茨の道を行け
「オレの運命がただのオメガであるはずがなかった」
現パロ槍弓。α×αのオメガバースです。
二年前に頒布開始した『点対称のきみとぼく』に収録されていた中編のWeb再録です。
なお後日譚である他二編については再録の予定はありません。
当時手に取っていただいた方、誠にありがとうございました。
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「みなさんは、どのようにして生まれてくる子供のオメガバース性が決定されているかご存知ですか? なんとなく、親の性別が影響しているということは既に知っていると思います。アルファの子供であればアルファが多く、親のどちらかがオメガであればオメガが生まれやすい。その認識は直感的で分かりやすく、そしてあながち間違いではありません。ですが、この組み合わせであれば必ず、この性別の子供が生まれる、ということは決まっていません。あくまで確率の話です。しかし、組み合わせによっては、決してこの性別の子供は生まれない、ということもあり得ます。みなさんはアルファですので、特にアルファの生殖について詳しくお話ししましょう。
みなさんはアルファに囲まれて生活していますから意識することは少ないでしょうが、アルファというのは希少な性別です。親の片方がアルファだからと言って、アルファの子供が生まれるとは限りません。アルファの人口増加には国の重要課題であり、常に政策が打たれています。
比較的アルファが生まれやすい組み合わせとして挙げられるのが、アルファ同士の組み合わせです。みなさんの親御さんの大多数はこのタイプではないでしょうか。この組み合わせによるアルファの妊娠の可能性は約二十パーセント。これを多いと取るか、少ないと取るかは人に依るでしょう。ベータのご兄弟を持つ人にとっては、納得のいく数字かと思います。
次にアルファとベータについてですが、このときにアルファが生まれる確率はたったの三パーセントです。こう聞くと、先ほどの数値が高く見えてくるのではないでしょうか。
そして最後にオメガとの組み合わせ。このとき、アルファの子供が生まれる確率は、みなさん、大事なところなのできちんと聞いてくださいね。オメガと生殖を行って、アルファの子供が生まれる確率は、〇パーセントです。いいですか、〇パーセント。決して、アルファの子供は生まれないのです。このことはしっかり覚えておいてください。
毎年、あなたがた生徒の中に、オメガと番ってしまい、退学していく人が数名います。非常に残念なことです。あなたがたはまだ若い。オメガの出すフェロモンに対しての耐性が弱く、誘惑に心が揺れることもあるでしょう。そのときには、今日の授業のことを思い出してください。一時の快楽に身を任せることが、いかに悪であるか。あなたがたの弛まぬ努力が一瞬にして水泡に帰し、輝かしい未来が奪われるだけでなく、素晴らしい次世代へのバトンまでが、失われてしまうのです。これが私たちにとってどれだけの損失であるか、よく考えてください。
ただし、オメガとの生殖について、一つだけ例外があります。それは運命の番との生殖です。運命の番についてはみなさんご存知ですね? 世界にただ一人の、あなたのためのオメガ。運命の番とはすれ違っただけで認識し合うことができると言われています。この運命の番と生殖を行った場合に、アルファが生まれる可能性は約六〇パーセント。非常に高い確率です。もしかするとみなさんの中にも、親御さんがそうだという人がいるかもしれませんね。素晴らしいことです。
できることならば、みなさんにも運命の番を見つけ出して、アルファのお子さんをもうけてほしい。しかし、短い生涯の中で運命の番を正しく見つけられる人は多くはありません。ですから、先ほども述べたように、アルファ同士の結婚というのが実現しやすく、良い選択肢ではないかと思います。アルファは希少な性別ですが、アルファであるみなさんならこの学園を含め、アルファと出会う機会は多いでしょう。現に私もアルファの主人と結婚し、アルファの子供をもうけています。個人的な意見になりますが、これがアルファにとっての幸せなのではないかと考えています。
アルファとして育てられてきたみなさんには既に自覚があると思いますが、私たちアルファは優れた能力によって、この社会に貢献していくことを求められています。しかし、それだけでは足りません。受け継がれた貴重な遺伝子を次世代へしっかりと引き継いでいく。そこまでできて、ようやく私たちは生まれてきた意義に応えられたと言えるでしょう。これこそが選ばれた者、アルファの義務なのです。みなさん。このことをしっかり胸に刻んでください。……おや、刻めていない人が居るようですね。聞いていますか、アルスター」
怒気を孕んだ低い声に、パッと意識が浮上する。クー・フーリン・L・アルスター―― ランサーは寝ぼけた視界の中に、こちらを睨み付ける女教師の姿を認めた。
「いい夢は見られましたか」
「すみません、先生。昨日の夜、予習のために夜更かしをしていて」
スマホゲーの間違いだろ。どこからか野次が飛んで、それに押し殺した笑い声が続く。教師の視線の温度が一層下がって、ランサーは内心舌打ちをした。
「今日の授業のレポートと、居眠りに対する反省文。それぞれ二千字ずつ、明日までに提出するように」
そう教師が言い渡した瞬間、終業の鐘が鳴った。
「今日はここまでにしましょう」
そう言って、教師はノートを片づけ始める。間延びした号令に従って礼をしながら、ランサーは先ほど野次を飛ばした友人を睨み付ける。彼はごめん、と口の動きだけで言って、お調子者らしく舌を出した。
「やー悪かったって、まじで!」
休み時間になって、目の前で手を合わせるのは件の友人。謝罪が致命的に軽いにも関わらず、憎み切れないのはこの男の愛嬌ゆえである。
「レポート手伝うしさあ」
「当たり前だろ。てか、そっちはてめえが全部書け」
えぇ、とわざとらしく不満の声を上げる友人に原稿用紙の束を押し付ける。
「筆跡でバレるじゃんかあ」
「後で全部清書する。とりあえず書け」
「まじかよ」
ぶうぶう文句を垂れながら友人はシャープペンシルを手に取る。一度書き始めるなりさらさらと原稿用紙を埋めていく辺り、普段おちゃらけていてもこいつも結局アルファなのだと感じる。要領の良さはアルファの多くが持つ特徴だ。
ここはアルファのみが集められた、優秀なアルファ育成のための高校である。入学には高い学力と、アルファのホルモン値が一定値以上であることを示す証明書が必要だ。アルファの中でもさらに優れた者ばかりが集められる場所。世間では神の子だなんだともてはやされていても、ここに来れば井の中の蛙。何故なら見渡す限りアルファしかいない。教師も一人残らずアルファで、全員教育のエキスパートだ。最上級の教育を与えるため、という理由も勿論だが、何しろ生意気なアルファの高校生の相手など、余程優秀でないと務まらないのだ。
全寮制であり、全生徒が学校からほど近い寮から通う。生徒一人に一つの部屋が宛がわれており、その設備は何も知らない人間が見たらホテルと勘違いするほど整っている。これらの待遇に反して、学費は異様に安い。学園の運営費のほとんどは国からの補助金で賄われている。金持ちであろうが貧乏人であろうが、アルファとしての高い能力を持っている者にこの学園の門は開かれている。全ては国の発展のため。若いアルファたちの未来の貢献を鑑みれば、このくらいは安い投資なのだろう。
「さっきの話キモかったなあ」
休まずペンを走らせながら友人が言う。
「何が」
「あ、お前寝てたんだったな。あの教師がアルファの旦那と結婚してアルファの子供を産んだだのなんだのって。お前のプライベートなんか聞きたくないっつーの!」
「うげえ、寝てて正解だったわ」
「寝てなかったらこんなことする必要なかったけどな」
丁度『すみません』の『ん』を書き終えるところだった。筆圧でシャープペンシルの芯が折れた。友人を睨み付けると奴はそっぽを向く。ランサーが再び原稿用紙に向かうと、遅れて友人の方からもカリカリと音がし始めた。
「けどよぉ、前半は聞いておいたほうがよかったかも」
「あぁ? どうせいつものお前らはアルファか運命の番と結婚してアルファ産めって話だろ? もう聞き飽きたわ」
「それはそうなんだけど、それより毎年オメガと番って退学になる奴がいるって話」
そう言うと、友人は周りをちらりと見渡してから、声を潜めた。
「なあ隣のクラスのあいつ、最近学校来てないの知ってるか?」
友人が挙げたのはランサーも聞いたことがある名だった。見た目も女関係も派手で、良くも悪くも目立っていた男子生徒だ。
「そいつ、性質の悪いオメガと番っちまったって噂になってる。飲み物に発情促進剤入れられたらしくて。しかも妊娠させちまったらしい。一発でどんぴしゃ。いや、もしかしたら何発もだったのかもしんないけど」
下品なジェスチャーでおどけるわりに、話の内容は深刻だ。友人の頬が引き攣っているのは彼もそれを分かっているからだろう。
「やばくねえ? それどうなんの」
「もう退学はほぼ決定らしい。今はオメガの方と色々揉めてるんだってよ」
「ゾッとしねえなあ」
他人事でも正直笑えない。自分の身に降りかかったらなどと考えるだけでも震えがくる。
「ランサー気をつけろよ。お前綺麗な顔してるし、ただでさえフェロモンの量多いんだから。変な女に付きまとわれないとも限らないし」
「その辺は用心してるっつーの。そもそもオレはアルファの女としか寝ない」
オメガと寝るのは気持ちが良い、らしい。らしいというのはランサーが今まで一度もオメガを抱いたことがないからだった。確かにオメガからは脳に直接流し込まれるような良い匂いがするし、抱きたいという欲求を覚えたことがないではない。だがオメガと寝るのは色々なリスクがある。社会的に立場が弱く、貧困に陥りやすいオメガにとって、アルファとの結婚はこれ以上ない玉の輿だ。経済的に安定する上、オメガを悩ませ続けるヒートからも解放される。それ故、アルファに対するオメガの渇望は、他の種には理解できないほど苛烈だ。中にはアルファと番うためなら手段を選ばないオメガも存在する。避妊具に穴を空けたり、噂のオメガのように発情促進剤を用いたり。また、例えオメガがそのような行為に出なくても、強すぎるオメガのフェロモンに耐え切れず、意思に反してアルファがオメガの項を噛んでしまうこともある。このようにオメガを抱くのは甘美な一時を得られるのと同時に、とてつもない危険性を孕んでいる。
