『とあるHollowな非日常』
Happy Valentine……とはまったく無関係になった話。捏造過多。何でもOK?
※素敵な表紙は[ryoubou.org][illust/30554495]さまにお借り致しました。深謝!
- 356
- 399
- 12,443
突き抜けるような蒼穹、透きとおった大気を吹きすぎる風は清い水を含んで甘く、水翠の木々がたわわに葉を茂らせ惜しげもない果実を実らせる。地平まで続くかのような草原にはそこここに小さな花が咲き、遠く頂を眺める山脈は青く霞む。
大地も空も力に満ちている。溢れるほどのマナが躰を満たし、惜しげもなく降り注ぐ光が明るく世界を照らし出している。
――これは、夢だ。
夢と解っていても魅せられてやまない、幻想の地。常若の理想郷。
天鵞絨のように艶やかな蒼い髪が、翻るローブと共に風に靡いている。光をうけてなお、燦然と輝くようなその姿。後ろ姿だけでも、彼にはそれが誰か瞬時にして見分けがついた。
正面からうける光と風にゆるく手を翳し、ふと何かに気付いたように振り返る。逆光の中で白皙の容貌が、彼を認めて微笑った。
その双眸はローブを留める宝石よりも紅いのだろう、と睛にする迄もなく解っている。
――嗚呼、綺麗な夢だ。
哀しいほどに愛おしい故郷とは別の意味で、彼の心を捕らえて離さない英雄。その背に追いつきたくて必死に追いかけた、狂おしく焦がれるほど離れてゆく遠いその存在。
嗚呼、でもそれはなんて綺麗な夢だろう。
光の満ちる大地で、彼の英雄が微笑って居る。その名に相応しく、耀くように。
ぱちりと音がするほど、はっきりと目醒めを自覚した。
瞼を押し上げると何故か重たげな睫が震えて視界が僅かに揺らいでいる。嗚呼、そうだ。この身はガラクタだった、とエミヤはひどく客観的に自分の状況を把握して、眼に魔力を通す。
ぱちり、ぱちり。瞬き数回分の間。
鷹の眼ほど視力を強化する必要は日常生活上必要ない。けれど幾度か瞬きしても視界がゆるくぼやけるのは治らず、首を傾げてみた。
そういえば以前もそうだったが、何故に睡眠を必要としないサーヴァントが眠っているのか定かでない。そんな現状。
内心の疑問に比例するように更に首を傾げると、落ちていた前髪が額にかかった。それが少しくすぐったい、と眼を細めて、ようやく異変に気がついた。
さらりと流れた髪が触れたものに添って撓む。それは真白くてあたたかなぬくもり。
視界がぼやけているのは躰の所為でも視力の所為でもない。思い至って愕然とする。
ただ間近にある存在が近すぎて焦点を結ばなかっただけだ。未だに寝惚けていたら、そのぬくもりに擦り寄ってすらいたかも知れない。
事実に気付いた瞬間、エミヤはがばりと上体を起こしていた。否、起こそうとして動きを阻害された。主に、彼を抱え込むように腕の中に捕らえている者によって。
「……ん~……?」
寝起きの何処かまろい甘えるような喉声が何ごとかを呟いて、特段よく聞き取れはしなかったが、その声音だけで体温が急上昇した錯覚をエミヤは覚えた。そしてゆるゆるとした力が加わって、ぬくもりが離れることを惜しむように強くしなやかな腕が彼を絡め取る。
刹那、思い切り腕を突き放してエミヤは寝台から転がり出ていた。たったそれだけの動作に動悸がして、偽りの拍動を刻む鼓動が逸る。
――ない、これはない。
何時ものことながら往生際悪く内心言い聞かせるように胸中に何度も呟いて、軽くかぶりを振る。眩暈がするような錯覚を抑え込んで、手近に転がっている衣服を拾い集めて身につける。咄嗟に纏いかけた概念武装を思いとどまったのも、哀しいかな、彼の自覚なき慣れゆえだった。
「……嗚呼、朝食の支度をしなくてはな」
ぽつりと憶えず、声を零す。
彼としてはほぼ完璧な現実逃避に近いだろう。だがサーヴァントに人間と同じ食事は必要ないと豪語していた頃からしてみれば、格段の進歩である。それは健啖家の騎士王と同じくらい彼の作る料理を楽しみにしている眼前の男の存在が大きいのだが、無論、それも本人の自覚が伴わなければ致し方ない。
シャツのボタンを留め終わると、褐色の肌に残された痕も隠される。そっと知れず溜め息を吐いて平常心を取り戻す素振りを見せ、エミヤは何の感慨も見せずに部屋を後にした。
ぱたり、と扉が閉まる瞬間。眠っていたはずの男が、ゆるりと深紅の双眸を開いて彼を眇め視たことも気付かぬまま。
「……やれやれ」
此方は完全に扉が閉まったことを承知で、隠しもしない盛大な溜め息を落とす。そして片肘をついて起き上がると、ベッドヘッドに放り出してあったままの煙草に手を伸ばした。
喩え忘れ果て摩耗していたとしても、生前から慣れ親しんだ作業は自然と彼の心を落ち着かせる効果を持っているようだ。手慣れた素振りで庖丁を握り、淡々とまな板上の食材を下ごしらえしてゆく。鍋に湯が沸く直前を見計らって鰹節で出汁をとる。一煮立ち。あげた鰹節は後で和え物に使うのだ。
