light
pixiv's Guidelines will be updated on March 18th, 2026.
View details
The Works "【槍弓】君の愛で葬って " includes tags such as "槍弓", "腐向け" and more.
【槍弓】君の愛で葬って /Novel by そら

【槍弓】君の愛で葬って

40,051 character(s)1 hr 20 mins

『──人間に、知られてはならない』

 互いに顔と名前くらいを見知っている程度から始まる、大学生槍弓。
 愛を知らない、知ることが出来ない青年アーチャーのお話です。

※いわゆる死ネタです。苦手な方はご注意ください。

◆ ◆ ◆

 2017年7月にpixivに投稿した同名小説のリライト(大幅加筆修正・ほぼ書き直し)版です。
 素敵な表紙はぽん。様(user/23821787)に描いていただきました。大感謝…!

・1年半前(2017年)に書いた作品ですが、ずーっと書き直したくて書き直したくてやっと書き直せました!!やった!!
・王道のど真ん中を突っ走るようなストーリー展開。あまり捻りはない気がします。(でも頑張って書いたつもりです)
・オリジナルは真名呼びでしたが、リライト版では「ランサー」「アーチャー」呼びに変わっています。

1
white
horizontal

 九十分間の講義も終わりに差し掛かると、静寂に包まれていたはずの空気はどことなく緩み始める。それが更に賑やかさを取り戻すのは、終業を告げるチャイムが鳴った瞬間だ。学生たちの声はどこか気だるげに伸びきっていて、西に傾き始めた太陽は、彼らの後ろに長い影を落としている。
「アーチャー」
 早々と帰り支度を済ませた友人に声を掛けられ、青年は振り返った。講義が終わって三分と経っていないというのに、彼らはもういつだって帰宅ができる装いだ。
 褐色の肌に色素の薄い髪。アーチャーと呼ばれた青年は、奇抜というには地味に過ぎるが、人目を引くには十分な珍しい容姿をしていると周囲は言う。もっとも彼自身はそんなこと、別段気にも留めていないのだが。
「なあ、今日暇か? 俺らこれからメシ食いに行くんだけどさ、お前も一緒に行かねぇ?」
 教科書その他一式を机の上で軽く叩き、律儀に揃えたそれを鞄にしまいながら、アーチャーはすまないが、といつものように前置きをして言った。
「今日はバイトが入っていて、この後すぐに行かなくてはならないんだ。また次があれば誘ってくれ」
 その「次」はいつやって来ることやら。わかったよと返しながらも友人は軽く息を吐く。足早に講堂を後にしたアーチャーの姿を見届けると、彼はやれやれと肩を竦めた。
「……まぁた『次』か。あいつ、悪い奴じゃないんだけど、あんまり付き合いよくないよな。なあ、ランサー」
 椅子に腰掛け、ゆらゆらと背もたれを揺らしながら、何の気なしにアーチャーを眺めていた男──ランサーは「そうかぁ?」と、これもまた気の抜けた返事を寄越した。一つに束ねた青い髪と、柘榴の如く紅い瞳はそれこそ奇異とも言えるものだが、生まれ持ったもんだから仕方ねぇだろと彼は言う。棘もなく、何でもない風に。これもオレの個性ってやつさね、そう屈託なく笑う彼は、常に人の輪の中にいた。
「オレはあいつのことはよく知らねぇが、付き合い悪いっていうよりも、他にやることあるんだろ。あっさりしてるっちゃそうだけど、まぁあんなもんじゃねえか?」
 群れるのが嫌いな人間だってあらぁな。そう流す態度に、嫌らしさは欠片もない。むしろ彼の言葉には柔らかな説得力がある。だからこそ周りには人が集まって来るのだろう。
「いいじゃねぇか、次があればっつってんだ。また声かけりゃいいだけの話だろ。腹減ったから行くなら早いとこ行こうぜ」
 ぐっと伸びをし、彼は一度大きく欠伸をした。男女入り交じった友人たちは、その様子に苦笑いだ。いつも通りの仕草に「また寝てたのかよ」とひとりが肘で小突くと、返事の代わりにランサーは歯を見せて笑った。
 ひとつふたつと交わされる何でもない会話。賑やかなやりとりをした後、彼らは講堂を後にした。


 金曜の夜八時ともなると、どの飲食店も人で溢れ返る。雑踏の中、既に酔いの回ったサラリーマンもいれば、友人同士でお喋りを楽しんでいる女性たちもいる。街中が活気に満ち、人々の声は夜の街を彩り始めていた。
 アーチャーのアルバイト先は個人経営の小さなバーだ。そう言われてまず思い描くのは、カウンターに立つバーテンダーだろう。しかしアーチャーが立っているのはカウンターではなくキッチン。フードメニューの調理が、彼に任された主な仕事だ。
 料理に関して言えば、好きだという自覚はある。普段は誰に作っているわけでもないので実力の程はわからないとアーチャー自身は思っているが、常連客に言わせれば酒も料理も一流だということだから、悪くはないのかもしれない。料理をするだけならば、騒音だらけのチェーン店の方が給料はいいが、性に合うかと言えば答えは否だ。そこで決めたのがこの仕事だった。
 そろそろ溜まってきたリキュールやスピリッツの瓶は、一旦裏手に運ばなくてはならない。調理を一通り終えてしまうと、アーチャーは両手いっぱいに瓶を抱えてキッチンを後にした。肘でドアの取っ手を押し、片足を挟み込んで扉を開ける。ふう、と息を吐きながら床に酒瓶を下ろした瞬間、彼は指先に走った鋭い痛みに顔を歪めた。
「痛……っ」
 どうやら酒瓶の中に、ひび割れていたものがあったようだ。それが地面に下ろされたときの衝撃で割れたのだろう。左の人差し指から薬指にかけてざっくりと入った傷は浅くなく、アーチャーは掌まで広がっていく痛みに耐えながら、指先から肘に向けて滴る血を眺めていた。滲んだ冷や汗がこめかみを伝う。傷口が、手が、不自然に脈を打っているように感じた。
「……やってしまったな」
 短くそう呟くと、アーチャーは静かに瞼を落とした。
 
 ……ひとつ、ふたつ。呼吸はゆっくりと、深く。
 
 目を閉じていても、月の光が眩しく感じられる。頬を撫でていくのは少しひんやりとした夜の風だ。とく、とく、とく。脈打つ鼓動の音を感じながら、アーチャーは大きく息を吸って、吐いた。
 何となく夜空を見上げつつ目を開く。こんな明るい場所で見えるのはせいぜい一等星くらいのものだが、空気が澄んでいるせいか、ぽつぽつとまばらに輝く星は一際美しく思えた。
 ひとしきり空を眺めた後、緩やかに視線を左手に落とす。そこに残っているのは血の跡のみで、刻まれていたはずの傷は跡形もない。汗が滲む程の痛みも、ひとつ残らず消えてしまっていた。
 確かに傷があった場所を右手で撫でさすり、完全に治癒していることを確かめる。滴った血の跡はひとまず拭き取っておくことにした。傷がない場所に血痕があるのは不自然だ。
 誰にも見られていなかっただろうか。周囲を見渡してみるが、辺りにあるのは夜の静寂のみだった。制服の袖も捲っていたおかげで、服に染みもできていない。漸く肩の力を抜くと、アーチャーは店の中へと戻っていった。割れた酒瓶を、処理することも忘れずに。

 お疲れさまでした。オーナーにそう告げて店を出たのは午後十一時を回ってからだ。まだ夜の光に煌々と照らされている街を背に、アーチャーは自宅へ向けて歩き始めた。
 ここからアパートまでは歩いて二十分程。やっと小さな星が見える場所までやって来ると、ふうっと自然に息が漏れた。先程傷つけた左手を月明りに翳してみる。傷は塞がっているというよりも、初めから何もなかったかのように消えていた。今日はまだ運がよかったようなものを、これからはもう少し気を付けなければとアーチャーはそっと溜息をついた。
「……『人間』に……」

 ──人間に、知られてはならない。

 それは誰に言われたわけでもない。言うなればアーチャーがこの世に生を受けたときに生まれ持った本能だ。
 ひとと同じ形をし、同じように感情をもちながら生きている。見た目も中身もひとと変わらないように見えるが、その実彼はひとではない。ひとの形を成した何か……人間の言葉を借りて言うならば、精霊というものが近いのかもしれない。
 人間のように幼い頃があったのかどうかもわからない。気が付いたら存在していたというのが彼の認識だ。人の世に生まれ落ちた以上、その世界で生きていく外に術がないアーチャーは、人間に紛れて生活することを余儀なくされている。とはいえ初めから他の世界を知らない彼にとって、ひとの世で不自由したこともなければ息苦しいと感じたこともないのだが。
 それでも、ひとに正体を悟られてはならないことだけは絶対だ。知られれば、平和に呆けて暇を持て余した人間たちに捕らえられ、何をされるかわかったものではない。外傷ならばすぐさま治癒する力をもつ彼は、それによって命を落とすことはない。ひとのように病に怯える必要もない。ひととは違う何か。それは好奇心という名の暴力性をもつ人間にとって格好の餌食に違いなかった。
 では彼らに死は訪れないのかと言えば、答えは否だ。
 彼らが迎える最期は「消滅」。ひとのように何かを残すこともなく、全てが跡形もなく消えてしまう。まるで初めから存在していなかったかのように。そうして時間が経過すると、彼らは再び生を受ける。だが何度生まれ変わったとしても、それ以前の記憶を引き継ぐことだけはできない。最期を迎えたその時、全てが一度「終わる」のだ。
「……冷えてきたな」
 アーチャーは両手を上着のポケットに突っ込みながらぼんやりと考えた。自分がこの世に生を受けたのはこれで何度目なのだろう、と。
 これが初めてなのかもしれないし、もう何度も繰り返している命なのかもしれない。だが何度思いを巡らせても、この問いの答えが見えることは決してなかった。疲れているのかもしれないと思う。こんなこと、普段なら考えることもないというのに。
 夜の空を仰ぎ見ると、薄雲がかかった空に星が点々と散っている。今より以前に「誰か」として生きていたことがあるとするなら、その時見た空もこんな色をしていたのだろうか。その時の自分はどう生きていたのだろう。最期を迎える瞬間に胸を過ぎったのはどんな感情だったのだろうか。
(馬鹿馬鹿しい。……どうだっていいだろう、そんなこと)
 深々と溜息をつくと、アーチャーは星空からアスファルトへと視線を落とした。感傷的になるなど柄でもない。そもそも死を恐れているわけでもなく、消滅から逃れたいと考えているわけでもない。
 この世界で生きるのは、緩やかに流れる水に乗って漂っているようなもの。それがいつ終わったとしても、この世に未練など欠片もない。
 輪郭のぼやけた世界で生き続けるのは悪くないが、この世の中に、特に感情を揺さぶられる何かがあるわけでもないのだから。


 それから二週間が経った。週末だし今日はと誘われた飲み会には、またもやんわりと断りを入れて、アーチャーはアルバイト先へと向かった。今日のシフトは午後五時始まりの十一時終わり。給料日だった人が多かったせいもあるのだろう、店には待ちの客が出るまでになっていた。
 自然、キッチンでの仕事も忙しくなる。バーと名の付く店の割にフードメニューの種類は多く、調理が必要なものだけを数えてもざっと二十種類はある。今日はアーチャーと同じシフトで入っていた社員が風邪をこじらせて休んでいるため、それらを捌くのは彼一人だ。気を緩める間もなく、オーダーは次々と入ってくる。今日に限っては休憩時間も返上だった。
 結局フードオーダーのピークが過ぎたのは午後十一時を少し回った頃。今日の分は多くつけておくからとオーナーは言ったが、大丈夫ですよと僅かに疲れの色が滲んだ笑顔で返しておく。そうしていつも通りの退店の挨拶を済ませると、アーチャーは静かに店を出た。

