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【槍弓】酔いどれスーヴェニア/Novel by 藤野

【槍弓】酔いどれスーヴェニア

93,562 character(s)3 hrs 7 mins

現パロ/槍弓

※色々とご都合主義。
※モブキャラが登場します。
※ヘタレ度割り増しの少女漫画みたいな話。ヘタレとヘタレの恋模様。
※いつも通りポエム度が高い。
※うだうだとすれ違う、両片想いを見守りたい人向けの槍弓。
※イベント参加したかった!!という気持ちを込めて。

220104:書き下ろし執筆の関係で本文差し替え(※本筋は変更なし)

【お知らせ】
1/9開催 第36次ROOT 4 to 5 にて発行しました本をBOOTH(倉庫発送)にて通販いたします。
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1
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   一


二面のディスプレイを忙しく往復する鋼色は、いつも以上に真剣そのもの、画面以外のものは一切視界に入れないという気迫すら感じさせた。褐色の長い指が踊るようにキーボードを叩き、文章を淀みなく作り続けていく。予定よりも順調に埋まっていく資料に、これならば余裕をもって完成させられるだろうと思ったが、それでも手を休めることなくキーボードを叩き続けた。
(……ふむ、今日はここまでか)
脳内で完成までの道筋と必要なものを整理した男はぴたりと手を止めた。間違いが起こる前に、とデータの上書きを行い、ようやくキーボードから手を離す。
首を左右に倒せば人体からは聞きたくない音が聞こえ、男は眉間のしわを寄せた。明らかに身体が悲鳴を上げている。そういえばずっとこの体勢だったな、と今更なことに気づいた男は、両肩をぐぐっと上げて落とすという仕草を数度繰り返した。そうすれば、少しだけ身体が楽になったような気がして、男は先程とは違う意味の息を吐く。
ちらりとディスプレイの端を確認すれば、定時まで残り三十分のカウントダウンを始めていた。それは、今週が終わるカウントダウンでもある。
いつもなら定時など気にならない上に、気づけばその時刻を何時間も越えているような日々だ。だが、毎週この日だけ、意識が自然と時計に向かった。今日は金曜日。『お楽しみ』はもうすぐだ。
手持ちの仕事で急ぎのものがないことを確認してから、デスクの端に置いてあるレターケースの一番上の引き出しを開けた。書類を取り、パラパラと枚数を確認する。経費精算や申請書類など、様々なタイトルが混ざった書類を見て男は、うむ、と頷いた。これくらいなら、残り時間で確認できるだろう。そう判断し紙の束をデスクに並べ、男は別の引き出しから承認印を取り出した。
「……んん?」
素早く、けれど丁寧に書類を捌き、最後の書類に辿り着いた男は思わず低い声で唸る。明らかに不備だらけだ。
「……営業部に、行ってくる」
がたりと立ち上がった男を、まわりのデスクに座る社員たちが見上げる。問題の書類は週明けに直させても良いものだったが、男の性格上それはできなかった。今直せるものは今直す、が仕事上での男のモットーである。そしてなにより、書類の提出者に今すぐ文句を言ってやらねば、という思いでいっぱいだった。
(こんなに不備だらけでよく提出する気になれたな……!)
名前すら書いていない書類だったが、記入部分の筆跡とこれまでの悪しき実績から、エミヤはたったひとりを思い浮かべていた。芋づる式に幾度となく注意してきた内容も思い出して怒りは増すばかりだ。その怒りを抱いたまま、男は自分の部署を飛び出した。
その背中を『心得ている』社員たちはどこか楽しそうに手を振って見送ったが、新人社員だけは目を丸くしていた。上司の男は仕事に厳しいが、感情に任せて怒る人物ではなかった。普段にはない怒り方に驚きを隠せない新人へ、先輩の女性社員が苦笑いを向ける。真ん丸な目に、いつか自分もあんな風に怒られることがあるのだろうか、という怯えを読み取った先輩社員は、新人を安心させるように言った。
「大丈夫よ。エミヤ課長があんなに風に怒るのは、あの人にだけだから」
他の社員たちもうんうんと頷くが、新人にはわからない。あの人? という問いに、慣れた社員たちは、今にわかるよ、と笑うだけだった。

そんな部下たちのやりとりを知らない男―総務部・総務課の課長であるエミヤはずんずんと通路を進んだ・エレベーターで他の階へ移動して、更に突き当たりのドアへと向かう。白髪に褐色という、この国では珍しい色彩を持ち、前髪を上げてきっちりとスーツを着こなす長身の男。世界的に展開しているこの企業において、同世代よりも早く肩書きを得たのがエミヤという男だ。その真面目すぎる性格と堅実な仕事ぶり、そして、とあるふたりと並ぶ姿があまりにも有名だった。幸か不幸か、エミヤ本人は自身が有名人だということに微塵も気づいていないのだが。
持っている書類にしわを作りそうになりながらも、どうにか耐える。『営業部』と書かれた扉を遠慮なく開け、総務課の課長はまるで道場破りのように声を張った。
「失礼。ラ……クー・フーリンはいるか!」
響く艶のある低音に営業部の面々が顔を上げた。訪問者の顔を見て思い思いの表情になったが、エミヤは彼らには目もくれず、まっすぐに書類が山積みになったデスクへ向かう。何人もの社員が向い合わせで並ぶ端、いわゆるお誕生日席と呼ばれるその席に、シャツのボタンをふたつほど外し、腕捲りしたラフな格好の男が座っていた。
「おー」
ひらり、白く長い指が宙を払う。椅子に浅く座る男は、怒りを持ち込んだ訪問者に怯えることもなく、むしろ余裕ありげに笑う。青色の髪を後ろでまとめた男は、役職者が座る席に在りながら誰よりも緩い態度であった。
「遠い総務課からようこそ」
色気の滲む声がエミヤを出迎えたが、エミヤはキッと美丈夫を睨みつける。しかし、その鋭い視線を受けても尚、男は笑うだけだ。
「クー・フーリン」
エミヤがゆっくりと、刻むように男の名前を呼んだ。呼ばれた男は、どこか楽しそうに赤色の目を細める。
男は青と赤という強烈な色彩に負けない、すべてを射止めるような目力を持っていた。鼻筋は通り、無邪気でもあり男臭い笑みも似合う、どこか人間離れした顔立ち。誰がどう見ても美しいと答えるような「美」のかたまりである顔に、エミヤは遠慮なく問題の書類を突きつけた。赤色の視線が穴だらけの書類に注がれる。
「君は何度言えばわかるんだ? この不備は何度目だ? 私の仕事を増やして楽しいか?」
まさに一息。流れるような苦情を一気に吐き出したエミヤは、無言で書類の記入箇所をひとつひとつ指差す。勢いよく捲し立てられた青色の男はぱちくりと瞳を瞬かせ、美しい顔を歪ませた。ちっ、と小さく舌打ちすれば、褐色の表情も歪む。
「……んだよ、こまけぇな。それくらいお前がちょちょいっと直しとけよ」
めんどくせぇやつだな、と言わんばかりの態度に、エミヤはそれまでの我慢を無駄にして、書類をくしゃりと曲げた。
「貴様は馬鹿なのか。これは本人記入の書類だ!」
「だァれも気づかねぇって!」
「うるさい、黙れ! さっさと直せ! たわけ! 名前も書いていないとは……自分の名前くらい、小学生でも書けるからな?」
「あー、はいはい。スミマセンデシター」
「っ、君な、謝る気がないなら、謝らなくていいぞ!」
「いぃや? お忙しくて石頭な課長殿のお手を煩わせてしまって? 申し訳なく思ってますよ?」
「き、貴様……ハッ、残念ながら、こちらはルールを少しも曲げられない石頭なものでね? 石頭な私にも処理できるような完璧な書類にしていただきたいのだが、小学生よりも幼いらしい営業マン様にできるかな?」
「アァ? てめぇ、馬鹿にしやがって……!」
「それはこちらの台詞だ……!」
正直、ふたりとも小学生レベルだろう。ああ言えばこういう、といった止まらないやりとりに、その場にいる者たちの思いはひとつだった。
定時間際、週の終わりに攻防を繰り広げるふたりの男。営業部のクー・フーリンと総務部のエミヤは同期である。片や売上トップを独走する遣り手の営業部主任、片や社内のあらゆる者から「社内のことはエミヤ課長に聞けば大体解決するよね」と絶対的な信頼を寄せられる総務部・総務課の課長。立場や日々の業務が異なるふたりだが、今日のように喧嘩するのは珍しいことではなかった。何せ社内でも有名な〈犬猿の仲〉である。今のように怒り狂って営業部に乗り込むエミヤも、エミヤをおちょくるためだけに総務課に寄るクー・フーリンも、同じ総務課や営業部の面々にとっては日常茶飯事なのだ。それこそ、彼らの喧嘩のようなやりとりに驚くのは配属されてまだ日の浅い新人くらいのもので。そんな新人だって三ヶ月もここにいれば慣れるだろう、というのがエミヤの部下として数年過ごしている社員の見解である。
言い合いを始めれば真面目で知的な頼れる上司も、快活でムードメーカーな遣り手営業マンもいなくなる。ただ、じゃれあう男ふたりがいるだけなのだ。
「あー! はいはい! 直します! 直せばいいんだろ!」
「……ふん」
子供のようなやりとりの結果、折れたのはクー・フーリンだった。仕方ねぇな、と不満そうに言いながらも手を差し出してくる男に、エミヤは満足げに書類を渡す。最初からそうしていればいいのだ、と小言もつけるのも忘れないエミヤに、クー・フーリンは深い溜め息をついたがそれ以上の文句は言わずに書類を眺めた。どこ直せばいいんだよと尋ねる声に、エミヤも一緒になって書類を覗き込む。
「何度も教えただろう……ここと、ここ。あと、ここも丸をつけてほしい」
「へーい」
エミヤの指を目で追いながら、クー・フーリンはデスクの上を軽く叩いた。そこに目当てのものを見つけられなかった男は小さく舌打ちする。
「……ペンがねぇ」
「君な、ペンぐらいすぐに出せるようにしておきたまえよ」
「いや、ここにあったはずなんだが、……どこにいっちまったかね」
「……まったく」
エミヤは自分の胸ポケットに手を伸ばした。ポンとポケットを叩いてから、あ、と小さく呟く。青色と同様に目当てのものがそこになかったことに加え、いつもならあるべきそれがポケットに収まっていない理由を思い出し、何とも苦い気持ちになった。
「あー……、すまない。私も……今日は、持っていないんだ」
エミヤが謝ると青色の男は一瞬だけ動きを止め、いいや、と呟いた。
「別に謝ることじゃねぇよ」
そう言ってから、斜め前に座る社員の名前を呼んだ。ボールペン貸してくれという要望に、弧を描いて投げられたそれを華麗にキャッチしたクー・フーリンは、書類のしわを軽く伸ばしてから、先程指摘された箇所を順番に記入していく。それを見守りながら、エミヤはポケットを定位置としていたボールペンの行き先に想いを馳せていた。
(……どこにいってしまったのだろうか)
お気に入りのボールペンが消えて随分と経つ。どこかにあるだろうとポケットを空けたまま探し続けていたが、こうして使うべきときにないのは不便だ。そろそろ、幼馴染の『赤い悪魔』から貰ったペンの代わりに、新しいペンを胸ポケットにしまわないといけないのかもしれない。
残る最後の心当たりを探して、見つからなかったら贈ってくれた彼女に素直に謝罪しよう。そんなことを考えながら、エミヤは小さく息を吐いた。
「これでいいか?」
「ん? ……あ、あぁ。大丈夫だ。不備はない」
ぴらっと差し出された書類を確認したエミヤは不備がなくなったことを告げた。それを聞いたクー・フーリンはペンを持ち主に手渡し、ぐぐっと背伸びする。その姿にエミヤは小さくため息をついた。
「昼食はゆっくり食べられたのか?」
「ゆっくり……は無理だったが、まぁ、それなりに。本音を言えば、も少しまともなもんを食いたかったが」
「……君はスケジュールを詰め込みすぎだ。やらなくてはならないことはわかるが、休憩くらいはしっかりとれるように、」
「あー! はいはい。わかってんよ。俺だって反省してんだ」
「……わかっているなら、それでいい」
ふん、と鼻を鳴らすエミヤにクー・フーリンは肩を竦めた。それから、あー、と間延びした声を上げる。
「お前の弁当食うためにもさっさと今の仕事を片付けるわ」
「……あぁ、そうしたまえ、ランサー。セイバーと共に中庭で待っている」
エミヤの口から自然と溢れた自分と後輩の「呼び名」に、クー・フーリンは赤色の目を細め、くしゃりと笑う。その笑みを直視できなくて、エミヤは視線を外した。
「……さて、長居してしまったな。次はきちんと書くように」
時計を確認したエミヤは、では、と踵を返した。離れていく背中に、クー・フーリンが呼び掛ける。
「なぁ、アーチャー。今夜飯でも行かねぇ?」
エミヤがゆっくりと振り返ると、青色の美丈夫が人好きのする笑みを浮かべている。その表情に跳ねた心臓へ渇を入れつつ、まるで思案しているかのように視線を動かした。
「……残念ながら、今夜は用事があってね。また今度にしてくれ」
考えたふりだけして、最初から決まっていた言葉を告げる。エミヤの答えにクー・フーリンは一瞬だけ眉間にしわを寄せたが、そうか、とだけ言い、その呟きに見送られる形でエミヤは営業部を出ていった。