簡易な仮住まいとなる住居のコンロは、数も少なく火力も弱くて不満が残る。だが朝から本格的に何かを作る理由も無いので、現状では問題がない。
慥かクー・フーリンが釣ってきた魚の残りを捌いて冷蔵庫に入れていた筈、と具材を鍋に流し入れて即座に踵を返す。ついでに味噌と豆腐と卵もまとめて取り出した。
具材に火が通るまでに卵をとく。そんな合間に、そういえば卵の味付けや焼き加減で注文をつけられたことがないなぁとぼんやり考えていたとしても、手は止まらない。
今日はだし巻きにしてみようと模索しながら、掌上で切った豆腐を入れ味噌をといて、煮立つ前に火からいったん下ろす。魚の前に卵だろう。
換気扇の稼働する音を聴きながら、フライパンに手を伸ばしたところで背後の扉が開く。
「着替えて、顔を洗ってきたまえ」
振り返りもせずに告げて、食用油を取り出そうと屈んだところに影が落ちた。
ふっと自然に顔を上げると、ずいぶん間近に紺碧と紅玉石。次いで、ちゅ、と場違いなほどに可愛らしいリップ音が続いた。
茫然。
そう言葉にするのが相応しい表情で眼を見開いたまま固まっていると、ぽふぽふと武人特有の大きな掌が彼の頭を撫でていった。
「おはようさん、エミヤ」
そして悪戯が成功した子どものような笑顔を残して、そそくさと洗面所に消えていく。
――なんだ、今のは。
硬直すること数秒。思考を放棄すること、更に数秒。何時の間に背後をとられたのだろうと首を傾げかけて、火にかけたままのフライパンの存在を思い出し慌てて立ち上がった。
「しまった!」
即座に濡れ布巾を用意して、その上に熱しすぎたフライパンを置く。じゅっと如何にも熱そうな音がした。
多少のタイムロスがあったが、作業工程に問題はない。
無理矢理、自分に言い聞かせて程良い熱さになったフライパンに油をひいた。此処にはアルミホイルやキッチンペーパーなんて代物の用意はないことは百も承知だ、だが些末なこと。エミヤの頭の中は、そう繰り返し己を宥めすかしている時点で平常とはほど遠い。そのことに幸い、当人だけが気付いていないだけだ。
畢竟、ジーパンにシャツを引っかけただけのラフすぎる格好で身支度を終えたらしいクー・フーリンが、ダイニングの椅子に何時の間にか腰を落ち着けていたことにも気づかない程度には。
「今日もイイ匂いだな」
行儀悪くテーブルに頬杖をついて、クー・フーリンは幸福そうに睛を細める。ひとりごちるように呟かれた科白にビクッと我に返って、その拍子にエミヤの手元が跳ねた。一瞬だけ宙に浮いた卵は、彼の手によって綺麗に丸められて形を成し、事なきを得る。
「あ、嗚呼。もうじきだ、食器を出しておいてくれないか」
内心の動揺を隠して、さらりと何ごともなかったかのように言葉を繋ぐ。炊飯器が切れた時間を考えると、慥かにそろそろ時間的にも頃合いだ。
「後は魚を焼くだけって?」
「朝は焼き魚の方が良いと言っていたのは君だろう?」
ある特定の劇物を除き、和洋中の調理法にこだわらない、というより美味しく食べられれば文句など欠片もないと胸を張った眼前の男が、日本食らしい朝ご飯が良いと言ったのだ。正確には、何時だったか。『お前が食べていたような朝ご飯を食べてみたい』だったかも知れないが、定かではない。
「嗚呼、そうだったな」
そう、笑んで。
その時と変わらぬ笑みに何故か胸が騒ぐような心地がして、一瞬だけエミヤは息を飲む。ひどく嬉しそうに、自然に微笑む姿が。一番最初に戦場で見た姿と重ならなくて、もう幾度目かに見慣れたはずなのに、どんな反応を返して良いものか対処に困る。
まるでおままごとのような、夢うつつの生活。平和な夢。
サーヴァントは夢を見ない、筈なのに。
騒ぐ胸の内を抑えきれずに、本当はこれすらも必要ではないだろう呼吸ですら苦しい。それは錯覚だと、冷静な頭の何処かが常にエミヤを断じているのに。
「……ぁ、今日は……だし巻き卵に、してみたんだが、」
乾いた舌をかろうじて動かして、拙い説明と共に眼を逸らす。平静を装っても、途切れがちになる言葉が明らかにぎこちない。
「ん、そりゃ楽しみだ。お前の作る料理は何でも美味いから、あ、皿ってコレで良いか?」
僅かな手元の震えを見なかった振りをして、そつなく差し出される陶器皿に卵を移す。綺麗な焼き色と、鮮度を伝えるような明るい黄色のコントラスト。薄色の陶器に乗せられただけで、ほんわりと白い湯気が立ち昇る。
「……何か、嬉しいな。こういうの」
知らず同じものを視ていたのか、ぽつりと呟く傍らの男の科白に知らず視線が吸い寄せられる。何処か優しい眼差しで深紅の双眸を和ませている白皙の横顔は、けして伝承の中の英雄の顔をしていない。
「最初は二度目の生を望むなんて莫迦だと思ってたんだがな……だってそうだろう?俺たちは既に死んだ身で、しかも分霊だ。この記憶は、本体に戻ればただの記録として蓄積風化する。でも、な……違ったんだな」
何処にでもある、そして何処にもない、幸福な日常とやらの色。
