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ハイターに頼まれて、フェルンに魔法を教えるようになってから、しばらく経った頃のことだった。

老いた僧侶の家は、朝になると妙に静かだった。
ハイターは早起きのくせに動きが遅いし、フリーレンは起きるのが遅い。
だから朝の支度は、たいていフェルンが一人で先に進めている。

その日も、台所にはもう火が入っていた。
鍋の中で湯が鳴っている。

でも、少しだけ様子が違った。

フェルンの動きが遅い。
鍋の前で手が止まる。
立つときも、座るときも、少しぎこちない。

フリーレンは椅子に座ったまま、それを見ていた。

フリーレン「フェルン、眠いの?」

フェルン「違います」

フリーレン「そう」

それで会話は終わった。

フェルンは普段、あまり体調を崩さない。
でも、少し元気がないくらいでは、フリーレンにはまだよく分からなかった。

朝食のときも、フェルンはあまり食べなかった。

ハイター「おや。珍しいですねえ」

フェルン「少し、気分が悪いだけです」

ハイター「そうですか」

フリーレン「じゃあ今日は修行やめる?」

フェルン「大丈夫です」

ハイター「大丈夫と言う子ほど、大丈夫ではないものですよ」

フェルンは少し目を伏せた。

フェルン「少し、部屋に戻ります」

ハイター「ええ。そうしなさい」

部屋へ戻る足音は、いつもより遅かった。

フェルンがいなくなると、フリーレンはパンをちぎりながら言った。

フリーレン「風邪かな」

ハイター「さて。そうとも限りません」

フリーレン「じゃあ何」

ハイター「少し見てきますよ」

フリーレン「うん」

フリーレンはそれ以上気にしなかった。
ハイターがそう言うなら、そうなんだろうと思った。


しばらくして、ハイターは戻ってきた。

さっきより少し、目元がやわらかい。

ハイター「フリーレン」

フリーレン「なに」

ハイター「市場へ行ってきてください」

フリーレン「嫌だ」

ハイター「そう言うと思いました」

フリーレン「分かってるなら、自分で行けばいいのに」

ハイター「私もそうしたいのですがねえ。今日はあなたが行ってください」

フリーレン「どうして」

ハイター「赤い豆と、やわらかい布と、体を温める薬草を買ってきてほしいんです」

フリーレンは顔を上げた。

フリーレン「なんでそんなのが要るの」

ハイター「フェルンのためですよ」

フリーレン「熱?」

ハイター「違います」

フリーレン「怪我?」

ハイター「違います」

フリーレン「じゃあ何」

ハイターは少し間を置いた。

ハイター「あなたにも、心当たりくらいあるでしょう」

フリーレン「……ない」

ハイター「本当に?」

フリーレンは考えた。
でも、すぐには分からなかった。

フリーレン「分からない」

ハイター「いやはや」

フリーレン「何」

ハイター「そういうところは、本当に変わりませんねえ」

ハイターの言葉。
フェルンの様子。
顔色。
やわらかい布。
体を温める薬草。

そこでようやく、遠い昔の嫌な重さが、ぼんやり浮かんできた。

フリーレン「……ああ」

ハイター「ええ。そういうことです」

フリーレンは少し黙った。

フリーレン「初めてなんだね」

ハイター「たぶんね」

フリーレン「そっか」

ハイター「驚きましたか」

フリーレン「少し」

ハイター「自分にもあったことなのに?」

フリーレン「昔すぎて、あまり覚えてない」

ハイター「でしょうねえ」

フリーレンは本を閉じた。

フリーレン「それで、赤い豆」

ハイター「この辺りでは、祝いとして赤い豆を炊くことがあるんです」

フリーレン「祝い……」

少し間が空いた。

フリーレン「……祝うような日かな」

ハイター「本人は、そう思わないでしょうねえ」

フリーレン「うん」

ハイター「ですが、節目ではあります」

フリーレンは少し考えてから立ち上がった。

ハイター「おや。ちゃんと行くんですね」

フリーレン「ハイターが頼むと面倒だから」

ハイター「そういうことにしておきましょう」


フリーレンは家を出て、市場へ向かった。

昼前の道は明るかった。
石畳の上を、人や荷車がゆっくり行き来している。

赤い豆。
やわらかい布。
体を温める薬草。

頭の中で順に並べているうちに、フリーレンは少し歩く速さを落とした。

昔も、似たような日があった。

ヒンメルたちと旅をしていた頃。
体が重くて、下腹が痛くて、何となく機嫌まで悪くなる日。

別に言うほどのことでもないと思っていた。
言っても、どうせ分からないだろうと思っていた。

だから何も言わなかった。

少し歩くのが遅かっただけだ。

ヒンメル「今日はこの町で泊まろう」

ハイター「おや。まだ日が高いですよ」

ヒンメル「いいんだよ。今日はここがいい」

アイゼン「次の村でもいい」

ヒンメル「でも、この町のほうが僕に似合う」

