魔族の要塞は、夜になると音が減る。
冷えた石壁のあいだを風が抜ける音と、魔力の灯りが小さく揺れる気配だけが残る。
玉座の間も同じだった。
高い椅子に腰を下ろしたアウラが、片肘をついて退屈そうにしている。
その足元では、リーニエが壁際の影を見ていた。
何もないはずの場所を、じっと。
気配もなく、もう一人いた。
窓辺に寄りかかるように立つソリテールは、外の闇よりも静かだった。
最初に口を開いたのは、リーニエだった。
リーニエ「アウラ様」
アウラ「何よ」
リーニエ「人間って、変」
アウラは少しだけ目を細めた。
リーニエがこういう言い方をするときは、大抵、人間を見て何か覚えてきたときだ。
アウラ「今さらね」
リーニエ「今日見たの。村の女が、朝は動きが遅かった。顔色も悪かった。でも傷はなかった」
アウラは興味なさそうに爪先を見たまま言う。
アウラ「病気じゃないの」
リーニエ「違うと思う。血の匂いがした。でも、隠してた」
そこで、窓辺のソリテールが小さく笑った。
ソリテール「そういう話か」
アウラが視線だけを向ける。
アウラ「知っているの?」
ソリテール「少しはね。人間の雌には、そういう日があるのよ」
アウラ「そういう日?」
ソリテールは窓の外を見たまま答えた。
ソリテール「定期的に血を流す日だよ。怪我とは少し違う。本人たちは、あまり人に知られたがらないみたいだけど」
アウラはそこでようやく、少しだけ興味を持ったようだった。
アウラ「へえ」
その短い声には、好奇心より先に軽蔑が混じっていた。
アウラ「くだらないわね。勝手に弱る日があるなんて」
リーニエは首をかしげた。
リーニエ「じゃあ、その日は殺しやすいんだね」
アウラは笑った。
乾いた、薄い笑いだった。
アウラ「そういうことでしょうね。人間なんて、ただでさえ脆いのに」
ソリテールはすぐには頷かなかった。
少し考えるみたいに、指先で窓枠をなぞる。
ソリテール「単純ではないと思うよ」
アウラ「何が」
ソリテール「弱る個体もいれば、平気な顔をする個体もいる。隠すのが上手いものもいるし、逆にそれで苛立っているものもいる」
アウラは鼻で笑った。
アウラ「ますますくだらないじゃない」
ソリテール「そうかな」
ようやくこちらを向いたソリテールの目は、穏やかだった。
穏やかで、そのまま遠かった。
ソリテール「私は、そういうところは少し面白いと思うけど」
アウラ「面白い?」
ソリテール「自分の体の都合で弱っているのに、隠そうとするところとかね」
リーニエは小さく瞬いた。
リーニエ「さっきの女も隠してた」
ソリテール「でしょう。人間はああいうことを、弱みとして持ち歩くの」
アウラは頬杖をついたまま、少しだけ目を細めた。
アウラ「弱みなら、利用すればいいだけよ」
ソリテール「そういう発想になると思った」
アウラ「実際そうでしょう。痛い。気分が悪い。動きが鈍る。十分じゃない」
リーニエはそこで、昼間に見た村娘の動きを思い出していた。
井戸のつるべを引く手が、一度だけ止まったこと。
布を持ち上げるときに、ほんの少し顔をしかめたこと。
それでも、誰かに呼ばれたら何事もないみたいに振り向いたこと。
リーニエ「でも、あの女、普通に歩いてた」
アウラ「だから何よ」
リーニエ「痛いなら、寝ればいいのに」
アウラは答えなかった。
代わりに、ソリテールが口元だけで笑った。
ソリテール「そこが人間なんだろうね」
アウラ「理解できないわね」
ソリテール「理解する必要はないよ。ただ、知っておくと便利かもしれない」
アウラの目が少しだけ鋭くなる。
アウラ「襲う日を選ぶ、という意味で?」
ソリテール「それもある」
ソリテールは言葉を切った。
玉座の間に風の音だけが残る。
ソリテール「でも、もっと面白いのは、そのことを知られていると気づいたときの顔じゃないかな」
リーニエはまた首をかしげた。
リーニエ「顔」
ソリテール「そう。人間は、自分が隠していることを見抜かれるのを嫌うから」
アウラはそこで少しだけ笑った。