憧憬を秘める目差しで、彼は今を生きる人々には何でもないだろう小さな物を視つめる。
「俺の世界には、なかった色、なかった世界。知ることのなかった生活、視たこともなかった文化。俺は此処に呼ばれたから、それを見ることが出来た。感じることが出来た。俺の知る後も世界は続いてて皆人はちゃんと生きて笑ってて、俺たちには仮初めだと解ってても、それだけがこんなに嬉しいもんなんだな……」
まぁ、常日頃からそんな小難しいこと考えてるわけでもないが。
なんて言葉で誤魔化すように締めくくって、神話に語られる大英霊は日常風景の中に溶け込んでゆく。けれどエミヤには、その言葉は泣きたいほどの真実だった。
しみじみとした穏やかな声音の余韻が耳に残っている。言葉を返すどころか、相槌ひとつ打つことも出来なかった。
須臾の間だけ、己の手が真紅に染まって視えた。
この夢のような箱庭は、穏やかな平和で彼を断罪し続ける。見知らぬ新鮮な幸福に微睡むことなど、彼には赦されていないのだと。
この夢は、かつての彼が己の手で切り裂いて振り捨ててきたもの。置き去りにした、夢の残滓。失われた大切なもののかたちを、浮き彫りにして彼を責める。
エミヤには、何故己が今、彼の傍らに居ることを赦されているのか。何故、彼という男が自らの傍に居ることを認めているのかが、未だに理解できない。
行き場のないもの同士が身を寄せ合って、与えられた役割を、夢の終わりを、待つだけだった筈なのに。ただ見届けることがさいごに残された時間の意味なのに。
誰かの紡ぐ優しく残酷な夢。総てを与え、総てを奪う。まるで偽りの神。
嗚呼、それでも逃れたくて逃れたくない。この箱庭の終焉を本当に心から望んで、そして望んでいないのはエミヤも同じだったのかもしれない。
「……おーい、冷めるぞ?」
無言のまま遠い目をして立ち竦む彼に、ダイニングから声がかかる。気がつけば、思考とはまったく乖離したまま、躰は勝手になれた手順で作業をこなし魚を焼き終えていたらしい。シンクの横の台に盛りつけられたそれは運ばれるのを待っているようだ。
「すぐに行く」
端的に返して、コンロの火を落とす。菜箸を持ち直して形を整え、その傍らで温め直していた味噌汁を椀によそう。小型の丸盆にあれこれと乗せてテーブルへと移動すると、何時の間にか茶碗には御飯が盛られ、湯飲みからは緑茶の馥郁たる香りが漂っていた。
「嗚呼、すまない」
「ありがと、だろ?」
椅子を引いて席に着くと、つい口癖のように出てしまった言葉を律儀に訂正する声。その棘のない雰囲気につられるように苦笑して、小さく謝意を述べる。すると驚きに瞠られた瞳を見なかったことにして、箸を揃えた。
「いただきます」
「お、おう。いただきます」
慌てて両手を合わせる姿を視て、笑みが滲む。別段、そんなところまで気にせずとも、食前の作法ひとつで目くじらを立てたりはしないというのに。
何時の間にやら、示し合わせたようにそうすることが当たり前の風景になっていた。
慥かにエミヤとて丹精込めて作った料理を雑に穢く食べられるのは腹立たしいが、その点において眼前の男はこの上なく及第点だった。実に美味しそうに、聊か早食いだとは思うが嬉しそうに味わって綺麗に食べる。文化圏の違いはどうしたと問いたいほど、箸を使って器用に魚の小骨を選り分ける姿など視ていると、これが本当にエミヤの胸を魔槍で穿ったアイルランドの英霊かと思うほどに。
子どものように喜色満面に卵焼きを頬張る顔を微笑ましく眺めて、エミヤはふと今朝の夢を思い出していた。否、夢と仮に呼んでいるが、夢を紡げない身で視る其れはきっと睛の前の男の記憶だったのだろうと、其処まで思って刹那の疑問が湧いた。
再度、記憶のフィルムを巻き戻すように脳内に映像を再現させる。
それが仮令、睛の前の男の――クー・フーリンの記憶だというのなら、何故。
クー・フーリンを見ている誰かのために、彼は振り返ったのだろう。記憶ならば、彼が彼自身をあの視点から視られるはずがない。
映像の中の、果てしない蒼穹と草原。
其処に佇むのは金糸銀糸の刺繍を施した上質のローブを身に纏う、蒼い髪の男。鍛えられ引き締まった体躯は、細身でもしなやかな戦士のもの。笑む双眸の深紅は貴き神性の証。見慣れた耳環が硬質な金属特有の光を跳ね返し、真白い肌に彩を添える。何より振り返った彼の容貌を、逆光如きで見紛うことなど有り得ない。
まじまじと顔を凝視されながら食事を続け、ついに気付かぬふりも出来なくなったクー・フーリンは顔を上げた。視ればエミヤは先ほどの位置から寸分たりとも動いていない。
「エミヤ、箸が止まってる」
ぽそりと突っ込むと、はっと我に返ったようにエミヤが鋼色の瞳を瞬かせた。ふるりと一瞬かぶりを振ると、撫でつけられた雪灰色の髪が柔らかそうに少しだけ揺れる。
次いで彫像のように固まっていた唇から、ふぅと長い溜め息が零れた。
「何だ、考え事か?」
