平井呈一と紀田順一郎 戦前と戦後をつなぐ絆/荒俣宏【寄稿・平井呈一没後50年/追悼・紀田順一郎】
※本記事では、機関紙「神奈川近代文学館」171号(2026年1月15日発行)の寄稿を期間限定で公開しています。〈2026年3月31日まで〉
荒俣宏・作家、翻訳家、博物学者
令和七年七月十五日に、本文学館の館長を務められた紀田順一郎氏が急逝された。近代文学史にあってもっとも等閑視された分野といえる「怪奇幻想文学」について、現今に見るような高い関心を得る存在にまで引き上げた大なる功労者こそ、紀田順一郎氏といえる。その紀田氏の厚意により、この種文学の戦後における名翻訳者といわれた平井呈一氏に関する貴重資料も本文学館に保存されている。平井氏はこれまでその経歴が不明であったが、本資料により多くがあきらかとなったので、ここにその経緯を祖述する。
1 怪奇幻想文学の近代化
紀田氏と平井氏が力を合わせて戦後の日本に定着させたこの文学ジャンルは、古く上田秋成、鶴屋南北、曲亭馬琴ら江戸時代の大家が中国の白話小説の影響を受けて、怪談文学として洗練させていたものの近代版といえる。しかし、時代が進むと、江戸期の怪談は煽情的な読み物に劣化し、幕末には人気をうしなう結果となった。そこで明治以後は、日本に舶来するようになった欧米の進化した近代怪奇小説に学んで、近代化をめざすのだが、紀田氏はこれを、文学における〝黒船到来〟と呼んだ。
十八世紀以後ヨーロッパには、ゴシック・ロマンスと呼ばれる怪奇恐怖の新文学が登場し、古城、幽霊、陰謀とトリックなどの要素を取りこんだスリリングな読み物として人気を得たが、多くは人間の悪意によって偽りの怪現象を起こす犯罪劇の要素も備え、いわば推理小説と恐怖小説(合理的な展開と非合理的な展開)の混合物といえる。これが十九世紀以後、合理性を優先させた推理小説と非合理な神秘を深化させた怪奇幻想小説に分化して近代小説に生まれ変わり、別のジャンルを形成した。
ちょうどその時期に文明開化をめざした日本でも、古くさくなった怪談は西洋近代小説の技法や表現を取りこんで変貌していった。ロマン派の感性や神秘主義の思想を盛りこんだフィクションの影響は予想外に大きく、たとえば日本の散文詩を改革した新体詩も、当時欧州で流行した怪奇詩「レノーレ」のような怪奇作品を手本とし、欧米語を学んだ小説家たち、たとえば森鷗外、夏目漱石らの留学組も、ロマン派の小説に等しく魅了されたのだった。
2 小泉八雲を愛した平井呈一
そんな中で、とりわけ重要な役割を果たした外国人に、ラフカディオ・ハーン(帰化して小泉八雲)がいた。彼は自ら日本を訪れ、日本の大学でゴシック・ロマンスから新たな怪奇幻想小説まで、欧米の進化した霊的な小説群を系統的に紹介した。しかも彼は、古い日本語で書かれた怪談に心惹かれ、目を圧迫する漢字の羅列や硬い文語体で書かれた文章を、いちど耳に心地よい口語的「語り」に置き換え(八雲夫人セツが語りを演じたという)、そこからふたたび情景描写や心の表現などにロマンティックな肉付けをした英文に翻訳した。「古くさい怪談」がみごとに近代小説(ただし英文)に生まれ変わったのである。
そんなハーンの小説に心魅かれた若い文学者の一人に平井呈一がいた。
平井呈一(本名程一)は明治三十五年に神奈川県保土ヶ谷町大字神戸で生まれた。程一の名は保土ヶ谷(程ヶ谷)生まれにちなんだらしい。双子の弟だったため一歳のときに東京・浜町で炭屋を営む平井家の養子となった。実父は谷口喜作といって、富山から上京し横浜で成功した西洋蠟燭商人である。文学や芝居に趣味を有し、川上音二郎一座で番頭を務め、役者としても活動した。また尾崎紅葉とも親しく交際し、『金色夜叉』の舞台台本を販売したこともあった。呈一は養子に出された後も実父と親しみ、多くの文人宅に出入りを許され、のちに佐藤春夫や永井荷風に師事する縁を結んだ。
呈一は早稲田大学で英文学を学んだのち、ハーンの怪談を翻訳する夢を抱いた。その夢は、荷風の仲立ちにより岩波文庫に二冊の八雲怪談を訳出刊行することで実現できた。しかし、若くして妻子持ちとなった呈一に、養家の没落という悲劇が襲う。生活が切迫する中で、ある女性とも恋仲となり、生活に窮するあまり永井荷風の偽筆を作成して破門される不祥事を起こし、東京にいられなくなる。昭和十九年には新潟県小千谷へ家族で疎開し、県立中学の英語教師となって糊口をしのいだ。