「……はぁ」
 疲労というものは後からついて回るものだ。張りつめていたものが一気に緩み、気がつけば大きく息を吐いていた。足取りが重かったのだろう、時計を見れば、間もなく日付も変わろうとしている。いつもなら灯っている家の明かりも既に消えている所が多い。光と言えば道を照らしている街頭と、昼間は子供たちの姿で賑わっている公園の明かりくらいのものだった。今日は曇っていて月明りも星影もほとんど見えない。
 人影のなくなった公園の脇を通り過ぎようとしたとき、ざぁっと音を立てて風が吹いた。突然吹いた荒い風は公園の樹木を揺らし、アーチャーの頬を掠めていく。それとほぼ時を同じくして覚えた違和感に、彼は立ち止まった。
 誰もいない公園。そのはずなのに、凪いだ風の後に聞こえてきたのは、水道から零れ落ちる水音と、誰かの呻くような声だった。
「酔っ払い……か?」
 そうでなければ不審者の類か。どちらにせよ関わらないに越したことはないと、アーチャーはそっとその場から立ち去ろうとした。足元に落ちている色づいた葉は、踏めば音を立ててしまうだろう。アスファルトが見えている部分に狙いを定め、一歩足を踏み出そうとしたその時。
「……アーチャー?」
 低く響いた声に、ぎくりと足を止める。何だ、見ず知らずの酔っ払いだか何だか知らないが、名乗った覚えはない。走り去ってしまおうかとも思ったが、もう一度はっきりした声で名を呼ばれ、アーチャーは恐る恐る公園を覗き込んだ。
 暗闇の中、電灯の下の仄かな明かりに照らし出されているのは、果たして酔っ払いか不審者か。ごくりと息を呑むと、目の前の何者かがゆっくりと顔を上げた。
「……お前、……アーチャーだろ、……同じ学科の……」
「……君は……!」
 一度見たら忘れない、青い髪と赤い瞳。白い肌は暗闇の中で見るせいか、今は随分と血色が悪く見える。
「……ランサーか?」
「ああ、……名前、知ってんのか」
「いや、同じ学科で君の名前を知らない者なんていないだろう」
 そうかと無理に笑っているが、やはりぐったりとしたままの体には力がない。子供たちの水飲み場となっている水道に手をかけてやっと支えられているといった具合だ。とりあえず出しっぱなしの水は止めた。う、と呻く声は酷く弱々しく、アーチャーはしっかりしろと慌てて声をかけた。
「……こんな時間にこんなところで……! 何があった? 救急車を……!」
「いや、……いらねぇ」
 その代わり、とアーチャーの服の裾に縋りながら、ランサーは絶望的なまでに悲痛な声で言った。
「……メシ。……メシ、食わせてくれ……」
「…………は?」
 ……ぎゅるるるる。
 大きな腹の虫が鳴いたのを合図に、ランサーはがくんと頭を垂れた。


「三日半も水しか飲んでいなかっただと!? 馬鹿か君は! 軽い栄養失調だぞ、それは!」
「いや、だってよ……バイト代明日にならねぇと入んねぇし……」
「だからと言ってこんなところで行き倒れている奴があるか! ああもう……私の家までならここから五分弱で着く。歩けるか?」
 たぶん、と曖昧な返事をするランサーに肩を貸すと、アーチャーは盛大に呆れながら、「そうか、それなら頑張って歩け」と、ふらつく体を支えながら自宅へと向かった。
 一番の重労働は、エレベーターのないアパートの二階までこの男を引っ張り上げることだった。アルバイトで疲れていたはずの体でも意外と動けるものだなと、現実から目を背けるようなことを考えながら、アーチャーはようやっと部屋の鍵を取り出し、ドアを開けた。
 ひとまずそこで横になっていろと、小さいソファに座らせる。体はどうしてもはみ出てしまうが、あの時間に公園で行き倒れているよりは幾らかましだろう。
「……ふむ」
 冷蔵庫を開け、少しばかり考える。ここまで栄養が足りていないランサーに食べさせるならば、良質なたんぱく質とビタミンが欠かせないだろう。今日のために下ごしらえを済ませておいた鶏肉をソテーにして、付け合わせにはブロッコリーと人参、ジャガイモあたりが残っているからそれでいい。小分けにして冷凍しておいたご飯を温め直してやって、薄揚げと茄子で味噌汁を。
 アーチャーは慣れた手つきでまず鶏肉を取り出すと、食べやすいようにそれを一口大に切っていった。野菜は洗い、ブロッコリーは小房に分けておく。次は人参とジャガイモの皮剥きだ。包丁で手際よく皮を剥いていく様をぼんやりと眺めていたランサーは、その手際の良さに目を丸くした。
「……すげぇなお前、めちゃくちゃ器用。ピーラーとか使わねぇのか」
「まあな。一応バイトで包丁は扱っているし、こちらの方が早いのでね」
 するすると剥けていく皮を、ランサーはまるで子供のような目で眺めている。アーチャーは視線を感じたのか、包丁を持つ手は休ませずに振り返った。
「……何だ」
「いや、すげぇなって。……なんか、魔法みたいでよ」
 
 ──人間じゃないみてぇ。
 
 さく、と鋭い痛みが全身を駆け抜ける。
 包丁が入ったのは野菜ではなく指先だ。しまったと思った時にはもう遅かった。突然のこととはいえこんな言葉に動揺するなどと、自分の愚かさに心の中で悪態をつく。
 必要もないのに止血しようとするのは、人間を見て覚えた癖だ。息を詰めて、表情だけは変えないようにしなくては。痛みに顔を歪めるようなことがあってはまずい。
「……魔法、か。はは、そんな大したものでも、な……」
 気づかないでくれと願いながら笑って見せたが、ランサーの表情は険しい。ああ、遅かったか──視線を逸らすアーチャーに構いもせず、ランサーはすぐさまソファから降り、傷のついたアーチャーの左手を取った。
「おい、今手ぇ切っただろ。大丈夫か!?」
「だ、……大丈夫だ。これくらい、なんとも」
「いやダメだろ、結構ざっくりいってるぜこれ、止血を……」
「大丈夫だと言っている!」
 叫んだ瞬間、静寂が訪れる。無理矢理ランサーの手を振り払ったアーチャーは、傷口を隠しながら俯いた。静かに笑っている印象しかなかったアーチャーが突然吼えたことにランサーは言葉を失くしたが、彼が目を見張ったのは次の瞬間だった。
「……なっ、……え……?」
 床に落ちていく血の雫は、すぐさま滴るのを止めた。こうなってしまったら誤魔化すのはもう無理だ。
 ランサーは人間、まごうことなきひとの子だ。恐怖と絶望に震えながら、アーチャーはただ床の血痕を眺めていた。金色の粒子が舞い上がり、指先の傷をさらりと撫でていく。そこには何も残らない。今流れた赤い雫が、腕に赤い筋を描いているだけだ。
 絶句しているランサーから目を背ける。もう何を言っても無駄だろうが、だからと言ってこの状況を続けていても仕方ない。
「大丈夫だ、ランサー。幸い食材は汚れていない。……すぐに作るから、もう少し待っていてくれないか」
「……いや、お前」
「腹が減って死にそうだったのではないのかね? 君は心配する側ではなくされる側だろう。大人しく座っているといい」
 こんなぎこちない笑顔でかわせるものではないことくらいわかっている。だが、他に何を言えというのか。
 アーチャーは床に落ちた血痕を拭き取ると丁寧に手を洗い、再び包丁を持ち直した。


「……う、……うおおおぉ……!?」
 出来上がった料理を食卓に並べると、ランサーは驚きと感嘆の入り混じった声を上げた。
 ご飯に味噌汁、チキンソテーと付け合わせ。もう一品くらい作ってやれればよかったかと思いはしたものの、栄養的にはこれでも問題はないだろう。
 三日半ぶりにありつけた食事に最大限の感謝を込めた「いただきます」を口にすると、ランサーは「涙出る程美味い」、と一口一口を噛みしめながら食べ始めた。味噌汁の茄子が美味いとか、肉がぱりっと焼けてるのがすげぇとか、行き倒れていた人間だとは思えないような感想まで飛んできて、褒められ慣れていないアーチャーは、「そうか」とぶっきらぼうに返すことくらいしかできなかったが、胸がほんのりと熱くなったのも間違いない。
 米粒ひとつ残さずご飯を平らげた後、ランサーがじっと茶碗を眺めていたから「お代わりもあるが」と声をかけてみたところ、「いいのか?」と弾んだ声が返ってきた。目の輝きは星の如く、見えない尻尾を振っている犬のようにも……と言えば流石の彼も怒るのだろうか。
「はあ、食った食った! すげぇなアーチャーお前、そこらの店で食うよりも美味かった。いやこりゃ世辞でもなんでもなくだ、ありがとな!」
「そうか、口に合ったようで何よりだ。顔色も随分とよくなったな。ひとまずこれでしのげるだろう」
 それ以上の言葉は出てこなかった。ランサーに食事を提供するという目的自体は達成したが、先程の出来事をなかったことにはできないし、彼をこのまま帰すわけにもいかない。もしそんなことをしようものなら、周囲にこのことを広められかねないからだ。人間には少しでも面白いと感じた出来事があれば、あっという間にそれを共有しようとする悪癖があることは、彼らを観察した上で痛い程に理解している。
「なあ、アーチャー」
「……っ、な、……何だ……」
「お前……。……いや、やっぱいいわ。メシ、めちゃくちゃ美味かったぜ、ありがとな!」
「……な、」
 この礼は必ずするからよ、給料出た後で。笑いながらそう言うと、ランサーは立ち上がった。薄手のダウンに腕を通し、そのまま玄関に向けて足を踏み出す。アーチャーは慌ててランサーを追うと、無意識に彼の腕を掴んでいた。走ってもいないのに、呼吸が乱れているのがわかる。
「ま、待ってくれ、……ランサー」
「ん? 何だ?」
 どく、どく、どくん。心音が煩い。呼び止めてしまったものの、この先どうすればいいのかはわからなかった。彼が一連の出来事を忘れているとは思えない。現に今、こうして口にしようとしたではないか。それを呑み込んだという事実にどんな意味があるのだろう。
 なかったことにしてくれるのかもしれない。そうであるなら、自分の正体を告げる必要もなくなるのだろう。彼と同じ人間として、少し特殊な体質を持つだけの普通の学生として、これからも彼らと同じ場所で暮らしていくことができるのかもしれない。そう思いかけて、アーチャーはいや、と表情を曇らせた。
 いつも人の中にいるランサーは、きっと人望も厚いのだろう。だが彼だって所詮は人間、面白がって周囲にこのことを言いふらさないという保証はどこにもない。話して理解してもらえるかどうかは賭けだが、それでもやはり、ここで話をしておかなければ。何かあってからでは遅いのだ。人間の見世物にはなりたくないし、実験台になるのも御免だ。それならばとアーチャーは顔を上げ、自分を見つめたまま動かない紅玉を真っ直ぐに見据えて静かに言った。
「……誰にも言わないと、約束してくれないか」