まったく箸を進めていない食事を眺め遣って尋ねると、いいやと首が横に振られた。だが何もなくて、他者の顔を穴が開くほど視つめたまま硬直しているものか。
その疑念が何を言わずとも顔に出ていたのだろう、微苦笑と共に箸と汁碗を持ち直したエミヤが一口、口をつけてから開く。
「いや、分霊も――サーヴァントも夢を見るのかと思ってね……」
「なんだそりゃ」
「たわいないことだ」
朝食時に哲学か、と突っ込んで混ぜ返そうとして、止めた。
何となく椀にくちづけられた唇がゆっくりと動くさまに魅入ってしまったからに過ぎない。精悍な褐色の肌の中に在って、色を淡くする唇はひどく柔らかそうにみえた。けれど声音に含まれた響きに、らしくなく言葉を呑み込んだのも慥かだった。
互いに抱えるものは多くとも、言葉で交わせることはひどく少ない。
「だから、君までつられて箸を止めることはない。クー・フーリン」
窘められるように、宥められるように、穏やかに言葉を継がれて更に二の句が継げなくなる。ふせられた雪灰色の睫の下、鋼の瞳に浮かぶ色はうかがえない。
「君の言ではないが、冷めると味が落ちるぞ?」
「そりゃ困る」
ふ、と皮肉を含まぬ僅かな諧謔の気配に目線をあげる。何となく瞬間だけ重なった視線で、互いにそれ以上の言及を避けるように食事を再開した。
といっても、クー・フーリンは最後の一口だった味噌汁を一気に呷っただけだが。ふぅ、と息を吐くと笑いを含んだ声が問いかけてきた。
「冷めるほどの量もなかったか。それで、今日はバイトの予定があるのかね?」
「嗚呼、今日の俺はウェイターの兄ちゃん」
「では新しく入った茶葉があったら頼みたい、あちらの主人の審美眼は信頼できる」
了解、と頷いて席を立つ。
何故だか何時の間にやら知り合いが常連客として増えている某喫茶店の偏屈店主と、エミヤは紅茶葉の趣味が非常によく似ているらしい。らしいというのはエミヤと店主が、互いに全幅の信頼を置いているところからも明白だ。どんな経緯があったのかをクー・フーリンは知らないが。
「あ、そうだ。洗いあげは」
「いいから、食器だけ流しに出しておいてくれ。君は着替えがあるだろう?洗濯物も忘れず出しておいてくれ」
「…………了解、」
言いさしの科白を総ざらいかっさらわれて、更に先のことまで釘を差されて殊勝に頷く。戦時を離れてこんな生活の中に在る時、時折互いが何の英霊だったのかを忘れそうになる瞬間だ。必然、クー・フーリンの溜め息も大きくなる。
「今日はシフト早い方だから、一緒に飯食ってられなくて悪い」
早く帰れる分、早く出るのだから仕方がないのだが。けれど僅かながらに何某かの名残惜しさを感じながら告げると、エミヤの睛が一瞬大きく見開かれた。
次いで力が抜けたようにカタンと茶碗と箸がテーブルに戻されてしまう。つ、と逸らされた視線に面食らいつつ、それでも不思議に思って顔を覗き込んだ。
「……エミヤ?」
「あ、いや。何でもない、気をつけて」
「……おう」
戸惑いながらもぎこちなく頷いて、何やら気恥ずかしい気がして口を噤む。心なしか顔が熱い気がして口元を手で覆うと、同じように視線を逸らした。
常日頃はまったく気にならないはずの沈黙が、少々肌に刺さるほど痛い。
「じゃあ、」
「あ、そうだ」
つい何でもないことを口に上らせようと気が急いて、口火を切ったのも同時だった。顔を見合わせて互いに動きを止める。気まずい。限りなく、気まずい。否、気恥ずかしい。
凝乎と見つめ合って、どちらともなく半眼になる。
「何だね?先に言いたまえ」
「いや、お前が言えよ」
「先に尋ねたのは私の筈だが」
睨み合っても埒が明かない。致し方なく溜め息を重ねて、クー・フーリンは頬を掻いた。
「たいしたことじゃねぇよ、茶葉のリクエストなんかあるかと思って」
普段、美味しい御飯を提供してもらっている側としてはリクエストがあるなら応えたい。ただそれだけの意図で発せられた言葉も、意外そうに瞬かれて継ぐ言葉を失う。
ぱくん、と空気を飲むように開いて閉じる。何かを言いかけて呑み込まれた科白と一緒に、居心地悪く身じろぐと、半ば口を開けたままだったエミヤがハッと我に返った。
「あ、いや、すまない。何でもいい、ではなくてだな……そう、そうだ。君の好きな、いやお勧めの茶葉などあればだな……」
「わかった、解ったから落ち着けお前は」
取り繕っているつもりがないのか、普段の鉄面皮と皮肉屋の猫が根刮ぎずり落ちてる。いや此処は普段通りに、『君が気を効かせてリクエストを訊いてくるなど明日は雨かね?』くらいの言葉が返ってくるものと覚悟していただけに、これは相等に焦る。むしろつられて動揺したまま早口になる。
お互いにどういうことだこれは、と内心突っ込んでみても始まらない。
「新しいヤツは必ず試飲させてくれるし、好きそうなの選んでくるさ。で、そっちは?」
「あ?嗚呼、私はたいしたことでは……」
「此処まで来たら言っちまえよ、すっきりしねぇから」
