日経平均は3630円程度安と急落、原油高によるインフレ警戒=9日前場
- ウエルスアドバイザー
小学館の漫画アプリ「マンガワン」が起こした問題が業界を揺るがすほどの騒動となっている。マンガワン編集部が性加害を行った漫画家をかくまうようにして起用していた、というのが大要である。(フリーライター 武藤弘樹)
● 性加害で損害賠償の元高校教員 「マンガワン」で連載中の漫画家と同一人物
今年2月20日、高校の元教員が未成年の教え子への3年間にわたる性加害について、民事訴訟で1100万円の損害賠償を命じられた。
この人物がマンガワンでかつて連載されていた『堕天作戦』作者の山本章一なのではないか、そういえば現在マンガワンで連載中の『常人仮面』の原作者「一路一」と山本章一は同一人物ではないかという噂もあるぞとネットはざわついた。
数日後、マンガワンは『常人仮面』の配信停止および単行本の出荷停止を発表、加えて過去に連載していた『堕天作戦』作者・山本章一(本名・栗田和明)が児ポ法違反で罰金刑を受けて連載中止に至ったことと、その経緯を知りながら山本章一のペンネームを「一路一」に変えて新連載『常人仮面』の原作者として起用したことに問題があったと声明を発表した。
担当編集者は『堕天作戦』も『常人仮面』も変わらず、Xのやり取りを見ていると蜜月な関係だったようである。
さらにこの編集者は、2021年には栗田氏と被害者のLINEグループに参加し、「連載再開の中止要求の撤回」や、「性加害について口外禁止」などを盛り込んだ公正証書の提案をしたとされている。
編集者個人が行ったことであり、上層部がこれをどこまで把握・容認していたかは今の所不明とはいえ、過去に何度か問題を起こしている小学館だからというのもあって、組織的なガバナンスのあり方が世間に問題視された。
小学館はそこをやり玉にあげられているが、世間の嫌悪感をすさまじくブーストさせたもうひとつの要素は、栗田氏が行った加害行為の内容や卑劣さ、そして裁判中に幾度も笑うなど、深刻なPTSDを患うまでに至った被害者に対して謝罪も反省もない態度が報じられたことにあった。
● マンガワンに作品掲載の作家が 自作の配信停止や契約解除
これを受けてマンガワンに作品を公開している作家が数十名単位で自作の配信停止や契約解除を表明、なんらかの対応を発表した作家は100名以上にのぼるとも言われている。
日本漫画家協会もすぐ反応して、「本件は漫画界全体に関わる課題」という内容を含む重い声明を発表している。
なおこの話のあとに「マンガワンにはもうひとつ大きい火種があって、文春がリークを進めている」という噂があったのだが、3月2日、マンガワンから、実はもうひとり性犯罪歴のある原作者をペンネームを変えて起用していたと趣旨の発表があった。
世間はこれを「文春にリークされそうになったからその前に言っただけで隠ぺい体質が根本にある」と評したが、そのもう一人の方は執行猶予期間の満了や、本人の反省の意志、専門の心理士との相談などを経たのちの起用となっているので、「栗田氏と同列に論じられるべきではない」と見る向きもある。
まず最初に断っておくが、本稿は性加害や人の尊厳を踏みにじる行為を一切容認する気はない。その前提の上で「作品の価値は作者から独立しているか」という命題に対して、どのような考え方があり得るかを模索していきたいと思う。
また、マンガワン連載作家が各々リスクを冒して意見表明や自作の配信停止などをしている勇気に敬意を表すると同時に、マンガワン連載作家にとって沈黙が暗に非道徳への加担と捉えられかねない現況に憂慮してもいる。
連載作家はそれぞれ立場や契約条件、他に作品発表の場や収入源を持っているかといった生活上の事情が異なる。発言や行動の有無だけで倫理的な優劣を測られるべきではなく、沈黙やマンガワン連載継続も作家の正当な選択肢として認められるべきであろうと考える。
● 『堕天作戦』を愛読していたが 事件を知って動揺…
栗田氏が山本章一のペンネームで連載していた『堕天作戦』を私は当時面白く読んでいた。「WEBマンガ総選挙2019」の第3位になった作品である。
だから山本章一がその性加害を行った人物であると知って動揺した。事件の方は別口で知っていて、ひどく胸が悪くなり、また激しい憤りを覚えたからである。
当時作品を面白いと感じたのは事実である。だが作者の作品外での行いは到底許容できるものではない。結果、作品を楽しんでいた自分までも揺らぐ感覚があった。
知らないうちに嫌なものを飲み込んでしまったことにあとで気づくような不快感、無自覚のうちに非倫理的行為に加担してしまっていたのではないかという罪悪感を覚えたのである。
しかし知らなかった・知る手段がなかった部分については自分に罪がないことを自認することがまず健全である。
被害者の受けた深刻なダメージを思うと自分も何かしらの負い目を感じて少しでもバランスを取りたくなる気持ちがきざすのだが、「知らなかったのはもう仕方のなかったこと」としていったん保留し、「すべてを知ったあとにどのような考えを選択するか」によってアイデンティティを再確認するのが建設的であるように思う。
ここまでの私の葛藤を次の3つの問いに分解してみる。「作品の価値は作者から独立しているか」「作品を消費することは加害者への加担か」「それらを踏まえたうえで、自分はどのような価値観の人間でありたいか」である。
ロラン・バルト『作者の死』(1967)や、20世紀の英米の文学批評の方法「ニュー・クリティシズム(新批評)」において、作品は作者や社会的背景から独立して解釈されるべきと語られた。
作品の自律性を積極的に確保すべきという考え方があったのである(むろん同時に、作家情報や作品の背景をもとに作品を解釈するコンテクスト重視の鑑賞法もあった)。
現代ではというと、作者がメディアで自作について語る機会があったり、作者自身がSNSで情報を発信することで、かつては見えにくかった作品の裏にある「作者の顔・体温」が非常に感じやすくなっているから、作品は作者に紐づけられて解釈される機会が多くなってきている。
● 「人を殺した画家」の作品が人気 作品は作者から独立している?