ハイター「いやはや」

フリーレン「別に、どこでもいいけど」

ヒンメル「だろうね」

そのときのフリーレンは、本当にどこでもよかった。
座れるなら、それでよかった。

宿に入って少しすると、表の露店から甘い匂いがした。
フリーレンがそっちを見ると、ヒンメルが勝手に露店のほうへ歩いていった。

しばらくして、紙包みを持って戻ってくる。

ヒンメル「フリーレン、これ」

フリーレン「なに」

ヒンメル「焼き菓子」

フリーレン「なんで」

ヒンメル「勇者が甘いものを独り占めするのも、あんまり格好よくないからね」

フリーレン「そうかな」

ヒンメル「そうだよ」

フリーレンは紙包みを受け取った。
まだ少し温かかった。

フリーレン「……ありがと」

ヒンメル「どういたしまして」

少しして、ヒンメルが何でもない顔で言った。

ヒンメル「今日は、もう歩かなくていいからね」

フリーレン「別に歩けるよ」

ヒンメル「そう?」

フリーレン「そう」

ヒンメル「じゃあ、僕が歩きたくないんだ」

フリーレン「ヒンメルが?」

ヒンメル「うん。勇者にも休みたい日はある」

ハイター「さっきまで元気でしたけどねえ」

ヒンメル「今、急にそういう日になったんだよ」

アイゼン「適当だな」

ヒンメル「勇者の直感だよ」

フリーレンは焼き菓子を一口かじった。
甘かった。

翌朝も、ヒンメルは妙だった。

ヒンメル「今日は少し遅く出よう」

ハイター「珍しいですねえ」

ヒンメル「朝の僕は貴重だからね。もっと見ておいたほうがいい」

ハイター「遠慮しておきます」

アイゼン「そうだな」

フリーレン「朝からうるさい」

ヒンメル「元気が出るだろ」

フリーレン「別に」

ヒンメル「そっか」

そのときのフリーレンは、それ以上考えなかった。
体が重かったし、ヒンメルが変なのはいつものことだった。

でも、その日は楽だった。
歩く距離が短かった。
休みも多かった。
荷物も少し軽かった。

今になると、少しだけ分かる気がした。

何も聞かずに。
何も言わずに。
町に泊まる理由を適当にでっち上げて。
自分の都合みたいな顔をして、休めるようにしていたのかもしれない。

フリーレンは足を止めた。

市場のざわめきが近い。
人の声。
荷車の音。
店先で豆を量る音。

フリーレン「……そういうことか」

小さな声だった。

たぶん、あのときのヒンメルは何も言わない。
今さら気づいたと言っても、たぶん少し笑うだけだ。

それで、どうでもよさそうに、

ヒンメル「勇者だからね」

たぶん、それだけ言う。

フリーレンはまた歩き出した。


市場は思ったより混んでいた。

フリーレンは言われたものを順番に買った。
赤い豆。
やわらかい布。
体を温める薬草。

少し迷って、甘い焼き菓子も買った。

帰り道、紙袋を抱えたまま空を見上げる。
晴れていた。


家に戻ると、ハイターが台所の前で待っていた。

ハイター「買えましたか」

フリーレン「一応」

ハイター「焼き菓子が増えていますねえ」

フリーレン「甘いものは、だいたい役に立つ」

ハイター「雑ですねえ」

フリーレン「でも外してない」

ハイター「それはそうです」

ハイターは袋の中身を見て、うなずいた。

ハイター「では、湯を沸かしてください」

フリーレン「私が?」

ハイター「あなたが、です」

フリーレン「面倒だね」

ハイター「知っていますよ。ですが、今日はやってください」

フリーレン「湯を沸かすくらいならいいけど」

フリーレンは鍋に水を張って火にかけた。
手つきは危なっかしくなかった。
ただ、普段すすんでやらないだけだった。

この家のことは、だいたいフェルンが先に片づけてしまう。
だから、台所に立つフリーレンの姿はあまり見慣れない。

ハイターはその背中を見て、少し笑った。

フリーレン「何」

ハイター「いえ。あなたがそうして家のことをしているのが、少し珍しくてですねえ」

フリーレン「フェルンがいつもやってる」

ハイター「ええ」

フリーレン「こういうの、毎日やるのは面倒だね」

ハイター「そうでしょうとも」

フリーレン「よく毎日やるね」

ハイター「毎日だから、ですよ」

フリーレンは返事の代わりに、赤い豆を水にあけた。
ざるの中で転がる豆を、無言で洗う。
手つきは雑ではない。
ただ、楽しそうでもなかった。


少しして、ハイターが盆をフリーレンに渡した。
湯、薬草、布。

ハイター「これを持っていってください」

フリーレン「私が?」

ハイター「私でもいいですが、あなたが行ったほうがいい」

フリーレン「なんで」

ハイター「あなたにも、分かることがあるでしょう」

フリーレン「さっきから回りくどいね」

ハイター「年寄りですから」

フリーレンは少し不満そうな顔をしたが、盆を受け取った。

部屋の前で少しだけ立ち止まる。
こういうとき、何を言えばいいのかよく分からない。

軽く戸を叩く。