これで夕飯は何が食べたいか尋ねられた日にはどうしよう、と内心の動揺のまま尋ねる。
だからクー・フーリンが少し拗ねたようにぶっきらぼうに促すと、エミヤはしばらく躊躇った後、あからさまに上目遣いにちらりと彼を伺った。
わざとではない。わざとではないと解っているから、あざとくない。
何だか良く解らない単語を何度か心中で繰り返し、己に冷静を言い聞かせる。しかしよくよく考えてみれば、クー・フーリン自身の身長すら超える筋肉質で強い武人を心底可愛いと思うなんてそんなある筈が――と、重ねて言い聞かせようとした言葉で自ら撃沈した。
要するに、それだけ必死に言い聞かせなくてはどうにもならないくらいには、そう想っているというだけだ。そんな自分を謀らず露呈してしまった、己の短慮に眩暈がする。
エミヤはといえば、未だ言い淀みながら時折クー・フーリンの様子を窺っている。口にして良いものか余程ためらわれる内容なのか。
「……ん?そんなに言い難いもんか?」
憶えず心配になって顔を覗き込むように身を屈めると、傍目にも明らかなほど目許に朱を昇らせた。あからさまな変化に、むしろエミヤ以上にクー・フーリンが動揺した。
「いや、そういうわけでは……あるのか。そのだな、とても不躾な願いだと言うことは重々理解しているのだが」
「おうよ、だがどうした?」
「……ぅ、」
だから違うのだ、とエミヤに視線で訴えられても何が違うのかがよく解らない。何となく主従というのは、こういう時にまで似るものなのか、あかいあくまとアーチャーというコンビが特種なのか定かではない。何となく耳まで紅くなっているような気がして、思わず手が伸びる。
「こ、こら!何をする」
「はっきり言わねぇお前が悪い」
そう言いながら制止の手をないものとして、やわらかな雪白の髪も、熱を持って温かな頬も、思う存分掌と指で撫でてくしゃくしゃにする。
「じゃれるなっ」
「じゃれるって、お前なぁ……」
思わず己の禁句を自ら口にしそうになってクー・フーリンは溜め息を呑み込む。そして闇雲に避けようと伸ばされる手をすり抜けながら、続く言葉をすり替えた。
「なぁ、おねだりしてみろよ」
何か言いたいことがあるならば罵詈雑言でも悪口雑言でも皮肉嫌味の応酬でも、多少は慣れた感が否めない。何でもイイからほら、と促せば低く唸ったエミヤが観念したように嘆息した。そして乱れて落ちた前髪の下から、恐る恐る見上げられる。
「ん?」
こくりと思わず飲んだ息を悟られないように笑みを浮かべてみせると、恥じらうようにふせられた睫が俯く頬に淡い銀の影を落とした。
「……を、」
そして聞き取れないほど小さな声が、ぽそぽそと何ごとかを呟く。座るエミヤと立っているクー・フーリンではやはり距離が遠いのか。何も考えず位置に合わせるようにしゃがみ込むと、視線すらそらせなくなったエミヤが赤い顔でクー・フーリンの腕を掴んだ。
意を決した様子に言葉を挟まず続きを待つと、隠して紡がれた科白は斯くの如くだった。
「投影させてくれ」
色気も素っ気もない。つまりはそういうことで、エミヤのただの悪い癖だった。
これで相対しているのが英雄王辺りなら即座に堪忍袋の緒をブッ千切っていたかも知れない、知れないが、哀しいかな。相対しているのは何時ものことに慣れたクー・フーリンだった。
「嗚呼、うん――ま、いんじゃね?それくらい何時でも」
解っていながら思わせ振りな態度に少しだけ期待してしまった己に腹を立てつつ、力なく双肩を落とすに留まった。瞬間、ぱぁっと顔を明るくするエミヤの至極稀少な衒いない笑みを間近で眺めつつ、溜め息を堪えられないクー・フーリンだった。
「今からでも構わないのか?」
そして即座の問い。先程までの躊躇いを捨てたエミヤの清々しいまでの声音。喜色を隠そうともしない姿に幼さを垣間見て和みつつも、ちらりと壁掛けの時計を見遣る。
「ん、そんな時間かからねぇんだったら大丈夫だぞ」
「そうか、バイトの時間だったな。なるべく手早く終わらせる」
うん、と力強く頷いてエミヤは立ち上がった。やる気が眩しい。
つられて手を引かれるように立ち上がりながら、クー・フーリンはそんなに嬉しいものかと考える。時折、夢の中で垣間見る剣の丘は視る度に胸を締め付けるものがあるのだが。武器情報を蒐集することに関しては、単純に楽しいのだろうか。
僅かな疑問を抱きながら、気を取り直すために首をこきりと鳴らす。そして愛槍を呼び出そうとして、基本的な確認を怠っていたことに気がついた。
「つーか、俺はゲイ・ボルク出しときゃいいのか?」
「……それまで持ち出してくれるのか?」
はて、とお互いに首を捻る。だがクラス・ランサーとして固定されている以上は現界中に呼び出せるのはそれひとつだ。他の物を出せと言われても困る。
首を捻りつつも、手に馴染んだそれを呼ぶ。即座にクー・フーリンに呼応して顕現した愛槍の柄をトンッと床につくと、その姿をエミヤが凝乎と視つめていた。
