「あ、プロデューサーさん」
書類仕事が落ち着いて、一息入れようとデスクから立ち上がったときのことだった。向かいの席のはづきさんに呼び止められたので、首を傾げて先を促すとはづきさんは少し照れくさそうに笑った。
「いえ、ちょっと気になったものですから」
はづきさんはぺたぺたとスリッパを鳴らしながら俺の近くに寄って来ると、首元に手を伸ばしてきた。
「緩んでます」
「ああ、ネクタイですか」
「はい。午後からは外勤でしたよね。しっかりしなきゃですよ」
「そうなんですけど、こうも暑くなって来ると」
「ですよね~。梅雨も明けましたし、いよいよ夏本番ですね」
そんな会話を交わしながら、はづきさんのされるがままになる。彼女は一度俺のネクタイを解くと、ささっと手際良く結び直した。
「よしっと。こんな感じでどうでしょう」
「ありがとうございます。手馴れてますね」
「小さい頃、父親にやってあげてたんです」
「ああ、なるほど」
「それにしても……ふふ、何だか照れちゃいますね」
「え? 何がです」
「ほら、何と言うか……こうしてると、その、新婚さんみたいだなあって」
はにかむように頬を綻ばせるはづきさん。
一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかったけれど、遅れてその意味を理解した。途端に気恥ずかしくなり、頬が熱くなる。
「はづきさん、いきなり何を……」
「えっ……あ、あははっ、私なに言ってるんだろ」
暑さのせいかな、と顔をパタパタ手で扇ぎながら、はづきさんは自身のデスクに戻っていった。
俺は熱を散らすように頭を軽く振って、何事もなかったようにはづきさんの方へと向き直る。
「──それじゃ、外回り前に休憩取ってきます」
「あ、はい。どうぞ、ごゆっくり」
いつものように声をかけて、いつものように返事を貰った俺は、そそくさと事務室を後にした。
◇
リビングのドアが開いたのは、コップ一杯の麦茶をちょうど飲み干したときのことだった。
「──あ、プロデューサーじゃん」
「透か。お疲れ」
ソファの背もたれ越しに振り返ると、トレーニングウェア姿の透がドアの前に立っていた。
「休憩?」
「ちょっと一息な。透も何か飲むか? レッスン終わりだろ」
「ん、ありがと。でもいいや」
言いながら、透は持っていた500mlのペットボトルを軽く振って見せる。
「水あるし」
透はペットボトルをテーブルの上に置いて、俺のはす向かいに腰を下ろした。そして短く息を吐く。今日もなかなかのハードレッスンだったらしい。
「午後からはオフだからゆっくりしてくれ」
「うん」
「あ、でも、疲れてても昼飯はちゃんと摂るんだぞ」
「大丈夫。これからみんなで食べる予定」
ノクチルのみんなで、ということだろう。俺は「ならOKだ」と一つ肯いて、コップを手に立ち上がった。キッチンに入り、しっかり洗ってから片付ける。
リビングに戻って時計を確認するとちょうどいい時間だった。
「よし、それじゃ今度は俺が頑張る番か」
「これから外なんだ」
「ああ。気合入れて仕事取ってくるよ」
そう返しつつ、凝り固まった筋肉をほぐすために、ぐっぐっと体を伸ばしていると何やら視線を感じた。リビングには2人しかいないので、この視線の主はもちろん透だろう。
「どうした。何か用でもあったか」
「……ん、ちょっと気になるかも」
それ、と透は俺の首の辺りを指し示した。
「ネクタイ?」
「そ。いつもと結び方違くない?」
「……結び方?」
そう指摘された俺はネクタイを見下ろした。角度的に見難かったが、確かにいつも自分でやる結び方とは違っている。
「ああ、これか。よく気付いたな」
「まあ──うん。普段ネクタイだから」
「そういえばそうだな」
「結び方変えた?」
「いや、そうじゃなくて──って、透?」
俺の言葉を遮るようにソファから立ち上がった透が、目の前まで距離を詰めてきた。ふわりと爽やかな柑橘系の香りが鼻腔をくすぐる。レッスン終わりだから、たぶん制汗剤の香りだろう。
「結び直していい?」
俺を見上げて透が言った。
「……え?」
「こっちのが似合うと思う。プロデューサーには」
目を伏せた透が、そっとネクタイに触れてくる。
「じっとしてて」
とても落ち着いていて静かな声音だったが、何故だろう──ほんの少しだけ鋭利な感触もあった。素直に肯いて身を委ねることにする。
透の白く細い指が俺のネクタイをくるくると躍らせた。
「プロデューサー、いつもはプレーンだよね」
「名前はよく分からんが……一番基本のやつだな」
「けど、今はダブルノットになってる」
「そうなのか」
「やってもらった? 誰かに」
淡々とネクタイを結びながら、透は言う。
「──て、別に誰でもいいんだけど。……ん、よし。こんな感じで」
俺が答えを口にする前に、またも透に遮られてしまう。透は結び終わったネクタイの上から俺の胸をポンと軽く叩いて、小さく笑みを零した。
「これ、オススメ」
似合うじゃん、と言葉を続けて、透は再びソファに腰を下ろす。そしてテーブルの上のペットボトルを取り上げると、キャップを捻った。
「ええと、透……?」
「エルドリッジノットってやつ」
「……なるほど。でもこんな難しい結び方、俺には出来ないぞ」
「あー」
「今度、時間あるときにでも教えてくれ」
「ん、りょーかい」
そう呟くように言って、透はミネラルウォーターに口を付ける。
俺は微かな戸惑いを覚えながらも──「じゃあ、そろそろ行くな」と声をかけて、リビングを出ようと踵を返した。
「──プロデューサー」
呼び止められたのは、ちょうどドアノブに手をかけたときだった。振り返ると、ソファの背もたれに頬杖をついて、そっぽを向く透の横顔があった。
「気を付けてね。暑いし」
「ああ。分かった。ありがとう、透」
「うん」
それは、いつもと同じようで、いつもと少し違う午後の始まりだった。
この後暑さで死んだんだよね…