   ◇ ◇ ◇

エミヤにとって金曜日は『お楽しみ』の日だ。金曜日に定時で帰るため、日々の業務をこなしていると言っても過言ではない。それほどに金曜日を大切に思っていた。
(先週は行けていないからな……)
悲しいかな、実際のところ、残業を回避し続けるのにも限界があり、大量の仕事が定時退社を許してくれないこともあった。現に先週は『お楽しみ』を奪われている。今週は幾分か仕事に余裕があり――と言っても、今日以外は当然のように残業していたのだが――男は、どうしても今日の定時退社だけは死守したいと、全力で仕事をこなしたのだった。
「うーん、残念ながら、見つからなかったよ。スタッフにも聞いてみたんだけど……すまないね」
「いや……こちらこそ、手間をとらせてしまってすまない。確認してくれてありがとう、ダヴィンチちゃん」
困ったように眉を下げる黒髪の美人に、気にしないでくれという意味を込めて笑いかける。手元で、からん、と氷だけの音がしたので、同じものを、と美しい店主ダヴィンチにお願いした。
空になってしまったグラスをダヴィンチが回収しやすいように前のカウンターに乗せれば、大した待ち時間もなく琥珀色で満たされた杯がそれに並ぶ。琥珀色の一杯を手元に移動させてから箸を持ち直し、今日のおすすめだと言われて注文した野菜と海鮮のフリットの皿からひとつ口に放り込んだ。……うん、シンプルだが、旨い。エミヤはもうひとつ口に入れ、琥珀色を傾けてゆっくりと喉へ流し込んだ。
金曜日の『お楽しみ』――それは金曜日の夜に、一人暮らしの自宅と会社のちょうど中間地点に位置するバーへ行くことだ。酒には強くない。むしろ弱い。だから外では酒を飲まないことにしていたのだが、この場所でだけは酒を楽しむことを自分に許していた。
大通りから小道に入らなければ見つからないこの店を知ったのは半年前のことである。夜は酒を提供しているが、昼間はカフェ&レストランとして運営されているらしい。店の窓際にはグランドピアノがあるが、その生演奏を聞けるのは昼間の営業だけで、夜は会話を邪魔しないようなBGMが流れ続けていた。店自体は特別広いわけではないが、席と席の間はゆとりがあって、それぞれのテーブルでそれぞれの楽しみ方をしている。テーブル席をメインにカウンター席もあり、五人座れるカウンター席の一番左端がエミヤの指定席だった。
トラブルに巻き込まれて帰るのが遅くなってしまった夜に偶然見つけたのだが、今でもエミヤは運が良かったと思っている。出される料理が口に合い、エミヤでも楽しめる酒を教えてもらえ、そして何より聡明な店主ダヴィンチや店員たちと話すのが楽しくて、エミヤは人生で初めて外飲みの楽しさを知ったのだ。初来店以来エミヤは、週の最後の日には出来る限りここに来ることを決めている。
(それにしても……見つからなかったか……)
先程の店主からの答えにひっそりと肩を落とす。書類の訂正が多いこともあり、エミヤのポケットにはいつでもお気に入りのボールペンが入っていた。そのボールペンを見失って早二週間、最後の心当たりであるこの店にもないのなら見つけるのは難しいかもしれない。最後にここに来たあとになくなったから、ここだと思ったのだが。当てが外れたことを残念に思いながら、エミヤはそれをどうやって贈り主に報告するか思考を巡らせた。
そのボールペンは幼馴染である少女から海外留学の土産として貰ったものだった。万年筆とも思ったんだけど、こっちのほうが日常的に使えると思って。そんな気遣いと共に渡され、自身も肌身離さず持っていたそれ。折角の心遣いの品をなくしてしまったことには申し訳なさしかないが……あまり素直ではないが根は優しい幼馴染みのことだ。謝罪すればきっと、仕方ないわねぇ、と許してくれるはずだ。
「そういえば、前にも……えーと、ほら。ネクタイだったっけ? なくしたと言っていたけど、見つかったのかい?」
店主の言葉にエミヤは眉をハの字にした。いいや、と答えれば、店主も困ったように笑い、こっちでもまた探しておくけども、と言った。
「すまないな、ダヴィンチちゃん……ついでに、ブックカバーとハンカチもお願いしたい」
「君、もしかして、物をなくす天才なのかい?」
「……自分でも、自分の才能に驚いているよ」
ジョークのような口調で返しながら頭を抱える。くしゃり、前髪を乱すと、脇から注文していた一皿がすっと現れた。
「はい、エミヤさん。熱いから気をつけてください」
「あぁ、ありがとう、藤丸くん」
「いえいえ。ペンもネクタイも、見つかるといいですね!」
エミヤさんの大切な物ですもんね、とどこか無邪気に笑う黒髪の青年に苦笑いを返す。オレも探しておきます、と心強いことを言ってくれる若者はこの店のアルバイトだ。青年の優しさをありがたく思いながら、エミヤは箸を伸ばした。
社会人になってからもまわりに恵まれて、忙しいものの充実はしている。プライベートのほうは浮いた話こそ一切ないが、休日は趣味の料理を楽しめているし、こうやってお気に入りの場所も見つけられた。派手さはないが、穏やかな幸せを味わえている、とエミヤは思っている。それこそ、これ以上のものは望んではならないと思うほどに。
そんなエミヤの最近の悩みは、飲み過ぎて記憶がなくなることと落とし物の多さであった。どちらもここ三ヶ月ほどの金曜日に起こっている。
仕事の疲れが溜まり気も緩んでいるのだろうか。毎回のようにバーカウンターで酒を楽しんでいる内に寝てしまい、気づいたら自宅にいたという有り様。どのように帰っているのかすらわからず、エミヤは自分の帰巣本能とも言える能力に感謝するばかりだった。通い始めた頃は、そんなことなかったはずなのに。
その上、先程店主に尋ねたボールペンを筆頭に、初めて自分で買った思い出のネクタイ。会社の同僚でもある友人が選んでくれたブックカバー。誕生日に姉がくれた肌触りのいいハンカチ――エミヤ自身も気づいていないだけで失ったものは他にもありそうな気はしているが、少なくとも紛失を認識しているそれらは何故か、金曜日から行方不明になっているのだ。
翌日の土曜日に気がついて、二日酔いの頭を抱えてきた。お気に入りの品だからこそすぐに気がつけはしたが、ひとつの物を長く愛用するエミヤにとっては衝撃的なことだった。
何故、私の宝物たちが。
『お楽しみ』に向かう前までは確実にあって、失くしたのはそのあとのはずなのに、店の拾得物としても見つからない。帰り道、記憶がない間に落としたのだろうか。あぁ、情けない、とエミヤは思った。こんなことが起こるのなら、いっそのこと飲みに行くのをやめようか……とも考えたが、ここへ通うことがストレス発散を兼ねている自覚はあり、今のところ天秤は楽しみの方に傾いてしまっている。楽しみと悩みが共存しているのがつらいところだったが、一人暮らしで普段家族や友人に会うことも少ない彼にとって、気を緩められる場所は簡単には手離せなかった。気を緩められる場所だからこそ、ついつい飲みすぎて失敗を繰り返すのだが。
いつか見つかって手元に戻ってきてほしいが、最悪、どこかの誰かが拾って大切に……は中々難しいだろう。せめて野晒しになっていなければ。そんな風に、どこか自暴自棄に願っていたりする。

目の前の店主とぽつぽつと他愛もない話をしながらグラスを傾けていく。時事的な話、休日の話、趣味の話。時折、アルバイトの青年も加わって進む会話はとても心地よかった。ダヴィンチはいつもバーカウンターの向こう側でエミヤの話をじっくり聞いてくれる。忙しいだろうにと申し訳なくなりつつも、エミヤはその優しさに甘えていた。その優しさに酒が進み、エミヤの思考はふわふわと重力を失っていく。
「出会ったときに……彼のことを、きっと、好きになっていたんだ。好きにならない、わけが、なかったんだ」
酔っぱらいの言葉に「ふふ、君はいつもそう言っているね。そんなに魅力的なのかい?」と返してくれる店主。それに小さく頷き、ぽつり、店主にも聞こえないような声で名前を呼んだ。
「…………ランサー」
誰にも言えない想いも、なぜだかここでなら言えた。
エミヤはランサー――クー・フーリンに憧れている。何事もきっちりと完璧にこなすエミヤと、細かいことは気にせず臨機応変を得意とするクー・フーリン。ふたりは考え方もやり方も合わないし、不備だらけな書類を提出してくるのはいただけないが、それでもエミヤから見たクー・フーリンは目も眩むほどに輝いていた。
その憧れがただの憧れではなく、恋愛としての「好き」であることに気付いたのはいつのことだったか。もはや、エミヤ本人も覚えていない。それくらい昔のことだ。それまで好ましく思う相手は女性ばかりで、その経験すら少なかったエミヤにとって、男性であるクー・フーリンを「そういう目」で見るようになったことは青天の霹靂だった。が、案外、すぐに飲み込めた。だって、あの輝きだ。性別など関係なく惹かれるのは仕方がない。むしろ当たり前だと大声で言えてしまうだろう。エミヤは、それくらいにあの美しい男を愛している。
「で、その彼にアタックはしてみないのかい?」
「ふふ……前も言ったが、私は言わないよ。私は彼にふさわしくないからね」
零れ出す恋慕の声を聞きながら、店主は首を傾げて尋ねた。恋情の一欠片をこの店で溢してしまったその日から何度か尋ねられた内容に、エミヤはふにゃりと笑う。アタックするか、しないか? 秘めた恋情を明かすか、明かさないか? そんなの、決まってる。そういう意味の笑みのつもりだった。
クー・フーリンを心から愛している。けれど、……いや、本気で愛しているからこそ、エミヤは随分昔に、その恋を叶えることを諦めたのだ。
上手く笑えている自信はなかったが、聡明で美しい人はそれ以上は何も言わず、残念そうに笑うだけだった。
「……いけると思うんだけどなぁ」
「……? 何か言ったかね?」
「いいや、何も! さて、次は何を飲む?」
そう言って店主はエミヤの眼前にメニューを広げた。おすすめの一杯を教えて貰ったエミヤはそれを注文し、遠くで聞こえるカトラリーの音を聞きながら少しだけ目を伏せる。そして脳裏に過る鮮やかな青色から意識を外すように、僅かに残ったグラスの中身をすべて飲み干した。

こうして金曜日の夜が過ぎていく。

   ◇ ◇ ◇

「――は?」
ずきずきと痛む頭を抱えどうにか身を起こしたエミヤが、目の前の光景に固まった。
知らない天井、知らない壁、知らない家具。いずれも見慣れた自室とはまったく違う、高級感のあるものばかりの知らない部屋だった。自分がくるまっていたシーツも当然慣れた質感ではなく、エミヤの思考はぴたりと動きを止めてしまう。
ここは、どこだ? なぜ、わたしは、ここに?
昨夜はいつもの店で店主や店員たちと話をして……。状況把握のために昨夜の記憶を引っ張り出そうとするが、霞がかかっている。途切れ、ぽっかりと抜けてしまっている記憶から、またも自分はやらかしてしまったかもしれない、という最悪な可能性を知ることはできたが、「ここはどこだ」という最大の疑問への明確な答えは見つからなかった。
この部屋は、どこだ。私は、何故この見知らぬベッドに横たわっていたのか。
ダブルベッド、いや、これはクイーンサイズだろうか。その端に寄り、広いスペースを窮屈に使っていた身体を更に縮こませたエミヤは、込み上げてくる不安を誤魔化すように、ぽっかりと空いているスペースをゆっくりと撫でた。ぐしゃぐしゃになったシーツは、それでも手触りのよさを伝えてくれる。けれども、なにひとつ、わからない。
混乱の中、ぶるり、身体が震える。ひんやりとした空気に肩を竦めてからやっと、自分が何も纏っていないことに気付き、思わず息を止めた。
「っ、…………、」
叫ばなかった自分を褒めたい。そう、エミヤは心の底から思った。シーツを掴んでいた掌でさらけ出した二の腕を擦り、それから、下半身を隠した掛け布団をゆっくりと持ち上げる。
「……、」
空気が布団の中に入り込み、腰や、それよりも下の肌をじんわりと冷やした。……あぁ、なんということだ。持ち上げた布団をゆっくりと下ろし再び下半身を隠したエミヤは、何の言葉も出せなくなっていた。……なにも、履いていない。ズボンどころか、下着も、布一枚も着ていない。生まれたままの姿、とでも言えばいいだろうか。
このままだと、風邪をひいてしまいそうだな。そんなことを思うエミヤの思考は、現実逃避をしたがっていた。そうなるのも無理はない。エミヤには、全裸で眠る理由がないのだ。全裸で眠る習慣があれば話は違っただろうが、残念ながら彼は寝間着をきっちり着るタイプだった。
「…………もしかして、夢、か……?」
ぽつり、現実を疑う。知らない部屋。知らないベッド。乱れたシーツに布団。そして、全裸の自分。それらを並べ、最初に思い付いた妄想は、エミヤの混乱を助長していた。
――私は酔って、誰かを、このベッドで。
誰だって簡単に行き着く想像だろうが、一部では堅物課長などと陰口を叩かれているような男には耐え難く、それこそ、夢であればと願う代物だった。もしもそれが事実であるなら、なんて無責任で最低なのだろうか。キャパシティを大幅に越えた予想にエミヤの視界がくらりと揺れる。
(……、……っ、いやいや、駄目だ)
冷静になれ、と意識を飛ばしかけた自分を叱咤したエミヤは、深く息を吐いてから、改めてぐるりと部屋を見渡す。
自宅のものよりも幾分も豪華な仕様であるベッドの隣に、これまた自宅のものより明らかに高価そうなソファーがあった。その背もたれに昨日自分が着ていたスーツが丁寧にかけてあるのが見える。そのスーツがどのような経緯であそこにかけられたのかを想像してしまい思わず項垂れた。
「……、今は、」
とにかく現状把握だと掛け時計を見上げる。時刻は十時。カーテンの隙間から穏やかな日差しが入ってきていた。今日は土曜日のはずで、エミヤにとっては休日である。それが不幸中の幸いだと安堵したエミヤは、布団をめくり身体を晒した。まずは服を着て……相手を、探そう。エミヤは努めて冷静になろうとしながら、これからすべきことを脳内で挙げていった。
〈最低の予想〉が現実であるならば、自分が組み敷いて抱いた相手がいるはずだ。当然、エミヤには相手に心当たりなどない。店で何か出会いがあったという記憶もない。酒に溺れた身体を誰かが力強く抱き止めてくれたような、そんな感触はなんとなく残っていたが、恐らく店員の手を煩わせてしまったのだろう。残念ながら記憶として残っているのはそれだけだ。そこから相手が誰かなのかを導くなんて到底できやしなかった。
そんな、全くわからない相手は起きたときから隣にいない。部屋にも見当たらないということは、シャワールームにでもいるのかもしれない。あるいは、もうこの華美な部屋にはいないのかもしれないが、それはそれで把握しなければならなかった。もしまだいるのなら謝罪せねばならない。謝罪してどうにかなる過ちでないことは理解していたが、どうしても謝らなくては気が済まなかった。相手が望むのなら、額を床に擦り付けてもいい。
自分に気合いを入れ直すように大きなため息を吐き出し、身体を捻って床に足をつけた。ふんわりとした温かさが足の裏を受け止める。これまたエミヤの家にはないようなカーペットに、今更ながら、私はどうしてこのホテルを選んだのだろうか、と首を捻る。ベッドサイドに見つけたメモ帳にはホテルの名前が印字されていた。その名前からここがあのバーから割と近いホテルだということ、そして、一般の部屋ですら気軽に泊まれるような価格帯のホテルではない、ということを思い出した。
同年代より稼ぎはあるが、エミヤの金銭感覚は庶民のそれだ。スーパーの特売が好きな男である。だから、近くに他のホテルもある中で、あえて上等なここを選んだ理由がわからなかった。
酔いの勢いで何も考えなかったのだろうか? それとも、相手の希望? いくらの部屋なのかわからないが、支払いはどうしたのだろうか? 自宅に連れ込まなかっただけマシなんだろうか?
またもやごちゃごちゃと悩み始めた頭を落ち着かせるため、ぱちん、と頬を叩く。それらを含めて相手に聞いてみよう。それ以外に真相を知る手立てはないのだから。
(勿論、相手の女性の怒りが、私の話を聞いてくれるレベルであれば、の話ではあるが……)
エミヤにはこの部屋の間取りがわからなかったが、扉の先にシャワールームやトイレなどがあるのだろうと予測はできていた。柔いカーペットを踏み締め、ぐっと身体に力を入れる。相手がこのベッドルームにいないのなら、探す先は扉の向こうにあるはず。そう思ってくしゃりと歪むシーツから身体を離そうとした途端、身体から力が抜けた。
うわっ、と声を上げたエミヤは身体を庇うようにベッドへ倒れ込む。またもや褐色の身を受け止めてくれたベッドに感謝しつつ、立ち上がるという単純な動作すらできなかった自身の身体に、エミヤは頭上に大量の疑問符を浮かべた。何だか身体が怠い。特に腰や足の付け根に違和感があった。
仕事中もバーにいたときにも、この違和感はなかったはずだ。ならば、このホテルまでか、あるいはこのホテルでなにか……と理由をぐるりと考えたエミヤは、数拍のあと、あ、と溢した。見知らぬ部屋に全裸の自分。自分は誰かを抱いてしまった、と思い込んでしまったが、もしかしたら答えが違うのかもしれない。そう、エミヤは思った。エミヤには決して多くはないが女性経験がある。クー・フーリンへの恋慕を抱いてからはそういった交わりはなく随分とご無沙汰だが、それでも、これが女性を抱いたあとの倦怠感と違うことは理解できた。
エミヤは再び布団をひっぱり、そこに顔を埋める。ひんやりとした布が火照った顔を冷やし、惑う思考を少しだけ鎮めてくれた。けれども残念ながら、導いた結論は変わってはくれない。
あぁ、何てことだろうか。きっと、私は。
わたしは、誰かを抱いたのではなく、誰かに、抱かれたのだ。


