペースがあるだけのそこは、あまり入ったことのないアーチャーの寝所であった。
ぎしり、と音を立てる階段に、二階の何かが動く気配が少しする。
ランサーは歩を速めたい気持ちを抑えてゆっくりとその扉の前まで来た。
「――アーチャー?」
呼びかけた声に中の気配はびくりと反応する。
肯定の声も否定の声もなかったが、それ故にランサーはその扉を開いた。
がちゃり、と音がして視界に広がる室内、鼻孔に入ってきた空気にランサーは少し顔を顰める。
血の匂いがする。
きっと中に入れば人間でもわかるであろう程に濃い匂い。
その最奥で薄い布団に包まった人影を見つけた。
「よお、アーチャー。元気そうでなによりだ」
顔色は悪く、いつも上がっている前髪はへたりと落ちたまま。
何故来たのかと驚愕に揺れる瞳は生気もあまりなく、元気には到底見えなかったが、ランサーはいつものように声をかけた。
いつも、満月に教会で最初にかける言葉だ。
「…止めろ」
一歩ランサーが踏み出すと、小さくその白いシーツの塊が動く。
絞り出すような声には抑揚もなく掠れていたが、明確な意思もまた存在していた。
「止めろ、来るな。頼む、止めてくれ。…もう来ないのでは、なかったのか」
拒絶というよりは懇願に近い声。
ふとランサーが部屋を見回すと、大して物のない部屋ではあったがそれでも床にいろいろなものが散らばっている。
台所ですらきっちりと片付けていく彼の部屋がこうも汚いわけもないだろう、だとすれば片付けるだけの気を向けることができなかったのだ。
よく見れば彼の持っているシーツにもところどころ黒く変色している部分がある。
それがランサーにはすぐに乾いた血液であるとわかり、眉間の皺を深めた。
「来ないつもりだったんだけどな。…まぁ結果的には来てよかったって感じだな」
「何をそんな…来ないのならば永劫来ないでくれ。そうやって惑わして、絶望するのは誰だと思っている」
ゆっくりとランサーは距離を詰める。
アーチャーは後ろへ下がるが、元より壁のためそれは縮まるばかりだ。
止めろ、と言いながら押しのけるように手を前に出すが、それに力はなくランサーに簡単に掴まれ振り解けなくなってしまう。
「絶望、したのか?俺が来なくて。そんなに血が欲しいなら他のやつにすればよかったのに。何でもいいだろ、俺が来るまではそうしてたんだ」
「ああ、そうだな。…そうだとはわかっている」
最低だ、と吐き捨てるようにアーチャーは言った。
ランサーが掴んでいる右手を見ると、その腕にはいくつもの噛み跡。
なるほどこの血臭の原因はこいつであったのか、とランサーはひとつ納得をした。
自分のそれなんていくら飲んだところで腹も膨れないだろうし、血はなくなるのだから逆効果でしかないことぐらいアーチャーとて知っているだろうに。
「わかっているのに、できなかった。全部だ。結局あの小僧にも何もできず、血が欲しくても動物すら手に掛けることができない」
こんなの、最低だ。絞り出すような声と共に、右手をぎゅうと掴む。
下りた前髪が顔を幼くさせ、それは縋っているようにも見えた。
「ずっと、君を探していた。来ないと思っても、君のことばかり考えて。いついなくなっても構わないと思っていたのに、こんな――」
奥でつっかえたように言葉を止めて、そうして泣きそうに瞳を歪めてアーチャーはランサーを見上げる。
「最低だ。君なしで、生きられなくなってしまった」
力任せに右腕を引っ張った。
身長の割には簡単にランサーの胸へと飛び込んでくるアーチャーを抱き締める。
「――ああ、最高の告白だ」
俺も好きだよ、アーチャー。
離さないように力を込めた。おずおずと後ろに回されるそれが、ランサーにはさらに愛おしく感じられる。
静かに唇を合わせると、アーチャーがぴくりと小さく反応をした。
そういえば、唇にキスをすることすらも初めてであったのだと、思う。
「…お前やっぱ童顔だわ」
「うるさい、馬鹿者が」
ぽかぽかとした日差しが窓から降り注ぐ昼下がり。