それに対して、アルファとの間には番のリスクがない。さらに、ランサーが相手をするような同年代のアルファは、妊娠に対して強い恐怖を抱いている。勿論いずれ子を持ちたいと考えている者がほとんどだが、今は社会に出て、自分の能力を発揮することに対する期待のほうが強い。彼女らは妊娠によって自らの将来を狭めることを恐れていた。その思考は、ランサーの目的とも一致している。とまあ、様々な御託を並べたものの、一番の理由は他にある。
「オレは従順なオメガよりも、反抗的なくらいのアルファの方が好みだ」
それを聞いた友人は聞き飽きたというように首を振る。
「はいはい、よぉく知ってますよ。お前の彼女とセフレ遍歴見てれば嫌でも分かるわ。アルファの中でも特に気の強い、強烈な美人ばっかだもんな」
「強烈は余計だ」
「こうなってくるとお前の運命の番が気になるなあ。オメガの癖に全然オメガらしくなかったりして」
運命の番。その相手とのロマンチックな出会いを想像したことはランサーにもあった。アルファなら誰しも見る夢だ。だがその存在は世界に一人だけ。多分出会えないだろうと思っている。あまり期待はしていなかった。
しばらく無言で原稿用紙を埋める。ランサーのそれが半分埋まったか埋まっていないかくらいで、友人が言った。
「なあお前明後日の夜暇?」
「暇だがどうした」
「兄貴から差し入れもらったんだけど」
お猪口をぐいっと傾けるようなジェスチャーは、おそらくアルコール類の存在を仄めかしている。
「おっまえ、またかよ」
この友人には悪い兄がいて、こうして時々未成年にはよろしくないものを差し入れてくるのだ。
「四、五人に声かけようと思ってて、お前も来るだろ? また良いやつだからさ」
「反省文書かされてる最中にする話か? 見つかったら倍じゃ済まねえぞ」
見つかるようなヘマはしないし、寮の職員たちは生徒に寛大だ。罰せられることはないと思いつつ、現在進行形の苦行が気持ちを鈍らせる。渋るランサーに対し、しかし友人は乗り気だった。
「そのときはまた書いてやるって」
頼もしいのだかそうでないのだか、よく分からない笑顔で友人は言った。
結局ランサーはその会に参加した。喉元過ぎればなんとやら。面倒だった反省文も提出してしまえば過去のことである。集まったのはクラスの男友達五人だった。言い出しっぺの友人の部屋に集まって、高そうな日本酒一本と缶チューハイ数本をお供に騒ぐ。下らない噂話で盛り上がり、トランプゲームの勝敗に大げさに一喜一憂した。一通りやり尽した頃、ある友人が言った。
「そういやアーチャーってフェロモンの操作めちゃめちゃ巧いんだぜ」
その一言で、飲み会の参加者の一人であるアーチャーに視線が集まった。ほんのりと目元を赤く染めたアーチャーはまんざらでもなさそうに笑っている。
アルファは基本的に人を惹きつけるフェロモンを放出している。その影響を最も受けるのはオメガであるが、ベータ、アルファに対してもある程度作用する。これを意図的に操り、能動的に人を従わせようとするのがフェロモンの操作である。人の上に立つことが求められるアルファにとっては必須の技術だ。そのためこの学園でも指導が行われている。オメガがヒート時に放出するフェロモンのような強制力はないものの、色欲に訴えかける以外にも、親愛や恐怖、崇拝など様々な種類があり、安定性においてもオメガのそれの数段上である。
「フェロモンの操作ってあれだろ。下手くそなやつはいるけど巧いとかあるか? 出来るか出来ないかじゃねえの?」
「俺もそう思ってたんだけど、アーチャーの受けてから認識が変わったんだって」
「へえーーーー! ちょっとやってみてくれよ!」
友人たちが囃し立てる。フェロモンの操作は人の器官に直接訴えかける性質を持っていることから、未成年の彼らは授業外での使用を禁じられていた。優等生気質であり、安全を重視するアーチャーは応じなかっただろう。普段なら。
「いいだろう」
アルコールが少年の理性を緩めていた。アーチャーの快諾に周囲が沸き立つ。アーチャーは体勢を整えると友人の一人に照準を定め、にっこりと微笑んだ。
「うわっ‼」
微笑まれた友人は、心臓の辺りを押さえて屈み込む。数秒経ってから上げられた顔は驚きに染まっていた。
「すっげえ、めっちゃぎゅんってした……‼ 俺男だしアルファなのに‼」
上気した顔で騒ぐ彼に、周囲のテンションはさらに上がる。なあ、俺にも! という声にアーチャーは順番に応じ、その度に歓声が起こる。その様子を、ランサーは一歩離れたところで見ていた。
「なあ」
盛り上がりが一段落した頃、ランサーが少し低い声で呼びかけた。
「オレにもやってみてくれよ」
挑戦的に言うそれが、他の友人たちの頼みと違った目的であるのは、その場にいた全員に分かった。
「なんだ嫉妬か? 君は操作が下手だからな」
分かっていてアーチャーはランサーを煽る。友人のほとんどが知っている事実ではあるが、アーチャーの言う通り、ランサーはフェロモンの操作を苦手としていた。大抵のことをそつなくこなすランサーにとって、これは珍しいことである。
「うるせえ。多すぎて抑えらんねえんだよ」
そして、ランサーの発言もまた事実だった。ランサーのフェロモンはアルファの中でも非常に濃く、素の状態でも他のアルファを従わせてしまう程だ。選ばれしアルファ。その自覚がアーチャーに対するライバル心を呼び起こした。しかし、フェロモンの操作でアーチャーに勝つことはできない。ならば。
「お得意の操作でオレを従わせてみろよ。出来たらオレの負け。出来なかったらお前の負けだ」
操作はできずとも、ランサーの纏うフェロモンは他のアルファのそれに対する盾となり得る。この攻守であれば、どちらにとっても不利はない。純粋なアルファとしての力を競うことができる。
「まあ君がそう言うなら乗るしかあるまい。傲慢なアルファ様の命令だ」
皮肉たっぷりにアーチャーが言うと、成り行きを見守っていた友人たちが大げさに騒めいた。この学校の人間は漏れなく、勝負事が好きなのだ。周りが見つめる中、アーチャーは腰を上げ、ランサーの目の前に座る。キスでもしそうなほどの至近距離でランサーの瞳を見つめて、アーチャーは言った。
「さあ、始めようか」
薄っすらと微笑むだけでアーチャーの纏う雰囲気が変わった。水気を含んだような、艶のある色気に友人たちは息を呑む。だがランサーは微動だにしなかった。これは上に立つ者としての、矜持を賭けた勝負である。生半可な攻め手で屈するつもりはさらさらない。効果がないことに痺れを切らしたアーチャーの顔から笑みが消えた。雰囲気がまた変わる。静けさの中に潜む捕食者の獰猛さで、ランサーの心臓を食い破らんとする。一段と深く、脳髄の痺れるような空気がランサーに向けて伸びていく。ぐっと、食い込まれたような気はするが、まだまだ屈服までは程遠いとランサーは思った。余裕を誇示するために歯を見せて笑う。アーチャーが一瞬、隠しきれない苛立ちを滲ませた。これは勝てる。そう思ったとき、アーチャーがすぅと目を細め、唇を僅かに開いた。
「ランサー」
そう呼ばれた途端、大きな眩暈がランサーを襲った。あ、やばい、と思った瞬間、腰から甘い痺れが広がっていく。何故だか目の前の男もしまったという顔をしていた。理由は分からないが、アーチャーのフェロモンも弱まっている。その隙にランサーは態勢を立て直した。不利な状況であることに変わりはないが、まだ勝機はある。ランサーがアーチャーを睨み返すと、アーチャーはあろうことか、ふいと顔を逸らした。
「やめだ、やめ。くだらない遊びはここまでだ」
呆然とするランサーを置き去りに、アーチャーはフェロモンを全てしまい込む。アーチャーが立ち上がろうとすると、ギャラリーから不平が飛んだ。
「えーなんでだよーー‼」
「いいとこだったじゃん‼」
「お前の負けにするぞアーチャー‼」
「勝手にしろ」
普段なら過敏に反応する負けという単語にも平然としたまま、アーチャーは勝負から降りる。その態度に何となく場は白け、そのまま飲み会はお開きとなった。
友人の部屋を出て、アーチャーは一人自室に戻ろうとしていた。酔いの醒めた頭で、今日は少しまずいことをしたと反省する。思い返すのは先ほどのランサーとの勝負だ。ランサーの強固なアルファ性にムキになった結果、使うべきではない手を使った。相手が並みのアルファであったなら、恐らく大惨事になっていた。まあ後の様子を見るに、大事はないようだし放置しても問題ないだろう。そんなことを考えながらアーチャーが自室の扉を開けたところで、背中を強く押された。予期せぬ衝撃に、思わず床に倒れ込む。右の肩を強かに打ち付け、アーチャーは痛みに顔を顰めた。暗い室内から廊下の方へと振り向くと、そこにはランサーが立っていた。
「よぉ、ちょっといいか」
問いかけたくせに、返事を待つことなくランサーは室内に侵入し、後ろ手で扉を閉める。何のつもりだ。そう怒鳴ろうとして、ようやくアーチャーは相手の双眸が怒気に満ちていることに気が付いた。ランサーの後ろで、鍵の閉まる硬質な音が鳴った。
ランサーはアーチャーの腕を乱暴に抱え込むと、ベッドまで引きずっていった。暴れるアーチャーの脚がテーブルに当たり、鈍い音を立てて倒れる。
「やめろ! 離せ‼」
アーチャーが抵抗するも、ランサーの拘束は解けない。ランサーのしなやかな腕は、見た目以上の筋力を誇っているようだった。乱暴にベッドの上に寝かされ、ランサーがその上から圧し掛かる。二人分の体重にベッドのスプリングが悲鳴を上げる。両腕をそれぞれがっしりとホールドされ、腕での抵抗が無理だとアーチャーは悟った。
(こんの、馬鹿力……!)
