オイサーストの午後は、人が多い。
石畳の大通りを、買い物帰りの人や、魔法道具の包みを抱えた学生たちが行き交っていた。
風は冷たいのに、陽は明るい。
冬の終わりみたいな、落ち着かない空気だった。
ラヴィーネは、布屋の前で足を止めた。
ほんの一瞬だけ。
けれど、その一瞬が、隣を歩いていたカンネには分かったらしい。
カンネ「ラヴィーネ?」
ラヴィーネ「……何でもねえよ」
そう言ってまた歩き出す。
でも、さっきまでより少しだけ遅い。
カンネはすぐには何も言わなかった。
その代わり、歩幅を合わせた。
そういう察しの良さだけは、昔から地味に腹が立つ。
二人は学校帰りだった。
今日は寄り道して、文具屋をのぞいて、菓子屋の前で新しい焼き菓子の話をして、それから布屋でリボンでも見よう、というだけの、何でもない日だった。
何でもないはずだった。
ラヴィーネは通りの先を見たまま、小さく息を吐いた。
下腹が重い。腰も重い。
朝からずっとそうだ。
出かける前から分かっていたのに、外に出れば少しはましになる気がしていた。
まったく、ならなかった。
カンネ「座る?」
ラヴィーネ「は?」
カンネ「今の顔、だいぶそういう顔」
ラヴィーネは眉を寄せた。
ラヴィーネ「お前、たまに失礼だよな」
カンネ「たまにじゃないって言いたいんでしょ」
ラヴィーネ「分かってるなら直せ」
カンネは少し笑っただけで、また前を向いた。
ちょうど通りの脇に、小さな広場がある。
中央に浅い水盤。まわりに低い縁石。
夏なら子どもが寄ってくる場所だけど、今日は人もまばらだった。
ラヴィーネは何も言わず、先にそちらへ曲がった。
カンネも黙ってついてくる。
縁石に腰を下ろすと、それだけで少し楽になった。
立っているだけでも腹が痛かったらしい、とそこで初めて分かる。
カンネは隣に座って、少しだけ顔をのぞき込んできた。
カンネ「で、ラヴィーネ。ほんとは何でもなくないでしょ」
ラヴィーネ「うるせえ」
カンネ「当たり?」
ラヴィーネ「……声に出すな」
カンネは一拍置いて、ああ、と小さく言った。
カンネ「ごめん」
ラヴィーネ「分かったならそれでいい」
カンネ「重いの?」
ラヴィーネは返事をしなかった。
しなかったけれど、その沈黙でだいたい伝わったらしい。
カンネは立ち上がった。
ラヴィーネ「どこ行く」
カンネ「すぐそこ」
ラヴィーネ「勝手に消えんなよ」
カンネ「消えないって」
カンネは広場の向かいにある屋台へ走っていった。
戻ってきたときには、湯気の立つ紙コップを二つ持っていた。
ひとつをラヴィーネの手に押しつける。
ラヴィーネ「……何だこれ」
カンネ「しょうが湯」
ラヴィーネ「お前、こういうときだけ妙に気が利くな」
カンネ「こういうときしか利かないみたいな言い方やめて」
ラヴィーネは受け取った。
コップの熱が手にしみる。
飲む前から、少しだけましな気がした。
しばらく二人で黙って湯気を見ていた。
広場の向こうを、買い物袋を持った婦人が通っていく。
鐘楼のあたりで鳥が鳴いた。
ラヴィーネ「……街まで出てきたの失敗だったな」
カンネ「でも、部屋でじっとしてるのも嫌だったんでしょ」
ラヴィーネはコップを持ったまま、カンネを見た。
ラヴィーネ「何で分かる」
カンネ「ラヴィーネだもん」
言い方が気に入らなくて、睨もうとした。
でも今日は、それをする元気すら少し足りない。
カンネ「布屋、また今度にしよっか」
ラヴィーネ「母親に頼まれてんだよ」
カンネ「今日じゃなきゃ駄目?」
ラヴィーネ「明日でもいい」
カンネ「じゃあ明日」
ラヴィーネ「髪紐も見たかった」
カンネ「それも明日」
ラヴィーネ「お前、全部明日にする気か」
カンネ「今日はそういう日でしょ」
ラヴィーネはコップの縁を見たまま、少しだけ笑った。
笑ったせいで腹が引きつって、すぐに顔をしかめる。
カンネ「ほら、無理して笑うから」
ラヴィーネ「お前のせいだろ」
カンネ「それはそうかも」
ラヴィーネはもう一口しょうが湯を飲んだ。
甘くて、少し辛い。
今は、その曖昧な味がちょうどよかった。
カンネは横目でラヴィーネを見たあと、ふいに視線を外した。
何か考えている顔だった。
ラヴィーネ「何だよ」
カンネ「いや」
ラヴィーネ「いや、じゃねえだろ」
カンネ「怒る?」
ラヴィーネ「内容による」
カンネは少しだけ口元をゆるめた。
いつもの、ろくでもないことを思いついた顔だ。
カンネ「じゃあラヴィーネちゃん。 なでなでしてあげよっか?」