「へぇ、何かすげぇな。傷ができてもすぐ塞がっちまうし、臓器に損傷を受けてもそれは同じ、と。……つうことは何だアーチャー、お前、不死身ってやつか!?」
「……あ、……いやその……。……何だか楽しそうだな君は」
 結論から言えば拍子抜けした。傷がすぐに塞がるだとか、人間のように傷や病気が原因で死ぬことはないだとか。そんなことをぽつぽつと零していけば化け物を見るような顔をされるのではないだろうかと思っていたのだが、結果はこれだ。ランサーは眠る前に新しい物語を聞かせてもらっている子供のように、赤い瞳をきらきらと輝かせている。
「ああいや、悪ぃ。お前が真剣に話してるのもわかるし、オレに知られちまったのが一大事だってことも理解してるつもりなんだが……、何だ、その、すげぇなってのが本音だっつうか」
 子供のように興奮しているという自覚はあるのだろうか、ランサーは身振り手振りを交えながら慌てて弁解するが、それでもまだ聞きたいことは山積みらしい。ひとついいかと、もう何度目になるかわからない言葉が再びアーチャーの元へと飛んでくる。
「それじゃあお前、さっきのも痛くなかったのか? 指ざっくりいったやつ」
「痛いさ」
 アーチャーは傷のあった場所を撫でながら、ランサーに向かって小さく笑いかけた。どこか寂しくも見える笑顔に、ランサーは好奇心で発してしまった言葉を僅かながらに後悔した。
「だが、痛いだけだ。私は、痛みでは死なない。そうだな、死なないではなく、死ねない、のかもしれないな」
「痛みでは、死ねない……? なあアーチャー。お前、本当に死なねぇのか……?」
 くるくると表情を変えながら、ランサーは言葉を投げかけてくる。この問いにはどう答えるべきなのだろう。死んだ記憶はないが、本能で「死」については理解している。ならばそれを淡々と語るべきなのだろうか。
「死ぬ。君たち人間とは迎えるべき結末は随分異なってはいるがね。『あること』が起こると、私は消滅という形で死を迎える」
「……聞いても?」
 僅かに低くなったランサーの声に頷くと、アーチャーは僅かに表情を和らげた。
「……ひとに愛されると、消えてしまうらしいんだ」
 その言葉はまるで何でもないことのように、さらりと流れていった。声もなく、次に発する問いなどまるで浮かばないといった表情で、ランサーはただ茫然とアーチャーを眺めている。
「どうした? そんなにおかしなことを言っただろうか。まあ、消滅しても一定の時間が経てば再生するらしいからな。死とは言っても、これもまたひととは大きく異なる。……そう考えると、君が驚くのも無理はない、か」
 繰り返される生と死。「らしい」という言葉は、その中で記憶が引き継がれないということを意味している。初めは子供のように感激し感動していたランサーの表情は、そうかという言葉と共に暗くなっていく。それが何故なのか、アーチャーにはわからなかった。ひとと、ひとならざるものとの差異をまとめて述べただけのこと。そんなに落ち込んだ顔をされては、どうしていいのかわからない。
「不気味だと思うのならそう言ってくれて構わない。事実、そう思わざるを得ないことを話している自覚はある」
「え、何だ、不気味だと思って欲しいのか?」
「え、……ええ?」
 今度は少し困った表情を浮かべるランサーに、アーチャーは困惑する外なかった。不気味だと思って欲しいわけではないし、できることならばそう思って欲しくないと思うのが人情……いやまあ、ひとではないのだが。
「あのな、お前は自分を卑下しすぎだぜ、アーチャー。ほとんど面識のなかったオレをここまで運んでくれて、メシ食わせてくれて、こうして話もしてくれたじゃねぇか。人間だろうがそうじゃなかろうが、そんなのは些末な問題でしかねぇよ」
「……ランサー」
 いつも離れた場所からしか見ていなかったこの男の周囲に、人が集まってくる理由がわかるような気がした。屈託のない笑顔も、こうして人を包み込むような大らかさも、何故か傍にいると安心するような温かさも兼ね備えている。
 話はここまででいいだろう。ランサーならきっと黙っていてくれる。確証はなかったが、確信はあった。アーチャーは立ち上がると、空になった二人分の湯飲みを流しに置き、振り返りながら言った。
「さあ、腹は膨れただろう。もう日が変わって随分経つ。君も帰って休んだほうがいいのではないか?」
「あ、ああ。そうか。よっしゃ帰るか! メシ、ありがとな! めちゃくちゃ美味かったぜ!」
 おかげでくたばらずに済んだなどと、冗談なのか本気なのかわからないことを言ってのけ、ランサーは玄関のドアを開けようとしたが、彼は何かを思いついたのか、ふと立ち止まり、振り返った。
「なあ」
「何だ?」
「お前さ。……ひとを愛したことは、あるのか?」
「……え?」
 それは、まるで予測しなかった問いだった。愛されたことはないのだろう。今ここに存在しているという事実が、それを証明している。ひとに愛されたことはない、ならばひとを愛したことは。
「さあ、どうだろうな。……あったとしても、それがどんなものかは、多分私にはわからない」
「……そっか」
 その後に言葉が続くかと思ったが、どうやらそうではないらしい。ランサーは今度こそドアを開け、アーチャーに向かって笑って見せた。
「じゃあな! メシ、マジで美味かった! また明日学校でな!」
 階段を下りていく乾いた音が、夜の静寂の中に響き渡る。
 過ぎ去っていく青い嵐を見送ると、アーチャーはよろよろと覚束ない足取りで部屋に戻り、ベッドへと倒れ込んだ。極度の緊張から漸く解放されたせいか、突然酷い眠気が襲ってくる。
「……疲れた……」
 まだ痛みの記憶だけ残している指先を眺めてみたが、傷そのものはどこにもない。見た目や感情がひとそのものであったとしても、やはり自分はひとではないのだ。
「……まあ、どうでもいい、……か」
 微睡みの中で一度ランサーの笑顔を思い浮かべると、アーチャーはそのまま意識を手放した。
 


「アーチャー!」
 講義が終わって間もなく聞こえた声は、アーチャーが座っていた席よりも遥かに後ろ、ちょうど教壇からの死角になっている場所から飛んできた。あんなところに陣取っていたのかと些か呆れたが、この状況で無視を決め込んだところで二度、三度と名を呼ばれてしまうのがオチだ。仕方なく振り返り、ひらひらと小さく手を振ると、ランサーは彼に向かって大きく手を振り返した。
 常に仲間に囲まれているランサーは集団からするりと抜け出し、足早に階段を駆け下りてくる。転ぶぞと目の前の男にそう言えば、開口一番それかよと、やや不貞腐れた声色で返された。開口一番もなにも、公園で行き倒れたくらいなのだ。階段を踏み外して転がってきても何ら不思議ではない。
 あの時一度家に上げただけだというのに、ランサーは既に他の友人と同じようにアーチャーに接している。人間慣れしていないアーチャーは些か面食らったが、そんな彼に構うこともなく、ランサーはアーチャーの目の前で胸を張って見せた。
「やーっとバイト代入ったぜ! この前のメシの礼だ、おごらせてくれよ」
 今日はバイトねぇんだろと聞いてきたのは、恐らく逃げ道を封じるためだろう。当たるも八卦、というものだったのだろうが、運がいいのか勘がいいのか、偶然にも今日のアルバイトは休みだ。言葉に詰まるアーチャーに、したり顔をしたのはランサーである。あのアーチャーが逃げないと、周囲の視線が痛いのも気のせいではないはずだ。何せいつも「次があったら」で逃げるばかりの彼が、あっさりとランサーに捕まってしまっているのだから。
「あれはあり合わせで作っただけだ、礼など必要」
「まあそう言うな。オレ今猛烈にお好み焼きが食いてぇんだよな、付き合えって!」
「……おごるというよりは自分が食べたいという方が勝っているような気がするな」
「気にすんなよそこは」
 ろくに動けなかったあの日の彼はどこへ行ってしまったのか。ランサーはぐいぐいとアーチャーの腕を引っ張り、講堂から抜け出した。学校の中庭を突っ切り、学生たちの波を潜り抜ける。ほとんどあの日のランサーしか知らないアーチャーは、彼の俊敏さに驚くばかりだ。全力疾走まではいかないにしても、腕を引っ張られれば走る以外にどうしようもない。必死に追い付こうと走ってみるものの、これでは気を抜いたところで転んでしまいそうだ。ランサー程の脚力と持久力を持っている人間などそうそういないのではないだろうか。
「ちょっ、……待て! 走らずともお好み焼きは逃げん!」
「あ? 逃げるんだなそれが! 五時スタートの先着十名特盛明太豚チーズが」
「いいから少しスピードを落としてくれ!」
 喚くアーチャーに構いもせず突っ走ったランサーがやっと止まったのは、歩行者用信号が赤になった時だ。息を荒げるアーチャーに、ランサーは悪い悪いとどこまで本心で言っているのかも怪しい台詞を投げかけた。
「……君、っは……!……こんな人混みを、突っ走る奴が……あるか、たわけっ……!」
 走りすぎて喉が痛いと途切れ途切れの声でぼやくアーチャーに、ランサーは自分の水筒を投げて寄越した。
「スクランブル交差点だからしばらくは止まってられるぜ。今のうちにそれ飲んどけ」
 ランサーの言葉は言い換えれば「まだ走るからな」ということだ。仕方なく水筒のお茶で喉を潤したが、正直なところ、この速度で腕を掴まれて走らされるのは御免だ。明太豚チーズは諦めてくれ、そう言おうと顔を上げたところで自動車用の信号が黄色になり、赤に変わった。次は歩行者用信号が青に変わる番だ。げ、とあからさまに嫌そうな声を上げてみたものの、ランサーは涼しい顔をしている。
「まだ走るのか」
「おう、まあもうちょいだ、頑張って走れ走れ!」
「あのな。……私は君とは違って……人並みにしか走れんぞ……」
「そうか、なら仕方ねぇな。……ほら、掴まれ」
 どうあっても走れということか。ランサーの言葉に少しげんなりはしたものの、差し出された掌と彼の笑顔は真っ直ぐにアーチャーに向けられている。アーチャーはその手を取ると、少し呆れた素振りを見せつつ苦笑した。
「全く。お手柔らかに頼むぞ、ランサー」
「おう! んじゃあ、ついて来いよ!」
 誰かに手を引かれて走ったことなんて、今回の生においては多分、一度だってなかった気がする。
 ひとの手の温かさ、脈打つ鼓動の速さ。
 きっと相手にも届いているであろう、自分が生きているという証だ。

(そうか。……生きているんだな。私は今、ここで)

 ぼやけていた世界の輪郭が、その日はやけにくっきりと、色鮮やかに目に映った。

 結果、ランサーの狙っていた「先着十名特盛明太豚チーズ焼き」は、見事手中に収まった。広げた掌三つ分程はあるのではという大きさのタネから、気泡がふつふつと音を立てて浮かび上がり、再びそれがなりを潜める。頃合いかと慣れた様子でお好み焼きをひっくり返すランサーの手つきは見惚れる程だ。私の方も頼むなどと言うまでもなく、ランサーは身を乗り出すと、アーチャーの分まで手際よくひっくり返してくれた。チーズがうまいこと溶けてきたら食べ頃なと教示され、へらで切り分けて口に入れる。ふわりと口の中で溶けるような触感は心地良いとも言える程だ。
「……美味い」
「だろ? 走った甲斐があったってもんだろ! 運動の後のメシはまた格別だしな」
 ランサーは終始笑顔だ。酒には強くないと零したこともあったのだろう、ジンジャーエールをオーダーしたアーチャーに合わせて、ランサーもドリンクはコーラを注文してくれた。互いに半分程お好み焼きを平らげたところで、アーチャーはペースダウンだ。残ったら食ってやるというランサーの言葉には甘えることになるかもしれない。
「そういえばお前、酒弱いのに何でバーテンやってんだ? 匂いとかダメじゃねぇの?」
「いや、匂いは大丈夫だし、私は調理担当だからな。それに、弱いと言っても缶チューハイ半分くらいなら」
「それはあんま飲めるって言わねぇよな」
 苦笑しながら言われたのに些か膨れたアーチャーは、そういえばと話題を切り替える。アルバイトの話が出たなら学校の話をしても構うまい。
「そういえば、君はいつも講堂の後方に陣取っているな。もしかして寝……」
「ああああ、聞こえねぇなぁ。オレにはなぁんも」
 耳を塞いで首を振るその姿が子供じみていて面白く、思わず吹き出しそうになる。追い詰めたぞと意地の悪い笑みを浮かべると、恐らく聞こえているはずのランサーに向かって畳みかけた。
「学生の本分は勉強だぞ。そんな調子でどうする、ランサー。……そうだな、週明け以降の講義は私の隣に座りたまえ。寝ていたらすぐに起こしてやる。ばれないように、肘鉄でな」
「げっ、マジかよ。怖ぇな」
「起こされたくなければ眠らなければいいだけの話だろう」
「そりゃまぁ、そうだけどよ……」
 決まりだなというアーチャーに、ランサーは溜息をつく。アーチャーは休み時間のうちには必ず講堂にいる。席は教壇から程近く、ホワイトボードも見えやすい四列目の中央あたりだ。死角を利用して寝ていることの多かったランサーにとって、あの場所で講義を受けるというのは、慣れるまでさぞかし辛いだろう。
「……しょうがねぇなぁ。じゃあお前の隣、空けとけよ。誰かに取られてたらオレは死角に逃げ込むからな!」
「なに、敢えてあの場所を選ぶ学生などそうはいないさ。特等席だ、有難く思って欲しいものだな」


