ダンジョンの奥は、昼でも少し薄暗い。
湿った石壁。
天井から落ちる雫。
どこか遠くで風が抜ける音。
フリーレンはそういう場所が嫌いではなかった。
古いダンジョンには、たいてい古い魔導書か、どうでもいい民間魔法か、あるいはその両方が眠っているからだ。
その日も、通路の先に小部屋が見えた。
崩れかけた石の台座。
その上に、ひとつだけ宝箱が置かれている。
フリーレンの足が止まる。
フリーレン「……あるね」
声が少しだけ明るい。
フェルンはその後ろで、ため息をつきそうになった。
こういうときのフリーレンは、だいたい止まらない。
フェルン「ミミックです」
フリーレン「まだ分からないよ」
フェルン「分かります」
フリーレンは宝箱をじっと見た。
金具の位置。
蓋の歪み。
木目の出方。
たしかに、少し不自然だった。
でもそれだけではない。
フェルンは眉をひそめる。
フェルン「……今日は、やめておいたほうがいいと思います」
フリーレン「ミミックだから?」
フェルン「それもありますけど」
フリーレンは少しだけ首をかしげた。
フェルンの言い方が、いつもと少し違ったからだ。
フリーレン「じゃあ、何」
フェルンは宝箱を見たまま答えた。
フェルン「調子が悪そうです」
フリーレン「ミミックが?」
フェルン「はい」
フリーレンはそこで、もう一度宝箱を見た。
たしかに、化け方が少し甘い。
角のあたりの板の継ぎ目が、妙にたわんでいる。
金具の片方も、ほんの少しだけ下がっていた。
でも、それだけではないらしい。
フェルンは少しだけ言いにくそうに間を置いた。
フェルン「……匂いもしますし」
フリーレン「匂い」
フェルン「ええ」
フリーレンは鼻を利かせた。
湿気と、カビと、古い石の匂い。
その奥に、鉄のような、重いような、少し嫌な匂いが混じっている。
フリーレン「……ほんとだ」
フェルンは小さくうなずいた。
フェルン「たぶん、そういう日なんでしょう」
フリーレンは少し黙った。
宝箱のままじっとしているミミックも、少し黙っていた。
ダンジョンの小部屋に、妙な沈黙が落ちる。
フリーレン「ミミックにも、そういうのあるんだ」
フェルン「魔物ですから、あるものもいるのでは」
フリーレン「へえ」
それだけ言って、フリーレンは一歩前に出た。
フェルン「何をしているんですか」
フリーレン「ちょっとだけ」
フェルン「だめです」
フリーレン「でも、今日は弱ってるんでしょ」
フェルン「そういう問題ではありません」
フリーレンは宝箱の前まで歩いていく。
宝箱――に化けたミミックは、ぴくりとも動かない。
いつもなら、もっと露骨に罠の気配を出すのに、今日はそれすら鈍い。
フリーレンはしゃがみこんだ。
フェルン「フリーレン様」
フリーレン「うん」
フェルン「戻ってきてください」
フリーレン「少しだけ開けてみる」
フェルン「今日はやめてあげましょう」
その言い方が、少しだけいつもと違った。
ミミックに向けた言い方だった。
フリーレンは宝箱の金具に手をかけた。
その瞬間だった。
蓋が跳ねる。
歯の並んだ暗い口が開く。
いつもより勢いはない。
でも、ミミックはちゃんとミミックだった。
フリーレン「わ」
次の瞬間には、頭からがぶりといかれていた。
フェルンは片手で額を押さえた。
フェルン「だから言ったじゃないですか」
宝箱の形をした魔物が、ふらふらしたままフリーレンの頭を噛んでいる。
噛んでいるのに、どこか締まりがない。
たぶん本当に調子が悪いのだろう。
フリーレンのくぐもった声が、箱の中から聞こえる。
フリーレン「フェルン、これ、いつもより力ない」
フェルン「感想はいいです」