   二


うちの課長の様子が変なんです。
そんな相談事がアルトリア・ペンドラゴンのもとに届いたのは、比較的時間に余裕のある日のことだった。少しお時間よろしいですか、とやってきた男女二人組の深刻そうな様子にアルトリアはすぐに手を止める。聞けば、秘書チームの部屋には書類を届けにやってきたそうで、偶然アルトリアを見つけて声をかけたらしい。思わず他部署の人間に相談事を持ち掛けるほど深刻なのだろうか。果たして、それは自分が適任なのだろうか。そう不安に思いつつもアルトリアは、とにかく場所を変えるべきだろうと、彼女たちを各フロアに備え付けられた休憩スペースへ連れ出した。自販機で紅茶の缶を三本買い、その内の二本を彼女たちに渡す。
アルトリア・ペンドラゴンは社長令嬢であり、現在は総務部内の秘書チームに所属している。エミヤやクー・フーリンの二学年下である彼女は、エミヤの幼馴染みの『赤い悪魔』と子供の頃からの友人でもあった。その縁があって、エミヤとアルトリアも古くからの親しい友人であり、プライベートではお互いをアーチャー、セイバーと呼び合っている。
『アーチャー』というのはエミヤの愛称だ。
昔は弓道一筋だった彼のことをごく一部の親しい人たちがそう呼んでいるのだが、アルトリアもまた、子供の頃から剣術に夢中だったことから『赤い悪魔』によって『セイバー』という愛称を貰った。それまで対等な友人が少なく、愛称やあだ名というものに縁のなかったアルトリアにとって、その名前は最高で最愛のギフトだった。アルトリアは今でも、その思い出を大切に抱いている。
余談だが、大学卒業を目前にしたエミヤは、自分が志望している会社の経営陣がアルトリアの縁者たちであることを知らなかった。それを明かしたときのエミヤはそれまで見たことのないような間の抜けた表情を見せて『赤い悪魔』を笑わせたものだ。その反応にエミヤが大変不本意そうにしていたから黙っていたが、アルトリアも、真面目で固いイメージのある彼でもあんな顔になるのだな、と微笑ましく思ったのであった。

「うちの、というのは、もしかしてアー……エミヤ課長のことですか?」
思わず出かけた愛称を飲み込んで、社内での呼び名を挙げた。相談者のふたりは総務課所属だ。ふたりのうち、女性社員のほうは女性が入社した時からずっとエミヤの下で働いていて、男性社員のほうは営業部から異動してきて二年目くらいでなかっただろうか。彼女たちの顔を見比べ、アルトリアはそんなことを思い出した。
アルトリアの言葉に女性社員は頷く。それから、言い淀むように目線を泳がせた。彼女とアルトリアの目線の高さは差程変わらない。アルトリアが先を促すように小さく頷けば、その眼力に負けた先輩社員が小さく呟いた。
「その、ずっと、暗くて…………おかしいんです。あ、いや、上司の方を、おかしい、って言うのもいけないんですが……」
「何だか、仕事に集中されていないようなんです」
「集中していない?」
言い淀む声を、後輩の若い男性社員が引き継ぐ。その内容にアルトリアは思わず顔を顰めた。仕事に集中していないなど、彼に限ってありえない。だってエミヤは……アーチャーは、誰よりもまっすぐで、真面目で、必ず最善を尽くそうとする男なのだ。エミヤのことを昔から知っているからこそ、そんなはずはないと思わずにはいられなかった。
そんな気持ちが顔に出ていたのだろう。後輩社員が眉を下げて、僕たちも初めてで、と焦ったように続きを話し出した。
「いつもは的確に指示されて、厳しいですけど、僕みたいなヒラにも気を遣ってくださる、優しい方なんです。なんですけど……最近は、何度か声をかけても返事されなかったり、ぼんやりされることが増えていて……僕たちも心配しているんです」
彼の言う『僕たち』は恐らくここにいるふたりのことだけではなく、日々エミヤのもとで働くメンバーたちのことを指すのだろう。エミヤは部下たちに信頼され、尊敬されている。そして今は心から心配されているのだと、今の話からよくわかった。
「それで、何かご存知だったら、……いえ、もし何もご存知ないとしても、親しくされてるペンドラゴンさんにはこの状況をお伝えしたほうがいいかと思って……」
思いの丈をぶつけた後輩社員の言葉を先輩社員が締める。彼女たちも上司の事情に土足で入ることへの遠慮があるのだろう、その声は弱々しいものだった。それでも今の状況はおかしいと、続くのはよくないからと、勇気を持ってアルトリアに話しかけたのだ。その行動の賛否を簡単に判断することはできないが、アルトリアはその気持ちを深く、きちんと受け取ってあげたいと思った。
「そうですか、アーチャーが……」
唇から愛称が零れたことにも気がつかず、アルトリアは最近の様子を思い返す。
「――私にお任せください」
そう言って、アルトリアは彼女たちを安心させるように微笑んで見せた。

   ◇ ◇ ◇

真面目で仕事のできると評判なエミヤ課長。彼にはもうひとつ、社内で有名なことがある。それは料理の腕前だ。
忙しい日々を過ごすエミヤだが、毎週火曜日と金曜日の昼食には手作り弁当を三人分――量としては一般的な三人分ではないが、食べるのはエミヤを含んだ三人であるから表現としては間違いではないだろう――持ってくる。調理免許を持っている、有名レストランで修行していた、学生時代に料理修行に出ていた……そんな噂が流れている程に見事なエミヤの手料理は、営業部のクー・フーリンと秘書チームのアルトリア・ペンドラゴンの口に入るのだ。
週二回、三人でお弁当を囲む約束は、アルトリアが入社してからもう何年も続いている。
社長令嬢と総務課長、営業部のエースが並んで食事を摂る様は、最初の頃は話題になったものだ。目立つビジュアルも相まって三角関係かと疑う者もいたが、今となってはそんなことを言う者もいない。三人とも全力で否定したというのもあるが、それ以上に、料理を頬張るクー・フーリンとアルトリアと、彼らの世話をしているエミヤの様子が子供と母親にしか見えなかったのだ。
今では彼らの関係を邪な目で見る者もおらず、話題にされることと言えば遠目に見えたお弁当がとても美味しそう、ということだけだった。

総務課の社員たちから助けを乞われた翌日はタイミングよく火曜日で、アルトリアが中庭向かうとお弁当を抱えたエミヤが待っていた。木製のテーブルを除菌シートで拭き、その上にお弁当を広げる。いつも通りの豪勢なお弁当を前にしてアルトリアの腹の虫が盛大に鳴いたが、それすらいつも通りだ。
エミヤ特製のお弁当は、色とりどりでたっぷりのおかずが詰まったお重箱と、大きめに握られたおにぎりで構成されている。好きなおかずを好きなだけ取って食べるスタイルだが、いつもどれを選ぶか迷ってしまうのです、と贅沢な悩みを抱えているアルトリアであった。
悩みつつもどうにか一皿目のおかずを選び、いただきます、と手を合わせて唐揚げに箸をつける。口の中でじゅわっと弾ける香ばしい香り、肉汁、こだわりを感じる味付け。最高の味わいを噛み締めたアルトリアは、口の中の幸せを堪能しつつもお向かいで食べ始めたエミヤをひっそりと観察した。
(今日もアーチャーのご飯は大変美味です。……しかし、)
先週も感じましたが、確かに様子がおかしいですね。エミヤの部下である社員たちの言葉を思い出しながら、アルトリアは内心ため息をついていた。
実は二週間ほど前からアルトリアもエミヤの異変を感じていたのだ。声に張りがない。元々あまり表情が変わるタイプではないからわかりにくいが、どことなく暗い気もする。彼の部下たちと違って週二回の昼食と職務中に何度かしか会っていないにも関わらず、おかしいと感じていた。仕事のことか、はたまたプライベートか。十中八九後者だろう、とアルトリアは予想しているのだが、何にせよ、何かしら気がかりなことがあるのならば、少しでも力になりたいと思っていた。
「アーチャー」
「ん?」
「その、不躾な質問になってしまいますが、最近、何か悩み事でも――」
「わりぃ、わりぃ! 遅くなった!」
アルトリアの声が背後からの声に掻き消される。途端、エミヤの箸がテーブルを叩いて落ちた。真ん丸に見開かれた鋼色、小さく跳ねる両肩。いつもの冷静沈着さなど微塵もない姿にアルトリアは苦笑いを浮かべかけ、誤魔化すように麦茶を飲んだ。エミヤは慌てつつも落とした箸をしまい、用意周到に持ってきていた予備の箸を取り出す。そんなエミヤの様子を気にも留めない男は、エミヤの隣にどかりと座った。
「おー! 今日も旨そうだな!」
「ランサー、お疲れ様です。先にいただいています。最近、一緒に食べられていませんでしたが、忙しいのですか?」
それぞれの部署の定例会議などを踏まえて火曜日と金曜日と決めているが、当然、どうしても都合がつかない日もある。特に営業部のクー・フーリンはクライアントに振り回されることが多く、何週間もアルトリアと会わない、ということも時折あった。業務上、営業部と秘書チームの接点は殆どないのだ。
「んー、まぁな。ちぃっとでかい仕事でよ。ま、総務課にも手伝ってもらって、どうにかなりそうなんだが」
「総務課に?」
「……あぁ。商材の展示会を開催するということでな。会場や備品の手配などでうちも関わったんだ」
新しい箸を出したエミヤが、先程の動揺が嘘のように落ち着いた様子で情報を付け足す。
「そうだったのですね。その展示会はいつなのですか?」
「明後日。それで一段落だ」
ようやく解放される、と大袈裟に首や肩を回すクー・フーリンの隣で、呆れ顔のエミヤがクー・フーリン用の取り皿と箸をテーブルに並べた。それに軽く礼を言ったクー・フーリンは、慣れた手つきでおかずを皿へ盛っていく。
(……それにしても、どうしたものでしょう?)
里芋の煮物を咀嚼しながらアルトリアは考えを巡らせた。クー・フーリンの繁忙事情はさておき、今は目の前で明らかに様子がおかしいくせにおかしくないふりをしている男について、何か対策を捻り出さなければならない。この男が素直に本心を曝け出すタイプでないことはわかっている。部下たちが心配しているから教えろなどと詰め寄れば、それはそれで逆効果になるだろう。アルトリアはエミヤという男をよく知っていた。
本当はクー・フーリンが来る前に少しでも手掛かりを得たかったが一足遅く。うーんとひとり唸るアルトリアを出し抜くように、クー・フーリンが「そーいやよ」と切り出した。
「アーチャー、お前、飲み会どうすんだ? 営業のやつが幹事なんだが、お前からまだ返事貰ってないって言ってたぞ」
「…………飲み会?」
クー・フーリンの言葉にエミヤがぱちぱちと瞬きする。初めて聞きましたと言わんばかりの反応に、クー・フーリンも首を傾げた。隣同士の近い距離で見つめ合ったふたりだったが、数秒の間を置いてからクー・フーリンが口を開く。
「え、お前んとこにも案内、届いてるだろ?」
「飲み会、のみ、かい……? …………あ、」
ぼそぼそと飲み会というキーワードを繰り返して、エミヤはようやく何か思い出したらしい。鋼色を丸くして頬を引き攣らせた。その反応にクー・フーリンは苦笑いを浮かべる。
「今回の案件の打ち上げだよ。営業部と総務課の合同だが、今回関わったやつだけだから、そんな大勢にはならんと思うが……」
「…………案内メールを貰っていた、気がする……」
忘れていた、すまない、と凹むエミヤの隣で、クー・フーリンは何も気にしていない様子でほうれん草のゴマ和えをつまむ。
「別にいいけどよ、お前がそういう知らせを見逃すなんて珍しいな。んで、参加はどうする? 今週の金曜日なんだが」
「……参加させてもらう」
「まぁ、立場的にもそうなるよな。幹事には俺から伝えておくわ。……ちなみに一応聞くが、今回も飲まねぇの?」
「あぁ。飲むつもりはない」
エミヤは飲み会で酒を一滴も飲まない。たとえ上席の人間に誘われても頑なに断り続けており、それ故につまらない男だと陰口を叩かれたりもするが、酒を飲めない者たちには「酒を一切飲まない役職者がいるから自分も無理しなくていい」という一種の安心感をもたらしている。
当たり前だろうという風に答えるエミヤに、ふたりの会話を聞いていたアルトリアも納得した。そもそも何故改めて酒を飲むか否か確認したのか、アルトリアにはわからなかった。エミヤが外で酒を飲まないようにしていることはアルトリアも、そしてクー・フーリンもよく知っている。酔っぱらって他の人に面倒をかけさせたくないと思っていることも知っているので、エミヤを食事に誘うときは料理をしっかり楽しめる店を選ぶようにしているほどだ。付き合いの長いアルトリアですらエミヤと酒を飲んだのは数回、エミヤとプライベートでの付き合いのないクー・フーリンに至っては一度もないだろう。
だから尋ねるまでもなく答えは決まっているだろうと思ったアルトリアだったが、斜め前に座るクー・フーリンがやけに神妙な顔をしているのが気になった。
「…………まぁ、お前さんは、そのほうがいいだろうなァ」
ぽつりと溢れた言葉にアルトリアは引っ掛かりを覚える。違和感はあるもののわざわざ拾うほどのボリュームでもなく、アルトリアはじっとクー・フーリンを見つめてしまった。彼女の視線に気がついた赤い瞳がぱちりと瞬く。それからアルトリアから逃れるように視線を泳がせた彼は、隣で未だ自分の失態を反省しているエミヤをちらりと見てから何事もなかったかのように食事を再開させた。
(…………一体何なのでしょう)
アルトリアは次々とおかずを味わいながら、先程の独り言と視線の意味を考えていた。すぐに違う話題を始めたクー・フーリンに、今更先程の引っ掛かりを問うこともできない。
その内お重箱が空になり、おにぎりもひとつ残らずなくなると、いつもなら休憩時間ギリギリまでここで過ごすクー・フーリンが立ち上がった。
「まだやることが残ってるんでね。そろそろ行くわ」
「……そうなのですね。無事に終わることを祈っています」
「おう、サンキュー。アーチャーも、飯ありがとな。旨かった」
クー・フーリンの言葉にエミヤが目を伏せた。
じゃあまたな、と言って建物へと戻っていくクー・フーリンを見送り、エミヤとアルトリアは二人きりになる。お弁当を片付けて取り留めもないやりとりを交わしたあと、そういえば、とエミヤが顔を上げた。
「ランサーが来る前に何か言いかけていなかったか?」
「……えぇと、」
その問いかけにアルトリアは言葉を詰まらせる。何だか暗いですがどうしたのですか、何か悩み事があるのですか、と食べ始める前まではストレートに聞いてしまおうかと思っていた。が、この何十分か、様子を観察する内に、自分が下手につついてしまうと余計拗れてしまうのでは? と気がついてしまった。アルトリアは直感が鋭い。何となく、本当に何となくではあるが、様子がおかしいのはエミヤだけではない気がしたのだ。
(ふたり揃って様子がおかしい、となると……ふたりの間で何かあったのでしょうか? それとも、運悪くタイミングが合ってしまっただけ?)
もしふたりの問題だったとして、お互いにお互いのおかしさに気づいてなさそうな現時点で第三者が介入するのは、問題を複雑化させてしまうかもしれない。そうでなくともエミヤに限って言えば心中はどうであれ「普段通り」を装おうとしているようなのだ。それを蹴散らすのは、彼の矜持を踏みにじる行為なのではないか。そんな懸念を抱いたアルトリアは、申し訳ありません、と謝った。
「何を言おうとしたのか、忘れてしまいました」
「そうなのか? また思い出したら教えてくれ」
「はい、ありがとうございます」
不思議そうにしつつも気遣いを忘れないエミヤに、アルトリアはひとまず見守ることを決める。
アルトリアはエミヤのことを大切に思っているが、クー・フーリンも同じくらい大切だった。そもそもふたりの間の問題かもわからないが、そうだとしても、そうでないとしても、ふたりが心穏やかに過ごせることが一番だ。もう暫く見守って、それでも元気にならなそうであればその時こそ聞いてみよう。そうだ、そのときは、『赤い悪魔』という名の最強の助っ人も呼べばいい。エミヤのことであるならば、彼女は助力を惜しまないだろう。
そんなことを考えながらアルトリアは、中庭から見える青い空を見上げた。