今度はさっきより、はっきりと楽しそうだった。
アウラ「なるほどね」
その一言で十分だった。
リーニエにも、アウラが何を想像したのか分かる。
剣を向けるより先に。
魔法を見せるより先に。
痛みや気分の悪さを、隠していた相手の耳元で指摘する。
それだけで人間は乱れるかもしれない。
リーニエ「人間って、面倒」
ソリテール「面倒だね」
アウラ「脆いだけよ」
ソリテールは否定しなかった。
ただ、少し違うものを見るような顔をした。
ソリテール「脆いものほど、観察しがいがある」
アウラ「趣味が悪いわね」
ソリテール「魔族に言われると、少し困るかな」
アウラはそれには答えず、玉座の背にもたれた。
アウラ「で、その『そういう日』は、どう見分けるの」
リーニエが先に答えた。
リーニエ「歩き方。呼吸。匂い」
アウラは薄く笑う。
アウラ「使えるじゃない」
リーニエ「真似もできるかも」
アウラ「何を」
リーニエ「痛そうな歩き方」
アウラは一瞬だけ黙って、それから呆れたように言った。
アウラ「そんな真似をしてどうするのよ」
リーニエ「村に混ざるなら、便利かな」
ソリテールが少しだけ感心したみたいに目を細める。
ソリテール「いい視点だね」
アウラは玉座の上で脚を組み直した。
アウラ「人間の真似なんて、趣味じゃないわ」
リーニエ「でも、殺す前に混ざるなら」
アウラ「やるならあなたがやればいいじゃない?」
リーニエ「うん」
あっさりと頷く。
その素直さに、アウラは少しだけ笑った。
ソリテールは窓辺から離れた。
灯りの届くところへ一歩だけ出る。
ソリテール「人間は、体の中で起きていることにずいぶん振り回される」
アウラ「欠陥ね」
ソリテール「そうかもしれない」
リーニエ「じゃあ、戦ってるときも?」
ソリテール「たぶんね。だから隠すんでしょう。見せたくないんだ」
アウラはそこで、わずかに口角を上げた。
アウラ「なら、見えてしまえば終わりじゃない」
その言い方は静かだった。
静かなぶんだけ、よく冷えていた。
リーニエは壁際から一歩出た。
リーニエ「人間の女だけ?」
ソリテール「そうらしいね」
リーニエ「面白い」
アウラ「そう?」
リーニエ「だって、死ぬわけじゃないのに、弱るなんて」
アウラは少しだけ考えてから、興味をなくしたように視線を落とした。
アウラ「やっぱり人間は無駄が多いわ」
ソリテール「無駄だから、見ていて飽きないのかもしれない」
誰もすぐには返さなかった。
玉座の間の灯りが、また小さく揺れた。
その揺れに合わせて、三人の影が少しだけ伸びる。
アウラはその影を眺めながら、もう一度だけ言った。
アウラ「くだらない話だったわ」
ソリテール「でも、覚えてはおくんでしょう?」
アウラは答えない。
答えないことが答えだった。
リーニエはぼんやりと、自分の手を見る。
剣を握る真似。
布を運ぶ真似。
痛みを隠して歩く真似。
どれも、人間の真似だった。
ソリテールはそんなリーニエを横目で見て、静かに笑う。
ソリテール「人間は本当に不思議だね」
アウラ「研究でもする気?」
ソリテール「するかもしれない」
アウラ「好きにしたらいいじゃない」
ソリテールは頷いた。
そして、まるで今思いついたことを確かめるみたいに、ゆっくり言った。
ソリテール「痛みそのものより、隠そうとする意識のほうが、よほど人間らしい」
リーニエ「人間らしい」
ソリテール「うん」
アウラは最後まで、その言葉に興味を示さなかった。
でも、その夜のどこかで、人間の村を襲う日の選び方を少し変えたかもしれない。
誰も確かめない。
確かめる必要もない。
冷えた玉座の間で、三人の大魔族はそれぞれ違うものを見ていた。
アウラは、使える弱みとして。
リーニエは、真似できる癖として。
ソリテールは、隠されることで輪郭を持つ、人間らしさの一つとして。
灯りが揺れる。
風が抜ける。
石の部屋の中で、誰もその話を大したことだとは思っていない。
だからこそ、その話はよく冷えていた。