 週明けのランサーの顔はといえば、それはもう傑作だった。恐らく「あいつより先に来れば死角に逃げ込める」とでも思っていたのだろう。大体、始業三分前にやってきて勝ち誇った顔をしている時点で負けなのだ。十五分間の休み時間のうち、半分は移動、もう半分は次の授業が行われる場所で静かに読書をしているのが常のアーチャーに、普段滑り込みでやって来るようなランサーが敵うはずがないというのに。
 溜息をつき、友人たちに「悪いな」とひとつ断りを入れると、ランサーは頭を掻きながらアーチャーの隣に大人しく腰を下ろした。
「おら、これでいいんだろ。……ったく来るの早すぎんだろお前は」
「ふ、甘いなランサー。こんな講義の直前に滑り込んでくる人間が、私に敵うとでも思ったのかね」
 あーはいはい思わねぇよ。諦めた顔で教科書を引っ張り出すランサーを、アーチャーは楽しそうに眺めている。この男のこと、粗雑に扱っている本などぼろぼろになっているだろうという予測に反して、隙間から覗いたのは多くの付箋紙だった。青やら赤やらと色分けされているのか適当に貼ったのかはよくわからないが、とりあえず講義を全く聞いていない人間ができる芸当ではないことに違いはない。
「……意外だな」
「あ? 何がだよ」
「君は死角に隠れてずっと寝ているだけの人間だと思っていたが」
「お前案外失礼な奴だよな。大体単位落としてたらお前と同学年にはいねぇっつうの」
 確かに真っ当な意見だ。これは些か礼を欠いた発言だったなと、アーチャーはランサーに気づかれないよう苦笑した。
 始業の鐘が鳴るのと同時に、ランサーは眼鏡を取り出した。彼が眼鏡をかけている姿など見たことがないが、長いこと死角にいた人間なのだから仕方あるまい。それにしても眼鏡ひとつでこうも印象が変わるものなのだなと、アーチャーはちらりと視線だけでランサーを見た。真横から眺めると朱色のようにも見える瞳は、恐らく日の差し込む角度によっても色が変わって見えるのだろう。
 始業後十分。ふあぁと小さく欠伸をしたランサーに、早すぎるぞと思わず突っ込んだのはアーチャーだ。ランサーは声を潜めて小さく笑うと、アーチャーに向かって呟いた。
「……ちぃとな、週末あんま寝てなくてよ。だから丁度よかったぜ。試験近いし、寝てたら肘鉄頼むわ。……まあ、お手柔らかに、な」
 シャープペンを指先で器用に回しているのは単純にすごいと思ったが、恐らく癖というよりも眠気覚ましなのだろう。
 結局その日の肘鉄は三発。意外と少なかったじゃないかと笑うアーチャーに、オレはお前の手加減のなさこそ意外だったがなと、ランサーは脇腹を押さえながら膨れていた。


 ピンポン、ピンポン、ピンポーン。
 そんなにやかましく鳴らさずとも出ていく! そう何度も言っているというのに、この男は学習しないのだろうか。それともこれは一種の激しい自己主張なのか。
 オレが来たぜ! 頼む! 助けてくれ! 連打される玄関の呼び鈴も、終いにはそんな叫びに聞こえるようになってしまった。実際のところ、ランサーがここにやって来る頃には、彼の所持金は悲惨なことになっている。この前の給料日前日は四十五円だったと思う。アーチャーの記憶が確かならばだが。
「全く、君はもう少しまともな金銭感覚というか、ペース配分というかだな」
「あーあーわかったよ! 来月から気をつけるから、明日まで! 頼む!」
 フライパンの中で音を立てているのは、アーチャー手製のハンバーグだ。こうなるであろうことは予測していたから、初めから二人分プラスアルファを用意しておいたのは正解だった。プラスアルファというのは勿論、ランサーが要求してくるお代わり用だ。
「……ちなみに? 今日の所持金はいくらだ」
「おっ、よくぞ聞いてくれた。今日はな、百五十三円だ! 三桁あるんだぜ、三桁!」
「進歩したな、野菜炒めが食えると言いたいところだが……また公園で倒れられても困るからな。もういい、食べていけ」
 初めて彼を家に上げた日から数えると四度目だ。もう四度目。毎月毎月バイト代が入る三日前になると、彼はアーチャーの家のベルを鳴らして苦笑いしながら、メシくれねぇかなぁ、などとプライドの欠片もない言葉を発してみせるのだ。
 それでも断り切れないのは、ランサーの事情を知ってしまったからだ。彼は学生業とともにアルバイトを三つ掛け持っている。休日は朝から昼、昼から夜、夜以降は夜勤という日もあるくらいで、平日は日付が変わるまでの勤務か、夜から朝にかけての夜勤が多いとか。
 そんなに根を詰めて働かなくともいいだろうと言ったことがある。後にそれが酷く不謹慎だったことを知るのだが、彼の実家に父親はおらず、年の離れた兄弟が下に二人いるとのこと。母親は病気がちだが、それでもなけなしの金でランサーを大学へ入れてくれたこと。だからまあ色々とな。そう濁した後彼は何も言わなかったが、それだけの言葉があれば、彼があの公園で行き倒れていた理由を知るには十分だった。
「チーズは」
「おっ何だ、のっけてくれんのか? 頼むぜ」
「ソースはケチャップベースかデミグラスのどっちだ」
「ん、難問だな……んじゃケチャップで」
 了解したと言う頃には最早諦めの境地である。仕方ないなと独りごちながら、付け合わせの人参のグラッセは二本多く添えてやった。ご飯はどうせお代わりなのだからと初めから大盛りだ。
 いただきますと言った後、彼は絶対に早食いはしない。どんなに腹が減っていようが、必ず味わって食べてくれる。それも何度も美味いと繰り返しながらだ。こうなると呆れるのを通り越してくすぐったくなってしまう。ランサーがそれを狙ってやっているのだとは思えないから、恐らく自然と口にしているのだろう。
 初めて会った時もそうだった。こういうところは変わらないんだなと思いつつ、アーチャーは無理矢理険しい顔を作り、こほんと咳払いしてみせる。
「……まあ、美味い美味いと言って食べてくれることに悪い気はしないから構わないが」
「ん? 何だ?」
「いや、君のそういうところは好ましいと思わないこともないと思っただけだ」
「褒めたりけなしたり忙しいな、お前」
「けなしたつもりはないのだが?」
 お代わり、と大盛りにしたはずのご飯茶碗を遠慮会釈なく差し出され、アーチャーはまたしても溜息をついた。変わらないという言葉は撤回しよう。随分と図々しくなった、とでも言っておけばいいだろうか。もっとも、今までずっと独りで生きてきたアーチャーにとって、僅かずつ変化していくランサーの言動は嬉しくもあったのだが。

 今日も美味かったぜ、ごちそうさん! 快活なランサーの声が、和やかな夕食の時間に終わりを告げる。彼と同じ言葉を述べた後、アーチャーはすぐさま立ち上がった。
「おい待て、いいからお前は座ってろっていつも言ってんだろ。洗い物はオレの仕事だ」
 食事の後はすぐに洗い物をしようとする習慣があるアーチャーの行く手を阻もうとするのはランサーだ。食うだけ食って何もしないわけにはいかねぇだろというのが彼の言い分だが、一応客人である彼に皿洗いをさせるのも妙な心地になるからといつも断っている。しかし何を言っても聞かない頑固な一面があることも、この数か月でよくわかった。それはアーチャーも同様で、ならばと折衷案を出すのが恒例になっている。
「それならいつものように、君が洗った食器を私が拭いて食器棚にしまおう。それでいいな? ランサー」
「ったくお前も頑固だよなぁ。ま、お互い様ってやつか」
「そうだな、お互い様だ」
 そうして二人並んでキッチンに立つ。皿洗いくらいオレ一人でもやれるのによとまだ不服そうに零したランサーは、ふと定位置に掛けられている赤いミトンに目を遣ると、弾んだ声で言った。
「へへ、お前あれ使ってくれてんだな。鍋掴み」
「ああ。前から使っていたものはもう古くなっていたし……人に何かを貰うなんてことは久しぶりだったからな。それも、その……プレゼントなんて名目で貰ったことなどなかったから……」
「お前な、そこは素直に嬉しい、気に入ったって言っときゃいいんだぜ」
 ランサーから受け取った皿を丁寧に拭きながら、アーチャーは赤面した。感情をそのまま言葉に乗せるというのは、アーチャーにとっては難しい。
 このミトンはつい先月、珍しく給料日の前に訪ねてきたランサーがアーチャーに贈ったものだ。交換した連絡先のメッセージアプリに「今からお前んち行くわ」と、有無を言わさず送られてきた一言。返事も待たず、十分後には玄関のベルが鳴ったのは何とも彼らしかった。
「普段世話になりっぱなしだからよ、ほら、世間はクリスマスだろ。サンタにゃなれねぇが、ちいとばかしの礼だと思ってくれ。できるだけ普段使いできそうなもん選んだつもりなんだが」
 気に入ったら使ってくれ。そう言われて手渡されたミトンは赤と黒を基調にした生地に、小さな猫の刺繍が入っていた。猫好きなことを話した覚えはないが、敢えてこれを選んだということは何かしら察するところがあったのだろう。人間とはなかなか細やかなものだと、妙なところで感心した。後から追い付いてきたのは胸をいっぱいに満たすような温かさだ。少しばかりの息苦しさを覚えながら、小さく「ありがとう」と口にしたことを、アーチャーは今でも鮮明に覚えている。
「……おいアーチャー、いつまで同じ皿拭いてんだ? おーい」
 ランサーの声に我に返ったアーチャーは、赤い顔を更に赤らめ、ぴかぴかに磨き上げられてしまった皿を慌てて食器棚にしまった。思いに耽るなど自分らしくもない。何でもないと咳払いをひとつして新しい皿を受け取ったアーチャーに、ランサーはそうかと軽く返しただけだった。
 流れ落ちる水の音、時折聞こえてくるランサーの口笛。一か月に数度の僅かな時間ではあるが、きっと自分はこの時を好ましく思っているのだろうと、アーチャーは思った。ランサーと共に時間を過ごしていく中で、知らなかった感情がひとつ、ふたつと形を成していく。
「……不思議な奴だな、君は」
「え、何だ?」
「いや、何でもない」
 赤いミトンをちらりと見遣り、再び手元に視線を戻す。固くなりがちな表情をふっと緩めると、アーチャーは濡れた皿を再び丁寧に拭き始めた。