   三


(なんて、美しい青、だろう)
エミヤがあの鮮やかな青色を知ったのは、入社式のことだった。
大勢の同期生たちに混ざって緊張する中、偶然視界に入った青色。入社式の何列か前に座るその色を「まるで空の色だ」と思ったことは、きっといつまでも忘れないだろう。
意識を奪われた。手を伸ばしたくなるほどの美しさだった。けれど別段、それ以上どうこうしようとも思わなかった。あまり社交的な性格でないエミヤには、自ら話しかけるという発想がなかったのだ。
それよりも、とエミヤはざわつく部屋の端っこで思考を切り替える。この休憩時間のあとは配属先の発表だったか。そのあとのスケジュールを思い出しつつもまっすぐな姿勢を一切崩さずに座っていたエミヤは、彼に向かって近づいてくる存在に気づかなかった。
唐突に肩を掴まれ、空から声が降ってくる。
「――あんた、『アーチャー』じゃねぇか?」
誰だ、と顔を上げてエミヤは固まった。目の前に突き抜けるような真っ青な空があったのだ。しかも、先程までは後ろ姿しか見ていなかったから知らなかったが、その空は貫くように輝く真っ赤な宝石も持っていて。
その真っ赤な視線に囚われたエミヤの頭は完全にフリーズしてしまった。――今ならわかるが、あれは一目惚れだったのだと思う。そう、エミヤは振り返る。当時は一切、気づいていなかったが。
鮮やかな色に圧倒されてエミヤは混乱していた。面識などないはずだ。見ていたのがバレた? いや、正面を向けば自然と視界に入るのだから不可抗力だ。……それよりも、なんだ。そんなに強く掴むことはないだろう。部屋の端っこにいる私などに何の用だ。ほら、その美しさは目立つから、他の新入社員たちもチラチラとこちらを見ているではないか!
あまりに突然で、青色の彼が『アーチャー』という身近な人間しか呼ばない愛称を口にしたことに何の疑問も持てなかったエミヤは、勢いで肩を掴む手を払ってしまった。真っ赤な宝石に驚きが滲む。
「………………貴様、誰だ。突然何の用だ」
意図せずして低い声が出た。威嚇のような声音に自分で驚いてしまったエミヤは、払い除けてしまった自分の手に視線をうつし、それから改めて男を見上げる。口許がひくりと歪んだのが見えた。
「――いきなり話しかけて、スミマセンデシタ」
謝意の欠片もこもっていない謝罪にエミヤの眉間のしわが深くなる。何なんだこの男は。そういう気持ちを込めた視線を向けると、青色の男は払われた手をじっと見つめてから肩を竦めた。
「前からペンドラゴンのご令嬢にアンタの話を聞いてたんだが……なんつーか、同期なわけだし、も少し愛想よく応じてくれてもいいんじゃねぇの」
「ハァ?」
男の言葉にエミヤは声を上げる。エミヤにしてみれば突然話しかけられ、突然ケチをつけられた。見知らぬ人間に喧嘩を売られたも同然だ。ペンドラゴンのご令嬢――恐らくセイバーのことで、きっと彼女の知り合いなのだろう、ということは予想できたものの、だからと言ってこんな風に文句を言われる筋合いはない。確かに愛想はいいほうではないかもしれないが、そもそも突然肩を掴んできて無礼を働いたのはこの青色の男だ。
ならばこちらもそれ相応の言葉を返してやらねばならないだろう、とエミヤは苛立ちながら吐き捨てた。
「……残念ながら、初対面の人間への礼節を知らない人間に、どうすればいいのか知らなくてね。申し訳ないな」
「アァ?」
エミヤの煽りに男は僅かに青筋を立てる。
何か言い返そうとしたのか口を開きかけた瞬間に休憩時間の終了を告げられた。青色の男は渋い表情のままエミヤの数列前の席まで戻っていく。まわりが様子を伺うようにチラチラとこちらを見ているのに気がついて、エミヤは思わず自分の眉間のしわを指で揉んだ。何だったんだ、あの男は。鮮やかな青色だと魅せられたことすら何となく嫌になってきて、エミヤはひとり、深いため息をついた。
(……まぁ、これだけの人数、同期がいるんだ。関わる可能性は低いだろう)
そんな風に呑気に構えていたエミヤが、青色の男の名前が『クー・フーリン』だと知るのは、共に営業部へ配属されると発表されたときのことだった。
入社式を終え、慌ててアルトリアへ連絡を取ったエミヤは、『クー・フーリン』がアルトリアの子供の頃からの知り合いであること、そして彼にエミヤの話をしたことがあると明かされる。『クー・フーリン』の無礼についてアルトリアから謝罪があったものの、エミヤはアルトリアに謝ってもらうことではないと思い、不幸なことに同じ部署に配属されてしまったが極力関わらないでおこうと決めたのだ。
そうしてそれから約一年半、エミヤが総務課に異動するまで、エミヤはクー・フーリンに対して最悪の第一印象を忘れられないまま過ごすことになる。

まさかその後、最悪だと思った男のことを好きなのだと気付き、その上あまりに肥大化した自分の恋心のせいで頭を抱えることになるなんて、流石のエミヤも予想していなかったのだが。

   ◇ ◇ ◇

エミヤがそんな懐かしい日のことを思い出したのは、部下のひとりから「新人時代のおふたりはどんな感じだったんですか?」と尋ねられたからだ。
「あぁ? んなの聞いて楽しいかァ?」
部下からの質問に、向かい側に座るクー・フーリンがわざとらしく面倒だという顔をする。クー・フーリンは自他共に認める酒豪だ。白い肌が僅かに赤くなっているが、恐らくまだまだ飲めるのだろう。エミヤは同期生としてクー・フーリンと何度も酒の席を共にしているが、彼は一度も悪酔いしたことがなかった。羨ましい話だ、とエミヤは思う。その許容量をグラス一杯分でもいいから分けてほしい。
エミヤは氷が溶けて薄くなった烏龍茶で喉を潤しながら個室を見渡す。この場で一番上の立場は課長のエミヤで、次が主任のクー・フーリン。他は彼らよりもあとに入社した者ばかりだった。
繁忙を乗り越えた解放感からか、皆いつもより声が大きくなり、社内では聞けないような話題を口にする。そんな様子を素面のまま見ていたエミヤは、酒に溺れ過ぎるとろくなことがないぞ、と心の中でアドバイスを送った。
そしてすぐに、そのアドバイスを数週間前の自分に送れたらよかったのにと思い、芋づる式であの朝のことを思い出してしまった。
エミヤの胸にあの朝の虚しさと絶望が甦る。

   ◇ ◇ ◇

見知らぬホテルの見知らぬベッド。そこに全裸で眠っていた自分。謎の怠さ。様々な現実から想像を膨らませて辿り着いたのは、エミヤにとっては絶望的な答えだった。
わたしは、誰かを抱いたのではなく、誰かに、抱かれた。
きっと、そうだ。

――ランサーへの恋を持て余して、誰かに縋ってしまった。

あぁ、最低だ。エミヤはぐっと拳を握り、シーツのしわを増やした。
これは叶わない恋だ。エミヤはそう信じている。
クー・フーリンとエミヤは同性同士で、性格も合わないと自覚していた。昼食を共にできているのは、共通の友人であるアルトリアという存在のおかげだ。エミヤという人間とクー・フーリンという人間の一対一の関係性は〈犬猿の仲〉としか言えないだろう。偶然同期になっただけの、真逆で、相容れない水と油のような関係。そんな自分達の関係性においてこの恋が叶うはずもないし、そうでなくとも、彼は輝かしい存在なのだ。自分は、彼にふさわしい人間ではない。
だからエミヤは、この恋を叶えることを諦めた。けれど、エミヤはクー・フーリンを愛さなくなったわけではなかった。この恋は実らないと解っているが、彼を好きでいるのは許してくれ。そう、誰に対してかわからない願いを持ち続けているが、その願いはエミヤの心を擦り減らしてもいた。
好きで好きで仕方ない。そう思うのに、その気持ちの行き場はない。
クー・フーリンを見かければ目で追い、声を探し、呼ばれる名前に幸福を感じる。叶わないのだからもう棄ててしまえ。そう思うくせに意識は自然と青色を求めてしまっていた。
クー・フーリンを忘れられたら、次の恋を見つけられるのではないだろうか。そう思ったことすらあったが現実は甘くない。エミヤは、クー・フーリンを愛しく思う前に、自分がどんな風に生きていたか覚えていない。長い間隠し続けてきたこの恋心は、容易く棄ててしまえるような可愛いサイズではなくなっていた。
彼が好きだ。けれどこの想いは渡せない。諦めている。でも愛しくて、愛しくてたまらない。……そんな、消えない、棄てられない恋心。棄てるべきだという理性と、棄てられないという欲望の狭間で、エミヤの思考は堪えきれなくなっていた。……そんな自分が、酔いの勢いで自暴自棄でも起こし、誰かに無理矢理お願いした。
想い人を忘れられるように、可哀想な恋心を完全に消せるように抱いてくれ、と。
それがエミヤの行き着いた答えであった。
クー・フーリンを忘れるために抱いてくれ。なんて愚直で、なんてくだらない。ただ、自分なら言いかねないことをエミヤは知っていた。
エミヤに同性とのそういった行為の経験はないが、クー・フーリンを好きなのだと自覚してから、自身の性欲と向き合うことは度々あった。男同士のセックス。それを自分とクー・フーリンが行うなんて現実には起こり得ないと解っていたが、妄想くらいは許してほしいと身勝手にも願い続けていた。
白い背中に抱きつく。青色の髪をかきあげてやる。赤色の瞳に見つめられる。身体中、余すことなく触れられて、彼の体温を感じて、自分の体温も感じてもらって。密やかに愛を囁いて。それから、……それから。
エミヤは、妄想の中でいつもクー・フーリンに抱かれていた。力強くも優しい両腕に抱き締められる、そんな光景を描いていた。彼を抱きたいと思ったことはない。恋を自覚したあの日からずっと抱かれることを夢に見、そんな妄想を繰り返す愚かな自分を嫌悪しながら生きてきた。
(……あぁ、この醜い感情を押し付けられた、哀れな他人がいるのか)
エミヤの心臓はくちゃりと潰れてしまいそうだった。むしろ潰れてしまえば楽になれるだろうとすら思った。
けれど実際はそんなこと起こらず、心臓は変わらずに動き続けている。ならば今やるべきことをやるべきだ、と彼の責任感が震える足を叱った。
――結論から言うと、この部屋にはエミヤ以外いなかった。そうわかった瞬間に気が抜けたエミヤは、スーツがかけられているソファーに座り込む。そして今更ながら、自分が起きた時と同じ姿で部屋をうろついていたことに気が付き、慌てて服をかき集める。ワイシャツと下着はベッドの端っこで丸まっていた。
酷い緊張と嫌悪のせいで汗をかいてしまっていたが、この部屋でシャワーを浴びる気にはなれなかった。昨日着ていたスーツをそのまま着込んでから、ローテーブルに置かれていた自分のスマホに手を伸ばす。そこで初めて、スマホに寄り添うようにこの部屋のものであろう鍵と、紙切れが一枚あることに気が付いた。
その一枚を恐る恐る確認する。ベッドサイドのメモ帳を破いた一枚に、走り書きで一言だけ書かれていた。
『申し訳なかった』
一瞬、その文字があの男のものに似ているような気がしてエミヤは吐き気を感じた。……あぁ、なんて愚かな。どこまでも私は、あの男を追いかけてしまっている。あの男のはずがないのに、恋に溺れた思考が、すべてを彼に結び付けようとする。
想い人を忘れられるように、と他人に縋っただろうに、その効果など一ミリもないのだ。
――私に巻き込まれた、名前も姿も知らぬ誰か。何に対する謝罪かわからないが、それは私の台詞だ。本当に、申し訳なかった。
心の中で『誰か』に謝ったエミヤは、八つ当たりのように紙をくしゃくしゃと丸めた。