戦後、呈一は、東京に残した愛人に激励され、ふたたび翻訳家として文壇に復帰する決心を固めると、単身上京して愛人とともに千葉に隠棲した。ここから文学に専心する暮らしとなり、欧米の怪奇小説を体系的に翻訳出版して世に知られだし、ふたたび念願の個人全訳・八雲全作品集の実現を目指したが、中央文壇はなかなか呈一を認めなかった。ただ、八雲の長男である一雄だけが、父の作品を翻訳する呈一の相談相手になってくれた。
そんな呈一に幸運が舞いこんだのは、昭和三十七年であった。旧制小千谷中学の卒業生でベースボール・マガジン社の創業者・池田恒雄氏が、たまたま母校の創立六十年祭の記念講演を、元教師だった呈一に依頼してきた。面談してみると、池田氏もまた無類の八雲愛読者だったことを知り、意気投合した上に念願の八雲翻訳集成の刊行を即断してくれた。昭和三十九年六月、呈一全訳『小泉八雲作品集』全十二巻がついに実現を見たのだった。
3 紀田順一郎氏の功績
平井呈一が夢を果たしたこの時期に、もう一つの重大な出会いがあった。昭和三十八年秋、八雲の翻訳に没頭する呈一の田舎家に、東京から二人の青年が訪ねてきた。紀田順一郎氏(当時二十八歳)と慶應義塾大学の学友だった大伴昌司氏である。近代的な怪奇幻想文学を根づかせるために創刊する同人雑誌の顧問を依頼するためであった。呈一によれば、戦後自分を訪れてくれた最初の文学青年だったという。紀田氏は、呈一の即答を得て、これまで八雲らに紹介されながらも実際に翻訳が出たことがなかったゴシック・ロマンスとその後裔である近代怪奇幻想文学を、戦後の出版界に導入する活動を共同で開始する。
紀田氏は、昭和十年に横浜市の本牧地区、千代崎町で生まれた。白生地問屋として成功した横浜商人の家系に属し、父親は日銀勤務の謹厳な人柄であった。この生い立ちが平井氏とも奇妙に一致するのが興味深い。氏は小学生で戦時の学童疎開を経験し、若くして推理小説畑の批評家として知られ、やがて日本近代史、書籍と読書論、古典著作の復刻、さらに情報理論とデジタル技術の開発にまで活動の輪をひろげる、稀に見る広範囲な著述家となった。手がけた分野は、どれも戦後の日本文化再興に欠かせぬ新分野ばかりであった。
しかし、氏が最も心血を注いだのは、呈一と力を合わせた欧米の怪奇幻想文学の日本への定着だった。昭和三十八年十二月に同人誌「THE HORROR」を創刊したが、購読会員が一桁しか集まらず二年余で休刊した。しかし紀田氏は屈せず、近代史や読書論の評論家として縁を結んだ各出版社に怪奇小説の企画を打診しつづけた。結果、およそ五年を経て、新人物往来社が『怪奇幻想の文学』全四巻(のち増巻)の出版を請け負ってくれた。編者となった紀田氏は、ゴシック・ロマンスの元祖『オトラント城綺譚』(ウォルポール著、平井呈一訳)などの大作を世に送った。この刊行は思いがけず迎えられ、またたく間に再刊が出て最終的に七巻の集成となった。
その勢いを受けて、紀田氏はさらに「幻想と怪奇」と題した商業誌を、また国書刊行会からは古今東西の大作を四十五巻そろえた『世界幻想文学大系』を刊行し、出版界にこの分野を注目させるきっかけをつくった。
紀田氏による最後の功績は、氏が本文学館館長であった時期に成し遂げられた。恩師と慕った平井呈一の遺品・遺稿を、本文学館が受領する橋渡しを果たしたからである。荷風から悪女と誹謗されながら最期まで呈一をみとった𠮷田ふみという女性が大切に保管していたものだが、彼女の俳句仲間であった稲村蓼花氏が保管していた。従来、呈一が何も語らなかったために不明だった戦前の履歴が、この資料により初めて明らかになった。将来の研究者に資すること大なる功績と信じる。
〈機関紙171 号 その他の寄稿など〉
【新春随想】
書斎について-荻野アンナ
【寄稿・森鷗外】
「紺珠」を作る金井湛、「小紺珠」を作る鷗外-須田喜代次
【寄稿・昭和100年】
昭和の学校-黒井千次
【連載随筆】
人と本との出会い④澁澤龍彥-富士川義之
【所蔵資料紹介55】
大岡信・寺田透交友書簡 (一)大岡信書簡
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