残った脚を思い切り振り上げると、骨と激突したような感触があった。ランサーが低く呻く。どうやら脛に当たったらしい。しかし拘束は緩まず、ランサーの下から抜け出すことはできなかった。
「随分とお行儀の良い脚だな。可愛らしすぎてへし折りたくなる」
ランサーは笑いながら青筋を立てるという実に器用なことをして言う。
「お褒めに預かりどうも。次はもっと愉快なところに当ててやろうか?」
アーチャーはできる限り偉そうな口調を意識して応えたものの、組み敷かれている状態であることに変わりはない。滑稽だったかもしれないと思ったが、ランサーの青筋の本数が増えた。要らぬ成功だ。
「何しに来たんだ。憂さ晴らしに人を殴るタイプか?」
「違う」
ランサーの眼光が増す。
「お前、色欲混ぜやがったな」
ぎくりと身を強張らせ、アーチャーは抵抗を止めた。それに応じてランサーの拘束も緩む。自らの失態を察して、アーチャーはあー、と声を漏らした。
先程、アーチャーがランサーの名前を呼んだときに発したのは、相手の色欲を煽るフェロモンだった。本来は、アルファがオメガの発情を促すために使うものである。そのままではアルファのランサーには効きにくいが、アーチャーはうまく他のフェロモンとブレンドし、微妙に効用を変化させていた。
「ちくしょう、オメガ扱いしやがって」
ぎりり、とランサーが歯ぎしりする音が聞こえる。誇り高いアルファにとって、オメガのような扱いを受けることは最大の屈辱だ。色欲など吹っ掛けられたことのないランサーは、初めての感覚に怒りと共に戸惑いを滲ませていた。漏れる吐息が熱い。ランサーはアーチャーの手を取ると、自らの股間に押し付けた。アーチャーは思わず息を呑む。触れさせられたそこは硬く張りつめていた。
「おかげでおさまらん。責任取れ」
食いしばられた歯の隙間から、短い間隔で吐き出される息。これでも抑えている方なのだろう。オメガで言うヒートのようなものを起こしている。これは完全に自分の失敗だ、とアーチャーは悟った。色欲を使う機会がほとんどなかったために、塩梅を間違えた。危険なのは重々承知していたが、アルコールで判断が鈍った。その言い訳をアーチャーはすぐに打ち消す。違う。単純に、ランサーが自分のフェロモンに靡かなかったのが悔しかっただけだ。この強いアルファを屈服させ、自らの足元に傅かせたいという欲求に勝てなかった。色々と失敗して、今は組み敷かれているわけだが。アーチャーは内心で苦笑する。
とにかくこの現状をなんとかしなければならない。アーチャーはランサーの状態を確認する。疑似的なヒート状態。だがそんなに深刻なものではなさそうだ。誰かと性交した、と体に認識させれば、恐らくすぐに収まるだろう。そう判断して、アーチャーは観念した。両腕を上げて、降参の意思を見せる。
「分かった。私の落ち度だ。責任を取ろう」
その姿を見て、正直ランサーは安堵した。心身共に、それなりに限界だったのだ。他人に強制的に欲情させられるのがこんなに辛いとは。全く関係の無い他人に処理してもらうわけにもいかず、ここに来てどうにもならなければ打つ手がなかった。アーチャーが話の分かる奴で良かったと心の底から思った。
「オーケー。なら早く服を」
そう言いかけたとき、気が抜けていたことをランサーは認めなければならない。安堵のために、相手がプライドの高いアルファであることを失念していた。まず横っ腹に衝撃に来て、ぐるりと視界が回った。背中に柔らかい感覚があって、体全体が跳ねる。一拍置いて、背中からベッドに落とされたのだと分かった。見上げるとそこには得意気なアーチャーの顔。気付けば、先程と逆の体勢になっていた。
「私が責任を持って君を抱く。男色の趣味は無いが私はアルファだ。これぐらい出来て当然。そうだろ?」
「は?」
ランサーのこめかみがひくりと動いた。
***
翌日、二人は揃って授業に遅刻した。クラスメイト全員の前でこっ酷く叱られたが、彼らの間にあった色事を連想するものは誰もいなかった。何故なら、二人共怪我だらけだったからである。ランサーの白かった頬は真っ赤に腫れ上がり、口の端も切れて固まった血が付着している。一方アーチャーの目元は青く黒ずみ、頬には引っかかれたであろうミミズ腫れが走っていた。とても情事の翌日とは思えない。
(うっわー……あの後まだバチってたんだ……。二人共負けず嫌いすぎでしょ……)
飲み会の経緯を知っていた友人たちは皆そう思った。
「ひっでえ傷だなあ。あの後二人でボクシングでもしてたわけ?」
「あながち間違いじゃねえなァ……」
ランサーは遠い眼をして答えた。昨日の夜を思い出す。まさしくあれは戦いであった。お互い一歩も譲らなかった。あれから無理やり服を脱がして来ようとするアーチャーに一発くらわして、怯んだところでアーチャーの下から抜け出した。なんとか押さえ込んで大分有利になったと油断すれば、下から膝蹴りが飛んできて腹部に命中。昨日初めて知ったが、アーチャーは相当足癖が悪い。互いに傷を増やしながら一進一退の攻防を繰り返し、最終的にはフェロモンの量で押し切って、ランサーがトップを勝ち取った。
「というかランサー、長袖なんて珍しいな。どうした?」
友人が不思議そうに聞く。いつも半袖のワイシャツばかりのランサーが、今日は紺のカーディガンを羽織っていた。
「あー、大した意味はねえよ。たまには着ようかと思っただけだ」
ふーん、と興味を失った友人に、ランサーはこっそりと息を吐く。突っ込まれたら非常に面倒な展開になるところだった。怪我は服に隠れている部分にも沢山ある。引っ掻き傷と青あざ。それだけならよかったのだが、ランサーの肩と腕には歯型がびっしり付いている。アーチャーが噛みついた痕だ。これがまだ甘噛みなら可愛いもんだとランサーも許してやれるのだが、全てがそこそこ本気の噛み痕である。情事の最中、ランサーのフェロモンに半ば酩酊しながらも、鉛色の瞳の中で燃えていたのは怒りと屈辱であった。おかげでくっきり痕が残ってしまい、腕まくりすらできない。付けた張本人をじとりと睨めば、鼻で笑われる。今日は体育の授業が無くてよかったと思うランサーだった。
***
その日以来、アーチャーはことあるごとにランサーにつっかかるようになった。仲が悪い、というのとも少し違う。勝負になりそうなことを見つけては、ランサーに喧嘩を売るようになった。
アーチャーは自分のフェロモンの操作技術に絶対の自信を持っていた。滅多に使用することはなかったが、己の技術をもって傅(かしず)かせることのできない人間などいなかった。それがランサーに対しては通用しなかった。言ってしまえばアルファとしての敗北である。プライドの高いアーチャーがそれをそのままにしておくことなど、できるはずもなかった。
テストの点数、体育の授業、クラスのちょっとしたレクリエーション。初めはランサーも乗り気ではないことも多かったが、回数を重ねるにつれてアーチャーはランサーの煽り方を覚え出した。カッと頭に血が上って、気付けばランサーはアーチャーの望む舞台上に乗せられている。そんなことが徐々に増えた。ランサーと同じように、アーチャーも何事も高いレベルでこなす男だったから、勝負は常に白熱した。
何度も勝ったり負けたりを繰り返し、いくらかアーチャーの鬱憤も晴れた。その一方で、肝心のところが解消されていないような心のしこりを、アーチャーはずっと感じていた。あの夜ボトムをやらされた屈辱は、同じことでしか雪げない。抱かれたからには抱き返す。その決意を胸に、アーチャーはある方策を立てていた。
「くっそやられた……っ‼」
「ふふん。今回の勝負は私の勝ちのようだな」
「馬鹿言え。戦績はほぼイーブンだろうが」
二人が言い争うのはアーチャーの部屋である。アーチャーが寮に持ち込んだテレビゲーム。それを理由にして、アーチャーはランサーを自分の部屋へと誘い込んでいた。
テレビゲームの実力は拮抗していた。アーチャーが僅かに勝ち越していたが、その差は微々たるものである。うるさく作法を説く教師もいないため、二人はベッドの上で胡坐を掻いてゲームに興じていた。
コントローラーのAボタンを連打し、もう一戦だ、と息巻くランサーをアーチャーが制止する。
「待てランサー。少し休憩しないか? 目が疲れた」
「勝ち逃げしようってんじゃないだろうな」
胡乱気な目を向けてくるランサー。余程負けているのが悔しいらしい。アーチャーは思わず笑みを零した。
「勿論違う。休んだ後に再開するさ。但し」
胡坐を崩し、アーチャーは隣にいたランサーの肩を軽く押す。全く予想していなかったのだろう。ランサーの体は呆気なく後ろに倒れていった。追いかけるようにしてアーチャーが覆いかぶさる。ぽかんとした表情が小気味良い。
「君にその余裕があればの話だが」
今日の本番はここからだ。そう思いながら、アーチャーはランサーに思い切り色欲のフェロモンをぶつけた。フェロモンは即効性だ。すぐさまランサーの白い頬が上気して、赤い瞳が柔らかそうに潤む。しかし、それも一瞬のこと。アーチャーが気を緩める暇もなく、ランサーの瞳の中には闘志が燃え盛っていた。おかしい。アーチャーはすぐに危機感を覚える。負けん気の強いランサーが簡単に大人しくなるとは思ってはいなかった。だが反応が早すぎる。何故か一切戸惑いがない。ランサーから発せられるフェロモンの匂いが強くなって、アーチャーの鼻先まで届く。軽く眩暈がした。顔を顰めるアーチャーの下で、ランサーが獰猛に笑った。
「やっぱお前もその気だったんだな」
「何の話だ」
「あの夜のこと、忘れられなかったんだろ」
「は?」