教会の長椅子に腰かけたランサーは、せっせと掃除をしているアーチャーを見ながら、なんかよお、と言葉をかけた。
あの日から既に二週間程が経ち、しかしふたりの関係が大きく変化したかと問われればそうでもない。
変化があったとすればランサーがこの場を訪れる機会が多くなったくらいではあるが、それも恒常的に続くかどうかはわからなかった。
しかしランサーは昼間のこの場所も気に入っている。
辺鄙な場所にあるからか人もそう来ることはないし、だからふたりでいるには絶好の場所であるのだ。
悪趣味だな、と唯一そこにいる人型を目で見ながらアーチャーは言うが、信心深くもないランサーにとってはどうぞそこで見ていてくださいとでも言う程度のことだ。
「元気そうだな、満月近いのに」
「…ああ、まぁ、そう見えるかね」
手を止めてランサーを見るアーチャーに、何かあったのか、とランサーは笑った。
凛を伴ってあの少年の元に赴いたのは数日程前のことだ。
顛末を凛に話し、丸く収まったことに安堵の言葉を返されると次に飛んできたのは好奇心に塗れた言葉だった。
どうやら特殊な事例であるそれに対して、長としてではなく個人として興味があったらしい。
危害を加えず、相手の了承があるのなら立ち合いたいと凛が言ったのをそのままアーチャーに伝えると、目を丸くして動きを止めた。
いいのかそんなので、と言われた言葉に返すものをランサーも持ってはい なかった。
しかも再度街へ出て少年を見つけ話をしてみれば、荒唐無稽にも見えるはずの話をあっさりと受け入れて了承したのだからランサーも閉口しかない。
そうして数日前その日は訪れた。
人気のない場所で指の腹を少しばかり傷つけ出てきたそれを舐め摂る。
それだけでも十分でしょう、とは凛の言葉であるが、なんだか異様な光景だなとランサーは思った。
髪の色などが違うが、この少年はアーチャーによく似ていた。
年齢が少し違うから雰囲気に違いはあるが、こうなってしまった十年前の彼であれば双子と見紛うほどであっただろう。
もしかしたら、だからこそこういった事例を生んだのかもしれないが、それを解明するなどランサーには不可能な話であった。
その行為の時間は短く、しかし劇的に変化があったわけではない。
固唾を呑んで見守っていたランサー達であるが、それで、と少々怖れるような声で聞いた凛に何事もないとアーチャーが返すと一気に雰囲気が緩んだ。
「よくわからないけど、力になれなかったみたいだな」
この少年には幼少期の記憶がないということだから、何故こうなってしまったのかだとかそれに対して申し訳なさそうにする理由もないとランサーは思っているのだが、至極すまなそうにアーチャーを見ていた。
「いや…ああ、そうか」
私が間違っていたのか、と。
アーチャーは誰に言うでもなくそう一言だけ呟いた。
その表情はとても穏やかで、きっと何か絡まっていたものが解けたのだろうとランサーは思う。
結局収穫もなかった凛は少し不満げにしていたが、ランサーにはその表情だけで十分だった。
「自身の血が今までよりも入ったことで吸血鬼の本能が薄まったのか、あるいは精神的な部分で多少落ち着いたのか。そのあたりはわからんがね」
君と凛には感謝しよう、とアーチャーはゆっくり口角を上げる。
何も変化はなく、それでもいいと思っていたランサーではあったが、僅かばかり変化はしっかりとあったようだ。
「まぁ、いいんじゃねぇの」
ランサーはそう言って太陽の光の差し込む窓を見る。
天井近くにあるそれは、座っているランサーには首を高く上げなければならなかったが、それがまた空を見上げているのと同じような気分にさせてくれた。
昼間は光に隠れて見えないそれを探るように目を細める。
「――もうすぐ満月だな」
「そうだな」
また、この場所で。
静かに響くアーチャーの言葉に、ランサーは、ああ、と静かに瞳を閉じた。
Comments
- そーNovember 28, 2017