宿の二階の部屋は、夜になると少しだけ狭く感じる。
古い床板は歩くたびに小さく鳴るし、窓の外はもう暗い。
街灯の灯りが細く差し込んで、机の上に置かれた水差しの影を長くしていた。
フリーレンはまだ戻っていなかった。
夕方から古書店と魔導具屋をはしごすると言って出ていったきりだ。
こういうときのフリーレンは長い。
部屋の中には、フェルンとシュタルクだけがいた。
フェルンは自分の寝台の端に座っていた。
外套は脱いだ。
でも楽にはならない。
朝からずっと下腹が重い。
腰の奥も鈍く痛む。
街道を歩いているときから、ずっとそうだった。
今日はそういう日だった。
痛み止め代わりのお茶は飲んだ。
それでもだめな日は、だめだ。
シュタルクはさっきから落ち着かない。
椅子に座ったり立ったり、窓の外を見たり、水を飲んだりしている。
フェルンはそれを横目で見ていた。
何か言いたいのだろう。
それは分かる。
最近のシュタルクは、そういう顔をたまにする。
何か言おうとして、結局言えなくて、別の話を始める顔だ。
今夜はたぶん、それを言うつもりだった。
それも、フェルンには分かっていた。
分かっていたから、余計に困っていた。
嫌ではない。
むしろ、その逆だ。
けれど、今日だけは無理だった。
体も、気分も、何もかもが、少しずつ噛み合っていない。
シュタルクが、ようやく口を開いた。
シュタルク「フェルン」
フェルン「何ですか」
シュタルク「……あのさ」
それきり、少し止まる。
フェルンは視線を上げた。
シュタルクは真っ直ぐこっちを見ていた。
でも、その真っ直ぐさの半分くらいは、今にも逃げそうだった。
シュタルク「今日、ずっと言おうと思ってたことがあって」
フェルンは何も言わなかった。
言えば、その先がもっと進んでしまう気がした。
シュタルクが一歩近づく。
寝台の脇まで来て、少しだけ身を屈めた。
フェルンの肩に、そっと手が触れる。
その瞬間、フェルンの心臓が跳ねた。
痛みとは別の理由で、息が浅くなる。
シュタルクはたぶん、いつものように勢いで動いているわけではなかった。
ちゃんと考えて、それでも勇気を出して、ここまで来たのだ。
だからこそ、止めるのが苦しかった。
フェルン「シュタルク様……」
シュタルク「うん」
フェルン「今は、だめです」
手が止まった。
シュタルクの顔が、そこで固まる。
ほんの少しだけ前に出ていた体が、ぎこちなく戻った。
シュタルク「……え」
フェルンは視線を逸らした。
フェルン「今は、だめです」
それ以上、うまく言えなかった。
本当は、今じゃなければ嫌ではない。
本当は、そういうことではない。
本当は、今日だけがだめなのだ。
でも、そこまで言うのはあまりに恥ずかしかった。
シュタルクは手を離した。
離して、二歩くらい下がった。
さっきまで前に出ていた気配が、今度は急に遠くなる。
シュタルク「……悪い」
フェルン「ちがいます」
シュタルク「いや、俺、なんか……」
フェルン「ちがいます」
それしか言えない。
でも、その先が出てこない。
シュタルクは困った顔をした。
困ったときの、あの顔だ。
魔物と戦うときではなく、人と向き合うときにだけ出る顔。
そのまま自分の寝台に座る。
背中が少し丸い。
フェルンは唇を結んだ。
言わなければいけない。
でも、言いたくない。
言えば、きっと気まずい。
変に気を遣われるのも嫌だった。
部屋の中に、沈黙が落ちる。
古い宿だから、静かだと余計な音が目立つ。
廊下を誰かが歩く音。
風が窓を撫でる音。
水差しの中で水が揺れる気配。
そのとき、廊下から足音が近づいてきた。
床板が一枚ずつ鳴る。
聞き慣れた、軽いようでいて妙に迷いのない足音だ。
扉が開いた。
フリーレン「ただいま」
紙袋を一つ抱えていた。
古びた装丁の魔導書が少しだけのぞいている。
フリーレンは部屋に入るなり、立ち止まった。
フェルンとシュタルクを見た。
寝台と寝台のあいだにある、妙な距離も見た。
フリーレン「……なんか静かだね」
シュタルクがぴくっと肩を揺らす。
フェルンは何も言わなかった。
フリーレンは少しだけ首をかしげた。
フリーレン「喧嘩したの?」
フェルン「していません」
シュタルク「してない」