今度はアーチャーがぽかんとする番だった。確かにあの夜の体験が怒りを燃やし続ける薪となっていたが、ランサーの言わんとするそれとは恐らく違う。混乱するアーチャーに構わず、ランサーは話し続ける。
「あれからなんかずっと物足りなくてよ。自分で抜いても、女とヤっても、なんかすっきりしねえ。何が違うのか考えて、最近やっと分かった。征服感だ。強いアルファを組み敷いて屈服させたときの、あの圧倒的な征服感。あれは他では味わえねぇわ。オレも自分のことホモじゃないと思ってたんだが」
ランサーが唇を舐める。真っ赤な舌がちらりと覗いた。
「お前みたいなプライドの高いアルファを抱くの、すげえ燃える」
ぞぞ、とアーチャーの背筋に痺れが走った。これは気色悪さから来た寒気だと自分に言い聞かせて、アーチャーは首を振る。
「君の癖(へき)など聞きたくもない」
「あれ? お前もそうなんじゃないのか?」
ランサーが首を傾げ、長い睫毛をぱちくりと瞬かせた。
「お前は格上のアルファに抱かれるのにハマったのかと思ったんだが。お前くらいになると大変だよな。自分より上のアルファなんか探すのも大変だろ。オレにしとけば手っ取り早いぜ」
「違うわたわけ! そもそも私は君の格下ではない‼」
怒りにかられてアーチャーが叫ぶ。なんだこのアルファは。あまりの傍若無人ぶりに、アーチャーは頭痛がしてきた。アルファという生き物は基本的に自己評価が高い。だがここまでのレベルは見たことがなかった。そして実力が伴っているのもまた、アーチャーとしては腹が立つ。
「勘違いするなよランサー。貴様は今日、私に抱かれるんだ」
アーチャーがそう言うと、ランサーはへぇ、と口の端を釣り上げた。馬鹿にしているというよりは、どこか嬉しそうである。何かこの男のスイッチを押してしまったかもしれない。アーチャーの背筋を汗が伝う。
「ならこの前と同じだな。勝った方がトップ、負けた方がボトムだ。お前から吹っ掛けたんだから文句は言えねえよな?」
ベッドサイドランプの明かりを反射して、赤い一対の宝石が爛々と輝いている。有利な位置にいるのは自分のはずなのに、アーチャーは肉食獣のそれを連想した。味をしめた獣は恐ろしい。
「ほら勝負だアーチャー」
言うなり胸倉を掴まれた。唇に白い牙が緩く刺さり、甘い震えが広がる。食われる。そう思ってしまった時点で、多分負けは決まっていたのだろう。
完全に不覚だった。未だに痛む腰をさすりながら、アーチャーはあの夜のことを振り返る。相手の意表を突いたつもりが、向こうもある程度の心構えをしているなど誰が予想できよう。ランサーが数々の女性と浮名を流していることは学校でも噂になっていた。しかしまさか、こんな可愛さの欠片もない男、しかもアルファを性的な対象として見るとは思うまい。げに恐ろしきはランサーの性欲と言うべきか。
だが、アーチャーは決して諦めてはいなかった。あの傲慢なアルファを組み敷いて、息も絶え絶えになるほど喘がせてやりたいという欲が、アーチャーを突き動かしていた。何度もランサーを自室へと誘い込んでは勝負を持ちかけた。アーチャーとて無策だったわけではない。ランサーが疲れているときや周期的に自分のフェロモンが強いときを狙った。だが毎度、最終的にはランサーのフェロモンに酩酊させられてしまう。
「据え膳だって気付いてねえわけ?」
「クソッ‼ どこまで強いんだ君のアルファ性は‼」
「ハッ! 褒め言葉」
ランサーの部屋に行ったこともあったが、すぐに敗北を認める羽目になった。部屋中がランサーの匂いで満ちている。ただの友人ならともかく、一度でもランサーに抱かれたことのある者にとってはあの部屋は毒にも等しい。
そんなことを繰り返しているうちに、アーチャーは自分の中の、ランサーへの対抗心が薄らいでいることに気が付く。アルファとしてボトムをやらされることは屈辱以外の何物でもない。ただそれを上回るほどの、良い思いをしているのも確かなのだ。百戦錬磨と言われるだけあって、ランサーはそれはそれは手慣れていた。うっとりするようなフェロモンの香りに包まれながら、揺さぶられるのは純粋に気持ちが良かった。さらにアーチャーの気分を高揚させたのは、最中にランサーが見せる表情であった。
「おい、ちょっと緩めろ」
「どうした? 何か不都合でもあるのかね」
「ッッ‼ ……お前、わざとやってるだろ」
そういうとき、ランサーは眉間に皺を寄せて、何かを堪えるようにゆっくりと熱い息を吐き出す。誰もが憧れる極上のアルファ。そんな相手が、自分の挙動に振り回されている。その様を見ているとアーチャーの溜飲は下がり、今の立場に甘んじてもいいような気がしてくるのだった。
アーチャーの心情が変化していくにつれ、勝負という建前は消えていく。結局同じことになるのに殴り合いをするのは非効率だ。これは互いに都合の良いときに行われる性欲発散である。アーチャーはそう結論付け、名前の付かない関係性がしばらく続いた。
***
そんなある日のこと、アーチャーはランサーが告白される場面に遭遇した。放課後、校舎裏に男女が二人きり。この上ないシチュエーションに、この手の話題に鈍いと言われるアーチャーでも何が起きているのか分かった。掃除当番で持ってきた大きな青いプラスチックのゴミ箱を抱え、アーチャーは咄嗟に物陰に隠れる。男の方は後姿しか見えないが、鮮やかな青髪の持ち主はランサーしかあり得なかった。女子の方はあまり見覚えがない。多分他のクラスの子だろう。緊張で肩が強張っているのが見える。アーチャーは自分の心臓がぎこちなく跳ねるのを感じた。他人の告白現場などに居合わせるのは初めてで、何かとても悪いことをしている気分になる。こんなことになるなら隠れなければ良かったと思ったが、今更出ていくわけにもいかない。女子の方は声が小さく、何を言っているのかは聞き取れなかった。ついつい聞き耳を立てていると、よく通るランサーの声がアーチャーの耳に届いた。
「ごめん、オレ付き合ってる奴いるから」
こちらに背を向けているランサーがどんな表情をしているのかは分からなかった。女の子が二言三言何かを言ったのに頷いて、それじゃと片手を上げてランサーは踵を返す。こちら側に来るのが見えて、アーチャーは慌てて頭を引っ込めた。小走りで去っていったランサーは、アーチャーには気付かなかったようだった。ランサーの姿が見えなくなったのを確認して、アーチャーは再び頭を出す。告白したばかりの女子が座り込んでいた。彼女はそのまましばらく蹲り、それから立ち上がった。涙を拭うような動作があって、ランサーが去ったのとは反対の方向に歩いて行く。誰もいなくなったのを見て、アーチャーは立ち上がった。足が痺れていた。
ようやく役目を果たして教室に戻ると、級友たちに遅いぞと怒られた。すまない、と謝る横目で、既に教室に戻っていたランサーを見つけた。ランサーは普段通りの顔で、友人たちと談笑していた。
「君、彼女がいたのか」
夕食後、二人でテレビゲームをしている最中、アーチャーはそう問いかけた。その発言に驚いて、ランサーがアーチャーの方を見る。当然ランサーのキャラクターの動きは止まって、そこにアーチャーのキャラクターが必殺技を繰り出した。青色のキャラクターが画面の外に勢いよく消えていく。画面が切り替わって、アーチャーの勝利がでかでかと映し出された。
「よし、私の勝ちだ」
「いや待て。え? 今なんつった?」
「負けは素直に認めるものだぞ」
「そっちじゃねーよ。その前」
「君、彼女がいたのか」
「それだ」
次のバトルに移行しようとするアーチャーのコントローラーを奪い取る。それでもテレビ画面から視線を外そうとしないアーチャーの瞳を覗き込んで、ランサーははたと気付いた。
「何? お前怒ってんの?」
「怒ってなどいない」
アーチャーはそう言うが、この頑なさは少なくとも拗ねている。それなりに長くなってきた付き合いで、ランサーはアーチャーの感情の動きが前よりは分かるようになっていた。
「何か言いたいことあんだろ。言ってみろよ。っていうかまず彼女がいるって何の話だ」
「付き合ってる奴がいる。そう言って断ってただろう」
今日の放課後。そう付け足されて、ランサーはすぐに思い出した。隣のクラスの女子生徒に、話したいことがあると言われて呼び出されたのだった。告白されて、確かにアーチャーが言った通りの文言で断った。見られていたとは知らず、ランサーは気恥ずかしさを感じた。
「あー、あのときか」
「盗み聞きになったのは申し訳ない。だが私に教えてくれてもよかったんじゃないか」
そう言うと、アーチャーは初めてランサーに視線を向けた。いつもは凪いでいる灰色の中に恨みがましさが混じっていて、ランサーは少し違和感を覚える。何だか自分の認識とは違う方に話が向かっているような気がする。
「君に彼女がいるとは全く知らなかった。君とは結構一緒にいるのに教えてもらえなかったとは少し、そうだな、ほんのすこぉしだけ残念だ。私は秘密を守れないような男に見えたかね。それに、それならそうと言ってくれれば彼女さんに悪いから君と寝るのも」
「いやちょっと待ってくれ」
アーチャーの流れるような恨み言にランサーはストップをかけた。ここまで聞いただけでも、お互いの認識に齟齬があることは十二分に分かる。
「あの、落ち着いて聞いてほしいんだけど、というか、まさかと思いながらオレも説明するんだけど」
「なんだ? 言い訳か? 私がちゃんと納得できる内容なんだろうな」
「……お前のことなんだけど」
「……はい?」
「オレが付き合ってるの、お前」
そう言うと同時にランサーが人差し指を向けると、アーチャーの体が硬直した。ランサーの疑念が確信に変わる。
「えっ、分かってなかったの」