「だからここにあてはめるのはこの数式で、こう……」
「ああ、なるほど。……そうするとここは……」
「そうそう、そいつな。で、この解をあてはめて……って、聞いてるか、アーチャー?」
 目の前で小さく手を振られ、アーチャーは我に返った。呆けていたわけではない。単純に、ランサーに見とれていたのだ。
 月に数度ではあるが、髪を留めていない日があること。講義のときやこうして勉強するときにかけている眼鏡は、伊達だと思っていたがそうではなかったこと。実は理系科目には興味があり、心を惹かれるものに関してはやたら入れ込む傾向があること。特に数学が得意で、逆に理系を苦手としているアーチャーに教えるときは、一からわかりやすく教えてくれること。
 名前や外見だけなら知っていたことになるのだろうが、ランサーに本当の意味で出会ったのは五か月前だ。公園で行き倒れていた彼を家に上げて、料理を振る舞ってやったあの日はまだ、こんなにも仲が深まるなど思いもしなかった。人間をどこかで恐れていたアーチャーにとって、ひとは自分を脅かすものだという認識は拭えなかったし、今でもそれが完全に消えてしまったわけではない。それでも、ランサーはランサーなのだ。
 この数か月でいろいろなことを知った。ランサーのことも、今まで知らなかった様々なことも。
 何となく生きているだけだった薄暗い世界に光が射し、それはたくさんの色に彩られていった。楽しいこともあれば腹が立ったこともある。呆れもしたし、怒りもした。何より喜びという感情は、ランサーと共にいる時に湧き上がって来る特別なものだった。まだ名前を知らないものもあるが、きっとそれも少しずつ理解できるようになるのだろう。
 彼といるとき、自分はひとでないということを忘れる。
 もしかしたらこのままひとになって、人間と共に、誰の目も気にすることなく生きることができるのではないかなど、そんな馬鹿なことまで頭を過ぎるのだ。だってあまりにも満たされて、……こんなにも、近くで。
「……ッ!?──危ねぇっ!」
 静寂に包まれていた空間を引き裂くように、ランサーの声が空き教室いっぱいに響き渡った。同時に強く引っ張られる腕。そのまま床に倒されて、アーチャーは何が起こったのかも把握できないまま、煩く響く心音だけを感じていた。何かが壊れた、音だけで理解できたのはそこまでだ。次に感じたのは腕を裂かれるような痛み。う、と小さく呻くと、血のついたガラスの破片が目の前に落ちているのが見えた。
「アーチャー!」
 二人きりだった空き教室の窓は粉々に割れていて、硬式野球のボールがひとつ、何度も弾みながら床を転がった。すみません、大丈夫ですか! 外から聞こえる叫ぶ声は、ほとんど耳に入ってこなかった。ランサーが気づいていなければ、スピードに乗ったボールがアーチャーの頭部を強打していたかもしれない。
 どくどくと流れ落ちていく鮮血。これはハンカチやタオルでは間に合わない。ランサーは上着を脱ぐと自分の服の袖を引きちぎり、震えているアーチャーの腕を取った。床には血だまりができ、まだ塞がらない傷はぱくりと口を開いたままだ。
「くそ……っ」
 血に濡れた傷口にそっと布を宛がい、紐状にした布で傷を圧迫する。どこで習ったのかも覚えていないし、これでいいという自信もランサーにはまるでなかった。ただ何とかしてやりたい一心で、体が勝手に動いていただけだ。しっかりしろよと零した声は、情けなくも震えていた。
「……う……」
「アーチャー!」
 痛みで朦朧としていた意識がやっとはっきりし始めたアーチャーは、静かに瞼を持ち上げた。薄ぼんやりとした視界が徐々に明るくなっていく。腕に巻かれている血に染まった布、床に散っているガラスの破片。倒れていたはずの自分を抱きかかえてくれているのはランサーだ。二、三度瞬きして、アーチャーは瞠目した。ランサーの額にも傷があり、赤い雫が線を引き、細く流れ落ちている。
「ランサー! 君、怪我をして……!」
「心配すんな、オレのはかすり傷だ。それよりお前の方が」
「だから言っただろう! 私には必要ないと……!」
「でも!」
 俯いたランサーの顔はよく見えない。傷が塞がったばかりの腕をそっと取ると、ランサーはその手を握りしめた。
 ……震えている。どうして、何故。やはり傷が痛むのではないのか。そう問うよりも先に、アーチャーの視界はゆらゆらと波打った。静かに瞬きを繰り返すと、溢れた雫がこめかみを伝って流れ落ち、床にぱたぱたと散っていく。
「……でも、……痛いんだろ。……お前だって……」
 柘榴色の瞳が歪む。暮れかけた太陽はそれを容易く映し出してはくれなかったが、代わりに頬に落ちたのは雨粒だ。布の巻かれていない腕を引かれ、そのまま強く抱きしめられる。ランサーの体はまだ小さく震えていた。
「……痛いのか、ランサー」
「ああ。……すっげぇ、痛ぇよ」
「…………そうか」

 私もだと小さく零し、目を閉じる。
 ひとと、ひとになれないなにか。
 近いと思っていた距離は、あまりにも遠かった。

 入浴剤の色で濁った湯を、なんとなく掌で掬う。それを傾けると、湯は再び水面に戻って波紋を広げた。腕に深く刻まれていたはずの傷はやはり完全に塞がっている。あの時ランサーが当ててくれた布の感触だけは、今なお鮮明に残っているというのに。
 人間ならば残っているであろう傷跡は、アーチャーの体にはただの一つも残らない。初めてランサーに出会った日、深く切ってしまった指の傷も。
 彼に出会い、共に食事をし、隣の席で講義を受けて。そんな日常を繰り返していく中で、アーチャーの胸の奥には言い表しようのない感情が纏わりついて離れなくなった。楽しい、悲しい、嬉しい、苦しい──どれも当てはまるような気もするが、ぴたりとくるものはひとつもない。
 趣味に近い料理をしていても、バイトに勤しんでいても、眠る前でさえ離れない何か。ランサーの声、仕草、笑った顔。怪我をした自分を抱きしめて、苦しそうに絞り出した言葉たち。彼との時間が積み重なっていくにつれ、柔らかな胸の痛みは増すばかりだ。
 眠る支度を済ませ、ベッドに腰掛ける。掌を宙に掲げてみても、やはり傷はひとつもない。もしもあのときの傷が、ひとと……ランサーと同じようにこの腕に刻まれていたなら。
「……ランサー」
 広げた掌をゆっくり下ろし、左胸を押さえる。ひとと同じように脈を打っているのに、この体はひとにはなれない。それならばこの痛みは何なのか。傷が残ることもなく、臓器が傷つくこともないこの体にもたらされる痛みが、アーチャーには全く理解できなかった。肺だって、気管だって、自分を苦しめるものは一切ないというのに、何故こんなにも息苦しくなるのだろう。縋るようにランサーの名を呼ぶと、その度に痛みも苦しさも増す。助けを求めて呼んだ名は、一層アーチャーの心を抉るだけだ。
 呼吸を整えて瞼を落とせば、初めて出会った日のことが蘇る。作った料理のことを褒めてくれた。自分がひとではないと明かしても、そんなものは些末なことだと受け入れてくれた。ドアを開けて出て行こうとするときには、行き倒れていたのが嘘のような笑顔を見せてくれて。……それから彼は確かに、こう言った。

 ──お前さ、ひとを愛したことは、あるのか?

 苦しくて、痛くて、どうしたらいいのかわからないのに、それ以上に温かい何かがせり上がってくる。
 やめろ。ダメだ、気づいてはいけない。言葉にすればきっと何かを得て、それ以上のものを失う。だがこれ以上、この感情に蓋をし続けるのは無理だということも知っていた。呼吸ならばできているのに、胸が苦しくてたまらない。
 ……ああ、もう。これ以上は。

「……愛して、る」

 呟いて、アーチャーは天井を見上げた。傷のひとつも残せないくせに、痛みばかりを感じるこの体。だから涙が溢れるのをひとに知られてはいけないと、歯を食いしばって空を見上げるのがいつしか癖になってしまっていた。
 いっときならば苦痛も涙も誤魔化せる。しかしすぐに引くと思っていた痛みは、いつまで経っても和らがない。経験したことのない痛みに戸惑いながら両手で顔を覆うと、温かいものが手の甲を伝い落ちて流れていった。
「愛してる、……ランサー、……あいして、いるんだ」
 やはり自分は知らなかったのだ。あの日、ひとを愛したことがあるかと問われたとき、きっと自分にはわからないと返した。ひととの関わりはできるだけ浅く。わかっていたはずなのに、何故自分はこんなにも彼に近づいてしまったのだろう。
 もしもこれがランサーの言った「ひとを愛する」という感情だとしたら、自分には決して同じ感情を向けてはもらえないし、向けられてはいけないものだということも知っている。
 こんなことならば知りたくなかった。知らなければ、今まで通りに死など恐れず、ただ毎日を淡々と生きていくことができたはずなのに。こんなにも愛しくなってしまったら、消滅するのが怖くなる。再び生を受けたとしても、初めて知ったこの感情も、ランサーと過ごした日々のことも、全てが消えてなくなってしまうのだから。

「……嫌だ、……いや、だ、……そんなのは……」
 
 もしもこのまま、ひとになって。
 人間と同じように傷を負い、人間のように愛し合うことができたとしたら。そうあれたなら、どんなに幸せに死ぬことができただろう。
 流れ続ける涙を止める術も知らず、ランサーの名を呼び続ける。
 初めて心から愛した人の笑顔を思い浮かべながら、彼は静かに泣いた。


「……あれ、アーチャーは」
 特等席だと言って笑っていた四列目の真ん中。そこに彼の姿はなく、辺りを見渡しても同様だった。ひとでなくても風邪くらいひくのかもしれないと、とりあえず自分の中で説明をつけ、久しぶりに後方の席に座る。珍しく席を移動しているという可能性もなきにしもあらずだ。教壇からの死角、かつ学生の姿は全て見渡せるこの場所にいれば、あの目立つ容姿をしているアーチャーのこと、すぐに見つけ出せるはずだと思ったのだが、やはり彼の姿はどこにもない。
「珍しいな、ランサー。ここんとこ、講義はアーチャーの隣が指定席だったのに」
「いや、そのアーチャーがいねぇんだよな」
 肘鉄目覚まし係なのによと笑って見せるが、いつものように笑えていた自信はない。その次の時間も欠席。これは本格的にいねぇんだな。ランサーはそう悟ると、仕方なしにといった具合で再び後方の座席に腰掛けた。
 夜勤明けの体は勝手に眠りを欲し始め、いつしか船をこぎ始めていたランサーが目を覚ましたのは、終業の鐘が鳴った直後だ。最近では二発かそこらで済んでいた肘鉄が、今日は一度も飛んでこなかった。いつもなら脇腹を押さえて呻き声を殺すランサーに「あと十五分だ」と視線は前に向けたまま少しだけ笑っていた、アーチャーがいない。
 やたらと長く感じる一日が終わると、そこから先はバイトに走る予定だった。生活がかかっていることもあり、ランサーはこちらに関してはほとんどと言っていいほど休んだことがない。しかし、今日に限ってはそんなことを言っていられるはずもなく。
「……よし」
 悩むこと十秒、彼は即座にスマートフォンを取り出すと、バイト先の電話番号を探し出して発信ボタンを押した。