   ◇ ◇ ◇

あの悪夢のような目覚めからそれなりに経ったが、エミヤの思考は囚われたままだった。あの日から『お楽しみ』は封印している。あんなことがあったのだ。どんなに好ましい時間だとしてもエミヤの性格上、自重する以外の選択肢はない。
正直なところ、こういった飲み会に参加するのも気が引けたのだが、一滴も飲まないと宣言していたし、第一、責任者として部下たちの頑張りを労いたかった。その気持ちだけで参加したのだが、宴が始まって早々に後悔した。向かい側にクー・フーリンが座ったのである。青色が視界に入る度にどうしようもない切なさが込み上げてきて、エミヤは今すぐにもここから逃げ出してしまいたくなっていた。

あの日、フロントで宿泊費が支払い済みであることを確認したエミヤは、すぐに自宅へと帰った。シャワーを浴びて慣れたベッドへと潜り込む。使い古した布団の触り心地にほっと息をついて、エミヤはこの一夜のことを思い返した。途端、どくどくと心臓が騒ぐ。手足が冷える感覚に恐くなって頭まで布団を被った。眠気はなかった。けれど眠りたかった。すべて忘れて眠れるならどんなによかったか。
巻き込まれてしまった、見知らぬ不幸な誰かのこと。
そして、クー・フーリンのこと。
着地点もなく巡る思考に目を回しそうだった。それでもやめられなかった。見知らぬ誰かに抱かれたところで、エミヤの感情に変化はない。そんな程度で消えるものではなくなっているのだ。そのことを改めて思い知ったエミヤはその醜い感情の〈次〉の矛先に怯えた。
この気持ちがクー・フーリンにバレてしまう、そんな日が来るのではないか。独りよがりで、醜くて、ガラクタのような愛情を、あの美しい男に押し付けてしまう未来が近くにあるのではないか。
(……それは、なんという地獄だろうか)
そんな恐怖に苛まれながらも、エミヤはどうにか仕事をこなし続けた。『仕事に真面目な社員』を取り繕おうとして何度か失敗し、部下たちから心配までされてしまった不出来さではあったが。
週二回の昼食もエミヤは必死だった。クー・フーリンが忙しく、一緒にいることが少なかったのは幸いだったが、挙動不審になっていないか不安で仕方がなかった。勿論、あの日のことにクー・フーリンは一切関係ない。勝手に彼に恋をして、勝手に彼への恋を棄てようとした。それだけのことだったのだが、エミヤの中に燻る「いつかこの気持ちをクー・フーリンに押し付けてしまうのではないか」という懸念は消え去ることがなかった。
その懸念は、今、この瞬間もエミヤを悩ませている。
視界に入ってくる青色から意識を離すように、テーブルに並べられた大皿から揚げ物を選んだ。冷めて脂っぽく感じるそれに、あの店の味が恋しい、と思う。舌に残る油を流すように烏龍茶を飲んでいると、向かいから「アーチャー」と何度も呼ぶ声が聞こえた。エミヤを愛称で呼ぶ者はこの場にひとりしかいない。そうわかっているからこそ、エミヤは心底嫌だという顔を作ってから顔を上げた。
「…………なんだね?」
「……てめぇ、そんな嫌そうな顔をするんじゃねぇよ。呼んだだけじゃねぇか」
「いいや? 嫌そうだなんて、とんでもない。営業部のエースに呼ばれるなんて光栄さ」
〈犬猿の仲〉にふさわしく煽れば、クー・フーリンもいつも通り嫌そうな顔をした。誰がどう見たって、気の合わないふたり組がここにいる。その事実にエミヤは安堵し、そして身勝手に傷ついた。
「……で、なんだ?」
「ん? あぁ、こいつらが、お前とも話がしてぇって」
そう言ってクー・フーリンは、自分を囲むように座る営業部の社員たちを指し示した。皆、顔が真っ赤だ。何の話だろうかと首を傾げるエミヤに、酔っぱらいたちは「エミヤかちょー!」「おつかれさまっすー!」と高いテンションで手を振る。そのテンションを理解できないまま、つられるようにエミヤが手を振り返すと、酔っぱらいたちのテンションが更に上がる。ファンサービスに喜ぶようなリアクションに、クー・フーリンは呆れたようにため息をついた。
「お前ら、アーチャーを困らすんじゃねぇぞ……」
「主任はいいですよね! エミヤかちょーと仲いいんですもん! 俺らも話したいんです!」
「そうですよ、ズルいです! 美味しそうなお弁当も食べられるし!」
「エミヤ課長、すっげぇ仕事できるし、憧れてるんですよ!」
口々にエミヤと話したいとアピールする部下たちに、クー・フーリンはこめかみをひくつかせた。「お前ら落ち着けって」と気苦労を滲ませる声に、まわりが笑う。その様子を見ていたエミヤは、自分に対する過ぎた評価に苦笑いを浮かべることしかできなかった。特に「クー・フーリンと仲がいい」と思われていることに疑問を抱くしかなかったのだが、その疑問を口にする暇も与えられなかった。仕事のことや料理の腕前のことなど、無礼講と言わんばかりに質問が飛ぶ。その中には調子に乗りすぎた危ない言葉もあったが、それは都度、クー・フーリンが叩き落していた。
「あ、エミヤかちょーも呑みません? これ、旨いですよ!」
「あ、いや、私は……」
「弱くても、少しくらいなら大丈夫じゃないですかね~」
エミヤの前にウイスキーの入ったグラスが置かれる。酔っぱらった社員の厚意であることは分かったが、エミヤはそれを受け取るわけにはいかない。どう断ったものかと眉間にしわを寄せると、向かい側から伸びてきた大きな手がそのグラスを掴んだ。
「たわけ。そいつは酒飲むとすぐ寝るし、記憶飛ばすんだ。つーか、無理強いはやめろ」
そう言ってグラスの中身を飲み干したクー・フーリンは赤色を細めた。その視線にエミヤへ酒を勧めた社員は怯えるように身を縮こませる。すみません、と僅かながら酔いから覚めた声で謝られ、エミヤはその謝罪を受け取りながらクー・フーリンの義理堅さに感謝していた。自分の部下の過ちを見逃せなかったからこその行動で、決して自分のためでないことはわかっていたが、それでも、そういうところも彼の美点だなと思いながら烏龍茶を飲む。
(…………? 飲んだら寝たり記憶を飛ばしたりする、なんて、ランサーに言ったことあったか?)
自分が酒に弱いということは自覚していたが、あそこまで酷いということはエミヤ本人ですら最近まで知らなかった。学生時代の失敗談含め自分の醜態を語った記憶などないのだが、と不思議に思うエミヤの隣で、総務課の社員が空気を変えるように「そういえば」と話し出す。
「エミヤ課長って、前は営業部にいたんですよね? おふたりって、そのときからあだ名で呼び合ってるんですか?」
「あー……? 『アーチャー』呼びってことか? いや、こいつが異動してからだな。こいつが営業部だったときはまともに話したこともなかったし」
その質問にクー・フーリンが答える。え、と驚く声を聞きながらエミヤも「そういえば、そうだったな」とぼんやり思い出を紐解いていた。

   ◇ ◇ ◇

最悪の出会いから約一年半、エミヤとクー・フーリンは最低限の言葉を交わすのみで、それ以上の交流はなかった。エミヤにしてみればクー・フーリンは初対面で喧嘩を売ってきた要注意人物である。自ら近寄りたいとも思わなかった。
けれど、どうしても意識してしまった。美しいものをついつい見てしまうのは人間の性だろう、というのがエミヤの言い訳である。そう言い聞かせて、同期よりも何歩も前を歩く優秀な姿を目で追っていたエミヤは、鮮やかなのはあの青色と赤色だけでないと知ってしまった。乱雑に見えて細やかな配慮ができるところも、天性の才能で営業成績を上げているように見えて実は誰よりも勉強しているところも、エミヤのほかにどれだけの人が気づいていたかわからない。
同じ部署にいながら疎遠だったエミヤは、遠くからずっと、鮮やかな存在を追っていたのだ。
それこそ、誰よりも。

エミヤが入社時から希望していた総務部に異動になって半年後、二学年下のアルトリアが入社してきた。折角同じ会社にいるのだからと一緒にお昼を食べる約束をしたのは、彼女の入社後研修などが落ち着いた頃のこと。エミヤは張り切って二人分のお弁当を用意した。
約束の日、中庭で落ち合った彼らは、お互いに近況報告をした。アルトリアから最初の配属は営業部で、昔からの知り合いだというクー・フーリンから指導を受けることになったと聞き、エミヤは内心ホッとしていた。アルトリアは元々、エミヤの幼馴染の友人である。エミヤにとっては友人であり妹のようでもあるアルトリア。その指導係がクー・フーリンになったことに、エミヤは心底安心したのだ。そしてつい、ぽろりと本音を零した。
「クー・フーリンは優秀な男だ。安心してついていくといい」
それは、心からの発言だった。
「――セイバー?」
背後から聞こえた声は、異動して以来久しく聞いていないものだった。タイミングの悪さにエミヤは硬直する。エミヤの向かい側に座っていたアルトリアも驚いたように声をあげた。
「ランサー、なぜここに?」
「なぜって、ちょうど通りかかったらお前と……珍しいやつが見えたからよ。ここで何してんだ?」
「なにって、見ての通り、一緒にお弁当を食べているのです」
「弁当?」
アルトリアと話し始めたクー・フーリンに、エミヤは内心どぎまぎしていた。先程の発言は聞こえていなかっただろうか? ろくに関わることもなかった同期に知ったようなことを言われても気持ち悪いだろう。そんな不安で、エミヤはクー・フーリンを直視できなかった。
「……うっわ、なんだこれ……すっげぇ旨そう」
気付かぬ間にテーブルの横まで近づいていたクー・フーリンが、並べられた弁当箱を覗き込んで呟いた。彩りを気にしつつもアルトリアの好むものをたくさん詰め込んだ四角に、赤色の視線が注がれる。その声に何故かアルトリアが胸を張った。
「美味しそう、ではないですよ。美味しいのです! なんせアーチャーが作ってくださったのですから!」
「……エミヤが?」
アルトリアの言葉にクー・フーリンはきょとんと目を丸くする。そして驚きに満ちた瞳を向けてきたので、エミヤは逃げたくなった。
「お前が作ったのか?」
「……ま、まぁ……大したものはないが……」
「どう見ても大したものだろ。なぁ、どれか食ってもいいか?」
「あ! 駄目ですよ、ランサー! アーチャーが私のために……あぁ!」
アルトリアの抗議を見事にスルーしたクー・フーリンは右手で唐揚げを攫っていった。ひょいっと口に放り込むのを何とも言えない気持ちで見ていたエミヤは、次の瞬間、肩に衝撃を受ける。クー・フーリンが肩を掴んできたのだ。その左手にエミヤは入社式のことを思い出してしまったが、あの時よりも優しい掴み方だったこともあり今度は手を払わなかった。
アルトリアの非難の視線を受けながら咀嚼していたクー・フーリンの瞳が輝く。
「う……っま……」
「えぇ、そうでしょう。そうでしょうとも! その唐揚げは私のものだったはずでしたけどね!」
食べ物の恨みは根深いんですよ! と叫ぶアルトリアの訴えは空しく、クー・フーリンの指が今度はだし巻き卵を連れ去る。
「あぁ! 私のだし巻き卵が!」
「うっわ、こっちもうめぇ……」
つまみ食いするクー・フーリンに、悲しそうに叫ぶアルトリア。美形がふたり、行儀悪く食べている光景にエミヤは深いため息をついた。
「セイバー、おかずはまだまだある。それに、もしお望みならまた作ってくるから……」
「本当ですか、アーチャー!」
「あぁ。いくらでも作るさ。ほら、クー・フーリンも、食べるなら座って食べろ。箸の予備もあるから、それを……」
そこまで言ってから、エミヤは我に返った。アルトリアに言い聞かせる流れでついクー・フーリンにも小言を言ってしまったが、そもそも彼と自分は親しい間柄ではない。エミヤの中のクー・フーリンの印象は初対面のときより随分と良くなっていたが、クー・フーリンの中のエミヤの印象はきっと悪いままだろう。そんな相手に細々と世話を焼かれて楽しいわけがない。そう思い至り、差し出した箸を引っ込めようとしたが、それよりも先に箸はエミヤの手を離れていった。
「おう、サンキュー!」
そう礼を言いながらにかりと笑ったクー・フーリンに、エミヤは動きを止めた。それは、初めて向けられた笑顔だったのだ。
エミヤから差し出された箸を受け取ったクー・フーリンはエミヤの隣に座った。ぱんっと手を合わせて「いただきます」と言った彼は、嬉しそうに弁当へ箸を伸ばす。
「お前がこんなに旨い飯を作れるなんて知らなかった」
「あー……そうだろうな」
仕事上の、最低限の交流しかしていなかったのだ。それは当然だ、とエミヤは思った。むしろこうやって、クー・フーリンが自分の料理を食べる日が来たことが奇跡だ。
未だ文句を言っているアルトリアへ軽口を叩きつつ手料理を頬張るクー・フーリンに、エミヤの心は疼いた。なんだが恥ずかしいような、照れるような、……嬉しいような。そんな不思議な気持ちで見守っていると、エミヤの視線に気が付いたのか、クー・フーリンがエミヤのほうを向いた。どうした? と問いかけるような優し気な視線に、居心地の悪さを感じたエミヤは話題を探す。
「あー……そうだ。『ランサー』というのは、君のことか?」
アルトリアはクー・フーリンを『ランサー』と呼んでいた。ランサー……まるで自分の愛称である『アーチャー』のようだ、と気になって聞いたエミヤに、返事をしたのはクー・フーリンではなくアルトリアだった。
「ええっと、それはですね……子供の頃、私が彼に付けた愛称です」
「君が?」
「はい……その、私の『セイバー』から派生してまして……彼は槍術をやっていましたので……」
普段ハキハキとしているアルトリアにしては珍しく、ごにょごにょと小声で説明される。アルトリアの『セイバー』から派生したということはつまり、と考えていると、隣から笑い声が聞こえた。
「そ。つまり、元はと言えば、お前の『アーチャー』から生まれた『ランサー』だ」
赤色の瞳が穏やかに光る。どこか嬉しそうなクー・フーリンから、エミヤは目が離せなかった。
「アルトリアに『セイバー』ってつけたの、エミヤの幼馴染なんだろ? こいつ、そのあだ名をかなり気に入ってな。俺にも似たような名前を付けたがったんだよ」
「……っ、ランサー、そこまで言わなくて、結構です」
「あー? いいじゃねぇか。ペンドラゴンのご令嬢の、可愛らしいエピソー……いっで! 脛を蹴るんじゃねぇ!」
テーブルの下で足を蹴られたらしいクー・フーリンが叫ぶ。その声を無視したアルトリアは、ごほん、とわざとらしく咳払いした。
「前にも言ったかと思いますが、彼とは、親の仕事の関係で昔から知り合いなのです。幼馴染というほど一緒にはいませんが……まぁ、そういうわけでして『ランサー』は彼のことになります」
子供の頃のエピソードが恥ずかしかったのか、アルトリアは早口で話を終えてしまった。可愛らしい話ではないか、とエミヤは思ったが、それはそれとして、初対面の時にクー・フーリンが自分のことを『アーチャー』と呼んだ理由が今になってわかった。成程、彼は知っていたのだなとエミヤは納得する。
アーチャー。セイバー。そして、ランサー。並べてみるとお揃いのようで気恥ずかしい。実際、お揃いのようなものなのだが。そして、隣の男の愛称が自分から派生していることに、どういう反応をすればいいのかわからなかった。
「……ランサー」
ぽつり。今初めて知った言葉を、なぞる様にゆっくりと口にしてみる。らんさー。不思議と舌に馴染むその音をもう一度繰り返してみたエミヤに、隣から返事があった。
振り返ると、美しい笑みがある。

