アニメーションの路地裏から 廣瀬和好インタビュー 第2回 高校中退
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■高校進学〜中退
山下 高校は、美術系でしたよね。
廣瀬 中退しましたけど、私立の本郷学園高校のデザイン科(現 本郷高校)。あの頃、美術科がある高校って、東京には日大鶴ヶ丘か都立工芸か本郷しかなかったの。「偏差値」が入試に導入されたので美術の教師が「お前は無理だから鶴高は受けるのは無駄だ」と……、都立は実技試験がないから必然的に……(苦笑)。将来は、漫画業界か映画業界で、グラフィックの仕事に就きたいと云う想いがあったんですが、学校になじめませんでした。
デザイン科なのになぜか「漢字」の授業があって、毎週漢字だけをひたすら書かせる授業があったり、問題がわからないとすぐ殴る数学の教師がいたり、心が折れかけていました。担任は贔屓が激しい人で、教室でトラブルが起きると話も聞かずにまず「廣瀬、またお前か?」と決めつけてくる人でした。卒業後の話だけど、仲人を頼んだ同級生がいたほど評判が良い側面もあったようですが、僕は当時、目の敵にされていました。デッサンにおいては“優秀な成績で大学を卒業した”と自負していた担任で、授業で僕が描き終えた石膏デッサンの左半分を無言で消して、そこに担任がデッサンを描き「この絵を参考に右半分に君のデッサンを描きなさい」って強制してきて「完成するまで帰さないから」と立ち去る。僕は担任の絵を消してから下校する、なんてことを繰り返していました。
漢字はね、「看板屋になったらフリーハンドで看板に文字を書く時、役に立つ」という考えに沿って組まれた授業らしく「明朝体とゴシック体を覚えたらレタリングの検定試験受けてこい」と指導される。将来は看板屋で喰っていけるぞみたいな感じで……。
部活は、漫劇部(まんげき・漫画劇画部)に所属しました。のちに漫画家として有名になる……4期先輩の秋本治さんが作った部です。1973年は、当然のことながら “山止たつひこ”も誕生していません(注:秋本治は当初、当時『がきデカ』が大ヒットしていた“山上たつひこ”の名をもじって、このペンネームを使っていた)。漫画を読むだけの部員と、肉筆回覧誌を描いて漫画家を目指す部員とがいました。僕もケント紙を買ってきて1本描いて肉筆回覧誌の1冊に綴じられていますが、ずっと後に部室で火を出したと聞いたので、焼けてしまって残ってないかも知れません。
入部してすぐに、“虫プロや東京ムービーに見学に行く”という恒例イベントがあると聞かされたのだけど、全然乗り気になれない僕の顔をみて、部長が「お前、どっかで見たことあるな」と言い出したの。「!」と、部長の顔をよく見たら、前年に虫プロの資料室でアルバイトしていた時に見学に来た高校生がその部長だった(笑)。「お前、あの時の……」「て、ことは中学生だったのか? 偉そうだったな」……と大笑いしました(笑)
部活は楽しかったのだけど、担任の言葉いじめが酷くなっていくし、2学年になったら、1学年で学習したことを丸々復習する授業になってきて、学費や画材費が見合わないな……と退学を決めました。貧乏だったし。
■アルバイト
山下 高校に入ってからもスタジオ通いは続けていたんですか?
廣瀬 続いていました。少し、話を戻しますが、初めて虫プロを見学したのが1970年の中学一年生で、劇場用の『クレオパトラ』(1970年9月15日公開)の公開直前で、テレビでは『あしたのジョー』(1970-71)の制作中でした。
東京ムービーでは『巨人の星』(1968-71)、『アタックNo1』 (1969~71)を制作中。撮影の三沢勝治さんは、虫プロの江古田スタジオから東高円寺の東京アニメーションフィルム(虫プロ撮影部の先輩、清水達正さんが設立した初の撮影専門スタジオ)に移られて『ルパン三世』(1971-72)の撮影監督をされていて、お電話すると「昼飯喰いに来いよ」って、昼時に来るよう指定されました。
まず撮影スタッフの皆さんに混じって店屋ものをごちそうになり、そのあと線画台の脇で作業を眺めながら夕方まで相変わらず長閑な時間を過ごさせて貰っていました。三沢さんの机の上の絵コンテやシナリオを覗いていたら「それ、あげるよ」って貰えたシナリオを持ち帰って読んでいたら……同じ話数なのに放送された題名とは違うのがありました。あとで尋ねると「それボツになったホンだ」と……。当時は、放送開始直後に路線変更があったなんて知らなかったから「印刷までした脚本を書き直すのか? 贅沢だな」とずっと思っていました。……ここら辺りまでが中学生時代。
