【証言】「日本人はみんな一文無しに」旧満州での貧しい生活…山田洋次監督 戦争の原体験1
■復讐されるかも…終戦で一変した街
しかし、1945年。日本の敗戦で生活は一変します。中学2年生だった山田監督は、終戦を大連で迎えました。
山田監督
「日本が負けるなんて、これっぽっちも思ってないわけだ。 それが8月15日。終戦の天皇の詔勅っていうのを僕たち聞いてね。 聞いた時わからない。何を言っているのか。難しいし言葉がね。ラジオは悪いラジオだし」
「勤労動員で働いてたのだけども、『今日は作業をやめてみんな家に帰れ』っていう命令が。 『なんで今日やめるんだよ 』ってわからないんだ、まだ負けたってことは」
「それで帰る支度をしてる頃に友達が教室に入ってきて、『おい日本が負けたらしいぞ』っていう。『どうして?』と聞くと、『いや先輩はそう言ってるよ』とか『先生に聞けよ』と。先生もちゃんと言わないんですよ」
「急に怖くなったね。つまり、僕たちは中国人に復讐されるんじゃないかと。僕たちは急ぎ足に、学校から家に向かって逃げるように走っていったもんだよね」
「学校は小高い丘の上にあってね、坂を降りて行くんだけど。 この左側が中国人街。中国人街は、平屋ばっかりで、貧しい家が、だーっと並んでる何千軒も。反対側は日本人の豊かな街なんだ。はっきり分かれていて」
「その中国人街の、黒っぽい屋根瓦がびっしり並んでいて、そこに何百本と中国の旗が立っているんだ。青天白日旗、今の台湾の旗がね。当時中国は、国民党で統一していたから、まだ毛沢東の軍隊とかが来てなかったからね。だから青天白日旗といえば、日の丸に対する敵の旗だったんだな」
「その敵の旗が、ばーーーっとあるわけだよ。 それはびっくりだね。つまり、中国人は、知っていたんだ。 前もってみんなが旗を用意をしているわけ。 俺たちよりも、何日も前から日本が負けるという事を知っていたのだ。“8月15日は日本がおしまい”だと知っていたんだと思ったら、ゾッとしたね。 そして俺たちは何も知らないっていうことね」