美しいものだけ視界に入れる。
東京在住の女性M様から「映画無料券があるから一緒に行こう」とご連絡をいただいた。私の正しい使い方である。映画自体は微妙だったが、観賞後に「微妙だったね」と話す時間は楽しかった。捨てれば捨てるほど運気は高くなると言う話になり、M様は前に買った高級プロテインを全然飲んでいないから捨てようと思うと言い、私は「捨てるなら俺にください。盗賊たるもの、からてでは家に帰れないのです」と言い、なんやかんやあって、M様の家で断捨離祭りをすることになった。
M様は「前に散々捨てたからこれ以上捨てるものはない」と言ったが、それは嘘であった。真の断捨離は、押し入れにモノを納めることではない。押入れの中さえ風通しをよくする。普段は見えない場所も綺麗にするからこそ、運気は高まるのである。M様の家には開かずの間があった。M様は「ここには魔物が棲んでいる。だから、絶対に開けてはいけない」と言った。私は「こいつをやっつけよう。そのために俺は来たのだ」と言った。
凛とした美女であるM様は、開かずの間を開けた途端に過去の自分と向き合うこととなり、へにゃへにゃになり、泣きそうな顔になった。私が「要らないものはメルカリで売ろう。いつかじゃなくて、今、俺がいる間に出品をしよう」と言った。まずはテレビ。一年以上見ていない。M様は「私のオタ活のために必要なんです」と、往生際の悪いことを言った。一年以上触っていなかったら、人間だったらグレる。置くなら愛する。愛せないなら置かない。モノに対する人間の責任である。
途中、発狂しかけたM様を連れて散歩に出た。一回離れることで、客観的になることができる。M様は「捨てたくないと思ったけれど、やっぱり捨てます」と言った。散歩後、怒涛の勢いでM様は出品をした。だが、最後の砦、魔物の前では再び生命力を失った。私の出番である。死に支度の鬼(私)は、秘密の魔法をお披露目して、魔物退治に成功した。M様の家に余白が生まれた。部屋だけではなく、押し入れにも余白が生まれた。奇跡は余白に舞い込む。間違いなく、近日中にM様に素晴らしい出来事が舞い込むことになるだろう。
モノを捨てると言うことは、新しいモノを手に入れる資格を得ることである。失ったのではなく、得たのだ。私たちに『いつか』はない。今使わないものは、永遠に使わない。美しくないものを視界に入れない。美しいものだけを視界に入れる。M様からいただいた金目のものを両手に抱え、ほくほくした気持ちで帰路についた。私が「盗賊みたいだね俺は」と言ったら、M様は「いい盗賊だよ。この年齢になると、親でもここまで詰めてくれないからね」と言った。盗賊は盗賊でも、人々から感謝をされる盗賊団団長、俺、今日も行く。
それは野暮
私の尊敬する方に、力強く真っ直ぐ心に届く表現をする文筆家の先生がいます。昔、その大先生に「是非お会いしたい」と連絡をして会ってもらったことがあります。私としては、一生の間に幾度もないくらいの思い切った行動でした。先生の綴る文章は、科学的な根拠は何もないのに生命的であるとしか思えず、「科学を表現する」という自分の仕事の方向性に行き詰まっていた私は、藁にもすがる思いで連絡をしたのです。
待ち合わせ場所である喫茶室に現れた先生は、今風の服装にも関わらず、野武士のような琵琶法師のような、無頼の空気を纏った男性でした。そして驚いたことに、まず私に一輪のガーベラを手渡してくれました。見ず知らずの私に花を準備してくれていたのです。
席につくなり私は、自分が科学を表現する仕事をしていることを伝え、客観的な科学を踏まえた上で心に届く表現をすることの難しさを語り、先生の文章が素晴らしいと思ったこと、その表現の源がどこにあるのか教えて欲しいと頼みました。続いて先生に、「なぜこんなにも的確な生命的表現ができるのですか?」「先生が書いておられたあの言葉はどこから発想されたのですか?」「どんなことを勉強してきたのですか?」などと矢継ぎ早に質問をしました(今思えば礼儀を欠いた行為だったと反省します)。しかし先生はほとんど何も言いません。私が10回喋って1回だけ何かが返ってくるといった具合で、「うーむ…」と言って横を向いたり、下を向いたり、頭を掻いたり頭を抱えたりするばかりでした。
助言を引き出したくて焦った私は、ふと自分の手元にあるガーベラを見て「なぜ、プレゼントが花なのですか?」と尋ねました。すると「それは野暮だね」と即座に答えが返ってきたのです。「言葉にするなんて、野暮ではありませんか。花がきれいだと思ったなら『きれい』でいいし、花をもらって嬉しかったなら『嬉しかった』でいいのですよ」
この発言に私は何とも言えない衝撃を受け、「ありがとうございました。では、帰ります!」と言って、一方的にその場を切り上げてしまったのです(これも非常に礼儀を欠いた行為でした)。先生の驚きが混じった苦笑いは忘れられません。
「言葉にするなんて野暮だ」という先生の発言は、私が期待していたものとは正反対の内容でした。やはり表現のコツは自分で掴めということなのだろうか、とさえ考えた帰り道、ふと先生の様子を思い出して気づいたのです。彼は初対面の私に向き合い、じっと話を聞き、かけるべき言葉をずっと一生懸命に考えてくれていたことに。「言葉はアナログではなくデジタルである」と、永田和宏館長はよく言います。人間は、言葉として浮かんでくることより遥かに多くのことを考え、言葉にできることより遥かに多くのことを感じているはずです。私がお会いした先生の元にはいつも多くの人が訪れるそうです。ただ話してみたいという人もいれば、家族との関係に悩む人、大切な人を失った人など、事情は誰一人として同じではありません。先生はその一人ひとりに花を差し出し、話を聞き、分かり合えた時は共に喜び、そうでない時は共に傷付いてきたのでしょう。
先生の才能だと思っていたものが優しさだと気づいた時、それをただ羨んで盗もうと考えていた自身の浅さと、自分に向けられていた優しさに気づけなかった後悔が重なって、道の真ん中で大泣きしました。表現は等身大の人間がするものであり、生身で感じ紡いだ言葉にこそ力があるのだと、リアルな先生に会って初めて気付いたのです。何かを言葉にしようとか、決まった形にしようとする前に、まず対象とする生きものや人、現象の全体に眼を向け、感じ、考え、ゆっくりと形にしていくこと。それ以来、私が肝に銘じるようになったことです。
おおまかな予定
3月10日(火)東京都渋谷区界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
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ばっちこい人類!!うおおおおおおおおお!!


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