大陸魔法協会の廊下は、冬になると少し冷える。
石造りだから仕方ない。
暖炉から遠い場所ほど、足元に冷たさが残る。
その冷えた廊下を、メトーデは静かに歩いていた。
今日は、可愛い子たちの様子が少しおかしい。
歩幅が狭い。
返事が遅い。
座るとき、立つとき、ほんの少しだけ呼吸が浅い。
よく見なければ分からない程度の違いだった。
けれどメトーデは、そういう違いを見落とさない。
そういう日なのだと、すぐに分かった。
最初に見つけたのはフリーレンだった。
待合の長椅子に座って、魔導書を膝に載せたまま、珍しくページをめくっていない。
メトーデは足音を消したまま近づいた。
近づいてから、ようやく声をかける。
メトーデ「フリーレンさん」
フリーレンは顔だけ上げた。
いつもより少しだけ目が重い。
フリーレン「……まあね」
それだけだった。
メトーデは隣に腰を下ろした。
少しだけ顔をのぞき込む。
メトーデ「今日は、いつもより可愛いですね」
フリーレン「それ、たぶん褒めてないよね」
メトーデ「褒めていますよ」
フリーレンは面倒そうに視線を逸らした。
その首筋に、疲れた日のゆるさがある。
メトーデはそこで、いつものように聞く。
メトーデ「なでなでしてもいいですか?」
フリーレン「今日はやめて」
返事は早かった。
メトーデ「では、ぎゅっとするのは」
フリーレン「もっとだめ」
メトーデは少しだけ残念そうに黙った。
その沈黙が長い。
フリーレン「……何」
メトーデ「いえ。今日は我慢できるか考えていました」
フリーレンはそこで、少しだけ嫌そうな顔をした。
フリーレン「できないの?」
メトーデ「なるべくします」
フリーレン「不安になる言い方やめて」
ようやくメトーデは立ち上がった。
でも、そのまま去らない。
メトーデ「温かいものなら、飲みますか?」
フリーレンは一瞬だけ考えて、それから短くうなずいた。
フリーレン「それなら」
メトーデ「分かりました」
そう言って離れる。
けれど、去り際まで視線だけは残っているような気がした。
フリーレンは小さく息を吐いた。
断ったはずなのに、まだ少し近い気配が廊下に残っている。
資料室にはエーデルがいた。
分厚い本を机に積んで、杖の柄に額を預けるようにして座っている。
あのエーデルが本に集中していない。
それだけで、だいぶ珍しい。
メトーデは机の向かいに立った。
メトーデ「エーデルさん」
エーデル「おお、メトーデか。今日はあまり大きい声を出させんでくれ」
メトーデ「やっぱり、少しおつらいんですね」
エーデルは片目だけ開けた。
エーデル「……よく見ておるのう」
メトーデは答えない。
答えずに、じっと見ている。
その視線は柔らかい。
柔らかいのに、どこにも逃げ道がない。
エーデル「何じゃ」
メトーデ「なでなでしてもいいですか?」
エーデル「だめじゃ」
即答だった。
メトーデ「では、抱きしめるのは」
エーデル「もっとだめじゃ」
言い切ったあとで、少しだけ顔をしかめる。
たぶん、それだけでも腹にひびいたのだろう。
メトーデはその変化を見逃さなかった。
メトーデ「無理をして怒る顔も可愛いですね」
エーデル「おぬし、今日はいつにも増して気味が悪いのう……」
メトーデは少し考えた。
メトーデ「今日は近づかないほうがいい、ということは、頭では分かっています」
エーデル「頭では、とな」
メトーデ「はい」
エーデル「では、身体にも覚えさせるんじゃな」
メトーデは少しだけ微笑んだ。
普段と同じ微笑みなのに、今日のエーデルには妙に圧が強く見えた。
メトーデ「温かいものなら」
エーデル「……それは少しありがたいのう」
言い終えてから、エーデルは少しだけ後悔した。
受け入れる口実を与えると、この女はそこに静かに居座る。
追い払えない形で、いつの間にか隣にいる。
メトーデは、もう次の段取りを考えている顔をしていた。
ゼンゼは廊下の突き当たりに立っていた。