「なんだよ、アーチャー」

その音に、エミヤの心臓は僅かに震えたのだ。

   ◇ ◇ ◇

元々エミヤの料理がお気に入りだったアルトリアと、偶然エミヤの手料理の素晴らしさを知ったクー・フーリンから、時々でいいから弁当を作ってほしいと食費の入った封筒を差し出されたのはそのあとすぐのことである。旧知のアルトリアはいざ知れず、クー・フーリンにまで頼まれたことに最初こそ戸惑ったが、美味しそうに食べる姿に絆されたエミヤであった。最初は月に一回。そして二回、三回と増えながら、三人でエミヤのお弁当を囲むことが、彼らにとっての〈当たり前の時間〉になっていた。そしていつからか、エミヤとクー・フーリンは互いを愛称で呼ぶようになっていったのだ。
「昔から仲良かったんだと思ってましたよ」
「はぁ? 俺とこいつが? 今だってそんなことはねぇよ。なぁ、アーチャー?」
部下たちの言葉を否定しつつエミヤに話を振ったクー・フーリンは、心底呆れたような表情を浮かべていた。その表情を見なかったふりをしたエミヤは、肩を竦めて同意する。
「まぁ、そうだな。決して仲良くはないだろう」
「プライベートで会ったりもしないんですが?」
「個人的に? いや、まったくない。私用携帯の番号すら交換していないしな」
そもそもエミヤのプライベートの連絡先はごく僅かの人にしか知らせていない。自身から発信することも少ないから、専ら赤い悪魔からか、それ以外の人から時折安否の確認が入るだけだった。そう思いつつ「クー・フーリンと親しくない」というアピールをするためにエミヤが答えると、エミヤの視界の端で青色の男が眉間にしわを寄せた。なんだ? とエミヤは疑問に思う。なにか口に合わない食べ物でもあっただろうか。
答えた通り、エミヤとクー・フーリンはお互いのプライベートに踏み込んだことはない。昼食の会話でお互いのプライベートを何となく察したり把握したりはできたが、連絡先すら知らないし、エミヤはクー・フーリンがどこに住んでいるのかも知らなかった。
ちなみにクー・フーリンとエミヤの主な連絡方法は、週二回のお昼休みで会うか、お互いの部署への訪問である。一応お互いに業務端末は持っているし、その連絡先は知っているのだが殆ど使われることはなかった。エミヤの場合、営業部へ行く主な理由は書類やその他諸々の不備や苦情のためだが、クー・フーリンは暇があるとふらりと総務課に立ち寄っている。その度に「暇なら帰れ」と突き放そうとするエミヤだったが、想い人と顔を合わせること自体は悪く思っていなく、それ故に強く言えていない。
(それにしても……案外、大丈夫なものだな)
予想外にまわりからクー・フーリンとの関係を聞かれて慌ててしまったが、案外、普通に話すことができた。もっと息苦しくなるものだと思っていた。言葉が詰まるかもしれないと思っていた。エミヤの頭には、あの一夜の後悔とあの朝の絶望のことがある。それからずっと抱えてきた「いつかクー・フーリンへの感情が爆発してしまうのはないか」という不安を、少しは慰められる気がした。意外にクー・フーリンへの感情を飲み込んだまま、自分はきちんと取り繕えるのかもしれない。エミヤはそんな薄っぺらな慰めを自分に言い聞かせていた。
(……大丈夫だ……大丈夫だ。私は、きっと、ちゃんと諦められているはずだ)
そんなことを繰り返し考えているエミヤを置いてけぼりに時間は過ぎていった。総務課の社員に促されてエミヤが一言挨拶し、クー・フーリンが最後に立ち上がって締めの挨拶をする。クー・フーリンらしい緩い言葉選びに、部下たちがわっと笑って宴会は終わった。
大勢の笑い声を浴びながら、エミヤは立ち上がる青色をまっすぐに見つめていた。

   ◇ ◇ ◇

店から出ると外は小雨が降っている。日付が変わるまでにはまだ幾分か余裕はあったが、連日の多忙さを労わって、ここで解散することになった。エミヤは甲斐甲斐しく部下たちに傘を持っているのか聞き、遠くに住む社員のためにタクシーを呼ぶ。てきぱきと動くエミヤの姿にあたふたする社員には、「あれはあいつの趣味みてぇなもんだから気にしなくていいぞ」というクー・フーリンの言葉が贈られた。
小雨の中、ひとり、またひとりと帰っていった。あとはこの店からも割と近いところに住んでいる者だけになり、一気に散っていく。その姿を見送りながら、エミヤもまた自宅へ帰るために店の軒先から一歩踏み出した。就業後に集まりやすいようにと幹事が選んでくれた店は会社の近くである。エミヤの一人暮らしの家までは少々遠いが、毎日通っている距離であるし、これくらいの雨ならば問題ないだろうと、エミヤは楽観的に考えていた。
雨に濡れて染みを作り出したエミヤの肩を、背後から誰かが掴んだ。引き寄せるような力強さに、気の緩んでいたエミヤは一歩後退る。
「お前、傘は?」
驚いて振り返ると、真っ赤な瞳がまっすぐにエミヤを捉えていた。突然の問いにすぐ答えられなかったエミヤに、声の主はどこか不機嫌そうに眉間のしわを寄せる。そして不機嫌さを隠さない声が、もう一度同じ質問を繰り返した。
「……傘は?」
「…………折り畳みが、ある」
「総務課の子に貸したのにか?」
「……な、」
なぜそれを、と絶句するエミヤに、クー・フーリンは冷ややかな視線をぶつける。
「見てた。こっそり渡してただろ。もう一本持ってる、なんて下手糞な嘘もつきやがってよ」
「……彼女たちが濡れたら可哀そうだろう。傘を買うにも、コンビニまでは距離もあるしな……」
「で、てめぇが濡れるのかよ」
はぁ、とクー・フーリンが大きなため息を吐く。それから、まだ残っていた営業部の社員たちに「お前らも風邪ひかねぇように帰れよ」と声をかけた男は、自分の鞄を漁った。そこから真っ黒な折り畳み傘を出して広げたクー・フーリンは、問い詰められて居心地悪そうにしているエミヤの腕を掴む。
「おら、さっさと帰んぞ」
そう言ってクー・フーリンはエミヤを傘の下に引き寄せた。
「は!? なんで、」
「なんでじゃねぇよ。男二人だが我慢しな。お前が濡れて風邪でもひいたらあの子たちが気に病むだろ。……コンビニまででもいいからよ」
大きめの折り畳み傘だが、ふたりとも平均よりも立派な身体つきをしている。肩がぶつかってももう一方の肩ははみ出ている状態だったが、クー・フーリンは特に何も言わなかった。エミヤも何も言わない。否、言えなかった。状況を飲み込めず、言葉が浮かばない。なんせ、エミヤはクー・フーリンに恋しているのだ。そしてその感情が溢れないように、心を擦り減らしているのだ。そんなエミヤにとって、この至近距離は地獄でしかなかった。
無言のエミヤをちらりと見てから、クー・フーリンは歩き出す。背後から投げられる部下たちの挨拶と囃し立てるような軽口を、青色の男は掌をひらひらさせて受け流した。
その隣でエミヤはどうしたものかと途方に暮れる。クー・フーリンはもうエミヤのことを掴んでいない。だから傘から逃れるのは簡単だったが、そうすることができなかった。これはこの男の気遣いだ。散々〈犬猿の仲〉だと言われる自分にも気遣える、そういう男なのだとエミヤは知っていた。それも男の美点であり、エミヤにとって好ましい点であり、時折、残酷に思える長所だった。
ふたりとも鞄だけは死守しようと肩をぶつけ合いながら繁華街から逸れた裏道を進む。金曜日の夜ではあるが、店に面していないからか人通りは少なかった。歩き出してから会話はなく、クー・フーリンのやや早い歩調についていこうとするエミヤは随分と緊張していた。それこそ、コンビニに寄ってビニール傘を買うことを失念するほどに。
夜道をふたり、無言で歩いていく。クー・フーリンが一人暮らししている家は会社の徒歩圏内であることは、昼食中の会話から把握はしていた。クー・フーリンが進む先から察するに、幸い、方向は私の家と変わらないらしい。彼の家がどこにあるのかは知らないが、別れたあとは走ればいいだろうか、と思案したエミヤの隣で、それまで何も言わなかったクー・フーリンが舌打ちした。
「くそ、強くなってきやがった」
傘を叩く音が酷くなる。いつの間に、と呆けるエミヤに、クー・フーリンは雨音に負けないような大きな声で言った。
「…………俺んちで雨宿りしてけ。何ならタクシーも呼んでやる」
「…………は?」
何だって? と聞き返す暇もなく、クー・フーリンはエミヤの腕を掴んだ。そのまま、青色の男は横道に入り、走り出す。突然の方向転換とダッシュにエミヤの足はもたつきそうになったが、クー・フーリンは振り返ることもしなかった。

ざぁざぁと強い雨が降る。道路にでき始めた水溜りが、ふたり分の足音を生んだ。


   四


「クー・フーリンくんって、いいよねー」
「あー、たしかにー」
わかるわかると賛同する声に、ちょうど休憩スペースの前を通りかかったエミヤは足を止める。聞こえてくる声の主は分からなかったが、聞く限り四人ほどだろうか。そこは女性社員の社交場と化しているようだった。
そんな人数で業務時間中に何をしているのだろうかとも思ったが、それ以上に先程聞こえた名前が気になってしまった。クー・フーリン。つい最近昼食を共にするようになり、そして恋をしているのだと自覚した相手。
「彼女いないって言ってたけどほんとかなぁ」
「え、もしかして狙ってるの?」
「いや、まさかぁ。無理だよぉ。レベル高すぎて隣に並ぶのも恐れ多いわ」
「だよねぇ。というか、クー・フーリンくん自身、理想高そう。噂だけど、広報部の――さんが言い寄っても全然だったらしくて」
「え、あの人、すっごい美人だし、性格もいいじゃない」
「でも駄目だったみたいだよ。軽やかに避けられたってさ」
「へぇ、美男美女でお似合いそうなのに」
挙げられた名前にエミヤは目を細めた。その人物とは何度か顔を合わせたことがあるが、エミヤから見ても美人だったし、気遣いもできる女性だった。仕事もできると思う。一般的に見たら、誰もが羨むような人物だろう。そんな女性ですらあの男を落とせなかったのだと、女性陣の会話は盛り上がっていく。反対に、エミヤの心は落ちていった。
女性たちの笑い声に、エミヤの心臓が引き攣るような痛みを訴える。誰もが羨むような人ですら彼の心を射止められないとなれば、自分の勝算など少しもなくなってしまうだろう。
(……いや、そもそも、最初から少しもなかったな)
エミヤは自身を「クー・フーリンと真逆」だと認識していた。自分でもよくわからない内に弁当を作る約束までしてしまっていたが、そもそも自分は、クー・フーリンに並び立つどころか、かけ離れた位置から羨ましそうに眺めているだけなのだ。同性同士というハードルもあるだろうが、それ以前に、自分はクー・フーリンとは合わない。ふさわしくない。なんせ誰もが認める〈犬猿の仲〉なのだから。クー・フーリンの好みなど知らなかったが、それが自分である可能性は一切ない。
自覚したばかりで「クー・フーリンを好きになってしまった」こと自体で頭がいっぱいだったエミヤは、今更だな、と笑ってしまった。もっと早く、何なら自覚と共に気付くことだってできただろうに。
私は彼を愛している。けれどこの恋は、叶わない。
だって私は男だから。〈犬猿の仲〉だから。あの美しい輝きの隣にふさわしい人間ではないから。
自覚した瞬間から、この恋は死んでいく運命だったのだ。
「ある日突然、誰もが認めるすっごい人をつかまえて、結婚しましたーとかありそう」
(……そうだな。あの男はあれだけ輝いているのだ。どんな相手でも望めるだろう)
そして誰よりも幸せになるべき男だ。
知らない女性社員の言葉に心の中で答えたエミヤは、そのまま踵を返す。当初の目的など忘れて、とにかくこの場から離れたかった。いつもなら知らない声たちが騒ぐ世間話など気にも留めないが、今のエミヤには刺さってしまった。
自分の恋はこのまま死んでいく。彼の幸せを祈りながら。
そうあるべきだ、と思い込んだまま、エミヤは早足で逃げる。心が軋むようだったが、その痛みを抱えることすら自分には資格がないだろうと、眉間のしわを寄せた。