 給料日の三日前、口実を作るにはタイミングがよかった。散々アーチャーに言われた、家計簿をつけるということに慣れたせいか、三日間の食事を作るだけの余裕は僅かながらにある。しかしそのことはアーチャーには言っていない。黙っておけばまた何でもないふりをして、彼と一緒に時を過ごせるのではないかと思っていたからだ。
 ランサーはひとつ深呼吸をすると、恐る恐るベルを鳴らした。既に彼の給料日を把握しているアーチャーは、こうすればすぐに呆れた顔でドアを開け「また君か」とお決まりの台詞を並べるのだが、今日はその気配がまるでない。
 もう一度ベルを鳴らすが同様で、今度はノブを回してみる。しっかりと鍵のかかったドアは家主の不在を示しているようにも思えた。バイトに出ているのだろうかとも思ったが、今日はあの店の定休日だ。その可能性は消えたといっていいだろう。居留守を使われるようなことをしただろうかと不思議に思いながらも、ランサーはドアに向かって叫んだ。
「おい、風邪でもひいたのか、アーチャー! そういう時はなぁ、栄養と水分を取って! よく寝ろよ! 卵酒とかもいいらしいぜ! 毛布は空気を温めるために二枚以上だ! いいか! いいな!」
 それだけ言い放つと、ランサーは暫くドアの前でアーチャーを待った。彼が「近所迷惑だろう」などと苦い顔をして言いながら出てきてくれることを期待して。しかしどれだけ待ってみても、アーチャーからの反応はひとつもない。今日は無理かと言葉を零すと、彼は仕方なくアーチャーの部屋の前から離れていった。
「……ランサー」
 暗い部屋の中、カーテンを閉めたままベッドの中で毛布をひっ被ったアーチャーは、泣き腫らした目元に氷を当てながら、ぽつりと呟いた。
「……それは私が君に教えたことだろう、……たわけ」


 
 翌日から辛うじてといった具合で学校に出てくるようになったアーチャーは、ランサーとその友人たちを見かけると、気配を悟られないようにそっとその場から離れるようになった。講義もいつもとは違う、視界に入りにくい場所に座っている。言うまでもなく、できるだけひとの目に入らないようにするためだ。しかし講堂の斜め後方に席を取っていたランサーはすぐさま彼を見つけると、いつも通りの明るい声でアーチャーの名を呼んだ。
「おっ、いるじゃねぇか。アーチャー!」
 転ぶぞと呆れ顔で言われるのを僅かにでも期待しての言葉だったが、アーチャーは一瞬彼の方に視線を遣っただけで、すぐにその場を立ち去ってしまった。
 昨日は居留守、今日はほとんど無視だ。あんなに一緒に笑って、怒って、呆れて、喜んで。あの表情豊かな彼はどこへ行ってしまったのだろう。やはり具合でも悪いのだろうか、無理をして出てきていやしないだろうか。慌ててアーチャーの後を追ったランサーは、彼の肩を掴んでもう一度名を呼んだ。
「アーチャー!」
 ぱしんと乾いた音が響く。ランサーの手をすぐさま振り払うと、彼の方を振り返ることもしないまま、アーチャーは低く呟いた。
「ランサー。……もう、私のことは放っておいてくれないか」
「は!? 何だよいきな……」
「悪いが急いでいてね。これからバイトなんだ。……それじゃあ」
 足早に去っていくアーチャーの背に、それ以上言葉を投げることはできなかった。学生の波をかきわけながら、彼の姿は次第に遠くなり、そして消えていく。アーチャーの肩に手を置いたときに、微かに感じた体温。久しぶりに触れた温もりを噛みしめるかのように、彼は緩く拳を握った。
「おい、どうしたんだよ、ランサー。元々あいつ、ああいう奴じゃねぇか。あっさりしてるって言ったのもお前だろ。気にするなよ」
「ああ。……ま、そうだな。……そうだったよな、そういえば」
 まあいいや、行こうぜ! そう言って無理矢理笑顔を作ってみせると、ランサーはアーチャーに背を向けて歩き始めた。

『……ひとに愛されると、消えてしまうらしいんだ』

 その一言は、まるで思い出したかのように付け加えられただけだった。
 行き倒れていた自分の体を抱え、必死に歩いて部屋まで引っ張っていってくれたあの日。あの言葉を聞いたのは、アーチャーが自分はひとではないということを一通り話した後だった。同情したわけでも、憐れみの感情を抱いたわけでもない。ただ、そんな重大なことを何でもないことのように呟いたアーチャーのことは少し、悲しいと思った。
 彼がもう何度輪廻転生を繰り返しているのかは、ランサーにはもちろん、アーチャーにだってわからない。だが何度生まれ変わっていたとしても、愛された記憶を引き継ぐことはできないのだ。それならば逆は、ひとを愛したことがあるのならばどうなのだろうと問うてみたのが正しかったのかは、未だランサーにもわからない。
 あいつ付き合い悪いよなと周囲が言っていたのも今なら理解できる。生きながらえようとするのは、全ての生命がもつべき本能だ。ひとと深く関わることで命を落とすというのであれば、彼らがひとを避けるのは真っ当で、近づく理由などないのだろう。
 それなのに自分たちは、あまりにも近づきすぎた。あまりにも多くの時間を共有し、きっとアーチャーも、そしてランサーでさえ知らなかった感情を共にした。本当に彼のことを思うのであれば、生かしてやりたいと思うのならば、こんなにも近づいてはいけなかったはずなのに。
 なあアーチャー、メシくれねぇ? そう声をかけると、アーチャーは大きな溜息をつきながらも、仕方ないなと招き入れてくれた。
 初めて食べさせてくれたチキンソテーは五臓六腑に染みわたる程美味くて、次に出された鮭のムニエルは、レモンを絞って食べるといいぞという助言通りにやってみると、それはもう言葉にできない程だった。
 早食いなんてする気などこれっぽっちも起こらずに、一口一口を噛みしめて食べた。美味いと言うのは本心でしかなかったのだが、お世辞を言ってもこれ以上は何も出ないぞ、なんて少し照れながら言って、それから唇を綻ばせるようにして微笑んで、彼は必ずありがとうと口にした。
 あの顔を見られるのが嬉しくて、いつしか声を聞くのが待ち遠しくなっている自分がいた。共に時間を過ごせることが幸せだと、そう思い始めたのはいつからだったのか、今となってはもう思い出すこともできない。
 避けられるようになって数日。何度連絡しても、携帯には何の反応も返ってこない。完全に拒絶されてしまっていることは悲しくもあったが、それ以上に不安だった。アーチャーは大丈夫なのだろうか。独りきりの時間を、何を思いながら過ごしているのだろうか。
 アーチャーのアパートまであと僅か。いつかの夜、空腹のあまり動けなくなっていた公園のベンチに腰かけて、ランサーはバッグに忍ばせたものをちらりと見ると、晴れ渡った星空を仰いだ。
「こんなに星が見えるんだな、この辺り」
 今日のバイトは早上がりだ。とはいえ時刻はもうじき午後九時を回るところなのだが、それでも空を見上げるくらいの余裕がある。
 全ての始まりはこの公園だった。夕暮れ時までは親子連れや小学生くらいの子供たちの声で賑わっている憩いの場は、夜になるとしんと静まり返り、時折風に揺らされた木々が音を立てるだけだ。
「……なあ、アーチャー。お前の顔、今日は一度も見られなかったけどよ。……元気にしてるか? メシは……ああ、食ってるよな。お前、料理好きだもんな」
 帰宅する人々の足も既に通り過ぎ、もうほとんど音もない。ふうっと吐いた息は、白く濁って闇の中へ消えた。
 今日はどうやら満月らしい。時折月光を遮るように流れゆく雲をなんともなしに追いかけながら、ランサーは静かに呟いた。
「……好きだ、って、……言えたらな」
 発した言葉はあまりにもありきたりだったが、どんな複雑なフレーズよりも自分の心にすとんと落ちた。
 静けさの中、音も立てずに一筋の風が駆けていく。ランサーはゆっくり立ち上がると、アーチャーの家の方に目を遣った。

 公園があるのはアーチャーの住むアパートから五分足らずの場所で、二階の角部屋のベランダからは、公園のベンチが見下ろせる。冷たくなった洗濯物を急いで取り込んでいたアーチャーがふと下を見ると、そこには見慣れた人影があった。街灯の明かりに照らされた美しい髪が、吹いてきた風に流されて舞っている。彼はこちらを振り向いたものの、アーチャーの姿には気が付かなかったようだ。
 ランサー。そう叫ぶことができたなら、彼は自分を見つけて笑ってくれるだろうか。今までと変わらず自分の名を呼んでくれるだろうか。アーチャーは喉元まで出かかった名前を何とか飲み込み、夜の闇に目を落とした。

 愛させてほしい。……でも決して、愛さないでほしい。

 余りにもわがままな思いだということはわかっている。差し出された手は振り払った。居留守も使った。彼の優しさを拒絶して、それでも自分は彼を想う。友人に囲まれて笑っている姿を見て息が詰まり、それなのにその背中を目で追っている自分がいる。
 携帯の連絡先は消せずにいるが、着信もメッセージも全てブロックしている。それなのにランサーは何度も家にやって来た。メシ、くれねぇかなぁ。居留守を使っているにもかかわらず、いつも通りの台詞を口にするのは、自分を気遣ってのことだと知っている。その優しさが、痛い程の真っ直ぐな想いが、もしも自分が抱いている感情と同じものだとしたら。
「……ランサー。……愛してる」
 口にする言葉はいつだって震えていた。本当は一緒に笑いたい。過ぎてしまったあの日のように、共に笑って、時に喧嘩もして、それでもすぐに「悪かった」と苦笑して。きっと幸せだったのだ。あの時は名付けることができなかった感情は今、はっきりとした意味をもって自分の中に在る。
 愛してしまっていた、もうとっくに。ずっと前から、きっと。
 このまま距離を置き続ければ、そのうちランサーは自分から離れていくだろう。今までの思い出も、彼の笑顔も、時間と共に流れていくに違いない。そうすれば、自分だけはランサーのことを想いながら生きていける。愛しさも、苦しさも、全て抱えたまま生きながらえることができるのだろう。このまま彼のことを拒絶し続けて、離れていけたなら……ずっと。
 ベッドに横たわり、もう一度彼の名を紡ぐ。ここのところ毎日この調子だ。アルバイトの回数も減らしてもらい、ひとり悩む日々が続いている。
 きっともう、ランサーがこの家に来ることもないだろう。あれだけ拒絶しておいて、目も合わせない日々が続いているのだ。どんな人間だって愛想が尽きるに違いない。それが最善で最良なのだ。そう言い聞かせる度に、心が悲鳴を上げているのも知っている。
 愛されたかった。本当は、心の底から好きだと言って欲しかった。
「……ランサー」
 ふと、階段を上る乾いた音が響いた。時計を見れば午後九時を少し過ぎたところだ。残業を終えたサラリーマンたちが、疲れ果てて帰って来る頃だろうか。足音はちょうどアーチャーの部屋付近で止まり、小さな音がカタンと響いた。誰か来たのだろうかと思ったがベルは鳴らず、足音はそのまま遠ざかっていく。
「何だ?」
 ポストに、何か投函されたような気がする。怠い体を引っ張り起こしてベッドから降りると、アーチャーは玄関に続くドアを開けた。恐る恐るポストの中を見てみると、手紙らしきものがひとつ投げ込まれている。差し出し人の名前はない。こんな時間に何だと不審に思いはしたが、とりあえず封を切り、中に入っていた一枚きりの紙を開いた。メモのような小さな紙には、短い文章が連なっている。
「……これは……」
 見慣れた筆跡。数学を教えてくれた時も、隣の席で一緒に講義を聞いていた時も。何度も見てきた文字は、間違うはずもない、ランサーのものだ。震える手が紙を破ってしまわないようにと自分に言い聞かせながら文字を辿る。そこにはこう綴られていた。