殺人歴のある画家・カラヴァッジョ(1571-1610)の例を見てみる。カラヴァッジョは現代でも評価が大変高く、国内でも人気がある。
いうまでもないことだが殺人は重大な罪である。だが彼の作品は人気があるし、カラバッジョについて語られる際、彼が犯した殺人は彼の作品の解釈をよりドラマチックに彩る一要素として扱われる節すらある。
作品を見る人はほぼ全員が殺人は罪と考えているはずなので、カラヴァッジョの作品は作者から独立して支持されているようでもあり、しかし殺人歴込みで解釈が進められることもあり、これらをあわせて鑑みるとカラヴァッジョにおいて受け手は作品と作者を許容していることがわかる。
受け手の許容範囲は、受け手と作者の距離がどれくらい離れているかに由来するのではないか。
カラヴァッジョは500年近く昔の人であり時間的に距離がある。当時彼によって「殺人が行われた」と聞かされても、古い映画のワンシーンを語られているようでいまいち現実感がない。近代美術などの、現代とやや隔たった時代の作品も、受け手との距離が少しあるから許容が成立しやすい。
では『堕天作戦』はどうか。SNSを通じて作者の体温がわかり、加害行為は生々しく、さらに被害者の受けた傷も現在進行形である。作者は、受け手にとって相当現実感を伴った距離に存在している。この距離の近さ・想像のしやすさが許容のしがたさを上げている。
『堕天作戦』を、作者の加害行為を知った後に一部読んでみたのだが、当時初見で感じていたあのワクワクする気持ちはなく、「この原稿を書くかたわら裏で陰惨な加害を行っていたのか」と暗い気持ちがつきまとって作品に集中できなかった。
美術館で作品を鑑賞する方法のひとつに、「予備知識なしで作品を見て初見の純粋な感想を楽しみ、次にキャプションを見てその情報をもとに作品を再解釈する」というやり方がある。
● 『堕天作戦』は独立して評価されるべきか 作者と丸ごとセットで考えるべきか
たとえばゴッホのひまわりを初めて見て「ただのひまわりにしてはなんだか激しいな」と思い、ゴッホの精神的苦悩を知った上でもう一度ヒマワリを見て理解を深めるという具合である。情報は作品体験を変えるのである。
近代美術に則れば作品の価値それ自体は作者から独立して評価されてもいい。しかし受け手は作者情報などのコンテクストを通して解釈する自由があり、作者情報が充実している現代では作品と作者は丸ごとセットで解釈されやすい環境にある。
過去に私が『堕天作戦』を面白いと感じたのはまぎれもない事実で、それこそが作品の価値ということなのであろう。ただ、現在はその価値を肯定する気にはなれない。情報は作品体験だけでなく、作品の価値をも変えうるのが現代である。
とはいえこのあたりは読み手それぞれの感性による領域で、上記はあくまで私の個人的な意見である。「それでも『堕天作戦』は作品として価値がある」という意見もあることにはまったく異論ない。
作品を消費する、マンガなら「読む」ことは作者への応援につながる。単行本を買えば印税が入り、配信作を読めばPVにより収入と評価が与えられ、それらを通じて作家の今後の活動をサポートしていくことができる。消費は作家を経済的に支援するのである。
しかしその支援によって成立する生活の中で作者が倫理にもとる行為を行っていれば、読者は間接的にその行為をもサポートしたという構図が成立する。読者は「作品を楽しみたかっただけなのに、加害行為を後押ししている・したのでは」という葛藤を抱えることになる。
加えて、作品が人気を保てば「あれだけのことをしても作品が面白ければ許される」という免罪符を作者に与えてしまうかもしれない。作品を消費することにはそうした不安がつきまとう。作者に更生の気配が見られない場合、読者の抱く危惧は一層強くなる。
一方で、作品支援をすることで損害賠償金の支払いの一助とすることもできる。今回栗田氏に課せられたのは1100万円。普通の金銭感覚からすれば大金だが、支払いが滞りなく行われれば、被害者へのわずかばかりの一助とできるかもしれない(被害者の受けた被害はいかにお金を積まれようと金銭では取り返しのつかないものであろうことは大前提である)。
