その頃のフランメは、まだ小さかった。
ゼーリエよりずっと背が低くて、手足も細い。
顔つきにも、まだ子どもの丸さが残っている。
魔力だけ見れば目を引くものはあったが、威厳も貫禄もない。ただ、よく喋って、よく動いて、どうでもいい魔法にいちいち目を輝かせる人間の娘だった。
朝、森の奥の庵は静かだった。
いつもなら、フランメは日の出の少しあとに起きてくる。
眠そうな顔で水を汲み、薪を見て、それから勝手に喋り始める。
その日はいっこうに出てこなかった。
ゼーリエは書物から目を上げた。
静かすぎる朝だった。
奥へ行くと、フランメは寝台の上で毛布を引き寄せていた。
顔色が悪い。目が合うと、少しだけ視線を逸らす。
ゼーリエ「病気か」
フランメ「ちがう」
ゼーリエ「怪我か」
フランメ「それもちがう」
少しして、鉄の匂いがした。
ゼーリエ「ああ」
フランメは毛布の中でもぞりと動いた。
フランメ「その顔、やめろ」
ゼーリエ「どの顔だ」
フランメ「分かった顔」
ゼーリエ「分かったんだよ」
フランメ「最悪」
ゼーリエ「そうだろうな」
フランメ「そこ、もうちょっと何かあるだろ」
ゼーリエ「何を言えばいい」
フランメは少しむっとした。
でも言い返す元気はあまりないらしく、そのまま顔を伏せた。
ゼーリエは寝台の脇に立ったまま、その小さな背中を見ていた。
自分にも、同じような日はあったはずだった。
覚えてはいる。
けれど、あまりに昔のことで、輪郭は薄い。
ゼーリエ「今日は修行なしだ」
フランメ「……ほんとか」
ゼーリエ「嘘をつく理由がない」
フランメ「師匠(せんせい)が休ませるとか、珍しすぎて逆に怖い」
ゼーリエ「黙って寝ていろ、フランメ」
フランメ「はいはい」
返事だけはいつも通りだった。
昼近くになって、フランメは少しだけ起き上がった。
膝を抱えて、窓の外を見ている。
ゼーリエは湯を沸かしていた。
薬草も入れた。
フランメ「師匠(せんせい)」
ゼーリエ「何だ」
フランメ「人間の村だと、こういうの、祝ったりすることもあるんだって」
ゼーリエ「祝う」
フランメ「赤い豆を炊いたり」
ゼーリエ「赤い豆」
フランメは少しだけ笑って、すぐ困った顔になった。
フランメ「変だろ」
ゼーリエ「変だな」
フランメ「痛いし、気持ち悪いし、ぜんぜんめでたくない」
ゼーリエ「なら祝わなければいい」
フランメ「そういう話でもないんだよ」
ゼーリエ「面倒だな」
フランメ「師匠(せんせい)はエルフだけど、女だろ」
ゼーリエ「……そうだったな」
フランメ「忘れるなよ」
ゼーリエ「昔のことだ」
フランメは少しだけ黙った。
フランメ「師匠(せんせい)って、そういうの、もう遠いんだな」
ゼーリエ「だいたいのことはな」
フランメ「いいなあ」
ゼーリエ「よくない」
フランメ「そうか?」
ゼーリエ「昨日と今日の違いが、曖昧になる」
フランメはそこで少しだけ真面目な顔をした。
ゼーリエはそれ以上言わなかった。
しばらくして、寝台の上から小さな声がした。
フランメ「……でもさ」
ゼーリエ「何だ」
フランメ「こういうのって、変な感じだ」
ゼーリエ「何が」
フランメ「急に、自分が子どもじゃなくなるみたいで」
ゼーリエは鍋の火を見たまま答えた。
ゼーリエ「お前はまだ子どもだ」
フランメ「そういう意味じゃない」
ゼーリエ「分かっている」
フランメは膝に額をつけた。
フランメ「このまま普通に大人になって、村で暮らして、それで終わるのかなって、ちょっと思った」
ゼーリエはそこで初めて、フランメのほうを見た。
小さい肩。
まだ伸びきっていない手足。
花畑を出す魔法が好きで、洗濯を楽にする魔法や、灯りをきれいに揺らす魔法みたいなものにすぐ喜ぶ、人間の娘。
そんなものは、人の世にはいくらでもいる。
けれど、フランメを見ていると、ときどきそこでは収まりきらない気がした。
呪文を覚える速さ。