73年、高校生になってから、夏休みに杉並プロというスタジオで『ど根性ガエル』(1972 -74)仕上げのバイトをしてみました。動画とセルの間にカーボンを挟んでトレスマシーンに挿入すると、鉛筆の炭素に反応(炭素に反応するその技術は、のちにプリントゴッコに繋がっている)してカーボンがセルに焼き付けられる仕組みで、目からウロコな時代になったなと感じました。通称“マシーンがけ”は、単純な作業でしたが、ガラスドラムが高熱を帯びるので1日ずっと続けていると頭がボーとしてくる。夏、扇風機しかない部屋でやる作業ではありません。で、週末は気分転換にとカットを持ち帰って自宅で彩色もしていました。
山下 家で色塗りやってたんですか。
廣瀬 その頃、彩色の単価が一枚35円だったかな? マシーンがけ勤務のバイト代は、蒲田(正確には京浜急行の雑色駅)と荻窪駅の往復の交通費と食事代でほぼ終わっちゃって全然儲けにはならなかったからなのだけど、最終的には「一日潰してこれだけ?」みたいな収入。高校生活唯一の夏休みは、労働に明け暮れました。
山下 今で言う「やりがい搾取」。
廣瀬 そうは思ってなくて「経験」(苦笑)。プロの仕事に参加出来た喜びが大きい。彩色を自宅でやる場合、持ち帰るカットに必要な絵の具のガラス小瓶(100〜150gだったか?)を自分で持って帰るのだけど、これが重い(笑)。レギュラーキャラクターの肌の色、口の中の色などは良く使うから複数本必要で100本超は揃えないと対応できませんでした。
マシーンがけの時の話に戻りますが、面白かったことがありました。カット袋がいつもより重かった日がありました。「?」となって、一連の袋の中を確認したら、“動画”だけじゃなくて“原画”も入っていて、その原画が、動画の枚数と同じ枚数だったのです。通常は、色指定を施した後、カット袋から原画も作監修正も外されて「動画と撮影シート」だけの状態なのに、違ったの。原画と動画を見比べてみたら、クリンナップされた動画として十分使えるぐらいの原画(所謂ラフな線では無い)でした。中割り指定もなく動画はその原画をトレスしただけでした。
山下 ええっ? 普通、原画って動きの大事なところ(キー)だけが何枚か描いてあって、その間の絵は動画担当の人が中割りをして描くものですよね? Aプロでは原画担当が全部の絵を描いていたってこと?
廣瀬 (その一連のカットに限って言えば)動画の人は原画をクリーンアップするだけで良かった。推測の域を出ない話だけど、Aプロ社内の動画マンを育成する為に先輩が考案した新人育成方法の一つだったのではと思っています。
山下 作画監督は芝山努さんとか小林治さんですね。
廣瀬 Aプロは、東映動画出身の方が作った会社で。
山下 楠部大吉郎さんですね。
廣瀬 『ど根性ガエル』は、シリーズを通して動きが特徴的で、かなりの部分の裁量が演出家からアニメーターに委ねられていたのだろうなと思って僕は見ていましたから、フレームの中を右に左に動く原画を目の当たりに出来てとても興奮したことを覚えています。今でも時々見返す作品ですね。
実は、『ルパン三世』の頃からAプロにも顔を出すようになっていて、制作の人に「もう君はどの部屋に行っても大丈夫だから、二階に行っておいでよ」と促されていたのですけど、二階は作画の部屋(今から思えば、大塚康生さんも宮﨑駿さんもいらしたんですよね)で、人見知りの僕としては階段の途中までしか行けませんでした。怖気付いてしまったんです……。当たり前の話ですが、二階はとても静かでした。階段の途中から見て覚えているのは、壁に『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968)の岩男のセルが貼られていた事だけです(苦笑)。
Aプロでは、制作の皆さんによくしていただきましたが、特に優しくしていただいたのが真田芳房さん(故人)でした。「Aプロダクション」が「シンエイ動画」となり田無に移転して、その後、新社屋に移転しないで残ったチームが “あにまる屋”(現「エクラアニマル」)で、その創設メンバーの一人が真田芳房さんで、初代社長。ずっと優しく接していただきました。
■子供時代の劇場の思い出
山下 『ホルス』は劇場でリアルタイムでご覧になっていますか?