   ◇ ◇ ◇

今日は昔のことを思い出してばかりだ。そのせいで懐かしくも切なくなってしまったところに、正直このアクシデントはいけない、とエミヤは思う。心臓に悪すぎる。何故、自分はここにいるのだろうか。
「ほら、タオル」
「……すまない」
濡れたままで人の家にお邪魔するわけにはいかないと抵抗するエミヤを、クー・フーリンは半ば無理矢理に自宅へ押し込んだ。リビングまで連れてこられて居心地悪そうにしているエミヤに、上着を脱いだクー・フーリンがタオルを投げる。
連れて来られたリビングで、失礼だとわかりつつもエミヤは部屋の中を見渡してしまった。クー・フーリンの家はセミオープンキッチンで、全体的に最低限の家具しかなくこざっぱりとしている。が、ローテーブルには乱雑に積み上がった書類や本の山、キッチンカウンターにも無造作に置かれた紙袋などがあって、それが彼らしいなとエミヤは思った。
クー・フーリンの自宅はオートロック付きマンションで、一人暮らしにしては部屋数が多い。思わず「広いな」と呟いたエミヤにクー・フーリンは笑った。知り合いの持ち物件を安く借りているのだそうで、本来はファミリー向けなのだという。エミヤの家に比べれば会社にも近く、その上、マンションの隣には二十四時間営業のスーパーもあって、エミヤは少しだけ羨ましくなった。
色の変わってしまった上着を脱ぐ。ソファーに座るよう言われたが濡れたままで座るわけにもいかず、鞄だけ床に置いた。ソファーの傍らに立ち尽くしたままのエミヤにクー・フーリンは苦笑いを浮かべ、珈琲持ってくるわ、とキッチンへ入っていく。それを見ながらエミヤは困惑していた。
(……私のことなど放っておけば濡れずに帰れただろうに)
予期せぬ相合傘にまともな判断もできなくなっていた。そのせいで途中にあったコンビニはスルーしてしまったし、提案されるままに雨宿りに来てしまったのだ。申し訳なかった、とエミヤは思う。遠慮することもできず、クー・フーリンの優しさをそのまま受け取ってしまった自分を恥じた。
同時に、彼はどこへ帰ろうとしたのだろうか? と疑問を持つ。クー・フーリンの家は、ふたりで帰っていた道からは少し外れた場所だったのだ。てっきり、自分の家と同じ方向かと思ったのに。
(……そういえば、家の場所を確認されなかったな)
もしかしたら昼食中に大体の場所は言ったことがあるかもしれないが、それにしたって、クー・フーリンが進む方向に迷いはなかったように感じる。
キッチンから戻ってきたクー・フーリンはエミヤの疑問に気が付くこともなく、珈琲を二人分、ローテーブルに置いた。それから、楽な格好になるためか、おもむろに自身の髪留めを外す。ぱさりと落ちた絹糸のような青色に、エミヤの意識が引き寄せられた。
「ほら、珈琲。あ、シャワーとか使うか?」
優しくて穏やかな声と瞳がエミヤの心を貪る。引き締まった身体に張り付いたワイシャツ。そこにかかる青色。――あの身体に抱きついて、青色の髪をかきあげてやる。赤色の瞳に見つめられて、それから、……それから。何度も繰り返した妄想が、想い人の家にいるという事実と目の前の彼に結びついて、無様な幸福感として込み上げてくる。見知らぬ誰かに縋ってまで殺そうとした恋はいつだって自分勝手な空想を広げた。諦めたはずなのに。諦めるべきなのに。いつまでも虚無ばかりを生む自分の心に吐き気がして、エミヤは顔を顰める。その表情を見たクー・フーリンは目を細めた。
「どした、大丈夫か? 体調でも悪いか?」
心から心配しているのだと嫌でもわかるような声音に、エミヤは呼吸が止まってしまうのではと思った。クー・フーリンへの申し訳なさと自分への嫌悪感で脳内が塗り潰される。
大丈夫なはずがなかった。もしかしたら上手く隠し通せるかもしれないと思った数時間前の自分を殺してやりたい。何度も思い知ったではないか。クー・フーリンを愛しく思う前に、自分がどんな風に生きていたか覚えていないのだ。それほどに、長く長く抱き育ってしまったこの恋心は、容易く棄ててしまえるような可愛いサイズではなくなっていた。それこそ、誰でもいいから抱かれて忘れようという愚行さえ意味を成さないほど、エミヤはクー・フーリンを愛してしまっていた。
そんなこと、誰でもない、自分が一番知っているはずなのに。
それは独りよがりの愛情だ。決して、決して、君に渡すことなどできない、醜いものだ。それが、この瞬間ですから簡単に溢れそうになる。その事実に、エミヤは打ちのめされた。
「…………すまない。帰る」
「は? まだ雨強いぞ? せめてタクシー呼ぶからもう少し、」
 心配そうなクー・フーリンが手を伸ばしたが、その手はエミヤに届く前に弾かれる。クー・フーリンの真っ赤な瞳が見開かれたのを無視したエミヤは、全身全霊で笑みを作った。
「私は大丈夫だから、これ以上構わないでくれ」
クー・フーリンの優しさを踏みにじるような発言を吐いたエミヤは、のろのろと自分の鞄を持ち上げる。早く、ここから立ち去らねば。そればかりを考えながら、クー・フーリンに背を向けて玄関へと歩き出したエミヤは後ろから肩を掴まれた。その力強さに後ろへよろけながら、今日二回目だな、と現実逃避なことを思う。今度は振り返らずにいると、背後から愛称を呼ばれた。相変わらずその声が心配そうで、エミヤは何だか泣きたくなった。
「……なんだ?」
「なんだ? じゃねぇよ。ふらふらしやがって。そんな状態で帰らせられるか」
「……別に、私のことなんて、君には関係ないだろう?」
「あ?」
「面倒見がいいのは結構なことだが、私に向ける必要はない」
「……ンだと?」
(……だって私は、君に、君のためにならない感情を向けているのだ)
そんな男に心配する価値などない。肩を掴む手から逃れるように身を捩ったエミヤは、硬い表情のクー・フーリンに「また会社で」と告げる。そして今度こそ玄関へ向かおうとしたエミヤを、鍛えられた両腕が包み込んだ。
「――?」
何が起こったのか分からなかった。身体が動かない理由が、フリーズしてしまった頭では理解できない。自分の胸のところで交差した腕が、あれだけ思い焦がれていたそれだとわかるまでに数秒。背中にぴったりとくっついた体温が誰のものかわかるまでに更に数秒。
今、密かに愛している人に背中から抱きしめられている、とようやく理解したエミヤは息を止めた。
「……アーチャー」
硬直するエミヤを抱きしめたまま、クー・フーリンが名前を呼ぶ。その音にびくりと肩を揺らしたエミヤを、クー・フーリンは更に強く抱きしめた。
「お前に構っちゃ駄目かよ……心配したら、駄目かよ」
「……らん、さー?」
耳元で切なげな声がして、エミヤは思わず男の名前を呼んだ。それに対する返事なのか、うん、と小さな声がして、次いで深い呼吸が聞こえる。今にも眩暈を起こしそうなエミヤを抱きしめたクー・フーリンは、普段は聞いたことのない低いトーンで「アーチャー」と呼んだ。
「面倒見がよく見えるのは、お前相手だからだ。もしかしたら気持ち悪いって思うかもしんねぇけど、どうしたって、俺はお前に構いたくなるし、心配もすんだ」
「……ランサー?」
理解の追い付いていないエミヤに、クー・フーリンはそのまま爆弾を落とした。

「気付いていたと思うが……俺、お前が好きなんだよ」

紡がれる言葉にエミヤの頭は真っ白に染まる。なんだ、今、何だと? 自分の耳は確かに彼の言葉を受け取ったはずなのに、意味を飲み込むことができなかった。
(……好き? 誰が? ランサーは、何の話をしているんだ?)
自分と同じ感情を持っていてくれたのだと、喜ぶべきシーンなのかもしれない。けれど、それはエミヤにとって許されないことだった。
だって、これは叶わない、〈叶うべきでない恋〉だ。
クー・フーリンの幸せに自分は不要であるはずで、そう思い続けているエミヤにとって、クー・フーリンの言葉は理解しがたいものだった。クー・フーリンの言葉をひとつずつ繰り返して、それぞれの意味を探すも、どうしたって理解ができない。脳が思考を放棄したがっている。
エミヤの混乱を理解したのか、クー・フーリンはそっとエミヤを解放した。解放されたエミヤの身体はふらついて、ぐらりと落ちる。
「おい、アーチャー!?」
気付けばエミヤはしゃがみこんでいた。どうにかローテーブルに手をつけたものの、卓上の山を崩してしまう。
「す、すまない……っ」
クー・フーリンの視線から逃げるように自分の鞄を床に投げ、床に広がった書類や本を必死に拾い上げたエミヤは、ふと、かき集めたその中に見覚えのある名前を見つける。
(……領収証? ……これは、あのホテルの?)
乱雑に重なった山に隠されていた一枚の領収書には、地獄のような朝を迎えたあの美しいホテルの名。見てはいけないとわかっていたはずなのに、思わず、そこに書かれた内容を目でなぞってしまった。
「…………あの日?」
ぽつりと零す。日付、そして部屋番号―何度も夢であればと願ったあの日、あの場所。拾った領収書には、その情報が書かれていた。日付も、やけにグレードの高かった部屋の番号も、思い出したくないと思った故に何度も思い出してしまったから間違いない。
帰り際、フロントで宿泊費が支払い済みなことは確認している。支払ったのは、あの日エミヤに巻き込まれてしまった『見知らぬ誰か』以外にいないはずだ。

では、何故、その領収証をクー・フーリンが持っている?

「――なんで、これを、きみが?」
喉が渇く。声が掠れる。ギ、ギ、ギ、と音が聞こえてきそうなくらいぎこちなく顔を上げたエミヤは、酷く表情を歪めるクー・フーリンを直視した。見たこともないような、言うなれば絶望を抱えたような表情に、エミヤは「きっと今、自分も同じような顔をしているのだろうな」と他人事のように思う。
クー・フーリンは、言葉を探すように視線をうろつかせてエミヤを見ない。エミヤもエミヤで、顔を上げたはいいもののこのあとにどうすればいいのかさっぱり解らなかった。身体が震える。完全に混乱の渦へ飲み込まれていた。
「…………はは、」
笑いが漏れる。その笑いに、クー・フーリンの瞳が見開いた。
叶わないと知っているのに棄てられない、可哀想な恋心を消せるように。そう願って縋った相手が、まさか想い人本人だったというのか。
なんだ、それは。笑えない。けれど、笑うしかない。感情の乗っていない笑いだけが零れる。……どうしてそんな滑稽なことになってしまったのだろうか。
あの日、どういう流れでホテルに辿り着いてしまったのか、エミヤの記憶に一切の情報はない。だからどの時点でクー・フーリンと会ったのか、そこでどんなやりとりがあったのかも解らなかったが、目の前の証拠品から得た『見知らぬ誰か』は『知っている想い人』だったということだけで頭がいっぱいだった。はは、と乾いた笑いが漏れる。そういえば、あの部屋に残されたメモを見て「あの男の字体に似ている」と思ったではないか。似ているどころか本人のものだったなんて、もはや笑うしかないだろう。
「……ふは、はは……そうか、そういうことか……」
「……アーチャー?」
クー・フーリンの問いかけにエミヤは応えない。冷静沈着な男なんてここにはいなかった。今知りえているだけの情報を無理矢理繋げて、エミヤは最悪の答えを弾き出す。
「クー・フーリン。君は本当に優しくて、……残酷だな」
「……あ?」
「私は、君にどこまで話したのかな? 醜い感情を全部話してしまったんだろうか。だとしたらすまないな。聞き苦しい話を聞かせてしまった」
掠れた声が、違和感があるほどの流暢さで言葉を並べていく。いつかこの恋情が本人に漏れてしまうかもしれないという心配など無駄だったのだ。だって既に、自分が白状してしまっているのだから。そう、エミヤは思い至ってしまった。
「叶わない恋をいつまでも燻らせている私に同情でもしてくれたのか?」
「は?」
「……その上、なんだ、愛の言葉までか。サービス精神旺盛だな、クー・フーリン。そんなに、私が滑稽で可哀そうだったか。――愛しているとでも言えば、私の心が少しは救われると思ったか!?」
同情で、抱いてくれた。
同情で、告白紛いの言葉まで。
そう結論付けたエミヤは、クー・フーリンの言葉も待たずに立ち上がった。鞄を引っ掴み玄関まで走る。靴もろくに履けていない状態で玄関から出たエミヤは、廊下を追いかけてきたクー・フーリンの叫び声を知らないまま、階段を駆け下りて雨の中に飛び出した。

(あぁ、なんで、なんで、――なんで、)