夢見るような、憧憬を孕んだ目差し。眩しいものでも視るように両眼を眇めて、微かに微笑みさえ浮かべている。
その笑みの向かう先が己の槍だけという現実が、聊かならずクー・フーリンの心を苛立たせた。知らず小さく舌打つ。
すると己の手際の悪さだと感じたのか、エミヤが慌てて表情を取り繕って口を開いた。
「クー、君は其処に立ったままで――出来れば、概念武装を纏っていて欲しい」
「概念武装?」
「嗚呼、その方が想念固定がしやすい」
また知らぬ概念。つまりは槍を持った状態の持ち主の情報も必要と言うことだろうか。
そんなものかな、と考えを巡らせながらクー・フーリンは眼を閉じ、開く。たったそれだけの動作で、ラフなジーンズ姿は掻き消えて、蒼い概念武装が彼の躰を覆った。
「……この姿で何もせずお前の前に立ってるだけってのも、妙な気分だ」
苦笑しながら向き直ると、見慣れた姿に頬を緩ませたエミヤがひとつ頷いた。そしてすぅっと呼吸を静めて整える。常人の精神集中がそうであるように、僅かに瞼をふせて手を伸ばす。エミヤは赫の概念武装を纏っていないというにも関わらず、そうして眼前で魔力が高められてゆくと、知らずクー・フーリンも己の槍を持つ手に力が籠もった。
紅玉よりなお紅い双眸がゆるりとエミヤを眺めて、眇められる。単純に気分的な問題で、こんな真剣な表情の武人を前にして打ち合えないのは勿体ないなぁというところだ。ざわりと、集束する魔力に肌が騒ぐ。
「――――投影、開始(トレース・オン)」
静かな室内に響く、静謐の声音。
「基本骨子、解明。構成材質、解明。構成材質、補強。憑依経験、共感終了」
低く耳障りのよい声が、謡うように宣げゆく。
鋼色の瞳がゆらゆらと、此処ではない何処かを視つめるように、金と銀と――そして彼の身に纏う蒼と朱とを映して揺れる。
それは不思議な気分だった。ただ物質構成を霊子的に解析されているだけではなく、彼自身をエミヤの魔力が包み込んでいるかのような。
「全工程、完了(トレース・オフ)」
だから作業工程の終了を告げる、その言葉を少しだけ名残惜しく聞く。そしてゆっくりと開かれる白鋼の双眸と引き合うように同時に睛を開く。
「嗚呼、やはり夢に視たままだ……素晴らしいな、」
感歎の、溜め息。何処か恍惚の響きを持つそれが、彼自身に向けられていたらどんなに通いだろうとクー・フーリンはその刻悉に考え、そして我が身の違和感に気がついた。
「……ん?何だこれ」
作業工程終了の言葉の後も、エミヤからの魔力の流れが途切れていない。疑問に感じて不意に身じろぐと、身の丈を超えるほどに長いローブがふわりと揺れた。
はっとして視遣れば、何処か悪戯を成功させた子どものような満足げな顔でエミヤが微笑って居る。その両眼に映った己の姿に二度驚いて、思わずそのまま歩を進めた。
「私に再現できるのはこの程度だが、君の感想は如何かね?」
「……どうって」
どうなっているのだろう、とそちらの疑問が先に立つ。魔槍の投影で、こんな副作用が出るとは聞いていない。だがエミヤはまったく気にしていないようで、間近に眺めたその双眸に映っている己の姿にクー・フーリンはまじまじと見入った。
何処かで視たことがある姿だ、と感じるのだが詳細がわからない。憶えず片手でエミヤの頬を固定して、その睛を鏡のように凝乎と覗き込んで観察する。
「……クー?」
戸惑う声が耳朶を打つ。そういえば何故かエミヤの耳朶が赤いな、などと余所事を考えながら。ふと思い至った答えに、幾度めかに驚愕を覚えた。
見覚えも何も、これは座に在る本体がよく形取っている装束ではあるまいか。
「クー・フーリン、怒ったか?」
息がかかるほど間近にまじまじと視つめられて、流石にエミヤの声が弱くなる。
「いや?」
まだ程近くに双眸を仰ぎながら短く否定を返す。すると、すこしホッと溜め息が零れた。
現状の理解が追いついていないが、取り合えずエミヤは戸惑っているようだ。原因は不明のままだが。嗚呼、原因がわからなければ未だに魔力流が途切れない相手に直接尋ねれば良かったのだと、その刻になってようやくクー・フーリンは遅い結論を出した。
「ゲイ・ボルクの投影にこんな副作用ってあるのか?」
熱くなっている頬をなだめるように撫でながら問いかければ、きょとんと子供用に大きく睛を瞠られた。ぱちりと瞬く度に、映り直す己の姿が現界したままの分霊のままであることを確認する。だがそれに対するエミヤの回答はにべもなかった。
「何を言っている、私に神造武器の投影は出来ない」
「してたろ、騎士王の嬢ちゃんの」
「アレは特殊例だ、余程の条件が揃わねば無理だ――……む?一度この心臓を穿った君の武器なら、或いは可能なのか?」
何せ躰が覚えている。
さらりと危険なことを呟いて、考え出したエミヤを余所にクー・フーリンの疑問は深まるばかりだ。
「じゃあ何で俺はこんな格好になってんだ?お前未だこれに魔力注ぎ込んで形にしてるだろ?」