いつも通り、表情はほとんど動かない。
髪も整っている。
姿だけ見れば、何も変わらない。
でも、メトーデには分かった。
立ち方がいつもよりわずかに浅い。
重心を決めきれていない。
メトーデ「ゼンゼさん」
ゼンゼ「何だ」
メトーデ「今日は少し、機嫌が悪いですね」
ゼンゼ「いつも通りだよ」
メトーデ「そうでしょうか」
ゼンゼは少しだけ目を細めた。
メトーデの目が、もうほとんど確信している目だからだ。
ゼンゼ「言っておくが、私は平和主義者だ。今日は特に、余計な刺激を好まない」
メトーデ「なでなでもですか?」
ゼンゼ「論外だ」
メトーデ「では、後ろからそっと抱きしめるのは」
ゼンゼ「なお悪い」
ゼンゼの髪が、かすかに揺れた。
攻撃するほどではない。
でも、警告としては十分だった。
メトーデはその揺れを見て、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
メトーデ「今日はいつもより反応が鋭いですね」
ゼンゼ「君が余計なことを言うからだ」
メトーデ「でも、逃げませんでした」
ゼンゼ「ここは私の職場だ。いちいち逃げるほどでもない」
メトーデ「そうですか」
少し間が空く。
ゼンゼはその沈黙を嫌ったらしく、先に言った。
ゼンゼ「……温かいお茶なら、否定しない」
メトーデ「分かりました」
ゼンゼ「返事が早いね」
メトーデ「みなさん、同じことを言いますから」
ゼンゼ「君が同じことを聞いて回っているからだろう」
ゼンゼは表情を変えなかった。
けれど内心では、少しだけぞっとしていた。
この女は断られたことを、引き下がる理由にしない。
ただ方法を変えるだけだ。
近づけないなら、待つ。
触れられないなら、別の理由でそこにいる。
そうやって距離を残したまま、視線だけで詰めてくる。
今日のメトーデは、いつもより静かだった。
静かな分だけ、余計に嫌だった。
剣の里の里長が協会を訪れていたのは、昼を少し回った頃だった。
小柄な体に、きちんとした姿勢。
少女の見た目のまま、でも里の長として人前に座るときの筋は通っている。
その人が、応接用の椅子にちょこんと座っていた。
ただ、今日は背筋が少しだけ頼りない。
メトーデ「里長さん」
里長は顔を上げた。
いつものように、きちんと微笑もうとする。
でも、その笑みは途中で少しだけ崩れて、そのまま小さく会釈に変わった。
メトーデは何も聞かなかった。
聞かずに、その前に立つ。
里長は不思議そうに見上げた。
見上げたまま、次に何を言われるのか身構えた顔になった。
その身構え方が、メトーデにはよく分かった。
小さくて可愛い子は、追い詰められるときに肩が少し上がる。
視線が逃げる前に、一度だけ正面を見ようとする。
メトーデ「今日は、触らないでおきます」
里長は一瞬だけ目を丸くした。
メトーデ「その代わり、温かいものを持ってきます」
里長は少しだけ黙ったあと、ほっとしたように肩を抜いた。
それから、いつもより小さな声で言う。
里長「……助かります」
メトーデはそこで初めて、ほんの少しだけ自分が正解した気になった。
それでも、残念な気持ちは消えない。
今の里長なら、たぶん簡単に抱き寄せられる。
そう思ってしまった自分を、メトーデは丁寧に奥へ押し込めた。
今日は我慢する日だ。
少なくとも、そういうことにしておく。
夕方、メトーデは両手に盆を持っていた。
薬草茶を四つ。
それから、協会の台所で借りた湯たんぽを二つ。
ついでに、少し甘い焼き菓子も。
最初に長椅子のフリーレンの前へ置く。
フリーレン「……今日は触らないんだ」
メトーデ「触りたいですけど」
フリーレン「そうだろうね」
メトーデ「でも、今日はこっちのほうが必要そうなので」
フリーレンは薬草茶を見て、それから小さくうなずいた。
フリーレン「そうだね」
次に資料室のエーデル。
その次にゼンゼ。
応接室の里長には、茶と湯たんぽをそっと置く。