なんで、こんなことに。
クー・フーリンの家に来た時よりも雨脚は強くなっていたが、それでもエミヤは立ち止まらずに走り続ける。

目の前がぼやけても、走り続けることしかできなかった。


   五


幼馴染である赤い悪魔からエミヤのスマホへ連絡が入ったのは、件の飲み会から三週間ほどが経った日のことだ。
赤い悪魔こと遠坂凛はエミヤの連絡先を知っている数少ない人物であり、そして、エミヤが「頭が上がらない」と思っている相手でもある。電話をかけてきた彼女は「いいお店があるって聞いたの。来週から忙しくてそれどころじゃないから、週末に付き合いなさい」とエミヤに有無を言わせない口調で告げた。
約束の土曜日。待ち合わせの場所として指定されたのは、エミヤの通勤路でもある大通りだった。この大通りは大型の店が並び、一本小道に入れば様々な種類の小型店が並んでいる買い物エリアだ。そして、エミヤの『お楽しみ』の場所もこの近くにある。
その大通りにある大型商業施設の入り口でエミヤは凛を待っていた。他の用事を済ませてから向かう、と言っていた凛は、待ち合わせ時刻の五分ほど前に到着する。赤と黒を基調とした落ち着いた雰囲気のワンピースを着た彼女は、黒く長い髪をひとつにまとめていた。
「会うのは久しぶりだけど、あんまりそういう感じがしないわね。電話やメールはしていたからかしら」
そう言って凛が笑うので、エミヤもつられて笑い返した。
凛の家はエミヤの実家の近くにあり昔は毎日のように会っていたが、エミヤが就職して実家を出てからは会う頻度が減った。お互いに社会人になった今では尚更、都合を合わせるのが難しくなっているが、それでもこまめに連絡を取り合って気にかけている。
「で、お目当ての店はどこなんだ?」
エミヤの問いに凛は「すぐそこみたいなの」と答え、ふたりは並んで歩き出す。機械類が苦手な凛と共にスマホの地図アプリを覗き込んだエミヤは、指し示された目的地に眉間のしわを寄せた。
「ここは……」
「会社の子に美味しいって聞いたのよ。夜はバーで、土日のランチタイムはピアノの生演奏が聞けるらしいの」
会社の同僚から得た情報だと話す凛の隣で、エミヤは思わず唸った。……あぁ、そうだ。あの店にはグランドピアノがあって、昼間の営業ではその演奏が聴けると聞いていた。行き先を確信した瞬間、今からでも行き先を変更したい気持ちになったが、幼馴染の楽しみにしている表情にそう言い出すこともできず、エミヤは重い足取りで進む。あの日から、金曜日の憩いの場であるあの店には行っていない。まさかこんな形で再び行くことになるとは、と自分の幸運値の低さを呪った。
昼間にこの店の看板を見るのは初めてだった。中に入ると夜には見かけたことのない店員が出迎えてくれ、その案内に従って普段は座ることのなかった四人掛けのテーブル席へと向かう。夜だと窓際にひっそりと置かれているグランドピアノが今は店の中央にあり、男性が弾いているのが見えた。エミヤたちが座った席からは演奏者の背中しか見えなかったが、音楽に明るくないエミヤにも、彼のピアノの腕が「確か」なことが解る。軽やかで、楽しそうなピアノの音色が店内を明るく包んでいた。
メニューを貰い、おすすめと書かれているランチセットを注文する。すぐに前菜のプレートが運ばれ、ふたりはほぼ同時に手を合わせた。
「で、何があったのよ」
「…………何が、とは?」
「はぁ、あのね。私に隠し通せると思っているの?」
君に隠し通せるとは思っていない、という正直な気持ちを飲み込んだエミヤは、追及の瞳から逃れるように視線を泳がせた。中央に座るピアニストはクラシックから最近テレビで聞いたような流行りの曲まで幅広く、楽しそうに曲を奏でている。あれだけ自由に弾ければ楽しかろう、と現実逃避をし始めたエミヤの意識を、凛は彼の名前を呼ぶことで戻した。
「ちょっと、アーチャー。聞いてるの?」
「……聞いているさ」
「そう? ならいいのだけど。……で? もう一度聞くけど、何があったの?」
「だから、何が、とは何だね」
「しらばっくれても無駄よ。セイバーにだって色々聞いてるんだから」
アルトリアの名前を出されたエミヤは言葉に詰まる。アルトリアに知られている「事実」に、凛がわざわざ自分を呼び出してまで問い詰めるに値することがあると自覚があるからだ。エミヤの動揺を感じ取った凛は小さくため息をついた。
「セイバーたちに、もうお弁当を作れないって言ったんですって?」
やはりそのことだったか。エミヤは口を閉ざした。このタイミングでの呼び出しだ、話題はある程度予測できていたし、それに対する言葉も一応繕ってきたが、幼馴染の瞳があまりにも心配に染まっていて、エミヤは一瞬だけ言い訳を口にするのを躊躇する。けれどこれ以外に言えるものもないと諦めて、ゆっくりと口を開いた。
「……忙しくなってきたのでね。彼らが満足できるような弁当を提供できないと思ったのさ」
「……へぇ? 今更? 貴方たち、何年続けてたっけ?」
「さぁ、どれくらいだったろうな。……そもそもおかしかったんだ。部署も違う、年齢も違う。そんなふたりが、私のような男の手料理を食べるなんてな」
「……何がおかしいのか、私にはさっぱりわからないのだけど?」
「私はおかしいと思ったのさ。君の言う通り、今更の気付きではあったがね」
うっすらと笑いを浮かべながら答えるエミヤを、凛は苦々しい表情で見つめていた。

   ◇ ◇ ◇

あの日、クー・フーリンの家を飛び出して自宅に帰ったエミヤは、濡れた身体を温めることすら忘れてひたすらに自分を呪った。同時に、クー・フーリンの残酷すぎるほどの優しさを身勝手にも恨んだ。あぁ、なんで――ランサーを、愛してしまったのだろう。
愛してしまわなければ、ただの同僚でいられたのに。こんなにも、消えてしまいたくなるほどの絶望を抱えることもなかったのに。
目の前が真っ暗になりながら、エミヤは次にすべきことを考えた。クー・フーリンに秘めていた感情がバレてしまったからには、もう今までのようにはいられないだろう。そもそも被害者は自分に巻き込まれたクー・フーリンで、あんなにも取り乱し怒鳴るなどあってはならないことだったのだ。どんな顔をして謝ればいいのか。
(……もう、私の顔なんて見たくないに決まっている)
彼の頭の中では、彼にとって都合のいいようにあらゆる事柄が結び付いてしまっていた。酔い潰れた自分がどうやってクー・フーリンと会ったのか。そもそも、クー・フーリンは男である自分を優しさや同情だけで無責任に抱くような人間だったか。至るところに不明瞭な箇所があったが、冷静さを失ったエミヤはそれに気が付けない。記憶がない部分や矛盾点は全て無視をして、エミヤはクー・フーリンとの関りを一切なくすことを決意した。彼の優しさに縋ってしまった愚かな男など、彼の目の前から消えるべきなのだ。
その第一歩――と言っても、個人的な関りで絶つことができるのはこれだけだったとも言えるのだが――として、エミヤはクー・フーリンとアルトリアに「今後は弁当を作れない」と告げた。クー・フーリンの家から逃げ出した金曜日から数日後の、最初に迎えた火曜日のことである。
告げた瞬間の、クー・フーリンとアルトリアの表情をエミヤは知らない。自分の浅はかな考えを見透かされる気がして見ることもできなかった。「時々だけでも嬉しいのですが」と控えめに言ったアルトリアに、エミヤは謝罪を繰り返すしかなかった。自分の手料理を楽しみにしてくれている彼女には申し訳なかったが、や)る理由として多忙さを挙げる以上、彼女との約束も終えるしかない。
エミヤの宣言に対してクー・フーリンは何も言わなかったし、エミヤも最後までクー・フーリンを直視できなかった。アルトリアだけはお昼休みが終わるギリギリまで食い下がっていたが、それでもエミヤは宣言を取り消すことはなかった。

   ◇ ◇ ◇

幼馴染から視線を逸らしながらエミヤはどんよりとした気持ちを抱えていた。叶わぬ恋をいつまでも生かしていた自分が悪いのだ。そう解っているはずなのに、心の奥底に寂しさが積っていくのを感じて、自己嫌悪で狂いそうだった。
明らかに様子のおかしい幼馴染に、凛は「まるで迷子のようね」と思う。アルトリアからエミヤの様子がおかしいこと、そしてお弁当の件を聞いた時から嫌な予感はしていたが、予想していたよりも重症のように見えた。エミヤ本人は繕っているつもりだったが、彼をよく知る凛の前では意味がない。小言が多くて皮肉屋な男を、誰よりも近くで見てきたのは彼女だ。
サラダを一口食べて水を飲んだ凛は、言うかどうか迷っていた言葉を放った。
「クー・フーリン」
「………………っ、」
かちゃんとフォークが皿を叩き、床に滑り落ちた。それを視線で追った凛は、落ち着き払った態度で店員を呼び、替えのカトラリーをお願いする。一方のエミヤは、自分の手から離れていったフォークを視界に入れつつも、どうすることもできなかった。凛が口にしたたった一人の名前に動揺した自分が信じられない気持ちになり、同時に、何故凛が、という疑問が膨れ上がる。その疑問を見抜いたのか、凛は深いため息をついた。
「一度会ったことはあるけれど、彼のことはよく知らないわ。でもね、貴方のことはよく解っているつもり。……ねぇ、アーチャー。貴方、彼と、何かあったんでしょ?」
あったの? ではなく、あったんでしょ? という尋ね方に、エミヤの喉が鳴った。フォークを失った手が、自然と拳をつくる。何か言わねばならないと言葉を探すも、彼女を騙せるようなものは見つからなかった。明らかに動揺しているエミヤに、親密であり、だからこそ容赦のない幼馴染が畳みかける。
「だって貴方、何だかんだ文句言いながらも、セイバーたちのお弁当を作るの楽しんでいたじゃない。それを突然やめるだなんておかしいわ。アーチャーらしくない。……セイバーから聞いた話を踏まえると、クー・フーリンと何かあったとしか考えられないのよね」
違う? と首を傾げる凛に、エミヤは緊張で汗が滲み出るのを感じる。お弁当の約束を破棄したあともエミヤとアルトリアは仕事の関係で会うことがあったが、彼女がお弁当の件について話すことはなかった。
(それ以外も特に変わった会話はしていないはずだ。セイバーは、お弁当作りをやめること以外に、何か話をしたのだろうか?)
だとしたら、一体なにを?
クー・フーリンと深い付き合いはない凛が理由を的確に当てたことに、エミヤは何と返せばいいのかわからなかった。普段はよくまわる口がひとつも動かない。ふたりきりの席に沈黙が落ちると、タイミングがいいのか悪いのか、替えのカトラリーとメイン料理であるパスタを持った店員がやってきた。
「お待たせしました、メインの……って、エミヤさん?」
「……藤丸くん?」
名前を呼ばれたエミヤが顔を上げると、『お楽しみ』の時間によくお世話になっていたアルバイトの青年が立っていた。
「あぁ、やっぱり……! お久しぶりです!」
最近お会いできていませんでしたもんね、と料理を置きなら続けた青年にエミヤは苦笑いを浮かべる。状況がわかっていない幼馴染からの視線が痛かった。下手に言い繕おうとすれば深酒してしまっていることもバレてしまうかもしれない、とエミヤは自ら簡潔に説明することを決める。
「実は、この店の夜営業に来ていてな……バイトの彼とはそこで何度も話していたんだ」
「やだ、そうだったの? 言ってくれれば良かったのに。彼がいつもお世話になっているのね」
「あ、いえ、こちらこそ……えと、その……」
「どうかしたかね?」
不自然に言い淀んだ藤丸は、不思議そうにしているエミヤに少しだけ顔を近づけてから小さな声で続きを口にした。
「その……もしかして、エミヤさんの彼女さんですか?」
「!? は? いや、彼女とはそんな関係じゃない!」
「ふふ。そうよ。私たちは恋人なんかじゃないわ。そんなのよりもふかーい付き合いの、幼馴染よ」
藤丸の小さな声を拾った凛が楽しそうに笑う。そんな可愛らしい空気は自分たちの間には一切ないのだと言うような笑い声に、藤丸はほっとしたような表情を見せた。
「よかった……彼女さんだったら、どうしようかと……」
「……?」
よかった、とは、どういうことだろうか? 藤丸の呟きの意味を理解できずにいると、今度は違う方向から違う声が聞こえた。
「もしかしてあんた、『エミヤサン』か?」
黒髪と褐色の肌を持つ男が藤丸の隣に並ぶ。見覚えのない顔だったが、エミヤは男の髪色と着ている濃紺のジャケットから、先程まで店の中心で楽しそうに演奏していたピアニストだと気が付いた。今店内を包んでいるのはピアノの音色ではなく、バー営業時と同様のBGMだ。
「そうですが……失礼、以前、どこかで?」
見知らぬ男が自分の名前を知っている。そのことに警戒するエミヤだったが、そんな警戒心など吹き飛ばすように、ピアニストの男は快活に笑った。
「突然話しかけてすまん! あんたの名前が聞こえたから、ついな……俺はアーラシュ・カマンガー。普段はピアノ調律師、時々こうやって演奏なんかもやってるもんだ」
「はぁ」
「あんたとは……一回だけ、会ったことがあるな」
「……申し訳ない。覚えがないのだが」
アーラシュと名乗った男はエミヤと同じくらいの背丈で、ジャケットの上からでも鍛えられた体つきなことがわかった。それに加えて整った顔立ちであり、気さくな雰囲気も持っている。会ったことがあるなら忘れなさそうだが、とエミヤは首を傾げた。そんなエミヤの考えが伝わったのか、アーラシュは後頭部を掻きながら苦笑いを浮かべる。その隣で、藤丸が困ったようにエミヤとアーラシュを見比べていた。
「多分、あんたは覚えてないだろうな。……結構前なんだが、この店で酔ってるあんたに会ったんだよ」
「え?」
「クー・フーリンと一緒にな」
「――クー・フーリン?」
その名前にエミヤは目を丸くした。聞きたくないとも、聞きたいとも思う、その名前。何故ここで彼の名前を聞くことになるのか、エミヤには少しも理解できなかった。
幼馴染が思い詰めている理由はクー・フーリンだと確信している凛が「クー・フーリンですって?」と聞き返す。固まるエミヤと渋い表情の凛を交互に見たアーラシュは、隣でおどおどしていた藤丸に仕事へ戻る様に伝える。それから、邪魔するぜ、と言いながら自分は空いた椅子へと腰かけた。
「エミヤサン。あんたに会ったら話したいことがあったんだ。……俺の、不器用な友人についてな」
そう真顔で言ってからアーラシュは「とりあえず、飯食えよ! あったかいほうが旨いからな!」と笑った。


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Comments

  • わんわんお
    December 24, 2025
  • August 16, 2022
  • Corntea
    November 30, 2021
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