ラヴィーネは思わず顔を上げた。
広場の真ん中。
昼下がり。
人通りもゼロじゃない。
ラヴィーネ「……馬鹿か、お前」
カンネ「うん」
ラヴィーネ「即答すんな」
カンネ「でも、ちょっと元気出るかなって」
ラヴィーネは呆れて、言葉がすぐ出てこなかった。
こういうところだ。
ふざけているのか本気なのか、ぎりぎり分からない線で来る。
カンネは続けた。
カンネ「ラヴィーネちゃん、今すごい嫌そうな顔してる」
ラヴィーネ「実際嫌だ」
カンネ「じゃあやめる?」
ラヴィーネ「……」
カンネ「あ、ちょっと迷った」
ラヴィーネ「うるせえ」
カンネは吹き出した。
ラヴィーネは視線を逸らしたまま、少しだけ肩を落とす。
本当に嫌なら、すぐ怒鳴れたはずだった。
今日はそれができない。
できないのが悔しい。
ラヴィーネ「……外だぞ」
カンネ「うん」
ラヴィーネ「人いるだろ」
カンネ「いるね」
ラヴィーネ「……短くしろ」
カンネ「やるんだ」
ラヴィーネ「今さら引くな」
カンネは笑いをこらえるみたいな顔をして、それからラヴィーネの頭に手を乗せた。
最初のひと撫では少しぎこちない。
すぐにラヴィーネが言う。
ラヴィーネ「下手くそ」
カンネ「ええっ」
ラヴィーネ「もっとちゃんとやれ」
カンネ「注文多いなあ」
ラヴィーネ「お前が言い出したんだろ」
カンネ「はいはい」
二度目は少しましだった。
ラヴィーネは目を閉じた。
石の冷たさ。
風。
広場の水の匂い。
頭の上の手だけが、そこから少し浮いているみたいだった。
ラヴィーネ「……今日、ほんと最悪なんだよ」
カンネ「見れば分かる」
ラヴィーネ「腹痛いし、だるいし、何か全部うざい」
カンネ「うん」
ラヴィーネ「お前もそのうちの一つ」
カンネ「ひど」
ラヴィーネ「でも、今いなくなるのはもっとむかつく」
カンネは少しだけ黙った。
それから、撫でる手を止めないまま答えた。
カンネ「じゃあ、いなくならない」
ラヴィーネは目を開けた。
真正面から言われると、どう返していいか分からない。
ラヴィーネ「……軽いんだよ」
カンネ「でも本気」
ラヴィーネ「そういうとこがむかつく」
カンネ「知ってる」
ラヴィーネはまた少し黙った。
学校で会うときの二人は、もっと騒がしい。
氷だの水だの、どうでもいいことで張り合って、どっちが先に一人前になるかで揉めて、教師にまとめて怒られる。
でも今日は、そういう日じゃなかった。
ただの帰り道で、ただの広場で、ただ重いだけの日だった。
カンネ「ラヴィーネ」
ラヴィーネ「何だよ」
カンネ「もう少し休んだら、帰ろ」
ラヴィーネ「子ども扱いすんな」
カンネ「じゃあ、途中まで一緒に帰る」
ラヴィーネ「最初からそう言え」
カンネ「じゃあ今日は、私がちゃんとついてくよ。ラヴィーネちゃん」
ラヴィーネは薄く目を開けた。
ラヴィーネ「……何だそれ」
カンネ「何って?」
ラヴィーネ「言い方が妙に気取ってる」
カンネ「たまにはいいでしょ」
ラヴィーネ「似合わねえ」
カンネ「ひど」
ラヴィーネ「でも、今日はそれでいい」
カンネは一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
カンネ「了解」
ラヴィーネは小さく鼻で笑った。
今度は少しだけ、痛くなかった。
広場の向こうで、店じまいにはまだ早い鐘が鳴る。
白い空はそのままで、雪は降りそうで降らない。
ラヴィーネはカンネの手を頭の上に乗せたまま、ぼんやり思った。
こういう日は嫌いだ。
自分の体なのに、自分の言うことをきかない。
機嫌まで勝手に持っていかれる。
でも、誰かに少し甘えても、たぶん許される日なのかもしれない。
ラヴィーネ「……もういい」
カンネ「えっ、なでなで終了?」
ラヴィーネ「その言い方やめろ」
カンネ「じゃあ何て言えばいいの」
ラヴィーネ「知らねえよ」
カンネは手を下ろした。
ラヴィーネはコップを持ち直して、残っていたしょうが湯を一気に飲む。
カンネ「歩ける?」
ラヴィーネ「誰に言ってんだ」
そう言って立ち上がる。
まだ少し重い。
でも、さっきよりはましだった。
カンネも立ち上がって、何でもない顔で隣に並ぶ。
ラヴィーネ「先行くなよ」
カンネ「行かないって」
ラヴィーネ「絶対だぞ」
カンネ「はいはい」
ラヴィーネ「その返事、軽い」
カンネ「でも本気だよ」
それ以上は、何も言わなかった。
二人で石畳の通りへ戻る。
買い物は、明日でいい。
今日は、そういう日だった。