「何故って、キミが良いと言ったから再現したんだろう?それに無限の剣製からの持ち出しではないのだから、再現に一定量の魔力は必要だ」
会話が噛み合っていない上に、わけがわからない。疑問ばかりが募って、とうとうクー・フーリンは己の愛槍を掻き消すと、両手でエミヤの頬を包み込んで額を合わせた。
「だから、お前が な ん で 俺にこんな格好させてるのか訊いてるんだが」
こつ、と額同士を合わせたまま視線を合わせると、ぐっとエミヤが言葉につまる。
「……そ、れは」
「ん、それは?」
鸚鵡返しに尋ね返すことで促して、逃げることは赦さないと睨め付ける。するとあちらこちらに視線を逃そうとしていたエミヤが最終的には根負けして、息を吐く。
「夢で視た……その姿を君に投影してみても良いかと尋ねたら、良いと答えたのは君だ」
不承不承の苦い声が、そんなことを告げて、クー・フーリンは浮き立つ心を抑えるのに必死にならざるを得なかった。
「悪ぃ、声が小さすぎて前半部分がまったく聞こえて無かった」
「……ッ!君というヤツは」
「だから悪かったって……」
クー・フーリンに届いていた声は、投影したいだけだ。君の武器を投影したい、と勘違いしたのはクー・フーリン自身だが、まさかクー・フーリンに武器以外のものを投影してみたいとは思いも寄らなかった。
苦笑すれば、憤懣やるかたないと逆に睨め付け返してくる鋼の瞳に愛しさが募る。その双眸に映った己の姿には、やっぱり苦笑しか零れないが。
「一度垣間見ただけで、良く此処まで再現できてるな。やっぱ凄ぇよ、お前」
「まったく褒め言葉に聞こえんのだがね、というか!人の睛を鏡代わりに使うな!鏡なら洗面所だ!其れ以前に自分で服の委細を顧みて感想のひとつも寄越せば良かろう」
赤い顔をしたまま怒られても迫力は残念ながら常の半分もないだろう。しかし完全に臍を曲げたらしいエミヤの頬に謝罪代わりにくちづけて、そのまま懐くように首筋に額を擦りつけた。すると其処にも僅かな違和感。額当ても、ともすれば髪留めも別に再現されている可能性がある。何せクラスがランサーという条件も相まって、己の得物は槍ひとつ、そして概念武装も軽量型速度重視の戦闘型だ。無論、その方がクー・フーリンの戦闘スタイルの好みにも合っている。
「だけどなぁ、それだけでこんな魔力消費しなくったって……」
「悪かったな。だが魔力供給が凛であるならばこんなことはせん、聖杯バックアップあってこそのお遊びだ」
言葉の端々に棘がある。一度曲げた臍は簡単には元に戻ってくれぬものらしい。クー・フーリンは微苦笑を深めた。
「いやだってなぁ、そんなの……俺に一言『視たい』って言えば簡単だったろうに」
「――は?」
堪えきれずエミヤに懐きながら笑い出せば、当の本人は唖然と口を開けていた。余程意外だったのだろう。
くっく、と喉を震わせながら顔を上げて、褐色の肌でも誤魔化しきれぬ朱に染まった男の容貌を間近に視つめる。日本の諺で、鳩が豆鉄砲とかいうらしい言葉が大変よく似合うといったら、干将・莫耶の一刃でも繰り出されそうだ。
「流石に得物は槍以外は出てこねぇけどな……嗚呼、本当にこれよく出来てるな」
するりと離れて、未だにエミヤの魔力で形作られているローブの端を持ち上げ恭しく口付ける。布の質感、刺繍ひとつとって寸分の遜色もない。流石に剣帯の先に剣はないが、それでもローブを留める黄金と紅玉石のブローチでさえ見事の一言に尽きる。
ゆっくりと額当て、手っ甲、ローブの下の甲冑具足、そして更に下の正装に触れて確かめる。細かな刺繍の意匠に違いはあるものの、それもエミヤなりのアレンジかと思えば愛おしいばかりで頬が緩む。
あの感嘆の溜め息は、あの憧憬を孕んだ憧れの目差しは、己の魔槍だけでなくクー・フーリン自身に注がれてていたのだと、今は容易く理解できるから。
けれどあまりにも愛おしそうに一つ一つを触れて確かめているからだろうか、流石に羞恥でいたたまれなくなったらしきエミヤが眉間に皺を寄せた。
「も、もういいだろう?戯れに付き合わせて悪かった」
怒っている素振りで吐き捨てても隠せていないのは、端々に垣間見える動揺ゆえに。含羞に頬を昂揚させて、怒鳴る姿は何処か幼い。
ふわりと顔を上げて笑みを返すと、いたたまれず視線を逸らすのがその証拠だ。だが次の瞬間、何の名残もなく彼を包んでいた魔力と共に装束が掻き消えた。
「何だ、もう消しちまうのか?勿体ないな」
「ばっ……アレは私の魔力で出来てるんだ!」
それはそうなのだが、とクー・フーリンは溜め息を吐いて、落ちてきた髪を掻き上げた。そして噛みつきそうな表情で此方を視ているエミヤに軽く微笑ってみせる。
「ん、じゃあ、お前が魔力使って編み上げてくれた分、俺も見せてやるよ」
「……は?」
にっこりと邪気なく微笑むと、唖然と口を開いたままエミヤが言葉を失う。何のことだと問いたいのは百も承知で黙殺すると、クー・フーリンは蒼の概念武装を纏ったまま中空にするりと繊指を伸ばした。