廣瀬 観に行きました。小学四年生……。 『ホルス』は、ホルスと狼の走りとか、岩男の登場の冒頭のシーンとか、雪狼に襲われるヒルダとか、画面移動や構図、アニメートの印象的な場面が跡切れ跡切れに記憶に残っていました。絵が止まったシーンは「なぜ?」と(苦笑)。
翌年の『空飛ぶゆうれい船』(1969)の併映で『飛び出す冒険映画 赤影』って3D映画があって、赤青の立体メガネで観る場面になると赤影がカメラ目線で「さあ、眼鏡をかけて見よう」って合図をくれるのを笑いながら観ていました。
山下 あー、僕はそれ、『飛び出す人造人間キカイダー』(1973)で経験してますね。
廣瀬 『空飛ぶゆうれい船』の新聞広告は“塗り絵”になったキャンペーンがあって、広告が線画だけで構成されていました。“色を塗って映画館に持っていくと割引されるよ”って(笑)。当時、親父の職場が五反田だったので、五反田東映まで連れて行ってもらって、割引料金で観ました。後日、それはロビーに貼り出されていて、めでたく入賞した賞品が本編のセルでした……。
初めてセルを手にしたので「これはなんだ? どんな素材?」と余白部分(セルは横長のシネマスコープサイズで、キャラクターの左右は空いていた)をハサミで切ってみたり、親父の使っていたハンダ鏝(コテ)の先で溶かして穴を空けてみたり。機械を前にしたらまず分解したくなる少年そのものでした。今もそのセルを持っているのですけど、穴が空いています(笑)。
余談ですが、当時の東映動画(現 東映アニメーション)は、劇場用作品のセルトレスに、Xeroxと共同で調整した独自のゼロックス機が使われていて、カーボンを裏から転写するトレスマシーンとは違い、セルの表側にラインが写される仕様でした。線もかなり細かった。
山下 じゃあやっぱり、小学生の頃からアニメや映画への興味は人一倍あったということですね。当時のゴジラとかウルトラマンとか、特撮の方の興味はなかったんですか?
廣瀬 『ウルトラQ』(1966)から『ウルトラマン』(1966-67)、『ウルトラセブン』(1967-68)は見ていましたが、『帰ってきたウルトラマン』(1971-72)あたりで見なくなりました。怪獣映画もゴジラが「シェー!」とかやるようになって、なんか違うんじゃない?と感じ始めた処に、円谷英二さんが亡くなったと知りました。『ゴジラ対ヘドラ』(1971)は、予告編を観ただけで、観に行ってない。映画は、怪獣映画の流れなのか「クレージーキャッツ」と「若大将」の東宝映画しか観てない。東映は「まんがまつり」の時だけ、大映と日活は、高校生になるまで縁がなかった。
今はもうない川崎駅ビル文化で、観る機会のなかった虫プロの『展覧会の絵』(1966)が、大島渚監督の『儀式』(1971)と二本立てでかかると知り観に行ったら「君、何歳?」と問われ「成人指定があるから観せられないんだ」と断られたことがあります。まだ背が低かったから歳を誤魔化せませんでした。声変わりもしてないし(笑)。「手塚治虫の作品だけ観たい」と食い下がったら「じゃあ上映時間に出直して来ればそれだけ観させてあげるよ」とタダで入れてもらえました。親切にされたのに、僕は映画が終わっても帰らないでそのまま残って『儀式』も観ちゃいました(ごめんなさい)。どこが成人指定なのかさっぱりわかりませんでしたけどね(笑)。
■ 虫プロ倒産〜サンライズへ
廣瀬 話が行ったり来たりしてますが、高校を辞める前の年の73年に虫プロが倒産しました。
漫画月刊誌「COM」の出版であり、商品化営業をしていた “虫プロ商事”が8月に倒産して、債務保証をしていた親会社の虫プロダクションが11月に連鎖倒産してしまいました。この時すでに手塚治虫さんは経営から離れていて “手塚プロダクション”を設立していたのに、個人補償を迫られて自宅も奪われてしまいました。自宅の敷地内に建てた第1スタジオは、組合が「組合員の生活に必要」と確保していたので、第1スタジオを除いたご自宅の土地は売却され、早々に取り壊されてしまいました。虫プロダクションのスタッフの皆さんは、通常どおりスタジオで作業を続けていました。線画台や編集機材、動画机を労働組合員が労働に必要な社員の財産として確保した訳です。
資料室の飯塚正夫さんは、サンライズに籍を移していたので、高校を辞めたので、「仕事ありませんか?」ってお電話したら「何ができる?」って。「色塗りぐらいしかできませんけど」と返すと「それだったら仕上げの仕事やるよ」って。「上井草においでよ」って言われてサンライズを訪ねてみました。それが1974年5月。その時点ではまだサンライズスタジオを知らなくて、西武新宿線にも乗ったことがなかった。
サンライズは、第1作の『ハゼドン』(1972−73)を終えて、2作目のシリーズ『ゼロテスター』(1973-74)を制作していました。虫プロに在籍していた人たち(岸本吉切、山浦栄二、伊藤昌典、渋江靖夫、米山安彦、沼本清海、岩崎正美さんたち7人)が、虫プロ倒産以前に、東北新社の資金を入れて設立したのが創映社。東北新社の資金が入ってない制作現場として運営していたのがサンライズスタジオ。
僕は、16歳の終わりにサンライズで色塗りの仕事を始めることになりました。
つづく



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