また、加害者が更生して社会復帰の道を歩むなら損害賠償金1100万円の支払いは、法の観点から見れば社会的には前進の行いとなる(「そのような人間に更生の余地を与える必要はない」といった倫理観も当然あるだろうが、ここではあくまで法の観点からの原則論であることをご理解願いたい)。
仮に加害者が損害賠償金の圧に潰され、生活が荒れ、さらなる加害行為に走ることになればそれは社会にとって不利益である。こうした観点から見ると作者への経済的支援にも良い部分はある。
● 「作品の消費」が与える被害者への影響は? 作者を応援するなら線引きが必要
だが作品を消費することは加害者側への影響だけでなく、もう一つの側面を持つ。それは作品を消費することの被害者への影響である。
栗田氏を支援することで栗田氏本人及び作品の世間への露出が増えれば、それを被害者が目にして心的苦痛を被るおそれが高まる。それ以前に、謝罪もしない許しがたい相手と、示談交渉に加わる形で被害者の傷を軽視した編集者ひいてはマンガワン編集部が、誰かから応援を受けているという事実だけでも、被害者の絶望には計り知れないものがあると推測される。
被害者が現在進行形でPTSDに苦しんでいる今この瞬間の消費は、「過去のカラヴァッジョを現代で評価する」こととは質が根本的に異なるのである。
ただし、どれだけ心を砕いても被害者の心の傷の全容は推測することしかできない。「漫画」と耳にするだけですさまじい心的苦痛を被っているかもしれない。であるから、読者は被害者に寄り添うならどこまでを応援すべきかを自ら線引きする必要がある。
応援しないと決める対象をどこまで広げるのか――個人なのか、編集者なのか、プラットフォームなのか、マンガ界全体なのか。
その線引きもまた読者自身が引き受けるほかない(※現時点ではすでに被害者への配慮を世に問いかけているマンガワン連載作家陣が多いので、自浄作用という部分を考えるとマンガワン連載作家および漫画界は「許容しない」の線外に置くのが現実的に思える)。
このように、「作品の消費」ひとつを取ってみても、評価軸をどこに置くかで読者には様々な向き合い方が考えられる。
● 「これからどうするか」… 自問自答して出した答え
読者は、知らなかった過去の消費の責任を負う必要はない。しかし知ったあとで葛藤があるのなら、「これからどうするか」によってその人それぞれの倫理をまっとうすることができる。その選択を模索することそれ自体が倫理的であるともいえる。
このとき、作品や作者は考慮すべき対象の中心からいったん外れて、「自分はどういう人間でありたいか」という、自分を主役とした検討に移行する。加害者を断罪したいのか、作品と作者を切り離したいのか、被害者に寄り添いたいのか。
これらのどれかに極振りしてもいいだろうし、どれもを何割かずつ持つのもありえるだろう。どのようなスタンスが自分にとってもっともしっくり来るかを自問自答する必要がある。結論は出ないかもしれず、葛藤は解決しないかもしれないが、葛藤を抱えたまま生きるのも人間的であり、葛藤に誠実に向き合い続ける姿勢も倫理のひとつのあり方である。
私は、作品と作者を切り分けることはできなかった。『堕天作戦』が面白かった体験は真実である。それを否定はしないが、作者の今後の活動については本人に深く誠実な反省が見られない限りは支援するつもりはない(将来、加害者の深く誠実な反省を見ることがあったとして、その時自分の心がどう動くかは現時点ではわからない)。
これはあくまで私個人の結論である。千差万別の結論があって然るべきである。
現代は作者の顔と体温が可視化される時代である。だからこそ出版社や編集部にはより透明性や説明責任を求められるようになっている。受け手が葛藤を抱えなくて済む環境を整えるのも出版社・編集部の役割であり、マンガワン編集部ひいては小学館のそこの至らなさが今回の事態を招いたともいえる。
武藤弘樹
最終更新:3/9(月) 9:15
最近見た銘柄はありません