首を機械のように動かしながら、アーチャーは辛うじて頷いた。それを見てランサーが脱力する。
「お前、あんだけやることやっといて、どういう立ち位置だと思ってたわけ?」
「だって、君の貞操観念はゆるゆるだし……」
「それは否定しねえけど」
「特にそういう話になったこともなかったし」
「なんかお前が普通に抱かれるようになったから、伝わってんのかとおもっ……」
言いかけて、ランサーはアーチャーとのこれまでを回顧する。一度目はほとんど事故で、二度目以降は味を占めた自分が強引に事を進めた。アーチャーが折れないのを良いことに、毎回フェロモンを武器に抱きつぶして―― そこまで振り返ってランサーはようやく自分の失態に気が付いた。確かに愛の言葉は一切囁いていない。アーチャーが抵抗しなくなったのも、どちらかというと諦めが一番の要因である。
「っあーー……。オレが悪いわ」
ランサーはがっくりと項垂れた。だがここで引くわけにはいかない。今のアーチャーとの関係を自分はそれなりに気に入っているのだ。これからもそれを続けていきたいのなら、ここで覚悟を見せる必要がある。ランサーは意を決して顔を上げた。ここから仕切り直しだ。
「アーチャー、てめえが好きだ。付き合ってくれ」
「それは構わんが、一つ訂正しておきたいことがある」
あまりにあっさりとした受け答えに、ランサーは一瞬何を言われたのか理解ができなかった。これまでに誰かに想いを告げて、こんなに雑な返しをされたことはなかった。しかも、断られるならまだしも、了承されている、らしい。そうとは信じられないほどの淡泊さである。
「え……あっさり……情緒……」
「一つ訂正しておきたいことがある」
混乱するランサーを置き去りにして、アーチャーは次の話題に進もうとしている。しかもアーチャーにとってそれはかなり重要なことであるらしい。何とかショックを飲み込んで、ランサーが先を促す。
「……なんだ」
「私は君に抱かれてるんじゃない。抱かれてやってるんだ」
「かっ、かわいくねーーーーーーーー」
思わずランサーが叫ぶ。アーチャーの方は、言ってやったとばかりに得意気な表情。後ろではテレビゲームの待機画面のBGMが流れていた。
***
付き合い始めてからも、二人の生活は大して変わらなかった。今まで通り、気が向いた日にはどちらかの部屋に集まって、テレビゲームをしたり体を重ねたりした。周りには一切付き合っていることを言わなかった。アルファの男同士。推奨されないどころか、完全に一般的な価値観の外側にある選択肢。教師に露見すれば停学処分である。好奇の目で見られるのも嫌だった。そのため二人は前と変わらず、仲の良い友人で通していた。そのまま誰にも知られることなく、二人は高校を卒業した。
大学は二人揃って、高校と同じ系列のところに進学した。高校と違い、大学には他のオメガバース性が通える学部もあって、サークルなどでオメガとの交流もあった。
「運命は居たか、アーチャー」
「いいや。君の方は」
「さっぱりだな。それより香水で鼻がひん曲がりそうだ」
ランサーとアーチャーはベータやオメガから見ても、非常に魅力的なアルファだった。彼らの番になりたいと願う者は沢山いたが、その全てを二人は跳ねのけた。
運命を待っている。それは二人が共通して使う言い訳だった。
「私たちには幸せになる権利がある」
いつかの冬、アーチャーが言った。その冬は特別寒く、ランサーはこたつのあるアーチャーの下宿先に連日逃げ込んでいた。アーチャーに振る舞われた温かな料理をたらふく食べた後だったのだろう。寝ぼけ眼でこたつに突っ伏し、ランサーはそれを聞いていた。
「アルファ、ベータ、オメガに関係なく、これは人間として当たり前のことだ。妥協などしなくていい。現状に満足せず、常に最良の幸せを掴もうとする自由がある。周りがなんと言おうとも、だ。まあ他人の権利を侵害しない程度という制約はあるが」
アーチャーが真面目な話をしようとしているのを察して、ランサーはこたつの天板にくっつけていた頬をひっぺがした。ランサーが聞く気が無さそうなときほど、アーチャーは重要なことを言おうとする。他の人間にはそうではないくせに、ランサーに対してだけは逃げを打ちたがる、アーチャーの悪癖だ。本人は多分気が付いていない。
「何が言いたいかというとだな、ランサー。私と君は今恋人同士であるわけだが、互いに縛られる必要はないんだ」
アーチャーは着ている半纏の紐を落ち着きなく弄ぶ。ランサーもそれと色違いのものを身に着けていた。アーチャーは赤、ランサーは青。ランサーが旅行先で欲しがって購入して以来、冬の定番となっていた。
「私たちは共にアルファだ。アルファの一番の幸せは、運命の番と結ばれることだと聞く。今もどこかで、君のオメガがきっと君を探している。もし、彼女と、もしかしたら彼と、巡り合うことができたのなら、君はその人を選んでいいんだ」
はは、とアーチャーが笑う吐息の中には、先ほど飲んだ麦酒の匂いが混じっていた。
「運命の番だけとも限らない。これからずっと、沢山の魅力的な誰かが君の人生を横切るだろう。そしてその中の多くはきっと、私には与えられない幸せを君にもたらすはずだ」
ランサーは黙って聞いていたが、ついに顔を顰めて言った。
「大した予言だな。お前ってそんな卑屈な奴だっけ」
「分からないか? 優れたアルファの義務だよ、ランサー」
ランサーにもすぐに、アーチャーの言わんとするところは分かった。生めよ増やせよ。優秀なアルファの遺伝子を後世に。
「オレは、その手の話は嫌いだ」
「ふふ、私もだ」
心底愉快そうにアーチャーは笑った。高校のときには偏ったエリート思想を共に嘲笑ったものだった。その価値観は互いに今も変わっていない。しかし、とアーチャーは少しだけ真顔に戻って続けた。
「その話を脇に置いても、より条件の良いパートナーを選ぶのは人として当然の行動ではないか? 無論、私だってそうだ。君が隙を見せようものなら、すぐにでももっと良い相手に乗り換えるつもりでいる」
わざとやっていると分かっていながらも、アーチャーの物言いが癇に障った。お望み通りに眉を吊り上げてやる。
「へえ、当てでもあるのか?」
「今は無いが、大した問題じゃない。何せ私はモテる」
得意気に言うアーチャーの顔を見て、ランサーはため息を吐いた。アーチャーはモテる。それは事実だ。だがランサーが危惧しているのは、アーチャーが自覚しているよりもさらに、変な輩を惹きつけてしまうことである。
少し前のこと、アーチャーに入れ込んだオメガの男がいた。そのオメガは四六時中アーチャーに付き纏い、交際を何度も申し込んでいた。アーチャーはその度に断るのだが、アーチャーの拒絶は穏やかで、オメガには全く効いていなかった。その経緯をランサーは歯がゆく思いながら見ていた。徐々にオメガの行為はエスカレートし、やがてストーカー紛いの行動まで取るようになった。警察に言った方がいいんじゃないか。そう忠告しても、アーチャーは首を振るだけ。大事にはしたくない。いずれ諦めるだろう。アーチャーがそう言うのを、ランサーは黙って見ているしかなかった。
そんなとき、ランサーは食堂で例のオメガと居合わせた。少し離れたテーブルで、向こうはランサーがいる事には気付かずに友人たちと楽しそうに談笑している。時折耳障りな笑い声。何となく嫌な感じがして、ランサーは友人と会話しながらも、そちらの話に意識を向けていた。
彼らは、やはりアーチャーのことについて話していた。多分アーチャーも俺のこと好きなんじゃないかなあ。例のオメガは自信たっぷりにそんなことを言っていた。オメガ側の歪んだ認識に吐き気を催しながら、ランサーは表面上は平静を保っていた。しかし、ある発言がランサーの理性を一瞬で奪い去る。
『いざとなったらヒートのときに襲ってやる。番っちまえばこっちの勝ちだろ』
それが聞こえた途端、目の前が真っ赤になって、気が付いたときには男の襟首を締め上げていた。先ほどまであんなにうるさかった食堂が静まり返っている。視線が集まっているのを感じたが、もうどうでもよかった。額が触れそうな距離でオメガを睨み付ける。ヒッ、とオメガの男が悲鳴を漏らして、その吐息がランサーの顔にかかった。きったねえ息。心の底からランサーはオメガを軽蔑した。これがあの清廉な男に触れる様など想像したくもない。
『あいつの未来を汚してみろ。オレはてめえを許さねえぞ』
フェロモンを一切制御せずにそう言ったから、そのオメガは死ぬほどの恐怖を味わったに違いなかった。アルファの本気の命令は、オメガに対して恐ろしいまでの力を発揮する。二度とアーチャーには近付けないだろう。
そんなことを何も知らない目の前の男は、なぜため息を吐かれたのか分からず、訝し気な目でこちらを見ている。いい、いい、と手を振ると、納得はしないながらも諦めたようだった。アーチャーも眠くなってきたらしい。半分くらい伏せられた瞼の下から、研ぎ澄まされた鋼が覗く。
「私は君と別れたからといって、どうにかなってしまうようなやわな男じゃない」
それを見て、ぞくぞくと背筋が震えた。複雑に感情が入り混じる。誇らしい。羨ましい。眩しい。閉じ込めたい。寂しい。だから好きだ。
随分熱烈な視線を送ってしまった自覚があって、それを受け流すように艶やかにアーチャーは微笑んだ。ここ数年で若さゆえの危うさが薄れて、代わりに成熟した色気のようなものが出てきた気がする。ますます目が離せない。だがきっと、これはいつまでも自分の傍にある輝きではない。
いつかは番を見つけて、遠くへ飛び立ってしまう。
自分が先に呼ばれたならば、一人残していかなければならない。