フリーレン「今ならいけるかも」
フェルン「何がですか」
フリーレン「勝てる」
フェルン「勝たなくていいです」
その間にも、ミミックはじたばたしている。
噛みついてはいるが、明らかに様子がおかしい。
宝箱の側面が少し脈打つみたいに揺れて、床に血のような色の滲みがほんの少しだけ落ちた。
フェルンは小さく息を吐いた。
フェルン「本当に、今日はそういう日なんですね」
フリーレン「何か言った?」
フェルン「いえ」
その直後、ミミックが最後の意地みたいに強く噛み込んだ。
フリーレン「いたっ」
そして次の瞬間、ミミックは吹き飛んでいた。
フリーレンが中から力ずくでこじ開けたのだ。
蓋が割れ、牙が砕け、宝箱の形が崩れていく。
弱っていたミミックは、それでほとんど終わった。
小部屋の床に、ぐったりした魔物が転がる。
フリーレンは髪をぼさぼさにしたまま出てきた。
頭に木片をつけたまま、少しだけ不満そうな顔をしている。
フリーレン「……噛んだね」
フェルン「噛みますよ。ミミックですから」
フリーレンは倒れたミミックを見下ろした。
魔物はもうほとんど動かない。
蓋の片方が、半分だけ開いたまま床に触れていた。
フリーレン「倒しちゃった」
フェルン「倒しましたね」
フリーレン「ちょっとかわいそうだったかも」
フェルンはそこで、ようやく前へ出た。
フェルン「そう思うなら、最初から開けなければよかったんです」
フリーレン「だって宝箱だったし」
フェルン「ミミックでした」
フリーレン「でも、今日は調子悪かったんでしょ」
フェルン「だから、今日はやめてあげましょうと言ったんです」
フェルンはフリーレンの外套の後ろを掴んだ。
引っ張る力は強くない。
でも、こういうときのフェルンは強い。
フリーレン「まだ中身あるかもしれないよ」
フェルン「ありません」
フリーレン「もしかしたら、民間魔法が」
フェルン「ありません」
フリーレン「もしかしたら、ミミックの体内で熟成された」
フェルン「もっとありません」
フェルンはそのまま、フリーレンを宝箱から引き剥がした。
引き剥がしながら、倒れたミミックを一度だけ振り返る。
フェルン「今日は、休んでいてください」
フリーレン「ミミックに言ってるの?」
フェルン「そうです」
フリーレンは少しだけ黙った。
フリーレン「フェルン、たまに変だよね」
フェルン「フリーレン様にだけは言われたくありません」
二人は小部屋を出る。
通路の先はまだ暗い。
ダンジョン探索は続く。
後ろでは、壊れた宝箱の姿をしたミミックが、もう動かなかった。
床に落ちた鉄っぽい匂いだけが、まだ少し残っている。
しばらく歩いてから、フリーレンが言った。
フリーレン「ミミックにも、そういう日があるんだね」
フェルン「あるのでしょうね」
フリーレン「じゃあ、宝箱を見つけたら、今度から少し匂いを嗅いでみようかな」
フェルン「やめてください」
フリーレン「どうして」
フェルン「いろいろと最低です」
フリーレンは少しだけ考えた。
でも、たぶんあまり分かっていない顔だった。
フリーレン「……まあ、今日は別の宝箱を探そう」
フェルンはまた小さくため息をついた。
フェルン「そうしてください」
ただ、少しだけ思った。
今日のフリーレンは、いつもよりほんの少しだけ、ミミックに優しかったかもしれない。
それが本当に優しさだったのか、ただ弱っている相手に興味を持っただけなのかは、よく分からない。
たぶん、そのどちらでもある。
ダンジョンの奥で、また風が抜ける音がした。
フリーレンは次の角を、もう少しだけ慎重に曲がった。
フェルンはその後ろから、いつもより少しだけ強く見張っていた。