『ようアーチャー! 風邪ひいてぶっ倒れてねぇか? メシはちゃんと食ってるか? お前のことだから、うまい雑炊のひとつやふたつ簡単に作っちまうんだろうが、無理はするんじゃねぇぞ! ランサー』

 ボールペンのインクが滲む。もうすぐそこに声が聞こえてきそうな、彼らしい簡素な言葉たち。自分のために綴られた言葉。刻まれた二人の名前。
「……っ、……ランサー。……ランサー……!」
 あまりにも辛くて、そしてあまりにも優しい言葉たち。彼はきっと気がついているのだろう。アーチャーがランサーを愛してしまったことにも、独りきりで死を思いながら、毎日を生きながらえていることにも。
 メシ、食わせてくんねぇ? そう言って笑う代わりに、ただただ傍にいると、ランサーはこの手紙ひとつに想いを託してくれている。リターンアドレスがないのは、返事はいらないという彼の優しさなのだろう。
 たった一枚きりの愛情を握りしめ、アーチャーは頬を伝う涙を拭うこともせずに、何度も何度も短いメッセージを読み返した。

 次の日も、その次の日も、手紙はポストの中に一通ずつ必ず届いていた。内容はその日あった出来事がひとつずつ書かれているだけ。昨日は夜勤明けで、とうとう一限アウトだったぜとか、この前釣りに行ったんだけど、これがさっぱりでよ、とか。冗談交じりに綴られた文章に、アーチャーは次第に明るさを取り戻していった。
 何も愛していると直に言葉を交わす必要はないのだ。こうして彼の言葉に少しずつ触れられるだけで幸せで、心もいっぱいに満たされるのだから。できれば返事を出したいところだが、彼の厚意を無碍にすることはできない。
 学校では一切話もせず、目も合わせることもしない。ただ、たった一枚の手紙が二人を確実に繋いでいた。
 毎日届く手紙は積み重なっていく。アーチャーにとって、それを繰り返し読むのが何よりの楽しみだった。今日は届いているだろうか。どんなことが綴られているのだろうか。アルバイトから戻ってくると、必ずポストを覗き込む。今日のテーマは料理だった。

『ようアーチャー! 最近オレも料理をしてみようと思って、料理本を買ってみた。時短レシピっつう簡単なやつ。作ってみたんだけど、やっぱお前の味の足元にも及ばなかったな。またいつか、お前の作ったメシが食いてぇな、なんて思ったぜ。 ランサー』

「……全く君は、褒めても何も出ないというの、……に」

 声はそこで途切れた。
 突如として落ちた、不自然なまでに冷たい静寂。

「……ッ……!?」
 どくん、と。
 胸を思いきり殴られたような衝撃と痛みが全身に走る。アーチャーは手紙を握りしめたまま蹲り心臓を押さえると、不規則になった呼吸を鎮めるように深く息を吸った。しかし吸ったと思えたはずの酸素は上手く肺に回っていない。
 がり、と床に爪を立てるが、そうしたところで指先がフローリングの上を滑るだけだ。感覚がない。麻痺しているのかもしれないと思いながら、アーチャーは必死に息を継いだ。
「はぁ、は……、……はぁっ……!」
 ──まさか。
 信じたくはなかった。しかし、体は勝手に動いていた。手にした手紙を放り投げ、もう一度呼吸をする。今度はすんなりと、酸素が肺に流れ落ちてきた。
「……何だったんだ、今のは……」
 荒い呼吸を繰り返すと、揺れていた視界がやっと静止した。放り投げてしまった手紙を拾い、握りしめたせいで皺になってしまった紙を伸ばす。刹那、アーチャーは目を見開いた。息を継げないせいで感覚がおかしくなってしまったとばかり思っていた指先ははっきりとした色を持たず、フローリングの色が透けて見えていた。
「ひっ……!」
 引き攣った声と共に手紙を落とすと、指先が再び色を取り戻した。
 駄目だと本能が叫んでいる。
 このままでは消える。ランサーへの想いも、彼と過ごした日々の思い出も、自分の体もろとも全部、全部消えてなくなってしまう。
 アーチャーは手紙を前に後退りし、背中を壁にぶつけた。確実に目の前にある死の予感。手紙だけでも駄目なのか。たった一言、僅かな好意でさえ許されないというのだろうか。アーチャーは手紙の山を目の前に、頭を抱えて体を震わせた。
「いや、だ」
 怖い。その言葉ばかりが胸中を渦巻き、吐き気さえもこみ上げてくる。
「……嫌だ、こわい、……死にたくない……、たすけて、……助けてくれ。……ランサー……!」
 涙が溢れる。幾筋も頬を伝うそれは止めることができず、アーチャーは彼の名を呼び続けた。初めてこんな感情を教えてくれた、心の底から愛しいと思うひとの名を。少し強引で、子供っぽくて、でも誰よりも優しい、彼のことを想いながら。

 次の日も、その次の日も、手紙は小さな音を立ててポストの底を叩いていた。しかし何よりも楽しみにしていたはずの音は、あの日を境にして、アーチャーに恐怖ばかりをもたらすようになってしまっている。
 夜勤の前なのだろうか、それともバイトあがりなのかはわからないが、ランサーがやって来る大抵の時間は決まっている。午後九時から十時の間。その時間帯になると、アーチャーは毛布にくるまり耳を塞ぎ、ただ時間が過ぎるのをじっと待つばかりになった。
 手紙を捨てることはできなかったが、全てクローゼットにしまい込んだ。そうすることでアーチャーの体が色を失うことや、感覚が狂ってしまうことはなくなった。
 愛されてはいけない。もうほんのひとかけらの愛情ですら、自分には向けられてはならないのだ。
「……これでいいんだ、……これで……。こうしなければ、私は……」
 言い聞かせるように呟く声は決まって震えていて、時には涙も流れ落ちた。彼の声を聞くことも姿を見るのも恐ろしく、学校は毎日休んでいる。ずっと続けていたアルバイトも辞めた。そうしてひとを恐れながら、外出も必要最低限に留めている。後は日がな一日、部屋の中で恐怖に苛まれながら過ごすだけだ。
 少しでも生にしがみついていたい、そればかりを考えて、時間が流れていくのをぼんやりと待つ。
 今は恐怖に塗り潰されてしまっているが、一度理解してしまった感情を殺しきることはもうできない。ひとと同じように備わってしまった豊かな感情など、切り捨ててしまえたのならどれだけ楽だろう。楽しいと感じる心も、嬉しいときに踊る心も、愛しいと思う温かな感情も、生きるためにはどれも不要だったのだ。
 玄関のドアに備え付けられているポストは簡素なもので、大した大きさも持ち合わせていない。そのまま放置していれば容易に溢れ返ってしまうから、数日に一度、恐る恐るではあるが蓋を開けるようにしている。差出人もわからないようなチラシと共に、ポストの中にはやはり手紙が入っていた。今はもう開くこともできないそれを震える手で取り出し、クローゼットに放り込む。指先が透けていないことを確かめて胸を撫でおろすと、再びベッドに戻って毛布を被った。
「すまない、ランサー。わかってくれ。……君を、忘れたくはないんだ……」
 だから忘れて欲しい。もう二度と、私のことを愛さないで。毎日願っているのはそれだけだ。
 君を想いながら生きていたい。死にたくない。だからもう、その優しさを向けるのはやめてくれ、と。


 もう曜日の感覚すら失ってしまった。随分と長くこうしていたような気がするが、一体どれだけの時間が経ったのだろう。
 窓から差す光の眩しさに、アーチャーは薄く目を開けた。どうやら昨夜はカーテンを閉め忘れてしまったらしい。太陽は既に高く上り、幼い子供たちのはしゃぐ声が、そこかしこから聞こえてくる。重い足取りで窓辺に向かい、再び光を遮ってしまおうとカーテンに手を掛けた。
 何の気なしに外を見れば、そろそろ蕾を膨らませ始めた桜が、春の風に吹かれて枝を揺らしている。窓を開けると、もう忘れかけていた草木の匂いが風に乗って舞い上がった。
 意識して外を見たのはどれくらいぶりだろうか。
 外の世界を遮断して、ただ生きることのみに執着し、向けられる愛情を拒絶して。そうして命を繋ぐばかりの日々は、自分に何をもたらしたのだろう。
「………………」
 頬を撫でていく風は、暖かいというにはまだ程遠いものの、肌を刺すような冷たさは既にない。季節は確実に前進している。眠っている命の芽吹きも近いのだろう。陽の光はどこか柔らかく、宙に手を翳せばわずかに温もりを感じた。
 こんな体でも、まだ何かを感じることができたのか。心を殺したつもりでいたのに、どうやらうまくいかなかったようだ。心地良いとすら思える、初春の穏やかな朝の匂い。暖かな日差しはどうしたって彼のことを思い起こさせる。
 ずっと、太陽みたいだと思っていた。ひとから逃げ、隠れ、影のように生きてきた自分を照らしてくれた彼は、これ以上なく眩しくて美しかった。
 きっともう二度と会えない……いや、会わないようにして生きることを選んだ。死ぬことが恐ろしくて、向き合うことから逃げた。それが正しかったのかなど知らない。わからない。ただ理由のわからない息苦しさと痛みだけは、ずっと体を苛んでいる。
 愛情は捨てた。愛されることも拒絶した。だからもう、自分を苦しめるものなど何一つないはずなのに。

『なぁ、アーチャー。……メシ、食わせてくんねぇかな』

「……ランサー」
 閉めてしまおうとしたカーテンを掴んだまま、アーチャーはもうずっと口にしていなかった、彼の名を呼んだ。そのまま視線を公園に向ける。きらきらと笑う子供たちの声が、少し冷たい春風に乗って舞い込んできた。
 水飲み場で、蛇口を堰き止めて遊んでいる子供たち。指を離すと、勢いよく散った水飛沫が、陽の光を反射してきらめいた。それが面白かったのだろう。きっと心が躍ったのだろう。楽しくて、嬉しくて、ただただ今に夢中になっているに違いない。
 過去も未来も見ず、彼らは今という一瞬を生きている。

 そうだ。思えば全て、あの場所から始まった。

 冷えた手をポケットに突っ込み、足早に家へと戻ろうとしたあの時。水飲み場で行き倒れていた男のことは、その容姿と名前を知っているのみだった。重い体を引きずって家に上げたあの日から、きっと歯車は回り始めていたのだろう。

 積み重なったたくさんの手紙。
 傷を負った日、自分のことなどそっちのけで当ててくれた布。
 プレゼントに、なんて少し照れながら手渡してくれたミトン。
 二人並んで洗い物をした、食事の後の僅かな時間。
 ひととは違う、そう打ち明けた自分を受け止めてくれたあの日。

 あり合わせで作った夕飯を、美味い美味いと頬張ってくれた。
 ひとではないと明かしても、そんなのは些末なことだと受け入れてくれた。

 ずっと、ずっと信じてくれた。きっと誰よりも、愛してくれた。
 愛することすら知らなかった、ひとにはなれない、こんなものを。

「……ああ、そうだな、……ランサー」

 死ぬことばかりを恐れた自分は、多分、生きてはいなかった。
 
(……こんな風に、独り死なずにいるくらいなら、私は)