その来るべき日の話をアーチャーはしていた。
「私たちは誰にも、何にも縛られなくていいんだ」
自由を語るはずの言葉は、何故だか冷たく響いた。その冷たさに、言った本人が動揺しているように見えてランサーは手を伸ばす。こたつの上に所在なさげに置かれたアーチャーの手を握った。慣れた体温に安心する。
「君も、私も、気高く強いアルファなんだよ」
「そうだな」
窓ガラスが少し曇っている。外はかなり寒そうだ。いつまでこの手を繋いでいられるだろうか。白く浮かぶ窓の格子模様を眺めながら、ランサーはそんなことを考えていた。
***
大学を卒業して二人の就職先は分かれたが、勤務地が近く、頻繁に互いの家を行き来した。生活は大きく変わったが、相変わらず二人の運命の番は現れなかった。
「君の運命は随分とのんびり屋だな」
「うるせえ。そっちもだろうが」
そんな軽口を叩き合いながら、二人は表面上楽観的に日々を過ごした。やがてアーチャーの家にランサーが入り浸るようになり、ほとんど同棲のような生活になった。だが、どちらもランサーの家を引き払おうとは言いださなかった。訪れるいつかのことが、二人の頭からは離れなかった。そうして付き合い始めてから、気付けば十年近くが経っていた。
悲劇が降りかかったのは、彼らの共通の友人だった。高校生のときから付き合っていた男女のアルファカップル。結婚を目前にして、片方の運命が現れた。運命に出会ったアルファ、男の方はオメガと番うことを選択した。長年築き上げてきた絆は崩れ去り、女のアルファは一人残された。
洒落たカフェの一角。待ち合わせをしていたアーチャーは、彼女の変貌に目を見張った。痩せこけた頬。目の下のどす黒い隈。明るく美しかった、かつての面影はほとんどなかった。
「驚いたでしょう」
そう言って彼女は赤味の引かない目元を綻ばせた。本人も変化を正しく自覚している。それが一層痛々しく見えて、アーチャーは顔を顰めた。
「眠れていないのか」
「あんまり。でも薬は貰っているし、周りも優しくしてくれるから、じきに良くなると思うの。ただ急なことだったからまだ受け入れられなくて」
「そうだろうな。まだ無理はしなくていい」
アーチャーがそう言うと、彼女は懐かしそうに目を細めた。
「相変わらずアーチャーは優しい」
「そうかな」
「そうよ。昔からずっとそう」
彼女は穏やかに笑って、それから何か不都合なことを思い出したかのように顔を強張らせた。首を振ってそれを振り払う動作をして、彼女は言った。
「経緯はどこまで話したかしら」
「ラインで大体の話は聞いた」
「ああ、そうだったわね。大方その通りよ。彼の運命がやってきて、私は一人置いて行かれた」
ほとんど、いつも通りの夜だったという。いつものように彼女の方が少し早く帰宅して、夕食を用意して待っていた。彼の帰宅は予想よりも遅かったけれど、残業があることは珍しくなかった。彼の分にラップをかけて、一人先に寝る支度を済ませた。ようやく扉の開く音を聞いてそちらに向かうと、真っ青な顔の彼が立っていた。
『すまない。運命を見つけた』
それだけ言って、彼は靴も脱がずに土下座をした。震える背中を見て彼女は全てを悟った。そうして二度と、彼の心は彼女のもとに戻ってはこなかった。
「いつか運命の番を見つけたとしても、絶対に君を選ぶ。そう言ってたのよ。彼の運命が現れるまでは」
淡々と語るその奥で、溢れんばかりの激情が渦巻いている。叫び出しそうなその悲しみを、彼女はアルファの理性で抑えつけていた。
「でも彼は悪くない。私もアルファだから分かるわ。あれには絶対に逆らえない。運命の番に出会ってしまったら、自分だけのオメガに縋られたら、私たちは絶対にそれを拒めない」
血の気の失せた顔の中で、黒い瞳だけが爛々と光っていた。
「ようやく気付いた。私たちに自由なんかないのよ。アルファだ、選ばれし者だと持て囃されたところで、結局ただ子を産むための機能で……」
何かに取り憑かれたように話し続けていた彼女の視線がふっと焦点を失い、中空を彷徨う。渇ききった唇が小刻みに震えていた。
「私たちって、一体なんなのかしら」
いつも自信に満ち溢れていた彼女が、途方に暮れた子供のように呟く。アーチャーはその問いに対する答えを持たなかった。ただ視線を逸らさずに、彼女の悲鳴を聞いてやることしかできない。彼女の瞳から、大粒の涙が溢れだす。
「ああ、アルファなんかを好きになるんじゃなかった」
ベータなら運命も何もない。オメガなら、運命でなくとも番ってしまえば縛ることはできる。ただアルファとは―― アルファ同士の絆は、あまりに不確かで脆い。目の前の彼女の絶望が、アーチャーまでをも飲み込んでいく。周りの何でもないざわめきが遠かった。
帰宅したランサーはアーチャーの顔を見るなり言った。
「ひでえ顔してる」
それがどんな表情であるか、鏡を確かめる必要もなかった。きっと目の前にあるものと同じだ。
「君も」
アーチャーがそう言うと、ランサーは瞳を曇らせたまま苦く笑った。
その日は食卓にとっておきの日本酒が並んだ。ランサーが何度強請っても、これは特別な日に飲むんだとアーチャーが拒み続けた逸品。出張先で奮発したとアーチャーが言うだけあって、すっきりとした甘さが舌に心地よい。アーチャーの料理ともよく合う。それなのに、一向にランサーの気分は浮き上がらなかった。いつもより言葉少なに食事が進む。ぽつりと他愛もない話題がどちらからか提供されて、長続きせずに途切れる。肝心の部分には、互いにしばらく触れられなかった。素面で持ち出すには重すぎる話だった。皿がほとんど空いて、酒瓶が軽くなった頃、ようやくランサーが口を開いた。
「幸せそうならいいと思ってたんだよ」
ランサーは、運命と番ったアルファに会いに行っていた。
将来を約束した相手を捨てて、他の人間と結婚する。これが世間一般から見て、酷い行いであることはランサーにだって分かっている。それでもランサーは、そのアルファを非難する気にはなれなかった。高校時代からの友人。彼の人柄はよく知っていて、そいつが自分の意思で選んだことなら、他人である自分がどうこう言えることではないとランサーは思っていた。何より、
「オレらは結局フェロモンに動かされる。これはアルファである以上仕方がないことだ」
ただのオメガのフェロモンですら、アルファの意思を捻じ曲げてしまうことがある。運命の番となれば、一体ほどの脅威となるだろう。そのことを、同じアルファであるランサーは身をもって理解していた。他の誰が何と言おうと自分は彼を祝福しよう。そう思って、ランサーは待ち合わせ場所に向かった。だがなあ。お猪口を揺らしてランサーは項垂れた。
「全然幸せそうじゃなかったんだよなぁ……」
久しぶりに再会した彼のどこからも、幸福の気配を感じとることはできなかった。彼女に申し訳ない。それでも運命の番を選ばずにはいられない。苦しい。死にたい。でも番ってしまった以上、オメガを置いて死ぬことはできない。理性と本能の乖離。心が引き裂かれる音が聞こえるような悲痛な独白。
どちらも強く聡明なアルファだった。その彼らがこんな結末を迎えるなど、誰が予想できただろう。 二人きりの部屋の中、時計の秒針が鳴っている。いつになくそれは無情に響いた。
「なあ、アーチャー。昔、アルファの幸せについて話したことを覚えてるか」
「……勿論。忘れるはずもない」
今より狭い部屋だった。小さなこたつに身を寄せ合って過ごした冬。既にいつか来る別れを意識していた。互いに寄りかからず、自分の足で立っていよう。終わりのときには、笑って手を離せるように。あのとき不敵な微笑みでランサーを突き放した男は、幸運なことにまだ横に居る。
「今だから白状するが、運命の番以外に、お前を渡す気は初めからなかった」
身軽さの仮面に隠した執着。だが奪われる気もしていなかった。元々の持ち物に加えて、誰より魅力的であろうと努力した。敵わないとしたら、それはある一点においてのみ。
「お前だけのオメガが現れたそのときには、潔く諦めようと決めていた。オレのもとからお前がいなくなっても、お前が幸せになってくれるならそれでいいと思っていた」
そこまで言って、ランサーは続きを躊躇った。これはある意味今までの人生の否定だ。幼少期から慣れ親しんだ価値観。誰もが信じる大団円のおとぎ話。それを捨てるのは容易なことではない。しかし、ランサーの違和感は抑えきれないところまできていた。
「なあ」
喉が渇く。声が頼りなく掠れた。
「オレたちの一番の幸せは、本当に運命と番うことなのか?」
ランサーにはそうは思えなかった。罪悪感に身を切り裂かれながら、ただただ途方に暮れる友人の姿を見た。その姿に、運命と出会った後のアーチャーを重ねた。
目の前の、透き通った水面のような鋼色を見つめる。自分を置き去りにした後も、この瞳は真っ直ぐなままでいてくれるだろうか。
「もしそうじゃないなら、お前を運命の番に盗られることが、オレは怖くて堪らない」
アルファへの情操教育が、昔から嘘臭くて嫌いだった。幼いながらに感じ取っていた不信感の正体がこれだったのだろう。自分の直感の正しさをこんな形で知りたくはなかった。
呪いだ。遍くアルファに降りかかる呪い。
運命のアルファは一人きり。世界中からたった一人の番を見つけ出すなど、常識的に考えて不可能である。にも関わらず、アルファの半数近くが運命のオメガに出会う。ある程度遺伝子に類似性のある相手を運命として認識し、大抵は同じ国に生まれるから、だとか、超人的な嗅覚でフェロモンを察知して、無意識下で生活圏を近付けているから、だとか、様々なことが言われているが、どれも根拠に欠け、遭遇率の高さの明確な理由は分かっていない。出会うはずのない二人が奇跡的に出会い、結ばれる。これを人は運命と呼んだ。