里長は湯たんぽを抱えて、ほっとしたように肩を抜いた。
ゼンゼは礼も言わずに茶を受け取ったが、断りもしなかった。
エーデルは「ようやく分かってきたのう」と、少し年寄りくさく笑った。
最後に残った盆を持って、メトーデはゼーリエの部屋の前へ行った。
扉は半分開いている。
中では、ゼーリエが書類に目を通していた。
ゼーリエ「何だ」
メトーデ「お茶です」
ゼーリエはそこでようやく顔を上げた。
盆と、その上の湯気を見る。
それからメトーデの顔を見る。
ゼーリエ「……お前が持ってきたのか」
メトーデ「はい」
ゼーリエ「気味が悪いな」
メトーデは少しだけ首をかしげた。
メトーデ「今日は、たぶんこちらのほうが良いかと」
ゼーリエは黙った。
その沈黙は否定ではなかった。
メトーデは机の端に盆を置く。
メトーデ「今日はお茶だけにしておきます」
ゼーリエ「最初からそうしていればいい」
メトーデは少し迷ってから、それでも聞いた。
メトーデ「では、別の日なら」
ゼーリエ「くだらん」
短く切られた。
それだけだった。
でも、茶は追い返されなかった。
メトーデは一歩下がった。
それでも、まだ少しだけ部屋にいた。
ゼーリエ「まだ何かあるのか」
メトーデ「いえ。ただ、今日はみなさん少し可愛いので」
ゼーリエ「失せろ」
メトーデはようやく部屋を出た。
扉が閉まる寸前、ゼーリエが茶碗に手を伸ばすのが見えた。
あのゼーリエでさえ、今日は少しだけ手つきが遅い。
それが、妙に印象に残った。
夜の廊下は、昼より少しだけ暖かかった。
長椅子のフリーレンは、薬草茶を飲みきってから眠そうに目を閉じた。
エーデルは焼き菓子を半分だけ食べて、残りを紙に包んだ。
ゼンゼは湯気の向こうで相変わらず無表情だったが、昼よりは機嫌がましそうだった。
里長は湯たんぽを抱えたまま、帰りの馬車まで少し休んでいる。
メトーデはその様子を順番に見て、ひとつ息をついた。
小っちゃくて可愛い子は、やっぱり可愛い。
弱っている日は、なおさらだ。
しかも、今日は逃げない。
逃げる元気がない。
それが、よくない。
メトーデはそこで、少しだけ危ないことを考えた。
今なら、たぶん近づける。
今なら、たぶん抱きしめても、いつもより抵抗は弱い。
フリーレンも、エーデルも、ゼンゼも、里長も。
触れたらどうなるだろう。
怒るだろうか。
困るだろうか。
少しだけ、許してしまうだろうか。
考えるだけで、指先がうずく。
盆を持っていたときより、ずっとはっきりとうずく。
そのとき、長椅子で目を閉じたまま、フリーレンが言った。
フリーレン「メトーデ」
メトーデ「はい」
フリーレン「今、よくないこと考えたでしょ」
メトーデは少しだけ黙った。
それから、素直に答えた。
メトーデ「少しだけ」
フリーレン「今日はだめ」
メトーデ「……はい」
返事はした。
でも、目はまだ離れていない。
エーデルが向こうでため息をついた。
エーデル「やはり、完全には学んでおらんのう」
ゼンゼ「今日はお茶だけ、という言葉が、いちばん信用ならない」
里長は湯たんぽを抱えたまま、小さく身を縮めた。
その仕草を見て、メトーデはまた少しだけ胸の奥が熱くなる。
だめだと分かっている。
だからこそ、余計によく見える。
廊下の先の扉の向こうでは、たぶんゼーリエがまだ起きている。
もし今ここへ出てきたら、真っ先に斬るような目を向けてくるだろう。
それでも、メトーデの中にあるものは、そこで消えたりしない。
今日は我慢する。
たぶん。
なるべく。
その「なるべく」が、いちばん怖いのだと、そこにいる全員がもう分かっていた。
廊下の窓に、夜の闇が映っている。
その中で、メトーデだけがいつも通り穏やかな顔をしていた。
誰がどこに座っているか。
誰がどれくらい弱っているか。
誰が今なら逃げられないか。
穏やかな顔のまま、可愛い子たちの位置を、一人ずつ目で確かめていた。