フリーレン「フェルン。入るよ」

少し間があってから返事があった。

フェルン「……どうぞ」

部屋は薄暗かった。
フェルンは寝台に入って、顔だけこちらを向けていた。
いつもより少し幼く見える。

フリーレンは盆を置いた。

フリーレン「ハイターに聞いた」

フェルン「そうですか」

フリーレン「うん」

少し間が空いた。

フェルン「……何か言うことはないんですか」

フリーレン「何を言えばいいの」

フェルン「そういうことじゃありません」

フリーレン「難しいね」

フェルンは寝台の中で小さく息を吐いた。

フェルン「大丈夫か、とかです」

フリーレン「ああ。大丈夫?」

フェルン「今さらです」

フリーレン「遅かったね」

フェルン「遅いです」

フリーレンは少し考えた。

フリーレン「痛いの?」

フェルン「痛いです」

フリーレン「そうなんだ」

フェルン「そこで終わらせないでください」

フリーレン「でも、分かったのはそれくらいだよ」

フェルンは少し黙った。

フェルン「……フリーレン様にも、あったんですか」

フリーレン「あったよ」

フェルン「意外です」

フリーレン「そうかな」

フェルン「少し」

フリーレン「嫌だったのは覚えてる」

フェルン「覚えているんですか」

遠い昔、村の記憶。

フリーレン「昔のことだよ」

フェルンは寝台の端を少しだけ握った。

フェルン「……そうですか」

フリーレン「うん」

少し黙ってから、フリーレンは言った。

フリーレン「今日は修行なし」

フェルン「朝も聞きました」

フリーレン「明日も、少し遅くていい」

フェルン「珍しいですね」

フリーレン「休んでたほうがよさそうだから」

フェルン「言い方が雑です」

フリーレン「そうだね」

フェルン「否定しないんですね」

フリーレン「本当のことだし」

フェルンは少しだけ笑った。

フェルン「不器用です」

フリーレン「知ってる」


夕方、食卓には赤い豆の飯が並んだ。

湯気の中で、豆の色だけが少し目立っている。

フェルンは席につくなり、それを見て止まった。

フェルン「……何ですか、これ」

ハイター「祝い飯ですよ」

フェルン「いりません」

ハイター「そう言うと思いました」

フェルン「こういうの、恥ずかしいです」

ハイター「そうでしょうねえ」

フェルン「分かってるなら、やめてください」

ハイター「ですが、やめません」

フェルンは少しむっとした顔をした。
ハイターはやわらかく笑っている。

ハイター「大げさに祝うつもりはありませんよ。ただ、今日がそういう日だったと、あとで分かるようにしておきたいだけです」

フェルン「今は分かりたくないです」

ハイター「今はね」

フリーレンは黙って飯を見ていた。
それから一口食べる。

フリーレン「おいしい」

フェルン「先に食べないでください」

フリーレン「食べていいやつでしょ」

ハイター「ええ」

フェルン「そういう問題ではありません」

でも、そのやり取りで少しだけ空気がゆるんだ。

フェルンも観念したように食べる。
しばらくして、小さく言った。

フェルン「……おいしいです」

ハイター「それはよかった」

フリーレン「豆は私が洗った」

フェルン「そこを言うんですか」

フリーレン「少しだけ」

フェルン「変です」

ハイター「いやはや。十分でしょう」

三人で食べる夕飯は、いつもと同じようで、少し違った。
落ち着かない日だった。
でも、飯は温かかった。

食べ終わって少ししてから、ハイターが静かに言った。

ハイター「フェルン」

フェルン「はい」

ハイター「恥ずかしいことだと思わなくていい。つらいでしょうし、不安でしょうが、ちゃんと育っているということです」

フェルンは黙って聞いていた。

ハイター「あまり嬉しくない日かもしれませんが、悪いことばかりでもありません」

フェルン「……はい」

ハイター「一人で迎えるよりは、少しはましでしょう」

フェルンは小さくうなずいた。

少しして、フリーレンが言った。

フリーレン「フェルン」

フェルン「何ですか」

フリーレン「今日は早く寝たほうがいい」

フェルン「それはそうです」

フリーレン「明日の水汲みは私がやる」

フェルンは顔を上げた。

フェルン「フリーレン様が?」

フリーレン「一日くらいなら」

フェルン「珍しいですね」

フリーレン「フェルンが休んだほうがよさそうだから」

フェルン「やっぱり言い方が雑です」

フリーレン「そうだね」

フェルン「でも、ありがとうございます」

フリーレン「うん」

それだけだった。
それだけだったけれど、たぶん、それで足りた。

窓の外はもう暗い。
灯りの下に、豆の匂いがまだ少し残っている。

フリーレンはその匂いを嗅ぎながら、昼に思い出した焼き菓子の甘さを少しだけ思い出していた。

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