「――『 ᛋ Sowelu 』大いなる陽光、我が父よ。『 ᚫ Ansuz 』神を真似る影。神は総ての言葉の源、叡智の支えなり。我が慰め、贈り物は総ての者への祝福にして、歓びなり」
ゆっくりと普段は口にしない詩篇も交えてルーンを描く。18文字総てを使えば完全だが、うつし身に其処までの力は必要ない。ただ足りぬマナの分だけは半分の血を引く父の力に甘える。物質世界においても、かの加護は世界に満ちている。周囲を染めていた光が収束する、力となって彼を包み込み刹那だけ室内に閃光に似た輝きが満ちた。
エミヤが眩しそうに両眼を手庇で覆う、次いで室内の光源がひとつの姿を形取った刹那。ふわりと辺りに宝石を散らしたような光が燦めく。
「……っと、こんなもんか?」
効果は半減、くらいか。
ひとりごちるように呟いたクー・フーリンの声音は、半分ほどしかエミヤには届いていなかった。エミヤが思い描いた複製物と寸分の遜色なく、否、満ちる力と輝きは己の投影物など比ではなかったろうと思われた。
其処に在ったのは、光だった。
戦闘時のクー・フーリンがアルスターの猛犬の名に恥じぬ獣性と攻撃力を秘めているならば、睛の前に佇む人物は光の御子の異名を恥じることなく再現していた。
エミヤが言葉もなく視つめていると、しゃらりと音がするほどのローブと流したままの髪を揺らしてクー・フーリンが微笑う。
蒼く、蒼く、蒼い。真白く、そして何より紅い。綺麗だ。単純な言葉しか出てこない。
それだけで魔力を秘めているような金銀の装飾と宝石の輝きすら眩しい。否、それは慥かに魔力の結晶だろう。
夢にまで視た、否、慥かに夢で視た神話の英雄が眼前で微笑んでいる。ふっと既視感を持って甦る、夢の、その続きのような。
「――エミヤ」
どうだ、感想は。
やはり半分以上が飽和した頭の中には言葉として意味を成して入ってきてくれない。呼ばれた名に鼓動が止まる。否、この場合は霊核が砕けそうだと彼は思った。
とただ魅入っていると、不思議そうに小首を傾げてゆったりとした所作でクー・フーリンが近付く。そして先ほどと同じように、そっとエミヤの頬に触れた。
「……ッ」
瞬間、ビクッと緊張のあまり過剰反応で跳ねてしまった肩は見逃して欲しい。けれど間近に視遣る白皙の容貌にやはり言葉が巧く紡げず、声すら出ない。
明らかに熱を持つ頬を面白そうに撫でたクー・フーリンは、微苦笑を湛えたまま囁いた。
「その反応だけで充分だ、お気に召したようで良かったよ」
何時もより深い紅色を宿す双眸までもがエミヤを映して、笑みに撓む。先ほど、クー・フーリンがエミヤの睛を覗き込んでいた時の心地はこんな風だろうか。
取り留めのない思考で言葉もなく視つめ返していると、優しく羽根が触れるように唇が重ねられた。引き込まれるように、その腕に包まれる。
あたたかいより、熱い。
一瞬だけ、光の波動が流れ込む。エミヤには鮮烈すぎる、ともすれば本気で発動されればエミヤごと消し飛ばしそうなほど力強い魔力。酩酊を引き起こして足元すら覚束無くさせるのに、心地よくて囚われていたくなる。
抱きしめ返すなど到底叶いそうもない。触れることすらためらわれる、その光。
けれどエミヤを傷つけない優しい光は、そっとエミヤを慰撫するように撫でて離れていった。余韻は、ひどく甘かった。
躰は知らず震えるほどなのに、名残惜しく瞼をふせて息を吐く。するとこつ、と額を弾かれて我に返った。
「お前な、その顔反則。俺の前以外でやるなよ?」
それはいったいどんな顔なのか。問い返す気力は今のエミヤには無かった。ただ触れた熱を確かめるように指先で唇を辿ると、つっと息を飲んだクー・フーリンが盛大な溜め息と共にぱちりとひとつ指を弾いた。すると途端に、概念武装まで完全に解いた先程までのラフな姿に戻ってしまう。
あ、と思わずエミヤは声に出しそうになった。勿体ない、と思ってしまったのだ。
慥かに今の姿の彼のことも好んではいる、その自覚もあるけれど。やはり幼い頃から憧れていた神話の英雄そのものの姿をしているのも――……そこまで考えて、ふと改めて我に返った。瞬間、音がしそうなほど一気に頭に血が上って更に堅く口を閉じる。
いったいエミヤは今、何を考えてしまったのだろうか。
重なるクー・フーリンの溜め息が先ほどよりも明らかに大きい気がした。
「あんまあっちの姿にばっか反応されんのも複雑だけどな。ま、時間だし行ってくるわ」
そしてひらりと手を振って、何ごともなかったかのように部屋を後にしてしまう。エミヤの言葉も待たずに踵を返す姿に、無論エミヤとて一言くらいは言い返したいのは当然だ。エミヤだけが余韻を引き摺っていると思われるのは大変業腹だ。
だが、と思って思わず片手で顔を覆う。
「――……反則はどちらだ、たわけ」
力ない抗議は、結局の処一番届けたい人物には届かず終わった。そして頃合いを見計らったようにへたりと崩れた足はしばらく機能してくれそうにないようだ。
そんなある日のたわいない非日常。