魔力の癖。
それから、夢を見るしつこさ。
世界中の人間が魔法を使えたらいい。
そんな話を、フランメは本気でする。
ゼーリエはほんの一瞬だけ考えた。
この娘は、このまま誰かの隣で生きるのか。
それとも、もう少し別のところへ行くのか。
まだ分からなかった。
ゼーリエ「つまらない想像だな」
フランメ「ひど」
ゼーリエ「勝手に決めるな」
フランメは少し目を丸くして、それから笑った。
フランメ「それ、励ましてるだろ」
ゼーリエ「違う」
フランメ「嘘つけ」
ゼーリエ「うるさい」
夕方、フランメは少しだけましな顔になっていた。
寝台に座ったまま、窓の外を見ている。
横顔はまだ幼い。
幼いくせに、ときどき妙に遠くを見る。
フランメ「師匠(せんせい)」
ゼーリエ「何だ」
フランメ「わたしさ、やっぱり魔法が好きだ」
ゼーリエ「知っている」
フランメ「花畑を出す魔法、好き」
ゼーリエ「くだらない魔法だ」
フランメ「うん」
ゼーリエ「役に立たない」
フランメ「うん」
ゼーリエ「戦えない」
フランメ「うん」
ゼーリエは少しだけ眉をひそめた。
ゼーリエ「否定しないのか」
フランメ「でも好きなんだよ」
まっすぐな返事だった。
フランメ「わたし、いつか、世界中の人が魔法使えるようになったらいいと思ってる」
ゼーリエ「またそれか」
フランメ「まただよ」
ゼーリエ「くだらない夢だな」
フランメ「知ってる」
ゼーリエ「人間はすぐ死ぬ。覚える前に死ぬやつも多い」
フランメ「それでもだよ」
ゼーリエは黙った。
フランメ「畑でもいいし、洗濯でもいいし、子どもをあやすのでもいいし、こういう日に少し楽になるのでもいい。強い魔法じゃなくても、花畑でもいいんだ」
ゼーリエ「花畑で腹は膨れない」
フランメ「でも、見たらちょっと嬉しいだろ」
ゼーリエ「私は別に」
フランメ「嘘だ」
ゼーリエ「フランメ」
フランメ「師匠(せんせい)はすぐそう言う」
フランメはそこで杖を手に取った。
ゼーリエ「何をする」
フランメ「少しだけ」
ゼーリエ「休めと言ったはずだ」
フランメ「少しだけだって」
短い呪文。
次の瞬間、庵の外に花が咲いた。
大げさなものではない。
窓の向こう、見える範囲だけ。
赤い花、白い花、薄い桃色の花。夕方の光の中で、静かに揺れていた。
フランメ「こういう日は、こういうのがあったほうがいい」
ゼーリエは花を見た。
役に立たない。
相変わらずくだらない。
だが、そのくだらないものを、フランメは本気で好きなのだ。
花畑を出す魔法が好きな、背の低い娘。
まだ声も幼くて、言葉づかいも子どものままで、強者の威厳などどこにもない。
それでもその瞬間だけ、ゼーリエは少し考えた。
この娘は、ただ埋もれて終わるだけではないのかもしれない。
だが、何になるのかはまだ見えなかった。
ゼーリエ「……変な日だな」
フランメ「そうか?」
ゼーリエ「赤い豆で祝うとか、花を咲かせるとか、本当に面倒だ」
フランメは少し笑った。
フランメ「でも、師匠(せんせい)、見てるだろ」
ゼーリエ「見えているだけだ」
フランメ「それで十分だよ」
ゼーリエは答えなかった。
エルフにとって、人間の一生は短い。
目を離した隙に過ぎるくらいには短い。
けれど、その短さの中にも、昨日と今日が変わってしまう日がある。
声がまだ子どものまま、越えてしまう境目がある。
そして、そういう細いことは、たいてい長くは残らない。
残るとしたら、もっと太い線だけだ。
名だとか。
業績だとか。
誰かの口にしやすい、分かりやすい形だけ。
花畑を好んだこと。
赤い豆の話を恥ずかしがったこと。
女であることを、わざわざ思い知らされて腹を立てたこと。
そういうことは、すぐにこぼれ落ちる。
ゼーリエは、窓の向こうの花を見ていた。
その前で、フランメが笑っていた。
ただ、それだけのことだった。
それだけのことなのに、妙に目に残った。