「何が運命だ。クソッタレ」
ランサーが吐き捨てる。その様をアーチャーは真剣な面持ちで見ていた。
「なあ、ランサー」
その声に応えてランサーが顔を上げる。アーチャーは何度か視線を彷徨わせ、それから慎重に口を開いた。
「ずっと言おうか迷って、君に言っていなかったことがある」
「なんだ」
「私の運命は、既に死亡している」
***
アーチャーが中学一年の春、それは突然訪れた。アルファ性が開花してすぐの頃、内臓を根こそぎ持っていかれたような、大きな喪失感があった。例えばオメガバース性が発現する前であったなら、彼はベータとして一生を終えただろう。アルファとして成熟してからなら、多少体調を崩すだけで済んだかもしれない。だが発達途中の繊細な少年には過激すぎる変化だった。アーチャーは突然フェロモンの分泌機能に異常を来たし、過剰分泌と生命維持が危うくなるほどの分泌量の低下を繰り返した。幸いアルファであった父親が気付き、事故もなく専門医のもとへと運ばれた。
『オメガバース性の適合者、いわゆる運命の番が死亡したと思われます』
そう診断され、そのまま入院生活が始まった。投薬を受けて生命の危機は脱したものの、アーチャーのフェロモン分泌の波は消えなかった。最終的には己の意思で制御するしかないと言われ、リハビリセンターでトレーニングを受けた。その結果得たのが、優れたフェロモンの操作技術だった。
「体の異常もきつかったが、一番堪えたのはフェロモンの分泌量に伴う周囲の変化だ」
前日まで普通だった看護師たちがやけに媚びるような態度を見せたかと思うと、次の日にはまるで興味がないといった素振りで振る舞う。アルファになってしまった以上、自分の人格そのものを見てくれる人間などいないのだと、思い知る毎日だった。
「だから、私のフェロモンに簡単に左右されない君に惹かれたのかもしれないな」
あのときは本当に悔しかったのだけれど、とアーチャーは笑う。その柔らかさには、過ぎた年月の長さが滲んでいた。
「君だけのオメガが現れたときに、運命のいない私を一人残すことが君の負い目になってはいけないと思って黙っていた。だがもし君が、いつか私が運命に攫われることを想って嘆くなら、その恐れを今、取り除くことの方が大切なのではないかと……」
迷いがアーチャーの語尾を弱めていく。ついに口を噤んだアーチャーは、緩く首を振った。
「だめだ、酔っている。今日はここまでにしよう」
そう言うと、アーチャーは残っていた食器を持って立ち上がる。ふらつくことのない足取りを、ランサーは黙って見ていた。
『私の運命は、既に死亡している』
ランサーがその言葉を飲み込むのには数日を要した。信じられなかったのだ。きっと心のどこかでずっと望んでいたことだった。いつかアーチャーに運命が現れようが、そのときはそのとき。あいつがそっちを選ぶってんなら好きにしたらいい。そんな風に平然としていた一方で、やはり恐れずにはいられなかった。出会うな。あいつの前に姿を現すな。そう願ったことがないと言えば嘘になる。己のオメガバース性に抗えなかった友人の姿を見て、さらにその思いは増した。だが、その恐れが一気に霧散した。アーチャーには運命の番が存在しない。それを知ったとき、ランサーは意識的に見ないようにしてきた未来を見た。アーチャーと共に老いていく未来を見てしまった。
いつか離れ離れになるのだと自分に言い聞かせてきた。離別に備えて、それぞれの家を引き払えずにいた。互いの部屋に置く私物は最低限のものだけだった。来年の話はできる限り避けた。いつが最後になってもいいように、出掛けるときのキスを欠かさなかった。幸福に常に寄り添う陰り。アーチャーと共にいるためには、例えランサーの本来の性格と矛盾していようとも、それを許容するしかなかった。
そんな生活の中に突然現れた希望は、暗闇の中であまりに眩しくランサーの目を射した。馬鹿みたいな計算だが、これでどちらかが運命に出会う確率は半分に減った。叶うのかもしれない。このまま慎重に日々を過ごしていけば、諦めていた幸せが手に入るのかもしれない。そう思った矢先、街中で、芳醇な花の香りをランサーは嗅いだ。
***
アーチャーは自分のデスクで作業をしていた。定時を二時間ほど過ぎた頃。オフィスの人はまばらで、タイプ音だけが響いている。画面から目を離さぬままアーチャーは下の自動販売機で買ったコーヒーを啜る。眠気はまだ遠いが、単調な作業の最中には適度な苦味が必要だ。
「エミヤさん」
呼びかけられて顔を上げると、僅かにネクタイを緩めた部下が立っていた。頼んでいた書類の作成が終わったようだ。ぱらぱらと捲って確認する。大きな不備もなさそうなので今日は帰っていいと指示を出した。そのまま帰るかに思えた部下は、何故だかアーチャーの横に留まっている。書類を整えて見上げると、部下はどこか心配そうに言った。
「ワンちゃん元気ですか?」
「わん……?」
予想もしなかった可愛らしい単語にアーチャーは戸惑った。その様子を見て、あれぇ? と部下が首を傾げる。
「前はワンちゃんがいるからってなるべく早めに帰ってませんでした?」
その一言で合点がいった。以前はランサーとの家事の分担でアーチャーが夕食を担っており、準備のために早く帰宅していた。男のアルファと半同棲しているとも言えず、犬を飼っていると言って誤魔化したのだった。
「最近ずっと残業ですよね。繁忙期は過ぎたし大丈夫ですよ。ワンちゃんの相手してあげないと」
僕も頑張りますし、と力こぶを作って見せる部下に釣られて笑う。部下が頼もしくなったことは好ましいが、その気遣いはもう必要なくなっていた。
「知り合いにもらわれていったんだ」
多分元気にしてると思うが。そう言いながら、青い後ろ髪を思い出す。随分と大きな犬だった。
「うちだとマンションで可哀想だった。大きな庭がある家だから、うちにいたときより幸せに暮らしてるんじゃないかな」
嬉しいことなのだと言いたくて続けた言葉は、やけに寂しく響いてしまう。案の定部下は気遣わしげな表情をしていた。本心なのに、どうしてこうもうまく伝わらないのだろうか。犬に例えたのが良くなかったかもしれない。きっと聞く側からしたら妙な愛着があるように思えてしまう。まあ、とにかくそんな訳だから、と会話を切り上げようとしたところで、部下が目を輝かせて言った。
「猫どうっすか! 可愛いっすよ、猫」
アーチャーは思わず吹き出してしまった。善意ばかりの無邪気さは有難く、凝り固まった心をほぐしてくれる。検討しよう。笑いながらそう言って、アーチャーは部下の帰宅を見送った。
ランサーと連絡が取れなくなって、半年が過ぎていた。話に聞いていた通りだ、とアーチャーは思った。いつものように出掛けていって、それきり。ああ、でも全く何もなかったわけではなかった。
『しばらく連絡取れない。すまん』
起き抜けの頭で思い出すのは最後に来た一文。それにアーチャーが返したスタンプには、未だ既読が付いていない。
もう日は高く昇っていたが、ベッドから出る気にはなれなかった。ランサーがいなくなってからというもの、アーチャーの休日はすっかり自堕落なものになっていた。
はっきり言ってくれてよかったのにと思う。連絡が取れないなどという曖昧な表現でなく、運命の番を見つけたと言ってくれさえすれば、それで全てが正しく終わった。ああ見えて優しいところのある男だった。その優しさが、関係を断ち切る刃を鈍らせたのかもしれない。それともやはりあのときのことが負い目になってしまったのだろうか。ランサーに自分の運命が死亡していると告げたことを、アーチャーは今になって後悔していた。
一度ランサーの家に行った。合鍵を持っていたが、室内に入るのは躊躇われた。窓から見えるカーテンはそのままで、引っ越している様子はない。郵便受けがチラシで溢れかえっている。しばらく帰宅していないことが窺えた。
多分違うとアルファの勘が告げていたが、事故に遭っている可能性も考えて、ランサーの生家に連絡を取った。
『息子の現状は把握している。友人には自分の口から説明したいと言っていた。落ち着くまで、待ってくれないか』
電話口のランサーの父親は、彼によく似た声をしていた。その答えでアーチャーは己の予感が正しいことを確信した。やはりランサーは運命の番に出会っている。
荷物は、どうしたらいいだろうか。そう聞きかけてやめた。ただの友人がそんなことを聞いても訝しがられるだけだ。
部屋に残ったランサーの私物が、アーチャーの重荷になっていた。ランサーは毎日のように寝泊まりしていたが、その割にはほとんど物を置いていなかった。片付けはすぐに終わるだろう。ランサーが取りに来たときにすんなりと返すことができるように、早くまとめなければ。数は少なくとも痕跡はそこかしこにあって、見る度にほとんど焦るようにそう思うのに、アーチャーは行動に移すことができなかった。
こうなることを予想してお互い暮らしてきたはずなのに、いざとなったら上手くいかない。ランサーも、自分も。アーチャーは一人自嘲を浮かべる。ランサーは残していく者の息の根を止めるのに失敗しているし、自分は未練がましくランサーの枕を抱いて眠っている。もう自分の匂いしかしなくとも、それだけがアーチャーの日々を辛うじて支えてくれた。