「……はは、……これが一番ランサーらしいな」
 その夜、アーチャーはランサーから貰った手紙を広げ、ひとつひとつを噛みしめるように読んでいた。開けないままクローゼットにしまいこんでいたものも、ひとつ残らず封を切った。涙で滲んで文字が読めなくなってしまったものも、内容は全て覚えている。くしゃくしゃに丸まったものを引き伸ばしたせいで、皺だらけになってしまったものもあった。バイト前に慌てて書いたのだろうか、いつもより少し字が乱れているものも。
 ボールペンで書いてあるものも、シャープペンで書かれたものもあった。少しずつ形は違ったけれども、どれも自分のために精一杯考えてくれたのだろう。書いては消し、書いては消して、そしてたった一枚きりの手紙に封をして、毎日必ず届けてくれた。
 何でもない日常を、これ以上ない愛情で紡いだ手紙たち。いつだって自分に寄り添って、傍にいてくれた宝物だ。
「十時。……そろそろか」
 ランサーがここにやって来るまで、きっとあと少しだ。アーチャーは静かに目を閉じて、彼の訪れを待ち続けた。足音を聞き逃すことだけはすまいと、秒針の音が聞こえてくる程静かな部屋で耳を澄ませる。
 階段を上って来る足音が、不意に彼の部屋の前で止まる。アーチャーは手紙をその場に置くと立ち上がり、どくどくと脈打つ胸を押さえて一度深く呼吸をした。静かに部屋のドアを開ける。目の前に在る懐かしい赤い瞳を真っ直ぐに見つめ、アーチャーはぽつりと呟いた。
「……ランサー」
 彼に声をかけるのはどれくらいぶりになるのだろう。久しぶりに見たランサーの表情は驚きに満ちていたが、程なくしてそれは悲痛なものに変わっていった。今にも泣き出しそうな瞳。彼の涙を見たのは一度だけだ。ガラスが散乱した空き教室で自分を抱きしめ、声を詰まらせていたあの日。あの時の目にそっくりだった。
「……アー、チャー……」
 言葉を失くした彼の手を引き、アーチャーはランサーを強引に自室に引きずり込んだ。アーチャー! 今度ははっきりと感情のこもった声で名を叫んだランサーは、ずっと自分が送り続けていた手紙が部屋の中に散っているのを見るや、再び声を詰まらせた。 
 アーチャーは掴んでいた腕を離すとランサーに向き直り、「久しぶりだな」とこの場に余りにも相応しくない、間の抜けた挨拶をした。
 さらさらと、どこからか舞う光の粒。もう指先の感覚はとっくにない。手紙に触れても、ドアノブを回しても、形も感触もわからなかった。それでもアーチャーがランサーに向けているのは、ただ穏やかな笑顔だけだ。ランサーは泣き出しそうな表情を更に歪ませると、アーチャーの肩をきつく掴み叫んだ。
「お前ッ! 何だよそれ!……指先、消えかかっ……」
「ランサー」
 悲鳴じみたランサーの声を遮ると、アーチャーは静かに彼の名を呼んだ。優しすぎるその声に、ランサーの瞳が揺れる。
「……なあ、……嘘だよな?」
 アーチャーはほんの少し俯いて、そっと目を閉じた。緩く首を横に振ると、下ろしたままの前髪がさらりと揺れる。彼の答えに遂に涙を溢れさせたランサーは、もう握りしめることのできないアーチャーの両手を見下ろして、震える声で叫んだ。
「オレのせいだ。……オレが……オレがお前のことを好きになんかなっちまったから、だから!」
「……ランサー」
「知ってた、のに。……ひとに愛されたその時、……お前は、この世にいられなくなる、って……。全部わかってた。わかってたはず、だったんだ。……なのにオレは近づいた。傍にいたいと願っちまった。……お前を生かすためには、こんなことしちゃいけねぇって……それだって本当はわかってたんだ。なのに、なのにオレは……!」
「……ああ。君は知っていた。知っていて、それでもなお、……私のことを」
 アーチャー、と。そう呼びかけて、ランサーは口を噤んだ。
 今までに見たどんなものよりも穏やかで優しく、そして美しい笑顔がそこにはあった。きっとアーチャーの心はもう揺るがない。どんな言葉を投げかけようが、縋るように泣き叫ぼうが、それは彼を繋ぎとめる手段にはなり得ないのだろう。視線を真っ直ぐに向けられたランサーは、僅かに震えるアーチャーの唇から紡がれる言葉を待とうと、固く拳を握りしめたまま彼の瞳を見つめ続けた。
「……ありがとう」
 目を細め、これ以上ないくらいの柔らかな微笑みを浮かべると、アーチャーの鈍色の瞳が僅かに濡れた。
「何も知らなかった私に、たくさんのことを教えてくれた。……初めて知った。愛するという感情が、こんなにも温かいものだということを。……私は、君を愛している。……愛していたんだ、ランサー」
「……アーチャー」
「君の前で私は泣かない。だから最後にもう一度、君の笑顔を見せて欲しいんだ」
 泣かないなんて嘘ばかりだ、そうランサーは思う。今にも泣き出しそうな顔をしているのに、それなのにいつもの癖だった、空を見上げて涙を堪えようとすることもしないで。真っ直ぐ自分だけに向けられている笑顔は今にも壊れそうで、ランサーは耐えきれずに俯いた。しかし一度きつく目を閉じると、彼はもう一度、アーチャーを真っ直ぐに見つめる。
 目を逸らしてはいけない。残された時間はもう僅かでしかないのだろう。きっと、本当にこれが最後だ。 
 一緒に笑って、はしゃいで、喜んで、泣いた。二人を繋いだ、かけがえのないものたち。手元には決して残らない、残せない。これ以上ない大切な思い出は、すぐに砂のように流れ落ちて消えてしまうだろう。
 どれだけ怖かっただろう、苦しかっただろう。独りきりで死と向き合い、そうしてアーチャーは今ここに立っている。泣くなとどれだけ自分に言い聞かせようが、そんな彼のことを想えば、涙など堰き止められるはずがなかった。
「……私はわがままばかりだったな。……本当に、今度は私が君から肘鉄を食らう番だ」
「……っ、アーチャー……」
「それでも、……最後にもう一つだけ、わがままを言ってもいいだろうか」
 もう間もなく、腕の感覚も消えるだろう。アーチャーはほとんど消えかかった両腕でランサーを抱きしめた。泣かないでくれとは言わない。それではこれ以上のわがままを聞いてもらえなくなってしまうから。
 アーチャーはそっとランサーの体を離すと、震えそうになる声で言葉を紡いだ。

「一度でいい。……たった一度でいいから。名を呼んで、……愛していると、言ってくれないか」

 幾筋も頬を伝う涙を拭おうともしないアーチャーは、それでもやっぱり笑っていた。

 行かないでくれ。
 もっと一緒にいたい。
 これから先もずっと、ずっとお前と生きていたい。
 だから、……だから。

 叫びそうになる声を懸命に噛み殺す。ランサーはただ一度、乱暴に拳で目元を拭って顔を上げた。柘榴の瞳は濡れていて、それは雨上がりに光る果実のように、美しかった。
「──アーチャー!」
 ランサーの瞳にもう陰りはない。太陽のように温かく、雲一つない空のように無垢な笑顔で、彼はアーチャーの名を叫んだ。
 猛烈にお好み焼きが食いたいと言ったときも、アーチャーが作った料理を美味い美味いと言って平らげたときも、また明日なと手を振って帰っていくときも。彼はいつだってこの笑顔を見せてくれた。何よりも愛しい、何にも代えられない、大好きだった笑顔。
「お前が消えても、何度生まれ変わっても、オレはお前を思い出す! お前がオレを忘れたって、何度だって何度だって言ってやる! しつこいって言われようが、食らいついてやるからな! オレは!」

 最後は笑って。笑って見送るんだ。
 ランサーは震える体で強くアーチャーを抱きしめると、真っ直ぐに彼を見て、言った。

「……愛してるよ、アーチャー」
 
 抱きしめられたまま、アーチャーは微笑んだ。まだ感覚の残っている頬に伝う、温かな一筋。ありがとう、私もだ。ほとんど消えかかった声で呟いて、二人は震える唇を寄せ合った。
 あと少し、もう少し。……せめて最後の、最後だけ。
 呼吸が溶け合い、吐息が混じる。
 唇が触れ合いそうになったその瞬間、アーチャーの体は金色の光の粒になり、風のない部屋にさらさらと舞い上がって、消えた。


「………あれ?」
 
 部屋の真ん中でひとり座り込んだランサーは、誰もいない部屋の中で辺りを見渡した。夜の静寂に包まれ、開いた窓から吹き込んでくる春の風が、カーテンを小さく揺らしている。
「……ここ、どこだ……? なんでオレ、こんなとこに……」
 頬に残った一筋の涙の跡。泣いた跡が何故ここにあるのかもわからずに、指先でそれを辿る。再び部屋の中に流れ込んだ風が、床に広がった手紙を揺らした。
「……何だこれ」
 飛んで行ってしまいそうな手紙を慌ててかき集めて、その中の一枚を手に取る。開いてみれば、そこには間違いなく自分の筆跡で書かれた文字が並んでいた。どれも内容は違っていたが、文末に書かれているのは自分の名。そして冒頭にあるのも、必ず同じ名前だった。
「アーチャー?……誰だ、それ」
 記憶を辿ってみても、頭を捻っても、腕を組んでみたところで同じだ。一体これは誰の名なのだろう。少し考えてみたが、そうしていてもきりがないと思ったランサーは、「ま、いいか」と彼らしい気軽さで立ち上がった。
「……お?」
 部屋を出て行こうと扉に向かって歩き始めた時、僅かな違和感を覚えた。手紙を踏みつけてしまったのかとも思ったがそれも違うようだ。
「ん、何だ、こりゃ」
 どうやらボトムスのポケットの中に何か入っているらしい。こんなところに何か入れたっけなぁ。呟きながら引っ張り出したそれは、誰かに宛てた手紙のようだった。封を切って中身を見ると、やはりアーチャーという人物宛てで、差出人は自分らしい。書いた覚えの全くない手紙を不思議そうに見ると、彼は短い文章に目を通した。

 ようアーチャー!
 今日はな、お前にどうしても言いたいことがあったんだ。
 お前、ずっと前に言ったよな。
「ひとを愛したことがあったとしても、それがどんなものかはわからない」って。
 だけどオレは思うんだ。
 お前はもう、とっくに知ってるんだよ。
 それからきっと、オレもな。
 だからありがとう、アーチャー。これからもよろしくな!   ランサー

「……え、」
 手紙を持つ手が震えている。書いた覚えもない手紙の上には、ぽつり、ぽつりといくつも雫が落ち、シャープペンで書かれた文字を流していった。
「何、泣いてんだ、オレ」
 誰に宛てたものなのかも、いつ筆をしたためたのかも、何ひとつ記憶には残っていないのに、温かいものだけが胸いっぱいに満ちていく。
「……アーチャー」
 何の意味も持たないはずの誰かの名を呟くと、ランサーは静かに天井を見上げた。
 いつか誰かがこうやって、零れそうになる涙を堪えていたような気がする。余りにも朧気で、もしかすると夢の中で見た景色なのかもしれないが、自分の知らない誰かが、いつかどこかで、きっと。
「……ああ。……もう、行かねぇと」
 止まらない涙を何度も手の甲で拭いながら、ランサーは床に散った手紙を拾い集め、立ち上がった。


Comments

  •  ぱ
    December 8, 2025
  • 🐌

    はじめまして、こんばんは とても切なく、心臓がぎゅうっとして、涙腺が緩みそうになりました。 最後まで愛し愛されてる2人がとても好きです。 素敵なお話ありがとうございます!

    April 14, 2019
  • ぱぐlove
    April 3, 2019
Potentially sensitive contents will not be featured in the list.
© pixiv
Popular illust tags
Popular novel tags