答える速さだけは揃っていた。
フリーレン「ふーん」
そう言って紙袋を机に置く。
それからフェルンのほうを見て、少しだけ目を細めた。
フリーレン「フェルン、顔色悪いね」
フェルン「少しだけです」
フリーレン「そう」
それ以上は聞かなかった。
聞かないまま、自分の寝台へ行って、靴を脱ぐ。
フリーレン「私はもう寝るから、静かにしてね」
フェルン「はい」
シュタルク「お、おう」
フリーレンは毛布をかぶる前に、もう一度だけこちらを見た。
フリーレン「あ、机の上にあるやつ、飲んでいいよ。下で温かいのもらったから」
いつの間にか、小さな陶器の瓶が置かれていた。
たぶん薬草を煮出した湯だ。
フェルンは目を瞬いた。
フリーレンはそれ以上何も言わない。
言わずに、そのまま毛布をかぶった。
ほどなくして、小さな寝息が聞こえ始める。
部屋の空気が、少しだけ変わった。
シュタルクはしばらく黙っていた。
それから、声を抑えて言った。
シュタルク「フェルン」
フェルン「……何ですか」
シュタルク「さっきの」
フェルンは身構えた。
でも、シュタルクの声は思ったより静かだった。
シュタルク「嫌だったなら、悪い」
フェルンはすぐには答えられなかった。
嫌ではない。
それは本当だ。
けれど、そこだけ言うのも違う気がした。
フェルン「嫌ではありません」
シュタルクの肩が、少しだけ動いた。
たぶん、息をしたのだ。
シュタルク「……そっか」
フェルン「ただ」
その先で詰まる。
言いたくない。
でも、何も言わなければ、たぶんシュタルクは余計なことを考える。
フェルンは毛布の端を指先でつまんだ。
フェルン「今日は、その」
シュタルク「うん」
フェルン「体調が、あまりよくなくて」
シュタルクは黙った。
分かったのか、分からないのか、少し見えにくい顔だった。
けれど、変に聞き返してはこなかった。
シュタルク「……そっか」
もう一度、同じことを言った。
でも今度は、さっきよりずっとやわらかかった。
シュタルク「じゃあ、また今度でいい」
フェルンは顔を上げた。
シュタルクはこっちを見ていなかった。
床を見ていた。
見ていないくせに、逃げてもいなかった。
シュタルク「その、今日じゃなくて、フェルンが元気なときに」
フェルンは少しだけ黙った。
「また今度」が、先送りの言葉に聞こえなかった。
待つ、という意味で言っているのが分かった。
それが、少しだけうれしかった。
フェルン「……はい」
シュタルクはその返事を聞いて、ようやく小さく息を吐いた。
それから立ち上がる。
フェルンが何か言う前に、机のところへ行って、フリーレンが置いていった瓶を手に取った。
シュタルク「これ、飲むか?」
フェルン「……いただきます」
シュタルクは瓶を持ってきた。
その手つきは、戦斧を持つときよりずっと危なっかしい。
フェルンは受け取って、一口飲んだ。
少し苦い。
でも、体の奥に落ちていく熱は悪くなかった。
シュタルク「うまい?」
フェルン「おいしくはないです」
シュタルク「そっか」
フェルン「でも、温かいです」
シュタルクは少しだけ笑った。
それを見て、フェルンも少しだけ力を抜いた。
フリーレンの寝息は相変わらず規則正しい。
窓の外は暗いままだ。
宿の古い床は、誰も歩かなくなって静かになった。
シュタルクは自分の寝台に戻る前に、少しだけ迷って、それから言った。
シュタルク「フェルン」
フェルン「何ですか」
シュタルク「明日、まだしんどかったら言えよ」
フェルンは瓶を持ったまま、少しだけ目を伏せた。
言えるかどうかは分からない。
たぶん、そういうことを口に出すのは、明日になっても恥ずかしい。
けれど、今はその曖昧さのままでよかった。
フェルン「……善処します」
シュタルク「何だよ、それ」
シュタルクはまた少し笑った。
今度の笑い方は、さっきより自然だった。
寝台に入って、毛布をかぶる。
フェルンも瓶を机に戻して、横になる。
まだ痛みはある。
今日が嫌な日であることも変わらない。
でも、さっきまで部屋を満たしていた重い沈黙は、もう少しだけ別のものに変わっていた。
今日じゃなければ。
その言葉だけが、小さく残る。
今はまだだめでも、そこで終わりではない。
たぶん、そういう夜だった。