運命を待っている。自分たちの常套句だったそれが、ついに叶ったのだ。ランサーは運命のオメガとの幸せを疑ったが、アーチャーは未だにそれが一番だと信じている。まあるく欠けることのないハッピーエンド。ランサーは運命の相手と結ばれ、アーチャーは彼らに笑顔で手を振る。白いシーツに埋もれながら、アーチャーはその光景を夢想した。途端、苦味が胸に溢れかえる。それを無視するには、一人きりの部屋は静かすぎた。忙(せわ)しく行き来する足音も、乱暴なようでいて優しい話し声も、夏の日差しのような笑顔も、もうどこにもない。一人が消えただけなのに、世界のほとんどが失われたような気がして、アーチャーは布団を頭まで被った。部下が言っていたように猫を飼うのもいいかもしれない。そんなことを思いながら、気付けばアーチャーは再び眠りに就いていた。
浅い睡眠と覚醒を繰り返し、アーチャーはようやく目を覚ました。布団から右手だけを出して枕元を漁ると、スマートフォンの硬質な感触が指先に触れる。緩慢な動作で引き寄せた。今は何時だろうか。そう思ってボタンを押すと、時間より先に通知が目に入った。
『今から行く』
液晶の明かりに目を細める。通知は一時間ほど前。誰かと会う約束をしていただろうか。寝過ぎたためか頭は重く、即座に答えを導き出してくれない。そもそもこんな説明の足りない不躾な連絡をしてくる奴など、自分の知り合いには一人くらいしか。そこまで考えて、急速に目が覚めた。ようやく画面に焦点が合う。久しぶりに見る、待ち焦がれた名前。布団を跳ねのけて起き上がった。信じられないまま何度も画面を見直したが、表示された内容はそのままだ。
「ランサー……」
しばらく発していなかったはずのその音は、呆気なく唇に馴染んだ。今更、何しに。そう思った途端、応えるようにインターホンが鳴る。ばっと玄関の方を振り向いた。寝間着で髪もぼさぼさだ。だが構っている余裕はなかった。ほとんど走るようにして廊下を進み、玄関の扉を開ける。変わらぬ香りがアーチャーの鼻腔をくすぐった。半年ぶりに見るランサーの姿。少し痩せたような気がする。
「アーチャー、聞いてくれ」
こちらの動揺などお構いなし。再会の言葉すらも脇に置いて、ランサーは興奮気味に言う。
「オレは運命を殺した」
その両の瞳に灯る光は、微塵も弱まってはいなかった。
***
半年前、街角でその匂いを嗅いだとき、ランサーは全身の細胞がひっくり返ったような錯覚に陥った。運命のオメガは出会えばすぐに分かる。疑う余地もない。何度も話には聞いていた。だが想像していたより遥かに強い衝動がランサーの体を支配する。じんわりと汗を掻くほど体が火照り、心拍数が勝手に上がっていく。振り返ってはいけない。分かっているのに、その欲求に抗うことができなかった。頼む、勘違いであってくれ。ほとんど祈るようにそう思いながら振り向くと、自分と同じように驚きに目を見開き立ち尽くす、美しい女がいた。
話し合いの場を喫茶店にしたのは、他人の目が必要だったからだ。密室など選ぼうものなら、必ず番ってしまうという確信があった。ウェイターの声も、グラスのぶつかる音も、全てが厚い膜を通したかのように遠い。そのくせ、目の前のオメガの呼吸音だけははっきりと聞こえた。整えられた黒髪に、綺麗に引かれたルージュ。身なりのきちんとしたオメガだ。その様子を見るに、抑制剤も正しく服用しているはず。だというのに、噎せ返るほどのフェロモンの香りが鼻につく。触れたい、その白い項に噛みつきたいと、体の奥底で叫ぶ獣を抑えつけるのに必死だった。目の前のオメガもそうなのだろう。唇を噛み、脂汗を浮かせて何かに耐えている。二つのアイスコーヒーは少しも減らず、溶けた氷が音を鳴らした。
僅かに残る理性の中で、ランサーは不思議に思った。自分はともかく、彼女が本能に抗う理由が分からない。その訳は彼女自身が明らかにした。長く続いた沈黙を破って、彼女は噛み締めていた唇を開いた。
「私、添い遂げたい人がいるんです。あなたではなく」
震えながらも力強い眼差しでそのオメガは言い切った。ランサーは思い切り頬を張られたような気がした。運命の番よりも大切にしたい誰かがいる。それを言うために、どれほどの勇気が要っただろう。逆上したアルファに無理矢理番わされる可能性もあった。なにより三つの性の中で最もフェロモンの影響を受けやすいオメガが、運命の番を前にして簡単に言えるような台詞ではなかった。どれほどの意思、どれほどの愛だ。瞬時にそこまで思い至って、ランサーは痺れるように理解した。オレの運命がただのオメガであるはずがなかった。
己の運命の番は、あり得ぬほどの気高さで、自分と同じ夢を見ていた。
その足で二人は病院へと向かい、とある処置を受けた。その処置とは特定のフェロモンに対する受容体の除去、いわゆる番の解消手術と呼ばれているものである。そもそもこの処置はオメガのために考案された方法であった。番のアルファに捨てられたオメガは死ぬしかない。それが一昔前までの常識だった。終わることのない発情期に苦しみ、やがては気が狂って自殺する。運良く生きていられたとしても、ほとんど廃人状態だ。その状況を打破するために生まれたのがこの方法である。具体的には対応する受容体を破壊し、相手のフェロモンへの反応を無くす。これにより、互いに対してはベータと変わらない状態になる。愛する人と別れることになろうとも死ぬよりはましだと考えたオメガがこの手術を受け、多くのオメガが救われた。処置を受けるには双方の同意が必要であり、アルファがこれを怠りオメガを放り出した場合は罪に問われる。この法律が制定されたのは随分前のことであり、否定的な意見も多かった当時に比べて、現在は一般的な選択肢となっている。しかし、運命のオメガがこの制度を利用することは極めて稀であった。自らの運命との番を解消したいなどと考える者は、考えることができる者はほとんどいない。手術前、ランサーと彼女は何度も意思確認を受けた。この手術を受ければ二度と相手のフェロモンを感知することはない。後になって何か不都合が起きても、病院は一切責任を取らない。脅しのようなそれらを前に、二人は意思を曲げなかった。例えば彼女が少しでも番いたいという気持ちを見せたなら、ランサーは抗うことができなかっただろう。逆もまた然りだ。互いに同じ目的を持っていたことは、二人にとってこの上ない僥倖だった。
ただ何のリスクもなく受けられる手術ではなかった。ただのアルファとオメガならまだしも、運命の番である。その受容体を取り除くことはオメガバースとしての生きる目的を失うことと同義であり、体にどんな影響が出るか分からない。全てを覚悟して、ランサーは手術を受けた。
術後、様々な症状がランサーを苦しめた。指を動かすのも億劫な倦怠感と強い吐き気が常にあり、ようやく飲み込んだ食事もすぐに吐き出してしまう。不用意な刺激を与えないために、家族との連絡すら禁じられた。予定していた期間よりずっと長く入院生活を送ることになったが、ランサーは必死に耐え続けた。一進一退を繰り返す体の調子にも焦ることなく、地道に前を向き続けた。全ては渇望する未来のため。そして病状が落ち着き、ようやく退院の日を迎えた。浮かぶ顔は一つだった。
***
「オレはやった。やり遂げたんだ。クソッタレのぶっとい赤い糸を引きちぎってやった。これで運命なんぞに縛られなくていい。あぁ、さいっこうの気分だ‼ これでお前と……
……なぁ、アーチャー、聞いてる?」
走ってきた勢いのまま、離れていた間のことを話していたランサーは、アーチャーの反応の薄さに首を傾げた。見開かれた瞳はビー玉のよう。それを囲む白い睫毛はぴくりとも動かない。さすがに心配になって目の前で手を振ろうとしたとき、アーチャーが小さく音を発した。
「び」
「び?」
「び……っっくりした……‼ 君が、本当に人を殺したのかと思って……」
「はぁ⁈ そんなことするわけねえだろ‼」
玄関先なのも忘れて、ランサーは思わず声を荒げた。確かに紛らわしい言い方をしたことは認めるが、殺人を犯すような短絡的な男だと思われていたとは心外だ。
「君ならやりかねない」
アーチャーは心底ほっとした顔で息を吐く。どうやら本気でそう思ったらしい。ふと、アーチャーのその思考を成立させる大前提に気付き、ランサーは口角を釣り上げた。
「オレが? お前への愛のために? へーえ、ちょっと自信過剰なんじゃないか?」
「過剰なんかじゃないだろう」
いつものペースを取り戻したアーチャーが、真正面からランサーの視線を受けとめる。
「君が、私に惚れているんだからな」
その顔に浮かぶのは不敵な笑み。ランサーは眩暈を覚えて額に手を当てた。
「っあー……。お前もうほんとそういうとこ」
今起きましたって感じの寝間着のくせに。普段誰にも見せないくらいに取り乱して飛び出してきたくせに。手のひらの下で笑みが零れた。ああ、なんて傲慢でかっこいいオレのアルファ。オレだけのアルファ。何があったって手放すものか!
「アーチャー」
何度も呼んできた名前が、特別な意味を帯びる。ずっとこの日を待っていた。会えなかった半年間だけじゃない。アーチャーに惹かれてからずっと、この日を待ち焦がれていた。やっとだ。これでやっと永遠を誓える。
「オレと結婚してくれ」
薔薇の花束はない。煌びやかな夜景もない。贅を凝らした結婚指輪もない。でも許してほしい。一秒でも早く会いたくて走ってきたのだ。何にもないから殴られるかもしれないと思った。甘んじて受けようという覚悟はある。この幸福の前では些細なことだ。ほらおいでと挑戦的に笑ってやると、間髪入れずにランサーの体を衝撃が襲った。前より痩せた脚でちょっぴりたたらを踏んでから、ようやくランサーはそれが愛しい人の抱擁だと気付くのだった。
ありがとうございます!!ハッピーエンドの形が好みすぎて本当に安堵と幸せが身に押し寄せてきます!ありがとうございます!!